Archive 5. 平和運動組織論の再検討 (『新世界』1965年7月号)(04/04/23に転載)
 

 以下は、1965年(北爆開始、ベ平連運動発足などの年)5月に書いた論文である。当時の日本の平和運動や共産党の事情を知らない人にとっては、わかりにくい部分も多いかと思われるが、最初の三つの節でのべたアメリカの北爆に対する世界各地での反応と日本のそれとの対比、最後の節「新しい平和の組織」でのべた、日本における新しい運動の胎動の様子などは参考になると思い、再録した。私はまだ、ベ平連運動に参加していない時期の文章である。 (原文の傍点部分は、ゴシック体にあらためてある。)
 

 平和運動組織論の再検討 ――ベトナム戦争と平和の組織――(月刊『新世界』19657月号)

吉 川 勇 一  

 即時の大規模な反応
 

 2月7日、8日、11日と行なわれた米軍機の北ベトナム爆撃をもって、この戦争は新しい危機的段階に突入した。アメリカ帝国主義者の、国連憲章をもあらゆる国際法をもふみにじる野蛮なこの行動に対して、世界の平和勢力はただちに一斉に抗議の行動を展開した。

 その反撃の即応性と規模とはキューバ危機を含むこれまでのあらゆる国際的危機の時よりも勝るものであった。2月7日、北爆の報が伝わるや、その日ただちにニューヨークの国連本部前と、カナダのトロントではこのアメリカの行為に対する抗議のデモが組織されている。翌8日になるとその範囲はずっと拡大する。当の爆撃を受けた北ベトナムでハノイ(7万人)をはじめ、各地で抗議の大集会が開かれたことや、北京(50万人)など中国各地での抗議デモなど、社会主義国での行動は一応おくとしても、ニューヨーク国連本部前では、アメリカの平和諸団体が共催した抗議デモが再び組織されたほか、カナダのモントリオール、スウェーデ ンのストックホルム、デンマークのコペンハーゲンなど各都市のアメリカ大使館、領事館前で抗議デモが組織された。9日、10日となるともはやそれは全世界の、およそアメリカの在外公館のあるすべての都市で抗議デモがくり拡げられたといってよいほど、民衆の行動は拡がる。この両日、デモが行なわれたのは、ハノイ、モスクワ、北京、平壌、ベルリンなど社会主義諸国の都市をはじめ、ジャカルタ、ニューデリー、ワシントン、ロサンゼルス、サンフランシスコ、メル ボルン、ロ−マ フローレンス、コペンハーゲン、バーミンガム、モンテビデオ、パナマ……とそれを数えあげるだけでも大変な数に上る。そしてこうした抗議の行動は、それ以来、5月半ばの現在に至るまで引続き、ますます激しさを加えているようである。

 そのデモの規模はきわめて大きい。有名な4月17日のワシントン行進は、アメリカで戦後最大の平和デモとなり、イギリスのイースター行進も予想を裏切って5万の参加者をえ、同じく戦後最大のものの一つとなった。西ドイツのイースター行進も全国20コースに25万人が参加したという。このほか、3月23日のローマの2万人、3月28日のミラノの7万人、3月29日のキプロス、ニコシアの数万の集会と、万単位のデモが相ついでいる。

 さらにデモの性格も当然ながら非常に戦闘的であり、3月12日の1万人のパリのデモでは警官隊と激突して逮捕者200名、同27日の西独フランクフルトのデモでは逮捕者31名、さらに31日のパリのデモでは逮捕者500名以上という状態である。

 まさにこの4ヵ月の行動の記録こそ、世界民衆の憤激の度合いを率直に表明したものであったといいうる。
 

 日本の運動の立遅れ

 

 これに対して、わが国の平和運動の対応の状況を日を追って検討してみた時、その立遅れ ぶりには今さらながら驚愕する以外にない。『アカハタ』、『社会新報』、『日本のこえ』、『新しい路線』など政治新聞をはじめ、各商業紙をしらべてみても、大衆的な行動は、7日、8日、9日、……となにもなく、13日に至って、「東京で在京べトナム人学生50名がアメリカに抗議デモ」という、なんと外国人のデモが日本における一番最初の大衆行動なのである。たしかに、8日には、日本共産党、社会党青少年局、総評青対部、日本共産党(日本のこえ)、日本ベトナム友好協会などの各政党、団体が、それぞれ米大使館に抗義をしたり、抗議電報を打ったりしてはいる。だが、それは、代表者数名に抗議文をもたせて大使館に持ってゆかせたり、電報局に頼信紙を差出しただけのことであって、とうてい、大衆的抗議行動と称せられるものではない。

 日本人によって行なわれる最初のデモは、これも驚くなかれ、沖縄で記録される。2月15日、沖縄の労組や平和委員会などが、150人の参加の下に抗議の集会とデモを組織したのである。日本でベトナム問題をとりあげた万単位の集会が開かれるのには3月下旬まで待たなくてはならない。

 それ以前にもベトナムにかんする決議をした集会がなかったわけではない。しかしそれは、ベトナムそのものに集中したものではなく、日韓会談反対、原潜寄港阻止、三矢事件抗議、憲法擁護、はては春闘勝利、生活権擁護にまでいたるさまざまな要求を4行も5行も列記した雑炊のような集会とデモなのである。

 すでに2月中には、マス・メディアの影響によって、一般国民の日常の挨拶の中でまで、お天気のつぎにはベトナム戦争が話題になるほどになっていたというのに、既成の政党からも、労組からも、平和団体からも、行動のよぴかけは一向になされなかったのである。

 

 平和委員会の対応

 

 政党や労組のもつ欠陥については、政策面、組織面からすでにいろいろな問題の指摘がなされ、労組の日当動員や、割当動員(第何号動員といって、各組合から集まる人数まで御丁寧に指令する)のことは、すでに安保闘争当時から批判されてきた。それでここでは、日頃から「事態の発展に即応した」緊急行動展開の能力を標榜してきた日本平和委員会の対応の仕方を検討し、そこから日本平和運動の、とくに組織の面における問題を考えてみることにしたい。

 日本平和委員会はすでに今年のはじめから、4月に「アジアの平和のための日本大会」を5千人規模で開くことをよびかけていた。この構想自体は、ベトナム戦争の推移からみて、まさに時宜をえたものといいえよう。これがベトナム戦争解決のための広範な大衆行動に支えられ、その結集点として組織されていたならば、日本の平和運動は、さきにみたような諸外国の行動に比して決して遜色のないものとなっていたかもしれない。

 しかし残念ながら事実はそうはならなかった。1月以降の同委員会機関紙『平和新開』をくってみても、ベトナム侵略に抗議する大衆行動の報道は(外国のニュースを別として)ほとんど見当らない。アメリカ帝国主義がいかに暴虐であるかというような解説記事のほかは、ほとんどが4月の「アジアの平和のための日本大会」へ向けての代表選出とそのためのカンパ活動の記事のみが続くのである。大会それ自体に動員することが活動の主目的となり、ベトナム戦争の拡大阻止をねがう国民に対して広範な行動の方向を明示することはそれに従属し、まさに本末転倒の結果となってしまったのである。にもかかわらず、あるいはそれゆえに大会への参加者は、予定の5千をはるかに下回る3342名という結果となった。大会翌日の全国理事会では「目標こそ達成できなかったが、今回の動員は他団体の力を貸りず、平和委独力の動員でなしとげたものであった」といぅ評価(?)がなされている。そもそも広範な各界の知名士42氏のよびかけは、「各界、各層から思想、信条、政派をこえて多数の代表を」送るよう訴えたものであったのに、平和委の「独力」の動員を誇る(?)のはまさに矛盾であった。

 それは、表面では「広範な」よびかけを出すと同時に、一方では「数年来、世界平和運動と日本平和運動の中に、ケネディなどに代表されるアメリカ帝国主義の指導者をより理性的なものと評価してそれを美化し、『軍備全廃』などといって帝国主義と徹底的に対決してたたかう方向をそらせ、独立闘争の役割を軽視して平和運動と独立闘争の結合を弱める策動が執ようにもちこまれてきたことに注意し、この路線とのたたかいをひきつづき強化」することを強調したり「『いかなる国の核実験にも反対』とか『部分核停条約支持』などを平和原水禁運動の基調にすえる」ことを主張する人びとを「運動を混乱と分裂にみちびく内外からの攻撃」ときめつけるような非大衆的・セクト的「基調報告」を大会に提出するという、表裏反する政策の当然の帰結でもあった。大会への「基調報告」やそこでの諸決議には、幾多の問題点が指摘しうるが、ここでは、こうした結果をもたらす平和運動の組織のありかたを、根本からふりかえってみることに問題を集中したい。

 

「組織ではなく運動である」

 

 世界平和評議会は、その創設の時以来、「われわれは組織《Organization》ではなくて運動《Movement》である」ということを強調している。事実、それは自らを《Movement Mondial de la Paix》「世界平和運動」と称し、またフランスのそれも《Movement Francais de la Paix》「フランス平和運動」と称している。「組織ではなく、運動である」とはどういうことか? それは、単に、組織問題を運動や政策と切り離して諭ずる組織主義に堕すことをいましめた一般的意味からだけでいわれているのではない。もしそうならば、たとえばつぎのような決議は理解できない。

 

 「――政治活動と結びついて、運動発展のために必要な資金を募金することを、各国平和委員会の恒常的な仕事とすること。というのは、平和運動の性格からして、平和闘争に参加している人たちから会費をとりたてることはできないからである。」(傍点筆者――1954年世界平和評議会ストックホルム総会「世界平和運動の組織間題についての勧告」――『世界の良心は発言する 』310ページ)

 

 事実、会費を徴収する会員制をとっている平和委員会組織の例は、日本を除いて外国にはない。(日本平和委員会の場合には、個人加盟の会員制をとる中央集権的組織構成で、会費も徴収している。)

 「組織ではなく運動である」といい、「会費をとれない」ということの中に、実は重要な平和運動の性格上の問題が存在しているのである。

、そもそも平和運動とは、戦争・平和をめぐるその時その時の特定の課題に、最大限の民衆の力を統一して行動を集中し、政治に干与しようとする運動である。そこからいうまでもなく、「思想・信条・政派のいかんにかかわりなく」という統一のよびかけがなされることになるのである。したがって平和運動の個々のテーマによって、それが結集しうる層や幅は当然ながら異なる結果となる。たとえば、ある職場なり、地域をとった場合、そこで核兵器禁止の行動で統一しうる範囲は、「基地反対」あるい は「国交回復」、「日韓会談反対」等々の課題で結集しうる層と、一部分は重りあうとしても、決して同一のものではありえない。ある要求では100名を行動に結集しうるが別のある要求では、それが50名になるというようなことは、それぞれの要求に応じた人びとの関心の度合いによって当然ありうることである。そして平和運動は、つねに、その特定の課題の一つ一つについて、他の問題についての意見がどのように異なろうとも、最大限の効果をあげるために、最大限の統一にもとづく行動の組織を目標としなければならないのである。

 もしもその時、こうした運動に結集しうる人びとを、「会員」として常時一つの組織体に登録させようとするならば、元来最小公倍数をもって行動すべき平和運動の中から、あらゆる課頓についてすべてイエスと答えうる少数の先鋭分子のみを、すなわち最大公約数を組織する以外にはない。それは特定の綱領を掲げた政党の場合や、政治団体の場合に妥当しうる組織形態であっても、たえずもっとも広範な統一した行動を追求する運動体のそれではない。世界平和評議会や各国の平和委員会は、この平和運動の性格を十分に理解して、日本とは異なる組織形態をとっているのである。

 

  フランスの場合

 

 フランスとイタリアの場合をとって、具休的に平和委員会のあり方を検討してみよう。

 「フランス平和運動」は、あらゆる地域や職場に平和委員会の組織がつくられることを非常に重視している。しかし、この組織は「戦争を阻止するための常設の監視哨」《Vigilance Permanente》としての役割を果すためのものとしてであり、決して会員倍加などが自己目的化されるような「組織」ではないのである。元来、「委員会」という名称自体が示すごとく、これは平和に関心をもつすべての人を含めるいわゆる「平和を守る会」的大衆組織ではなく、選ばれた「委員」の集まりである。だから、委員会のメンバーは、つねに自分たちが基礎をおく民衆全体を配慮して行動することになる。

 ここに『フランス平和運動――その組織と目標と行動形式』というパンフレットがある。それによれば、平和委員会(全国組織のことではなく、職場や地域の組織のこと)の行動の目的は、「市民の良心に訴えること、市民が問題を理解し、結集し、諸国政府に圧力をかけて諸国民と平和の利益にかなった行為を政府にとらせるために、共同して行動する上で助けとなるような論拠や資料を、市民に提供することである」と規定されている。

 あらゆる工場や学校、地域に平和委員会は組織されている。この平和委員会は、問題が起るごとに行動をよびかけるが、それは「独力で動員」するのではなく、行動のよびかけの対象は、全工場の労働者であり、職場内のあらゆる各派労組、とくにサークル、グループなどであり、また工場周辺の住民である。そして、たとえばフランス核打撃力部隊創設反対なり、多角的核戦力反対なり、特定のテーマごとに最大規模の統一行動をよびかけ、組織する。そしてこうした活動を基礎に、全国的な広範な統一行動の連合協議体が、各政党、労組、学術・文化・宗教・青年・婦人などの各団体を含めて成立する。

 この種のイニシァティヴが共同で決定された目標にもとづいて一致して決定されるたびごとに、「フランス平和運動はこの平和勢力の結集に全力をあげて無条件的に協力する」のである。

 しかし、このような機能を果す平和委員会ではあるが、これら職場や地域における組織も、統一の場となるよう努力は払われている。同パンフレットはこうのべている。

 

 「『フランス平和運動憲章』がのべているごとく、実際平和委員会は『各人が、その個人の信仰や信念をいささかもまげることなく、しかも自分の努力を他の市民の努力と結びつけることのできる集まりの場』なのであり、それゆえ、平和委員会は、すべての人びとに、きわめて自由な討議の中でものごとを決定し、そしてみんなが一致して決定した目標にむけて行動するという手段を、提供するのである。平和委員会こそ、特定の政党あるいは団体に入っているかどうかにかかわりなく、住民、市民が、事件が起こると同時に、期を失せず、遂行すべき行動を決定するために、その事件を理解し、それについて討議し、その原因と結果を分析するための、有効な手段なのである。」

 「平和委員会は、さまざまに異なるイニシァティヴにもとづいて結成されるのであり.時としては、『フランス平和運動』がかかげている諸目標のうちただ一つの目標だけにもとづいて結成されることもある。しかし、それはいつでも、行動を行なうことをめざしている。したがって平和委員会は、きわめて多様な構成を呈している。これらの平和委員会の活動は、県段階では各県評議会によって調整され、各県評議会の全体的な行動は全国評議会によって大筋が決定される。しかし平和委員会の活動の創意性がそこなわれることはない。『フランス平和運動』はつねにすべての人びとに対して広く開放されており、差別もなければ事前の選択もなく、誰でも希望する以上の責任を負わされることはない。」

 

 このような、民主的な、自由な構成と、一貫した広範な市民の動向への注目と、統一への努力の集中によって、「フランス平和運動」は、63年の「軍縮のための三部会」や、64年春の「部分核停条約調印要求・核打撃力部隊創設反対」のソーにおける14万人の大統一行動――真の意味での統一行動――、あるいは今年のベトナム侵略反対の大規模な抗議行動を可能にしてきたのである。

 

  イタリアの場合

 

 イタリア平和運動の場合は、さらに特徴的である。すでに1962年、モスクワにおける「全般的軍縮と平和のための世界大会」を前にして、当時の「平和運動」書記長ヴェリオ・スパーノ(故人)は「組織拡大を基礎に平和闘争を拡張すること」を「全く形式的」として拒否し、こうのべている。

 

 「われわれは運動でなければならないのであるから、一つの組織体であることはできない。われわれの委員会を図式的に拡大してもほとんど助けとはならないであろう。反対に運動のためには、われわれが国民の最も広範な層を平和のための闘いの中に動員するのを守ることこそ必要なのである。そしてわれわれがもはや単独でなく、平和のためにたたかう他の諸運動が生まれてきたために、われわれの『運動』がもはや平和のための闘争の独占体でない時には、われわれは、こうした他の諸勢力との統一を求めなければならないのである。」

 「私自身はイタリア共産党員である。イタリア共産党は5千万の人口のうち2百万の党員と7百万の党への投票者をもっている。こうした情況にあるとき、イタリアの共産主義者が、たとえば数千の平和委員会を設立したり、また7百万の党支持者を街頭デモに組織したりすることは困難なことではない。しかしそうしたところでわが国の政治条件には何らの変化をももたらさないであろう。しかし、新しい要素をつくりだすものは何かといえば、それは共産党からげかりでなく、『平和迎動』からも離れている、すなわち、共産党からも、社会党からも、またわれわれと肩を並べて活動しており、すでにわれわれと協力している進歩的、民主的サークルからも離れている男女を、平和のためのたたかいに動員することである。このような広範な動員は、イタリアの諸政治グループの中に、そして政府多数派の中にさえ、分裂的要素をもたらす。そしてこの広範な運動こそが、強化され拡大されなければならないのである。」(日本平和委員会発行、『特別資料第8集・世界平和運動の新潮流』)

 

 このスパーノの考え方こそ、戦争と平和の問題が「現代のもっともさしせまった問題」(81ヵ国共産党・労働者党声明)となった「全般的危機の発展の新しい段階」における、世界の平和運動の実情に適合した組織形態として提起されたものであった。

 したがって、「イタリア平和運動」は、地域においても職場においても、形式的な組織拡大には全く重点をおいていない。どんな地方の都市や町にも平和委員会の事務所があり、そこに書記(多くの場合ただ1人)がいるが、その任務は、会員拡大などではなく(もちろん会員制をとっていないのだが)、当面の平和闘争に最大限の統一を確保して行動を起すため、その地方の大衆団体、とくに文化・芸術・青年・婦人・宗教などの諸グループ、サークルによびかけ、それらによる共闘の場を用意することにおかれている。

 政党、共産党は、こうした大衆組織の活動に無条件に奉仕している。大衆運動と党の関係について、イタリア共産党の党員教育用教科書はつぎの三点をあげている。

 

 「第一の必要条件は、それぞれの自治的な機能の完全な尊重ということである。……それぞれ特殊な活動分野をもち、かつ独自の内部的な、自治的な、民主主義約な機能を有する大衆組織に付属する任務を政党の機構に負わせ、それを遂行させる慣行は根本的に誤りであり、かつ有害である。」

 「第二の必要条件は、統一的な創意の 精神ということである。……」

 「第三の必要条件は、大衆組織、とくに労組におけるいっそう熱烈な生活と機能括動とを尊重し、活発に展開することでなければならない。したがって、大衆組織の中でなされるべき決定を前もって(政党が)用意する傾向、貨任ある地位を討論をへないで決定する傾向、それぞれの大衆組織の独自の規律を無視する瞭向は、すべて、勤労者および党自体の利益に反するものとして非難されねばならない。」(『イタリア・マルクス主義』植原義信訳193〜195ページ)

 

 イタリアとフランスを比べた場合、平和運動の組織路線に大きな差違が見受けられることは確かである。しかしながら、この差も、それらが日本の平和委員会の組織路線との間にもつ差に比した場合、無に等しくなる。

 

  日本の平和運動組織路線の逆行

 

 「部分核停条約が調印されて以来、世界平和評議会をはじめ、この条約を支持した西欧の平和運動は衰退した」「今や日本平和運動は世界の先頸に位置している。」このような評価が一部の人びとによってなされている。昨年の第10回原水禁世界大会の路線はまさにこのような認識の上こたつものであった。しかし、事実を率直にみる人てあるならば、今やベトナム危機に対する対応にも見られたように、先頸どころではないことは明らかであろう。

 たしかに、1954年のビキニ被災以後、56、57年と発展した原水爆禁止署名運動の昂揚の時期において、日本の民衆がとった行動は、世界平和運動の局面の転換と飛躍の特徴を他の国ぐによりも数年早く示したものであった。イギリス、西ドイツなどでは1958年、アメリカではさらに遅れて61年に同じような新しい広範な運動の昂揚を迎えるからである。初期の原水禁運動において、われわれは確かに世界の平和運動の先頭を切っていたと自負してもよかった時を持っていた。たが、こうした平和運動の新局面――それこそまさに全般的危機の新しい段階における大衆的平和運動の展開――に対応する能力において、われわれ日本の平和運動は諸外国よりもはるかに後退した地位におちたのである。いや、組織路線においては逆行した方向さえとったのであった。日本平和委員会は61年に、個人加盟の中央集権的組織形態に移行した。それには、前衛政党が前衛的撥能を果しえず、その役割が大衆運動の上に転嫁されたため、平和委員会あるいは原水協のような大衆組織が政党的組織形態をとらざるをえなくなるという事情もあった。しかし、それはますます大衆運動と政党の役割の混同、同一化を結果し、政党による大衆組織のセクト的支配を招来し、民主的運営が次第に消滅してゆくことになったのである。

 現在の日本平和委員会のセクト化、政党との同一化は、組織形態の面からみるならば、それは「組織ではなく運動である」という、平和運動の普遍的性格に反して、会員制度による中央集権的全国組織に転換したことによって急速に促進された。そして、にもかかわらず、「思想・信条・宗教・職業・性別・年令などにかかわりなく、平和のために何かしようという広汎な人びとの組織」(日本平和委員会発行『1964年度版学習資料・平和運動入門』)であると称しつづけるところから必然的に、一般に公表される「広範な」よびかけと、きわめてセクト的な実際上の運営という羊頭狗肉的結果を生ぜざるをえなくなるのである。

 

  極端化した非民主的運営

 

 最近に至って、こうした矛盾は極端に達している。二、三の具体的事実をもって指摘してみよう。

 さきにもふれた4月の「アジアの平和のための日本大会」には、諸外国の平和組織からの来賓としての参加を招請することが決定されていた。昨年暮の全国理事会では、世界平和評議会、AA連帯委員会および、ソ連、中国、朝鮮、ベトナム、インドネシアなどの各平和委員会に招待状を送ることを決定し、検関紙『平和新聞』の上では、これらの組織に招請が「出されており」とまで発表された(4月5日号)。

 だが、実際に参加の意志を表明した組織は中国、インドネシア、ベトナムのみであった。ソ連や世界平和評議会は招請を拒否したのであろうか? 実際は、常任理事会、理事会という機関の決定にもかかわらず、これら両組織への招待状はついに送られなかったのである。そしてその理由はもちろん、送られなかったという事実さえ、大会参加者や会員には知らされていない。

 またつぎのような事実も最近おこっている。すなわち、4月末、日本平和委員会は、日本選出の「世界平和評議員」の連名をもって、7月のヘルシンキ世界平和大会への支持と参加をよびかけるアピールを発表した。(評議員の1人である安井郁氏はこの署名に加わっていない)。またそれと同時に「若干の経過報告」なる文章も公表され、この大会の「準備活動」への支持を求めるアンケートとともに広範な各階層の団体や個人に発送された。この「評議員」のよびかけも「経過報告」も、現在の平和委員会の実情を知る人びとには意外と思われるほど、柔軟な表現をもつ幅の広いよびかけであった。

「平和委員会が、この大会の準備活動を独占するものではない」ことを宣言し、「社会党・総評をはじめ」あらゆる団体個人がひろくこれに参加するようよびかけたこの二つの文章は、多くの人びとから好感をもって受け入れられている。このよびかけが真実からのものであるならば、ヘルシンキ大会へ向けての国内準備活動は、問題なく統一して行なえるようになることだろう。それ以前から設立されて広範な準備活動を開始しているヘルシンキ世界平和大会日本支持委員会の側も、すでに統一への姿勢を最初からみせているのである。

 だが、きわめて遺憾ながら、表面に現われたよぴかけと、実際とはきわめて異なったものなのである。

 5月10日に開かれた同委員会の常任理事会には、執行部から「ヘルシンキ大会への日本平和委員会の態度」なる方針が提案されている。この文書は、「評議員」のよびかけとはほとんど共通点をもたぬ異質のものである。同文書は、世界平和評議会が「ケネディを讃美し、アメリカ帝国主義の本質をあいまいにし、……民族解放闘争を軽視し、……日本の原水禁運動の基本原則に『部分核停条約支持』をおしつけ……」たとする攻撃からはじまり、「日本労働組合総評議会執行部と浜井市長の名において謀略的に三県連すなわち原水爆禁止国民会議の代表を招待し、これをヘルシ ンキ大会の準備会に加入させ、日本原水協の参加を拒否した」といった、事実無根の中傷を行ない(原水禁は国際準備会に参加していないし、そもそも新産別の反対により、ヘルシンキ大会への支持さえ決定していない)、こうした理解の上に「強力な代表団を派遣」するという方向をうち出している。

 そもそも世界平和評議会は、この大会は世界平和評議会がよびかけたものであっても、それ以外の広範な勢力が、その準備過程から積極的に参加するよう訴えるとのべているのである(64年12月の「ベルリン・コミュニケ)」。そしてそのことは日本の「評議員」のアピールも再確認している。だが、一方では、日本平和委員会は、「平和委員会以外の団体代表を参加させる場合、日本平和委員会と協議の上、その合意に達した団体の代表を参加させること」を世界平和評議会に要求する方針を正式に決定しているのである(1月常任理部会決定――日本平和委員会発行『平和運動資料』2月1日号)。さらにこの常任理事会決定は、3月に開かれた各国平和委員会以外の団体代表者会読(ブラッセル)の招集に反対を表明し、平和委員会のチャンネルのみを通じての準備活動を要求したのである。一体この要求は、準備活動の「独占」要求でなくてなんであろう。

 広範な人びとには、こうした内部のセクト的準備活動については知らされず、ただ幅広い評議員のよびかけだけが送られて支持のアンケートへの回答が求められているのである。しかもそのアンケートの内容も重大である。それは「ヘルシンキ大会への支持」を求めているのではなく、「ヘルシンキ大会の準備活動への支持」が求められている。この区別に気がつかず、支持の回答をよせた善意の人びとは、知らぬうちこ、「世界平和評議会の誤った路線と闘うため」に参加する日本平和委員会の「準備(?)活動」への支持を事前に表明させられた結果になったのである。

 一方、またこうした事実もある。大会準備のための前記ブラッセル会議に対し、日本平和委員会はその「開催に抗議し、会議への参加を拒否し」たと『アカハタ』4月23日号は報じているが(実際は平野義太郎氏が参加しており、「参加拒否」は事実でない)、この記事 は原水禁国民会議を「分裂組織」と断じ、またヘルシンキ大会日本支持委員会を「反党修正主義者と右翼社会民主主義者」が中心となって「策動している」組織だとのべている。この支持委員会の中心組耗の一つには総評が存在しており、プラッセル会議には総評が代表を送っている。総評が世界平和評議会のよびかけた大会に、正式に参加を決定したことはこれが最初である。このことの意義はきわめて大きい。3年前のモスクワ平和大会の際には、日本平和委員会の度重なる要請にもかかわらず、総評も社会党もついに正式代表を送らず、オブザーバー派遣に止まったことを想い起せば、今度総評、社会党がそれぞれ機関決定をもってこの大会への支持と参加を決めたことは、大いに評価すべきことでなければならぬ。ところが公表した「経過報告」には、総評、社会党をはじめ、広くよびかけると称しながら、一方ではそれを「右翼社会民主主義者」の「策動」と形容する。こうした憂慮すべき傾向は、単に声明や記事の上ばかりではなく、実際の運動の上にも現われてきた。

 すでにヘルシンキ大会の代表候補として職場を基礎に大衆的なカンパ活動を広範に開始し、5月始めまでに10万円以上の募金をえた束京のある組合活動家を、その組合が正式に、代表として推せん決定をする際に、その組合の役員である東京平和委員会の某幹部は、「この大会を支持すべきでない」として反対した例や、あるいは、同じく組合の推せんで代表候補となった茨城県のある労組の委員長を、同県の共産党県委員長が「分裂主義者だから」支持しないよう著名人に訴えて歩いたりした例が報告されてきている。

 

  新しい平和の組織

 

 ここでは平和委員会のセクト性の単なる暴露が目的なのではない。現代の平和運動の性格に正しく見合った組織原則からはずれる場合に、どういう欠陥が生ずるかを指摘したかったのである。

 ベトナムの情勢がますます危機的様相を深めている時、既成の平和組織はこうした状態に陥入っている。このような組織で、この戦争に対処する大衆的行動が組織されることはとうてい期待しがたい。

 だからこそ、既成政党や既成平和組織の枠のはるか外部において、よびかけを待ちくたびれた民衆の自発的行動が続々と展開されてきているのである。3月末以来、「世界民衆平和を結 ぶ会」(代表者=加藤義男氏)の署名運動(3月20日以降)、「平和のために歩こう」(WFP=井上明氏)のプラカード行進(3月19日以降)、「北爆に抗議する市民有志」(西尾昇、関戸嘉光氏ら)のデモ(3月25日)や集会(4月22日)、「『ベトナムに平和を!』市民・文化団体連合。つまりふつうの市民」(小田実氏ら)のデモ(4月24日)など、こうした動きは各所で活発化している。

 今必要なことは、「ベトナムに平和を!」というスローガンにケチをつけ、それが「ベトナム問題の真の本質から目をそらさせ」「ジョンソンの『名誉ある平和解決論』に呼応する危険」(『アカハタ』5月11日号、上田論文)などを指摘することではなく、こうした動きをさらに各所に、さらに多数の人びとをまきこんで起し、その間の連絡を通じて統一した行動を発展せることである。他の問題ではどのような意見をもつにせよ、今のアメリカのベトナム政策に反対し、そしてこれに協力している佐藤内閣の政策に反対するすべての団体と人びとの広範な行動の統一によってのみ、われわれ日本人民の上に課された重大な責任は果しうるのである。

 もちろん、社会党、共産党、総評など、既成政治勢力の統一した抗議行動は重要である。しかし、安保共闘再開という主張によっては、現在日本の民衆の間にあるエネルギーをくみつくすことは不可能であろう。事実上、安保共闘は、これら大組織の「株主総会」的なものとなっており、スパーノがいうような「共産党からも、社会党からも、またわれわれと肩を並べて活動しており、すでにわれわれと協力している進歩的、民主的サークルからも離れている男女」を、結集することはできないからである。

 政治諸勢力の間の行動の統一が、広範な、自発的な、民衆の行動によって大きく包みこまれるような、あるいは支えられるような、そうした状況のみが、日本の政治状況の変革を可能にする。そして、その中で、現代にみあった新しい平和の組織路線が生みだされ、日本平和運動再建の端緒も見出されよう。すでに、こうした自発的な組織の中には、これまでの平和運動組織には想像もできなかったような、創意あふれる民主的組織形態が現われようとしている。

一例を紹介しよう。つぎは「世界民衆平和を結ぶ会《仮称》」(代表者=加藤義男氏)の「会の性格(案)」である。

 

 「‥‥‥直接民主制ができるだけ保障される会とする。たいていの会は名前だけや会費だけの会員が多く、中心になる会員はわずかだが、そうはならないように、この会は直接民主制に参加し、活動する意志のある人のみを正会員とする。たとえばは地方の人でも、地方妄部をつくって活動するとか、月に1ぺん位は手紙で意見を出してくれる人を正会員として正会員で会を道営する。……」

 「……少数意見と多数意見は、討論による進歩向上に貢献するという意味で平等である。会の対外的活動は多数意見によって行なわれるが、少数意見が行動に参加するか否かは自由。少数意見の尊重を会報や集会で保障するよう努めるが、少数意見がそれでもたりず独自に意見書を出したり会合を開いても、会員全体に知らせてもらえば、会全体の進歩向上に役立つ協力と考え、分裂とは考えない。」

 

 そして、こうした新しい平和運動と、新しい組織の上に、真の新しい国際連帯も可能となる。小田実氏らの「べ平連」が5月22日に再度行なう、アメリカ、イギリス、ガーナ、日本などの統一デモは、すでにその方向を明示している。

 平和運動の再建、再組織の道は、それでも、容易ではないだろう。

 しかし、これしか道はないと思われる。(5月20日)

                           (筆者は日本平和委員会会員、元常任理事)

 

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