Archive 4. 矢内原忠雄総長のこと (『思想の科学』1967年4月号「特集・わたしのうちの大学 外の大学」)(04/04/20に転載)

 
  
文章は、『思想の科学」に掲載したままですが、一部の元号を西暦に直し、また、漢数字を算用数字に書き換えてあります。また、原文で、傍点がついているところは、ゴシックにしました。

 

矢内原忠雄総長のこと

吉 川 勇 一         

 

 私が東大に入学したのは1949(昭和24)年、新制の大学制度が施行された最初の年で、初の教養学部長に任命されたのは矢内原忠雄教授でした。私が処分を受けて大学を去ったのは1952(昭和27)年で、その時の総長が矢内原忠雄教授でした。

 以下、矢内原さんと私の大学生括についてのいくつかの思い出を紹介してみることにします。

 教養学部の2年の秋、駒場をはじめ、全国の大学に大規模な学生運動が展開されました。いわゆる1950年のレッドパージ反対闘争です。

 秋の定期試験を抗議の意味でボイコットしようという自治会執行部の方針は大部分の学生の支持を受け、ついに大学側は試験を中止、延期せざるをえなくなりました。最初の闘争は完全な勝利に終りました。この頃は、私は自治会の役員でもなく、一学生として運動に参加していたにすぎませんでした。

 矢内原学部長を「キミ」と呼んだ学生がいた、というので新聞が書きたてたことがあったのは、この闘争の中のことでしたが、またこんなこともありました。試験当日、見事にピケが張られ、ほとんど誰も教室へ近づけないようになっていたため、大学側は矢内原学部長名のビラを渋谷駅で登校してくる学生に配ったのです。それには「ピケのために通用門の通行不可能の者は、試験当日に限り、通用門以外の通行を許可する」とありました。つまり垣根をくぐろうが塀を乗り越えようが構わんというわけです。とにかく、その頃駅でビラをまくのは学生たちだけだったのですから、大学側のビラまきはとても珍しく、奇異な感じのものでした。

 今でもそうかどうか知りませんが、井の頭線の東大前駅から教室へ行くのには、正門や通用門を通るよりは、まっすぐ行って垣根をくぐつた方がずっと近道だったので、そこの垣根はいつしかふみしかれ、大学側が何度垣根を修理しても、そこに道が出来てしまうのでした。私たちは、このビラがまかれて以後は、この近道を「矢内原門」と呼んだものです。

 この闘争が一段落して駒場祭の時期がやってきました。私が友人たちとつくっていたサークル、民俗学研究会は、仮装行列の催しに参加しました。近所の農家から菅笠やミノを借り、ワラジをはき、竹槍とムシロ旗をもって、百姓一揆の恰好をしました。一人だけが羽織、袴に刀をさし、武士の恰好をして高札をもち、百姓一揆の部隊のあとを歩きました。高札にはつぎのように記しました。「百姓一揆の為、関所の通行不可能の者は、租税納入の当日に限り、関所以外の通行を許可する。矢内原忠之丞」この仮装行列は駒場祭の人気投票で三等をとり、賞品などを貰いました。矢内原学部長も、多分これを見たと思いますが、その百姓の一人が私だったことは、ついに最後まで御存知なかったでしょう。また私にしても、後に矢内原さんと国会の赤ジュータンの上にひっぱり出され、一緒に保守党代議士を相手にやりあおうなどとは、夢にも考えていませんでした。

 翌五二年春、私は本郷の文学部社会学科に進みました。民俗学を勉強したかった私には、社会学自体は楽しい学問とは思えませんでしたが、福武直助教授(現教授)のゼミナールは楽しい授業でした。そこでは毛沢東の「湖南農村調査」がテキストにされたりもしましたし、ゼミの学生全員が映画会をやって資金をつくり、それで農村の社会調査に出かけたりしました。私は、メーデーの日とぶつかった時一日だけを除いて、後に自治会の役員になってからも、このゼミにはすべて出席し続けました。

 ところで、私は、前年のレッドパージ闘争以来、急速に共産党に近づいていました。本郷へ進んでからしばらくして、私は入党申込書を出しました。その年の9月の自治会選挙に際し、細胞は私に学生自治会中央委員会議長に立候補せよという決定をしました。入党後半年もたっておらず、ろくにマルクス主義も知らず、演説一つやったことのない者に、この決定はとんでもない話だと、私は固辞したのですが、どうしても駄目でした。

 これが私の学生生活を大きく変えることになるわけです。その頃、自治会の議長でまっとうに卒業できた者は殆どいませんでしたが、私はそれでも退学になる覚悟などサラサラになく、ナニ、そうと決まった訳ではない、自治会の議長になっても勉強して立派に卒業してみせる、などと呑気な決意をしたものでした。細胞の同志諸君も、ソウダ、ソウダなどといいました。私はいつも甘い見通しを立てては、それが崩れるという経験を重ねてきているのですが、でも結局は、それは自分が選んだ道なのだから自分に責任がある、その道を進み通してしまおう、などと思ってしまうのです。つまり適当に呑気で、アキラメがよく、楽天的で、それでいて意地ッ張りなのでしょう。損をしてもあまり損をしたと思わず、後悔するのがシャクだから後戻りをせず、結構楽しくて、人生いたる処に青山あり、この道もまたよからずや、などと思うのです。

 さて、自治会中央委員会議長になってから、いろいろの事件が起こりました。紙数もありませんから、一々挙げられませんが、とにかく学生運動の闘士などとはお世辞にもいえぬ素人議長なのでしたから、最初の頃は思い出しても冷汗の出るようなことばかりです。一番大きな出来事は、なんといっても警察手帳事件でした。これは東大ポポロ事件ともよばれ、十五年後の今もなお私の友人の裁判が続けられています。詳しい記録の本も出ています(新興出版社「ポポロ事件」)から、内容は略しますが、この事件で、南原繁教授のあとをついで総長になっていた矢内原さんと、だいぶ直接的な接触をすることになりました。

 この事件で一緒に呼び出された国会の審議での矢内原さんの態度は実に堂々たるものでした。与党代議士の悪口雑言に対して毅然として学問の自由、大学の自治を主張したのです。矢内原さんは表面的には女性的な感じのする人で、学内集会のことなどで何回か交渉した時の矢内原さんの態度に、私ははじめ、コンニャクを連想したのですが、どうして、普通のコンニャクではなく、おでんのように串が通っており、それも鉄の串のようでした。一たん芯にぶつかると、なかなかそれ以上押せないのでした。

 手帳事件で一番困ったことは、警察手帳の返還問題でした。手帳は大学側に返した上で、その内容(驚くべき学問の自由の権利の侵犯の記録でした)を暴露して闘うという方針を、その後、共産党は返還しないと変えたからです。当時は共産党が次第に武力闘争方針を具体化しっつあった時期で、「階級闘争ほ戦争だ。警察手帳は戦利品だ。最後の勝利を得ぬうちに、戦利品を敵に返してやる戦争などどこにあるか。絶対に返してはならん」というわけだったのです。ですが、私は自治会を代表して矢内原さんに大見栄を切ってしまっていました。「手帳は絶対に返る。自治会の方針は全学生に支持されているのだから」と。いろいろな曲折を経て結局、細胞は再度方針を変え、手帳を返すことにきまったのですが、その決定はたしか返還の最終期限の前夜のことで、徹夜をして待つ私たちの所へなかなか手帳は届きませんでした。とっくに届いていい筈の時期をすぎても手帳は着かず、私は心配になりました。手帳が返らぬ場合の闘争の破局的展望や、大変な窮地に立たせられる矢内原さんのことなどを考えると、私はとてもたまりませんでした。生協の人びとの徹夜のたき出しによる握り飯ものどを通らず、遂には死ぬよりはかに責任のとりようはあるまいなどと考えました。私は遺書を書きました。おそらく妙な顔つきで書いていたのでしょう。不審に思ったらしい友人の自治委員が紙をひったくって読み、びっくりしていいました「オイ、冗談じゃねェぞ、本当かァ?」 ですが私は死なずにすみました。その時手帳が届いたという知らせが入ったのです。真夜中の3時頃だったでしょうか。今から思うとスリル満点ですが、その当座はそんな呑気なものではありませんでした。

 手帳が返ったことは、矢内原さんにとって大変嬉しかったことだったと思います。のちに停年で大学をやめられたあと、そのことを書いています。私にとっても嬉しいことでした。とにかく20歳で一生を終えずにすんだのですから。そんなことが、私と矢内原さんとの間に、一種の妙な連帯感みたいなものをつくりだしたように思います。

 こんなこともありました。手帳をいよいよ大学側に返す時、私たちは今後の証拠にそれを全部写真にとることを条件にしました。こうして総長室で写真撮影がはじまったのですが、その時間が長びいたためか、矢内原さんは突然「もうこれまでッ」といって手帳の一冊をサッと取りあげたのです。一人の学生は矢内原さんの腕にとびかかり、別の一人は残りの二冊をひっつかんで入口へ駆け出しました。矢内原さんは、この時のことを「私の歩んできた道」の中でつぎのように書いています。

 「そのときに、何か警察手帖の内容を写真にとっておくとか、そういうことをすべきでないとか、最後にもみ合いというか、議論が総長室で学生との間にあったんです。そのときに、私が少しはっきりした態度で強くいったら、吉川君が『先生は南原先生と違います』といったよ。どういうふうに違うか知らぬけれども、そういったよ。(笑)」

 私がいった趣旨は、南原前総長なら、一たん約束したことを途中でやめさせるようなことはしない筈だ、矢内原先生は南原さんと違って卑怯だ、というようなことだったと思います。そのせいかどうか知りませんが、矢内原さんは結局、手帳を離し、撮影は続いたのでした。手帳は大学の手を経て警察に渡されました。写真は、国会にも証拠として提出され、一般の新開にも大々的に紹介され、この闘いを大学側にとって決定的に優勢にする決め手となったのです。

 ところで、「南原先生と違います」という私の言葉を矢内原さんがいつまでも記憶されていたということは、矢内原さんが、同じクリスチャンである前任者南原繁氏の総長ぶりをたえず頭において仕事をしていたのではないかと想像され、私は興味深くそのことを読んだものでした。

 その事件もおさまり、4月28日、講和・安保両条約発効の日が来ました。私たちはストライキをもってこれに抗議することをきめました。大学はそれを禁止しました。私たち東大自治会は矢内原総長に公開状を出し、当日総長も出席する全学集会を開き、両条約と破防法に反対の意志表示を東大としてするなら、スト方針を撤回してもよいと提案しました。私は大学で矢内原さんに面会を申込みましたが、拒否されたため、自由ヶ丘の矢内原さんの自宅へ深夜や早朝、一人でおしかけました。玄関で坐り込んだ私を避け、矢内原さんは裏門から自動車で本郷へ向かいました。私たちはストを決行しました。28日の当日、早大、外語大、明大、東経大、慶大……と都学連傘下の数千名の学生は東大アーケード前に集まり、弔旗をかかげてデモをしました。私はその集会の議長をつとめました。もはや卒業の見込みはなくなりました。

 処分は5月に発表されました。私はそののち、平和運動の分野で仕事をするようになりました。

 のち、私は東大学生新開に連載された前記「私の歩んで来た道」を読みましたが、その中の「学生運動と思い出の学生たち」の項につぎのようにありました。

 「‥‥結局文学部で処分になったんですけれど、吉川君が復学を願い出れば、すぐにでも許される、みんなそれを待っていたんだけれども、とうとう復学の願い出をしなかった。非常に私は惜しんでいる。」

 

 たしかに、福武先生などから熱心な復学の勧めがありました。有難く思いました。でもそれには「今後は学部共通細則を守り、勉学に励みますから‥‥」という誓約書を書くという条件がついていました。形式的なことかもしれません。でも、私は決してそれまでも勉学に励みたくなかったのではなかった。勉強はしたくてたまらなかった。けれども、研究費もろくになくて、ゼミを挙げてダニー・ケイ主演の映画をやって金をもうけなければ農村調査にも行けず、教室の中まで刑事が入り込んで教授の身元調査をし、警察予備隊のポスターが学内に張り出される、といった状況の中では、とても落着いて勉学には励めなかったのです。自分から退学を希望したのではない、大学側が処分したんだから、矢内原さんが私の復学を望むなら、それを取消せばよい、私が誓約書などを書いて戻ってはやらない、私は、矢内原さんに手紙を書いてそういいました。折返し矢内原さんの返事が届きました。「戻ってやらないなどというのは意地ではないか。君にとって、もう大学に戻る必要はないというのなら、私には判る」。

 私の意地ッ張りは、矢内原さんに見抜かれていました。もうなればますます意地です。

「戻る必要もない。だから戻ってやらない」私はまた手紙を書いてそういいました。

 矢内原さんと私は、一度会って、学生運動について論じ合おう、と約束していました。ところが、それがのびのびになって果せぬうちに、私は新聞紙上で矢内原さんの訃報をみました。一般の告別式は東大安田講堂で挙行されるとも出ていました。私は、その日、仕事を終えて駆けつけたのですが、すでに式は終り、講堂の舞台の上の祭壇は片付けはじめられていました。昔の喧嘩相手の長谷川学生課長が私をみつけて「早く、早く」と呼んでくれました。片付けられかかった矢内原さんの黒いリボンのついた写真がもう一度戻されました。私はそれにお辞儀をしました。

 入学式の日に入った安田講堂に、二度目に入ったのは、卒業式でほなく、矢内原さんのお葬式だったのでした。

 (よしかわゆういち・平和運動家・1931(昭和6)年生)

 

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