『失踪』その後(1) (「話の特集」1979(昭和54)年7月号)(04/04/19に転載)
                                                                                                                           
吉 川 勇 一

 

 エリック・アンブラーが『武器の道』の舞台にしたのはこのあたりかな、マレー半島の海岸線を飛行機の窓から見下しながら、そんなことを考えていた。シンガポールを出た時は快晴だったのだが、北上するにつれて次第に雲が多くなっている。評判につられて出がけに飲んできたラッフルズ・ホテルのシンガポール・ジンスリングが、口の中にまだ甘い味を残しているような気がして、スチュワーデスにコーヒーのお代りを頼むと、機内の案内放送がまもなくペナンに着くと知らせた。気温三〇度、雨だという。

 ペナン空港はすっかり変ってしまっていた。一年半前に来た時は、平屋建ての小さな建物が一つあるだけだったのが、近代的な大ターミナル・ビルになっていて、吹きぬけのロビーの高い天井には、マレーシアの伝統工芸なのか、大きな升目の木組みが縦と横に並び、その一つ一つが下へ向かって徐々に出っばっているのか、上へ向かって凹んでいるのか、見方によってどっちともとれる面白い模様になって いる。三階の回廊に沿って並ぶレストランや土産品店の中には、まだ工事中のところもある。

 雨はそれほど激しくないが、湿度はひどく高く、あまり気持よくない。空港からジョージタウンヘ向かうタクシーの運転手は、しきりとホリデーで来たのか、明日は蛇寺を見にゆくか、ペナンヒルヘ登るかと聞き、この車を一日雇え、とうるさい。「ハーフ・ホリディ、ハーフ・ビジネスだ、ペナンは五度目だからどこもみんな見てしまった」と答えると黙ってしまった。

 街中に入ってしばらくすると、アンバサダー・ホテルの前を通る。ジム・トムソンがカメロン高原に出かける途中、一泊したホテルである。そうか、山村美沙の『マラッカの海に消えた』のヒロインもここへ泊ったんだったな、などと思いだす。空港から電話で予約したE&Oホテルはもうすぐである。

 東南アジアを舞台にした推理小説やスパイ小説は、欧米を舞台にしたものに比べれば数はぐっと少ない。それでもアンブラーの『武器の道』、グリーンの『おとなしいアメリカ人』、結城昌治の『ゴメスの名はゴメス』、中薗英助の『密書』、それに清張の『象の白い脚』、伴野朗の『陽はメコンに沈む』など、面白いものがずいぶんある。知っている人はかなり少ないのだが、最近読んだシゲル・ヨシダという変なベンネームの作者による『虚空の風車』という作品は傑作だと思った。著者は英国現役外交官だというのだが、もちろん日本人だろう。最近の変転きわまりないインドシナ政治の一面を見事に描いている。

 だが、今度の旅は小説の舞台を歩くのが目的ではない。ミステリーはミステリーだが、これは現実の世界での出来事なのだ。多くの謎に包まれたまま消えてしまった一人の人物の行方には、今でも、二万五千ドルの賞金がかけられている。その十二年前の足跡をたどって、私はバンコンク、シンガポール、ペナンと歩きまわり、今、彼の最後の旅行となったマレーシア中部、パハン州の出岳地帯の中にポツンとあるリゾート、カメロン高原への道をまたもゆこうとしているのだ。

 どうしてこんなことになってしまったのか、自分でもよく判らない。他の用事もあるにはあったのだが、とにかく一冊の本を翻訳するのに、一年半の間にバンコックやカメロン高原に三度も出かけることになってしまったのだから。とりあげてくれた書評は、ありがたいことに「自ら現地を訪ねた訳者の熱意」などと好意的だったが、損得勘定だけからすればこんな合わない話はない。貰った翻訳料はカメロン高原への前の往復だけで足が出てしまっている。が、とにかく損得ぬきに、面白くなってしまったのだ。この人物と事件にとりつかれてしまったのである。

 この出来事は日本ではまったく報道されなかった。十二年前、一九六七年のことだが、六七年といえば、企学連の羽田闘争、エスペランチスト由比忠之進の抗議焼身自殺、そして私自身もかかわった米空母イントレピッド号からの四人の反戦脱走兵の事件しか思い出さない。だが、東南アジア各国をはじめ、欧米ではこの事件は連日、各紙のトップで報道され、BBCは三十分の特集番組までこしらえた。十年たっても、事件十周年の特集を組む新聞があるほどの大騒ぎだったのである。

 詳しくは訳書『失踪』を読んで頂ければいいのだが、ご存知ない方のために事件のごく概略をご紹介しよう。

 行方不明になった人物はジェームズ・H・W・トムソン。多くの人はジム・トムソンと呼ぶ。トンプソンという人もいる。消息を絶ったのは一九六七年二月二六日、復活察の日曜日の午後。場所は先に書いたカメロン高原の丘にジャングルに囲まれて建つムーンライ卜・コテジ(月光荘)。その時トムソンは、バンコックのタイ・シルク商会の社長。東南アジアでは名を知らぬ人がいない著名なアメリカ人である。同行していた人は、月光荘の持主であるシンガポールのリン博士夫妻と、古くからのトムソンの友人でバンコックで古美術商を営むコンスタンス・マンスコー夫人の三人。トムソンはこの時、六一歳。

 シンガポールヘの出発を翌日に控え、一行四人は近くの丘へ車でピクニックに行き、帰ってそれぞれの部屋で午睡をとっている間にトムソンの姿だけが消えてしまった。リン夫妻は、寝室の外側の砂利道を歩くトムソンの足音を耳にしている。いつも肌身難さず持っていた煙草や持病の胆石の発作を鎮める薬もベランダの机に残してあったから遠出の筈はなかったのだが、暗くなっても帰ってこないので騒ぎとなった。

 タイ・シルクの王といわれる大富豪だったからというだけでなく、身内に米政府の高官を多くもち、タイ駐日米軍の司令官も長い親友づきあいなどということから、トムソンの捜索はマレーシアの警察やイギリス軍兵士、SEATO軍のヘリコプター、さらにポーイスカウトや現地山岳民族までも動員する史上前例を見ぬ大規模なものとなった。しかし行方はおろか、遺品一つ、足跡一つ見つからなかった。

 トムソンはアメリカの生まれ、名門プリンストン大学を出て建築技師になるが、軍隊に志願し、OSSに所属する。OSSとは戦略作戦局、今のCIAの前身組織である。第二次大戦で、トムソンはナチス占領下のフランスにパラシュート降下して特殊任務につく。ドイツ降伏後、トムソン大尉はアジアに配属され、今度は日本軍の駐留するタイにパラシュート降下してタイの反日地下組織「自由タイ」と共同作戦を行なうための訓練を受ける。いよいよ作戦実施となってスリランカを飛立ち、ビルマ上空まで来た時、八月十五日、日本降伏。バンコック空港へ進駐した米軍最初の将校となる。混乱のバンコックで、彼はOSSの文局長や米大使の政治顧問をつとめた後、除隊。その間、タイにすっかりほれこんだトムソンは、荒廃していたオリエンタル・ホテルを買いとってこれを再開させる。しかし共同経営者と意見が合わず、ホテル業から手を引いた後、今度はタイの絹産業に注目する。当時のタイ・シルクは減亡寸前で、今日の隆盛ぶりなど誰も予想しえなかったのだが、トムソンは持ち前の色彩感覚と商才を発揮し、たちまちそれを一大産業に発展させる。一方、タイをはじめ東南アジアの古美術品の蒐集を始め、それ自体が一つの大きな芸術品である彼のバンコックのタイ式の家には、全部で時価数十億ともいわれる仏像やら絵画、彫刻、陶磁器などが陳列されるようになる。この家は、今、バンコックの観光コ―スに組み入れられている。

 さて、OSSでジャングル内の生存訓練をたっぷり受けているだけに、カメロン高原のジャングルの中で彼が道に迷ったり、事故死したのだ、と信ずる人はほとんどいない。それに手がかりが一つも残されていないところから、身代金めあての誘拐説がとなえられたり、さらに彼の政治的経歴からして政治的誘拐説も強くある。マレーシアのゲリラによるという説、中国系の共産主義者によるという説、タイの元首相で「自由タイ」の指導者だったプリディが関係しているという説、さらにはCIAの陰謀説、武器の密輸や麻薬がからむ話。生存説、死亡説、ありとあらゆる推理が展開される。今でも東南アジアのバーでこの話を持ちだせば、そこに居合わせた人びとから、それぞれ三つや四つの異説が聞けるだろう。トムソン自身がCIAの秘密工作員だという説は、バンコックで強力である。私の訳したトムソンの伝記の著者、ウィリアム・ウォレン教授自身が実はCIAだ、という説さえある。肝腎なところが何一つ明らかになっていないために、およそどんな突飛な推理がたてられても、それを否定する根拠がないわけである。要するに十二年たった今でも事件はまったく未解決なのだ。

 この間、オランダの超能力者、ビーター・ハーコスをはじめ、インドの数霊術師、マレーシアのポモー(呪術師)、棒占いをするカトリック僧、水晶球で透視するシンガポールの女性等、科学の領域とはまったく異なる次元で″真相″に迫る各国のオカルト術者が登場し、神託やら直観、ジャングルの精霊のお告げやら天宮や星の運行からの判断などを次次と発表する。捜査本部はそれをすべて検討してキリキリ舞いをするし、ハーコスの判断ではバンコックのアメリカ大使館までが内部で一週間も大議論を交わすという珍妙な事態までおこる。今は国を追われているカンポジアのシアヌーク元首も、こうした判断の問合わせを受けて、調査の上、回答をよせるなど、国際的な騒ぎにまでなるのである。

 以上がトムソン事件のごく大ざっばな概要だ。

 さて、こうした派手な事件だから、すでにこれを題材にして小説も書かれているし、映画化の計画もある。小説では、最近日本に紹介されているジェラール・ド・ヴィリエの冒険スパイ小説、SAS・マルコ・シリーズの一冊に、『クワイ河畔の死』という作品がある。まだ邦訳されていないのだが、これはまさにトムソンの失験を素材にしている。冒頭に出てくる場面だが、刺されて瀕死の男が、倒れる寸前にかける電話の番号が、何と現実にバンコックにあるタイ・シルク商会の本社の番号とおんなじであったりする。そういう芸は細かいのだが、筋そのものは他のマルコ・シリーズと同じく冒険活劇物語だ。シルク会社を経営するアメリカCIAの工作員、ジム・スタンフォードが主人公。行方不明になったスタンフォードの行方をブリンス・マルコが突きとめる。共産主義者の中国娘の色香に迷わされた主人公が、みつぐ金に困ってゲリラヘの武器密輸に手を貸し、最後にはタイの秘密情報局員である美少女に、クワイ川のほとりで射殺され、死体は、クワイ川鉄橋のそばの集団墓地の中に人知れず埋められる――という物語。一方、映画化の話では、二年前に、ウルフ・リラ監督がその計画を発表している。

 日本では、今、松本清張がこれを素材にして推理小説を執筆中である。題は『熱い絹』といい、夏までには単行本になるという。そして、これが直ちに映画化されることにもなっている。監督は『鬼畜』のメガホンをとった野村芳太郎。こうなると、トムソン事件も一躍日本で有名になり、私の訳した本も売れるようになるのでは……などと皮算用をしているのだが、これは脱線。

 松本清張の『熱い絹』は、実は六年も前に雑誌『小説現代』に二十数回にわたって連載されていたのだが、完結に至らず中断したままになった作品だ。今度のはすべて想を新たにして最初から書き下す作品になるという。雑誌連載の分をまとめて読んでみたが、途中までとはいえ、ヴィリエのような荒唐無稽の筋と連って、現実味のある重厚な作品である。今度、東南アジアに出かける直前、松本氏には何度かお目にかかってトムソンの話をする機会があったのだが、松本氏自身、すでに二回もバンコックやペナン、カメロン高原を取材のために歩いており、日本人では一番最初にトムソン事件に注目した人だったということを知った。

 ペナンからイポーを通ってカメロン高原ヘ向かう私の道は、トムソンの最後の道だっただけでなく、松本清張氏の取材の旅のあとをそっくり追うことにもなったのである。

 E&Oホテルはペナンでは旧いホテルの一つである。おそらく最も旧い歴史があるのではなかろうか。一階の奥には「一八八五年」という看板のかかったバーがある。私はアジアの旧いホテルが好きだ。クアラルンプールのマジェスティック、シンガポールのラッフルズ、ラングーンのストランドあるいはタイのホアヒンにあるステーション・ホテルといったような所だ。トムソンが戦後再開したバンコックのオリエンタルも、コンラッドの小説に出てくるほど旧い。ただ近年の改築ですっかり近代化され、バンコックで最高の料金になって、私などの容易に泊れるところではなくなってしまった。

 E&Oの長い長い廊下や高い天井、海沿いの明るい食堂など大いに気に入っているのだが、今度泊った部屋は、やたらと大きな音ばかりたててちっとも涼しくならぬクーラーに悩まされた。

 ここのホテルのロビーにツアー会社が店を出していて、この前来た時はそこに頼んでカメロン高原まで往復する車を出して貰った。モハメッドという名のインド人の運転手がいい人物だったので、もう一度、と思っていたらその店はなくなって、本の売店に変ってしまっていた。その運転手は老齢で去年引退したのだという。

 ボーイが別の運転手を紹介してきた。今度は華僑で、リューという名だ。ペナンからカメロン高原まで、途中の昼食の時間を除いても七時間はかかる。最後の三分の一はかなり急な登り坂だ。四日間、運転手つきの車を借りきって往復してもらうことにし、値段の交渉に入る。車はクーラー付きのトヨペットだ。この前四百マレーシア・ドルだった、というと、ガノリン代が上っているからとてもそれでは行けぬ、五百ドルだ、といってくる。結局、四百五十ドル、日本円で四万五千円ということで話がつく。

 翌朝、十時にペナンを出て、フェリーで半島側に渡り、あとはクアラカンダサール街道をひたすら南下する。途中、イポーの警察署に寄る。ここのサントク・シンという警部を訪ねるためである。彼はFBIが運営するアメリカ警察学校を卒業した最初のマレーシア人で、十二年前の事件で活躍した人物である。その後の情報や今の彼の意見を尋ねてみたいと思って受付へ行くと、そんな警官はいない、という。十二年前にはいたんだ、というと、ちょっと待てよ、と受付の若い警官は仲間のところへ聞きに行った。

「そりゃ偉いさんだよ。クアラルンプールにいる。地方警察局の局長になってる」

 面会はあきらめて、イポーに二つあるという仏教寺院の場所を聞く。そのうちの一つ、市場に近いほうの寺は、トムソン行方不明から半年以上たって入ってきた情報をもとに、テレビ・ドラマそっくりの大捜査陣が敷かれた舞台だった。指揮はサントク・シンがとった。バンコックからは、トムソンの後を継いだ社長のシェフィールドや弁護士までがイポーに乗込んできて、トムソン引渡しの接捗に当ることになったのだが、結局、トムソンは姿を見せなかった。この情報は一種の詐欺として処理された。

 この寺はイポーの南の町はずれで街道からほんの少し入ったところ、この地方によくある鐘乳洞を利用した絶壁の下の寺だった。観光客――といってもマレーシア各地の華僑が多いのだが――は、もう少し北寄りの霜震洞という寺の方へ行く。(清張氏は、連載していた『熱い絹』の中で、こっちの寺を舞台に面白い話を展開している)ここでもたいした話は聞けなかった。朝は晴れていたのだが、だんだん雲が厚くなってきて、カメロン高原の方は真暗である。先が心配で、車を急がせることにした。

 マレー半島をシンガポールまで縦断する幹線道路をタパーまで走ると、ガソリン・スタンドの脇に道路標識があって、カメロン高原への登り道を示している。この高原の名は、それを発見したというイギリス植民地時代の調査官、ウィリアム・カメロンの名をとっている。時は一八八五(明治一八)年である。だが、彼は「四周を高い山で囲まれたなだらかな盆地」を発見した、と報告しているだけで、この地に至る地図を残さなかった。だから正確には、現在のカメロン高原が、それに当るのかどうかは判っていない。その後、いろいろな探索や調査が行なわれるが、実際に開発が始まり、道路がつくられるのはずっと下った一九二五〜六年のことである。海岸地方のゴム園や錫鉱山の所有者、シンガポールの植民地政府高官や大商人――もちろんすべてイギリス人だが――たちは、日中でも二十度前後、夜間は四、五度にまで下るこの涼しい高原にひかれ、そこにイギリス風の別荘地帯をつくりあげた。ゴルフ場もつくられたし、広大な茶のプランテーションもつくられた。軽井沢か蓼科かと思わせるような避暑地が出来上ったわけだが、ただ違うのは、ゴルフ・リンクと点在するバンガローや山荘をつなぐ幹線道路からちょっと脇へ入ると、千古斧を知らぬという形容がそのまま通るジャングルだという点である。タパーからこの高原まで来る道も、少し先まで行くと舗装がなくなり、あとはオラン・ウスリ(ジャングルの中に住む原住民)だけが吹矢をもって裸足で走りまわる、路ともいえぬような路となって密林の中に消え、西海岸に抜けることはできない。つまり袋のような避暑地なのである。清張氏はこれを「天然の密室」と表現している。

 第二次大戦中は、当然ながらここはさびれた。日本軍もやってきた。月光荘の管理人を長いこと勤め、昨年七一歳で隠居して孫たちと暮しているマレー人、ユヌス老人は、襟章に星が三つもついた日本の偉い将校たちが、軍刀をさげてよく泊りに来たものだ、という。

 日本の占領下、シンガポールは昭南島と名を変えさせられた。この高原も、「ペラ高原」と変った。先日、「終戦三〇周年記念出版」と銘うった『南方派遣軍・記録、赤道標』なる本を読んでいたら、元マライ軍政部庶務班長、後にペラ高原出張所長だった長井という人が、『昭南新聞』(戦争中にシンガポールで出ていた日本語新聞)の記事を紹介している文に目がとまった。その記事は(イポー発同盟)とあり、「マライに櫻花爛漫――カメロン高原に咲く」という見出しがついている。一九四三(昭和一八)年二月二〇日付の新聞だが、二月一一日の紀元節の朝、これまで一度も咲いたことのなかった桜が一斉に花をつけた、というのである。これは「マライ戦線に花と散った勇士の誠忠の現れで、又、マライ新生一周年を祝福するものとして初めてみる現地人も、日本人もこの気高さには心うたれた」と結んでいる(『赤道標』131ページ)。

 日本敗戦とともに、高原は以前のような賑いに戻るかと思われたが、一九四八年、英政府の提案したマラヤ連邦案に反対したマラヤ共産党は武力闘争を開始し、この地方はゲリラ活動の中心となってしまう。避暑地どころではない。月光荘はその頃、ゲリラの本拠にされたという噂もあって、今、バラや洋蘭の見事に咲きほこるその前庭では、ゲリラによる即決裁判と処刑が行なわれたという説まである。トムソンが行方不明になった後、数多く登場してくる占い師の中の一人は、ジャングルの精霊が、この時の流血に対する怒りをまだ鎮めておらず、今その復讐に出てきたのだ、と解釈していた。

 ゲリラ闘争はその後、政府軍の激しい弾圧と内部分裂で弱体化し、カメロン高原も一九六〇年代には、戦前にまさる緊栄をみる。今の所有者、リン博士夫妻が月光荘を入手するのはこの頃である。

 ホテルのフロント係もバーテンも、またそのあたりのタクシーの運転手も、口をそろえて、最近はゲリラの心配などまったくない、という。しかし、日本の間組が開発しているテメンゴール・ダムがゲリラに襲撃されたのはわずか五年前のことだし、テメンゴールはカメロン高原から直線距離にして北へ百キロのところにある。(『話の特集』一九七五年八月号、矢崎泰久「ある五月」参照)

 今度もクアラカングサール街道の途中と、タパーからカメロン高原へ上る途中とで、自動小銃を持った警察軍の検間にぶつかった。何か事件があったのか、と尋ねると、いや、これはふつうの行事さ、という答だった。

 政府や公共企業関係の建物には、すべてマシンガンを持った兵士がいる。カメロン高原の最高峰、プリンチャン山に登ってみたが、この頂上にテレビ中継所の施設があって、そこは周囲を高い有刺鉄線で囲まれ、正面には機銃を据えた兵士が常時頑張っていた。

 ブリンチャン山は六六六六フイート(二千メートル強)。舗装道路で頂上まで行ける山としてはマレーシアの最高降でもある。天気がよければはるかマラッカ海峡も見えるというので、中継所のまわりをウロウロしていたら、赤いセーターのマレー人が話しかけて来た。中継所の住み込み職員だという。車の音がして日本人だというから、ヤスダさんかと思った、と彼は言った。「ヤスダさん?」「ウン、日本から蝶を買いにくる人だ、もうそろそろ来る筈なんだ」と彼。

 そのフランシス君の案内で、政府の許可がなければ入れない筈の建物の中に入れてもらう。彼はTV局の仕事の合い間に、この辺で有名な珍しい蝶や蛾、昆虫類を蒐集して日本の業者に売っているという。定期的に買いに来る業者が東京や名古屋にいて、年に二度、三度と訪ねては、彼が集めておいた蝶類をごっそり買いとってゆく。「ヤスダさんもその一人さ。僕のいい副業なんだ」といいながら、フランシス君は自室の床に採集した蝶や蛾を何百と並べてみせてくれた。私は会わなかったが、彼の話だと、この中継所にはNECから派遣された日本人の技師も住みこんでいる、という。

 麓のカメロン高原のホテルには、マレーシアやシンガポールに駐在する日本人商社員やその家族たちが休暇にくることはあるが、プリンチャン山のてっぺんまで来た日本人は多くはなかろう、などと考えて来たのがまったくの認識不足だった、と思い知らされる。

 眺望はいっこうによくならない。雲が切れて少し遠くが見えるようになるか、と思うとたちまち尾根の向こうから白や鼠色の雲がさあっと湧きでて、たちまち視界をおおってしまう。フランシス君の話では、今頃は、午前中は少し晴れていても午後は必ず雨なのだ、という。そういえば、カメロン高原での四日間、午後に雨が降らなかったことはなかった。

 二日前の昼食後、たまたま晴れていたので、ジャングルの小路をたどってみようと思い、自筆の地図を片手に歩いたことがあった。

″自筆″とは何のことか、と思う方がいよう。実は、カメロン高原のきちんとした地図は入手できないのである。タナ・ラタの町の入口に小ぎれいな建物がある。そこが政府の経営するカメロン高原観光局で、高原の地図を五〇セントで売っている。だが、それにはNOT TO SCALE(縮尺は違う)とある。つまり、方向も距離もでたらめの地図で、およそジャングルの中を歩くための役に立つものではない。もっとちゃんとした詳しい地図もあって、この高原に古くから住む“身元のしっかりした″別荘所有者や、主要ホテルなどはそれを持っているのだが、それを私たちが買うことはできない。「安全(セキュ)対策(リティ)のためだ」という。この″安全″とは、山歩きをする観光客の安全のことではもちろんない。セキュリティー――つまり治安上ということであって、ゲリラの手に渡したくない、という意味であろう。

 私はこの前、この高原に来た時泊った「スモーク・ハウス・イン」というホテルでこの地図を見かけ、写真にとっておいた。そして、その写真をもとにこの地図を復原したのである。

 さて、話を戻して、この地図を手にジャングルの小路をたどり、二〇分もたつと、たちまち雲が空をおおい、あたりは暗黒になり、霧が湧き(あるいは降りか)激しい雨が降りだした。そうでなくてもすべり易い小路は、流れる水で小さな川のようになり、とても歩けそうになくなった。

 ジャングル散策用のルートはいくつかある。ルート1、ルート2などと番号がふられている。そしてそこをたどるかぎりは安全だとされている。しかしだ、どこのホテルにも、また、観光協会で売っている例の地図にも、「ジャングル歩きの注意」がかかげられている。曰く。「一、決して一人歩きをしないこと。二、出発前に知り合いにつぎの点を伝えておくこと。a、たどる予定のルート、b、帰りの予定時刻。……四、もし道に迷って東西の方向もはっきりしないような場合は、その場を動かずに、できれば水流の近くで待っていること。発見されるまでには二四時間以上かかるかもしれない。決して慌ててはいけない。五、山歩きの際には、つぎの品物を携行すること。a、いっぱいに入った水筒、b、マッチ箱(合図のたき火が出来るように)。c、磁石(観光局で売っている)。d、呼笛。e、たいまつ。f、軽い食糧(たとえばチョヨレート等)。g、ナイフ。……」

 私はこれらの条件のほとんどを満たしていない。持っているのはカメラとフィルム、ビニールの袋、それにライターと煙草ぐらいだ。行方不明になってもお前のせいだ、といわんばかりのこの脅迫めいた注意書きを思い出して、いささか不安になる。それにキャラバン・シューズではない、バック・スキンのゴム底運動靴では、とにかく道がすべって進めない。雨はますます激しくなり、ほうほうの態で引揚げることにする。幸い道には迷わず、怪我もせずにホテルヘ戻れたが、下着までびしょぬれ、下った気温にガタガタふるえる始末だった。ホテルのフロント係が、気の毒そうな顔をして(あるいはもの好きな日本人め、という顔だったのかもしれない)私をじっと眺めていた。

 この前、この高原を訪ねた季節は一二月だった。その時は、朝は周囲の山々が雲でおおわれていても、必ず夕方まで日中は好天が続いた。ところが今度は、午後となると必ず激しい雨が降るのである。そういえば、第二次大戦中このあたりのジャングルの中を踏破したイギリス人の大佐、スペンサー・チャプマンの手記を以前読んだが、それにも、朝は晴れていても午後は必ず雨だとあった。そしてハッと思いついた。トムソンが行方不明になったのは三月の末、そして今は四月の初め。時期はほとんど同じである。彼の失踪後の天候はどうだったのだろう。私の訳したウォレンの著書に、気温のことはふれてあったが、天候のことは書いてなかった! トムソンは雨には合わなかったのだろうか?

 話をゲリラのことに戻そう。トムソンの事件からは少し離れるのだが、私はここへ来る前に立ち寄ったバンコックで驚くような体験をした。

 バンコンクでは、トムソンの家を訪ねたり、チュラロンコーン大学で英語を教える『失踪』の著者、ウォレン氏に会ったり、トムソンの家からタイ美術省が押収したという仏像などすぐれた石の彫刻を国立博物館で見るなどの目的があったのだが、その他に、今度訳した本を売ってもらう用件で、バンコック市内、大丸デパートの中に日本の書籍を扱う店をもっている平田さんという日本人に会うためでもあった。

 

 彼の事務所で用件をすませ、四方山話に移った中で、タイのゲリラのことに話題が入った。私は、最近タイ南部の解放区に外国人として初めて入ってすぐれたルポを『毎日新聞』に連載した、芝生(しぼう)瑞和(みずかず)氏のことにふれた。芝生氏とは、私が日本を発つ数日前、カンボジア・ベトナム問題で共同声明を出すための会合の席上、話を交わしてきたばかりである。話が一段落したあと、平田氏は、では私の店をごらんに入れましょうか、といって書店まで案内してくれた。そこの店先には、AA作家会議が編集した『アジアを歩く』という本が並んでいて、表紙には、執筆者の一人として、芝生氏の名前も並んでいる。私はそれを指さしながら、「これがさっきお話した芝生氏ですよ。マレーシア寄りの解放区に入った人です。たしかおじいさんは、荒木貞夫陸軍大将とかいう話ですね」と平田さんに話した。それが午前一一時ごろのことだった。

 平田さんと別れてから、市内のあちこちで二、三の人と会い、そのあと、知り合いのバンコック駐在日本人新聞記者を訪ねるため、その新聞の支局へ向かった。彼は、久しぶりに会った挨拶もそこそこに、 「吉川さん、大変なニュースが今飛込んできたんですよ。ルポライターの芝生瑞和さんて知ってるでしょ」という。

「知ってますよ」

「彼が死んだんですよ」

「エッ、いつ、どこで、なぜ?」

「つい最近、マレーシアのゲリラ地区で、ゲリラに殺されたらしいんです」(つづく)

〔注=人騒がせの結果になることは、私の意図ではありません。次回でこの結果はのベますが、私の友人、芝生瑞和氏はなくなってはおりません。念のため――吉川〕

 

『失踪』その後(2) (「話の特集」1979(昭和54)年8月号)

                                                                                                        吉 川 勇 一

 

芝生(しぼう)瑞和(みずかず)が死んだ!?」 ――それもマレーシアのゲリラ地区に潜入して……という話には驚いた。

 日本を発つ直前に、私は彼に会い、東南アジアに行くつもりだという話をした。だがその時、彼の方からは、マレーシアあたりに行くという計画など開かされなかった。もっとも、計画があったからといって、それを私に話さなければならぬというわけではないし、まして、解放区に潜入しようというのだったら、そんな計画はやたらとひろがらないほうがいい。しかし、それにしても話はちょっと急すぎる。その特派員も首をかしげた。

「そういえば少し早すぎるな。吉川さんのあとから日本を発って、マレーのジャングルヘ入り込むんだったら、もっと時間がかかっていいはずですよね」という。

「その話はどこから入ったの?」

「いや、ある人からの知らせなんですがね」「その人、日本人?」

「ええ」

「大使館筋の人?」

「いや、違います……」

 情報源については、あまり言いたくないらしい彼だったが、しつこく聞きだしてみると、そもそもの源は、ある日本人が、バンコック市内の某所で、二人の中年日本人がしている立ち話から、芝生氏の死んだことを知ったのだ、という。

「もっと詳しくその内容はわかんないんですか?」

「ルポライターの芝生氏がマレーシアのグリラ解放区に入って殺されたっていうだけのことなんですよ。ア、そうそう、芝生氏のおやじさんが陸軍中将だったって話、吉川さん知ってますか? そんなことも話したそうですよ」

 これで私にはすべてが判った。「その立ち話をしてた場所っていうのは、大丸の三階の本屋じゃありませんか?」

「エッ!なんで吉川さんがそんなこと知ってるんですか!」

 学生時代に社会学の講義で習ったデマの流布のことを私は思い出していた。「タイの、マレーシア沿いのゲリラ地区」が「マレーシアのゲリラ地区」に、「おじいさんが荒木貞夫陸軍大将」という話が「お父さんが芝生陸軍中将」にと、要素がゆがんでいる。でも、それにしても、死んだという話はどこでつけ加わったんだろう?

 その特派員がいった。「判った、判りましたよ。芝生(しぼう)死亡(しぼう)ですよ。とにかくよかった。この話、まだ送ってないんですよ。ヤレヤレ」と彼は胸をなでおろした。

 そして大笑いの末、いった。「サァ、芝生氏の無事を祝って、下のロビーで一杯やりましょうや」

 話はそれで一応終りなのだが、ちょっとした後日譚もある。数日後、今度は別の二つの社の特派員といっしょに飲んでいた時のことだった。そこでたまたまこの話が話題に登った。

「あれは誤報(がせねた)だったんでしょうね。その後のニュースは何も入ってこないんだから……」

「君のほうの耳にも入ってたのか。俺の社だけに入ったニュースかと思ってたんだが」と二人。

 つまり、この話は、グルグルとバンコックの日本人社会の中を回っているわけなのである。

 本屋の店先での二人の日本人の話を、背後でじっと耳をすませて聞いているもう一人の日本人の存在――というのは実に嫌な感じだったが、もう一つ思ったことは、この芝生氏の話がゆがんだデマとなって伝わっていっても、まんざらありえぬ話ではないとして、日本の通信社や新聞社のほとんどすべての支局に届くほど、やはリゲリラや解放区の話は現実味をもっているのだ、ということだった。

 トムソンのことに話を戻すと、彼が共産系ゲリラに誘拐されたという説は、とくに十二年前の状況下だとすれば、十分ありうることなのである。この仮説は、アメリカの『ライフ』誌が熱心に展開した。オランダの″超能力者″ピーター・ハーコスもそれをとなえ、タイの元首相で、第二次大戦中の反日地下組織″自由(フリー)タイ″の指導者だったブリディがそれに関係している、と強く主張した。

 プリディ元首相は、戦前、タイでラディカルな民主主義政策を唱導した。一九三三〈昭和八〉年に彼が人民代表議会に提出した「国民経済計画案」を見たタイ国王は、「もしもプリディがスターリンの真似をしたのでないとしたら、スターリンがプリディの真似をしたのにちがいない」と嘆いたほどだ、と歴史の書にはある。

 プリディ首相は、戦後、アメリカの冷戦政策の展開の中で失脚し、返り咲きを狙ったク―デターにも失敗して国外に逃亡、トムソン失踪当時は、中国の広州に亡命中で、タイ政府からは公式に″共産主義者″とレッテルをはられていた。トムソンは、戦争中に″自由(フリー)タイ″を支援したOSSの将校として、戦後の一時期、政界上層部にいたプリディと親交があったのである。

『失踪』の著者、ウォレン教授は、ゲジラの活動自体を否定していない。しかし彼は、ゲリラがトムソンの誘拐場所にカメロン高原を選んだ必然性がわからない、と強調する。この点は、身代金めあての営利誘拐にしても同じことが妥当する、と彼はいう。つまり、トムソンを誘拐するのだったら、閑静で、交通不便で、人目につきやすい避暑地よりも、雑踏と、他人の動きへの無関心さがあるバンコックとシンガポールなど、死角の多い大都会のほうがはるかに容易なはずではないか、というのである。これは、たしかに誘拐説への説得力のある反論のように思える。

 トムソンのカメロン高原行きは、ほとんど公表されていなかったし、また、時間が過ぎていっても、身代金の要求はどこからもなく、一方、政治がらみの要求や提案もなかった。このことは、ウォレン教授がいうように、営利誘拐説や共産ゲリラ勢力による政治的誘拐説にとって不利な事実経過である。

 それなら、誘拐説や政治背景説は、興味はそそるものの、結局は無理な推理であって、やはりトムソンは、ジャングルの中で道に迷ったか、何らかの事故に遭い、今も遺体は密林のどこかで白骨となって残っているのだろうか。

 四月初めのカメロン高原にきまって午後になると降りだす雨は、一時サッとあがって西日がさすかと思うと、また真黒な雲が高原一帯を覆い、たちまちあたりは暗くなり、激しい雨になる。大きなホテルだが、ピンポン台以外に娯楽設備はなく、部屋にあるテレビは、いつスイッチを入れてみても、ゆるい抑揚をつけたコーランの読経の声が、アラビア語の字幕とともに出てくる白黒場面ばかりである。夕刻になっても雨はやまず、時々の稲光がゴルフ・リンクの向こうの山の稜線を浮きたたせるだけである。こうなるとホテルのバーに腰を据える以外に、やることはない。

 熱帯のマレーシアにしては実に不思議に思えるのだが、このホテルのバーには暖炉がきってあって、そこには、夕刻になると火が入り、本物の薪が火の粉を散らして燃えさかるのである。最初みた時は、ああ、こんなところにまであの赤い電気のまがいものの焔か、と思ったのだが、それは思いすごしだった。雨の夜はたしかに肌寒く、本物の火も少しもおかしくない。グラスを片手に焔のそばに腰をおろすというのは、なかなかよろしい。そういえば、この前、十二月にこの高原へ来た時泊った別のホテルでは、ベッドの中に湯たんぽが入っていて驚かされた。湯たんぽなどというものは何十年も使ったことがない。ましてやマレーシアでそれにぶつかるとは予想もしていなかった。もちろん、表面に波のついた日本のプリキ製のものとは違い、熱い湯をつめた大きな陶製のビンのようなもので、それが布にくるまっていた。そんなことを想いだしながら、暖炉の前に坐ってグラスを空【←p.119|p.120→】にする。

 空になっても、こっちが頼まぬかぎりついでくれない。底に三分の一近くあるのにたちまちつぎ足して、せかせるように飲ませるどこかのバーと大分違う。

 バーの木の壁には、ジャングルの中の原住民が使うものらしい穂先に動物の毛の房がついた槍や、吹矢、弓などが掛かっている。カウンターの中のバーテンに尋ねるとやはりこの辺のジャングルの中の人びとの道具だという。

「サカイ族っていうのかね?」

「そんな言い方をご存知なんですか。その通りです。でもね、お客さん、今じゃ″サカイ族″って言い方はしないんです。″オラン・ウスリ″っていうんですよ。このバーの名も″バー・オラン・ウスリ″でしょ」

 なるほど入口にはそう書いてある。

「″サカイ″っていうのは劣等人(インフェリア)っていう意味でね、侮辱した表現なんです。それで学校なんかじゃ、子供たちに使っちゃいけないって教えてるんですよ」

そりゃ(ソリー・)悪かった(アイム・ソリ)()

 たしかにウォレンの著書にも、″サカイ″という表現は不適当だとある。しかし、では何と呼ぶのかは書いてなかった。「オラン・ウスリ」――私は何度か繰返して言った。ORANGはマレー語で「人」だ。″ウスリ″はどういう意味だろう? 旅にもってでた小さなマレー語辞典にUSLIは出ていなかった。

 四度目か五度目のお代りを頼みながら、火のそばで考えていた。結局、トムソンは、ジャングルの中から出なかったのであろうか。

 行方不明後、大規模な捜索が開始された時、バンコックにあるSEATO本部に勤める一人のイギリス人が、とくに頼まれて捜索に加わった。リチャード・ヌーンという。ケンプリッジ大学で人類学を学び、長くマレーに滞在し、戦後、英軍のテンプラー将軍が、マレー共産党の武装闘争鎮圧にのりだした時、それに加わってもいる。以後九年間、マラヤ原住民対策局の顧問をつとめ、カメロン高原周辺も含め、マレーのジャングル地帯の専門家の一人であり、多くの部族民と親しい関係をもっていた。

 専門家として捜索に加わることを依頼されたヌーンは、軍人時代に助手をつとめた北ボルネオ、サバ出身の国境監視員と、原住民のボモー(呪術師)の二人を連れて、捜索隊とは別の行動をとった。三人だけでジャングルの奥深く入り、周辺のオラン・ウスリと話しあい、ジャングルから戻った時、えらくはっきりと断言したのだった。「トムソン氏はジャングルの中で行方不明になっているのではないということを、私は完全に確信している」と。

 ウォレン教授は、著書の中で、このヌーンの説を紹介し、「彼は、かかった費用以外の金は受けとらなかったし、また自分の名を売ることにも関心はなかった。彼はマレーシアのジャングルについては広く認められたエキスパートだった。したがってヌーンの結論は軽々しく片付けるべきものではなかった」としている。

 だが、それにしては、ヌーンがジャングルの中に入り、原住民と交わしてきた会話や、彼の独自に行なった観察や調査が、ほとんど紹介されていない。ヌーンほどの専門家がどうしてそういう断言をするほどの結論に達したのか、そこのところがどうも定かではない。もちろん、ヌーンが今生きていれば、私は会っていただろう。だが彼は、一九七三年に癌で死んだという。その数ヵ月前には、同じ病院で、トムソンの後を継いだタイ・シルク商会の二代目社長、シェフィールドが、同じく癌で死んでいる。ヌーンは、死の少し前、親しい友人に、「トムソンは生死にかかわらず、ジャングルの中には絶対にいない」とあらためてその確信を語ったという。

 死んでしまっているのではどうしようもないが、何となくすっきりしない。ヌーンは日記などは残していないのだろうか。ヌーンに家族は残っていないのだろうか。

 ウォレン教授が十分に検討していない仮説が一つある。それはCIA関与説である。つまり、CIA自体がトムソンの誘拐もしくは殺害に直接かかわっていたのではないかという推測である。

 ウォレン氏は、CIAの内情暴露の手記や責任者の回想記などが最近つぎつぎと発表されているのに、トムソン事件にふれたものは何ひとつない、と言う。たしかにそれはその通りである。トムソンと同じくプリンストン大出身で、第二次大戦中、OSSに属してやはりドイツ占領下のフランスにパラシュート降下した経験をもち、後、CIA長官になったコルビーの回顧録が最近出たが、もちろん、そんなCIA責任者の手記にトムソンの話がのるわけがない。有名なフィリップ・エイジーの『CIA日記』にも出てこない。しかし、エイジーの活動舞台は中南米である。フランク・スネップの本は、トムソン失踪以後の時期のものである。翻訳はまだ出ていないが、ビクター・マーケッティとジョン・マ―クスの本も読んでみた。それにもトムソンのことは全くふれてない(もっとも、この本はCIAの干渉で百五十ヵ所も削除されているものだ)。

 しかし、今まで出た本に書いてないということは、CIAが関係していなかったという証明になりはしない。ウォレン氏の突っ込みはこの点ではえらく甘いような気がする。

 また、トムソン自身がCIAの工作員だった、という、パンコックではかなり根強くある説も、彼は一笑に付し、バンコック在住のCIAのほとんどは、これという仕事をもたぬ怪しげな存在の人物であって、タイ・シルクの会社を経営するというような忙がしい仕事は、CIA工作員の隠れ蓑としてはこの上なく不適当だ、という理由を挙げるだけである。

 誰がみてもCIAだと思えるような人物だけがCIAだ、という主張はあまり説得的とは思えない。トムソンがCIAの秘密工作員だった、あるいは、当時、熾烈をきわめていたベトナム戦争の中で、何らかの政治的役割を果していた、という仮説には、いくつかの客観的な背景がある。

 トムソンがOSSのメンバーだったことは有名な事実である。OSSが解散したあと、CIAが新設されるが、一九四八年、アメリカ国家安全保障会議は、CIAに秘密の政治的、準軍事的工作を行なうことを許可する指令を出した。つまり、隠謀、暗殺、クーデター、転覆、破壊活動、私設軍隊の創設、独自の作戦遂行、等々である。この任務を遂行するため、OPC(政策調整局)という特別な部門が新設されるが、この責任者になるのが、元OSS要員だったフランク・ウィズナーである。コルビーの回想録によると、ウィズナーは着任後、「ダイナモのようにあらゆるインテリジェンスを読み、全世界に秘密勢力を組織する仕事に取りかかった」という。「彼はまた同じようにに活動的な元OSS隊員に広く接触し、その猛烈な仕事ぶりと頭のよさによって、十宇軍的な雰囲気のもとにOPCを動かしはじめた」(傍点―吉川)

 この時期、トムソンはバンコックでタイ・シルク商会を発足させる。株式会社がつくられるのは一九四八年である。絹織物をつくる数少ない織工を探しまわって組織し、タイ東北部をまわって養蚕農家から生糸を買いつけ、そして宣伝と売り込みのためにアメリカ本土に何度も往復する。こうしたトムソンの活動を支えるのが、当時バンコックにいた亡命ラオス人革命家たちである。

 日本降伏後、「ラオ=イッサラ」(自由ラオス)軍はルアンプラバン王を追放し、ヴィエンチャンにラオス臨時政府を樹立した。しかし一九四六年、フランス軍はカンボジアから北上してラオ・イッサラを破り、国王を復位させる。敗れたラオ=イッサラの民族主義者は大挙してタイに亡命し、バンコックを舞台に反撃の機会を狙う。トムソンが絹織物事業を始めるのはこの頃であり、彼のシルク事業に加わり、彼を援けるのは、その亡命ラオス人たちである。

 戦争中、ルーズベルト時代のOSSは、ホ―チミンらベトナムの共産主義者とも協力した。戦後、フランスが植民地支配を復活するのを阻止しようとしたのである。しかし、アメリカの世界政策が冷戦政策に転換するとともに、共産主義者との連絡は断たれた。そして没落するフランス帝国に代わってこの地域を支配し、あわせて共産主義勢力に奪わせぬため、親米民族主義者を探し求めていたのである。

 こうした条件下で、バンコックの亡命ラオス人やベトナム人民族主義者と連絡をもち、生糸買付けのために、たえずラオス国境沿いのタイ東北部を回っていた元OSS将校、四〇代に入ったばかりの実業家、トムソンに、CIAが連絡をとらなかったとするほうが不思議ではなかろうか。

 

 もちろん、CIA側の働きかけに、トムソンが応じたかどうかは別の問題である。しかし、あったであろうこのやりとりのことは何ひとつ明らかにされてはいない。

 もう一つ。トムソンは戦争終了直後に離婚して以来、ずっと独身であったが、この一度の結婚の相手は、OSS時代の上官、ブラック大尉の紹介によるものであった。トムソンとブラックとの親交は最後まで続く。ブラックは、トムソン行方不明当時、タイ駐留米軍司令官、ブラック将軍となってコラトの米軍基地にいたが、行方不明の知らせを聞くとすぐに軍のヘリコプター数台をカメロン高原に派遣し、後には自ら乗込んで捜索に加わったり、ハーコスの占いに副官を同行させたりしている。

 ブラック将軍がタイに赴任するのは一九六五年である。折から、ベトナムヘの北爆は開始され、戦争は激化の一途をたどり、タイにある米軍基地の戦略的地位は極度の重要性を帯びてくる。ラオスでも愛国戦線の抗米救国のゲリラ闘争が全土で展開され、一方CIAは、その事業の中でも最大規模の一つ、ラオス作戦を展開する。年間五億ドルもの巨費を投じ、麻薬を栽培するメオ族やその他山岳部族をかりあつめて三万五千名もの私設傭兵部隊をつくりあげ、ラオス愛国戦線の軍隊と戦わせるのである。

 この時期に、トムソンはたびたびブラック将軍とラオス国境方面のタイ東北部を旅行している。ブラックをはじめ米軍人といっしょに旅をしているトムソンの写真も残っている。この時、二人は何をしていたのだろうか。

 エドウィン・ブラック将軍――東南アジアの政治を知る多くの人びとは、彼が有名なCIA要員だとしている。ジェラール・ド・ヴィリエのプリンス・マルコ・シリーズのうちの一冊『クワイ河畔の黄金』には、冒頭でパンコックを訪ねたマルコが、シーロム通りの″エア・アメリカ″のビルを訪れる場面がある。マルコはそこで、バンコック駐在CIAの貢任者で、二年間にわたり″下痢と蚊と共産主義者を相手に苦戦している″軍人に会う。その名はなんとホワイト大佐となっている。ブラック・アンド・ホワイト――これもヴィリエ一流のいたずらなのだろう。

 かりに、トムソンがCIAのメンバーだった、あるいは連絡があったとしよう。そうだとしても、トムソン行方不明にCIAが関与したということにはならない。ここはどうつながるだろう。CIAに協力していたトムソンをCIAが誘拐したり、殺したりするのか。ではトムソンはどうしたのだ? ゲリラでなく、営利誘拐でなく、CIAでなく、としたら事故説か、いやヌーンの強い断言がある。そのヌーンは死んだ……。

 ウィスキーの酔いがまわると、頭のほうはまわらなくなってくる。暖炉の火も弱まっているし、ウッド・ボックスの中の薪も残り少ない。考えることをやめて、勘定を頼んだ。

 翌日、早朝、月光荘を訪れた。前に二回来ているから三度目の訪間である。主人のリン夫妻はシンガポールにいるはずだから、と、右手の使用人の家をのぞいてみるが、留守である。かなり広い敷地にだれも人影はなく、小犬が一匹じゃれついてくるだけだ。裏手には洗羅物が干してあるので、管理人が遠出しているとは思えず、しばらく待ってみることにする。

 前に来た時とった写真を、管理人のユヌス老人に渡したいと思って持ってきてもいた。朝の陽を浴びている月光荘は、相変らず明るくてこざっばりとしている。庭の手入れも行届いている。

 ここへ登ってくるには、麓のゴルフ・クラブの前から分かれる道が一本あるだけである。ジャングルの間を曲りくねって上る、小型の車がようやく通れるだけの道である。舗装はしてあるが、ところどころ雨にけずられ、穴もあいている。

 しかし、この道以外に、ふだん人の歩かぬ小径が何本か月光荘から下っているはずなのである。トムソンは、行方不明になる前の日に、別荘の持ち主のリン博士といっしょにそこを下り、道に迷いながらも結局、流れをたどってゴルフ・リンクまでたどりついている。私はそれをたどってみたかった。管理人の帰りを待っている間、家の周りをまわって、ジャングルの中を踏み分けて入る小径を探してみた。しかし、これかと思うところは、ほんの十歩も下るとたちまち縺れ合った藪にぶつかり、行手をはばまれてしまう。下から見上げたこの丘は、どうということもなく見えるのだが、周囲のジャングルの深さと濃さはすきまじいものであった。

 何度かそんなことをしているとエンジンの音が聞こえ、留守番の一家が戻ってきた。一年半前に来た時のマレー人の老人の姿ではなく、中国系の夫妻である。夫のほうはすぐに引込んでしまい、いかにも口のうるさそうな中年の夫人が相手になってくる。ユヌス老人は老齢で引退して昨年交替したのだそうである。

 ユヌス老人が今いるというマレー人の部落(カンポン)までの道を教わったあと、いろいろと話しこむ。松本清張氏や野村監督らが来たはずだが、と聞くと、そういえば日本人が四、五人来て、ずいぶん写真をとってったよ、という。丘を下る小径を尋ねると、そんなものはないよ、という。いや、あるはずだ、トムソンやリン博士が下った径だ、というと、そんな古いこと知るもんか、といった顔つきで、「主人(マスター)が、危いからつぶせとおっしゃったんで、大分前に、入口を全部ふさいじゃったよ。今じゃどこがそれか判りゃしないさ」と答える。小径にかんするかぎり、とりつくしまもないといった感じだった。

 翌日。ペナンヘ帰る車の中で、トムソンとCIAのことの続きを考えた。クアラ・カンサール街道はえらく混んで、車がじゅずつなぎとなり、何度も止まる。その両側を華やかな生花や造花の束をかかえ、お茶だか酒だか、液体を入れた水筒の大きなようなものを下げた中国系住民がゾロゾロと歩いてゆく。今日は先祖の墓参りの日だ、と運転手のリュー君がいう。お彼岸はすぎたし、お盆には早すぎる。このへんの仏教徒はどんな日を選んでこの行事をするのだろう。道の混雑はそのためだった。街道が墓地に近づくごとに、道は大混雑になる。仕方なく、トムソンのことに考えを戻す。

 CIAがトムソンを誘拐したのだとしたら……ということだった。なぜ、そんな考えがなりたちうるのか。誘拐場所として、カメロン高原は不適当だという有力な反論があった。そうした不利な状況にかかわらず、あえてこの場所で強行するものがあったとしたら、それは誰だろう。組織力があって、金もあって、堂々と行動しても少しも怪しまれぬ勢カ――軍隊がその一つではないか。CIAだったらどうか。十分に可能だろう。

 ではなぜ? これはもはや空想の領域である。証拠も何もありはしない。

 トムソンはルーズベルト時代のOSSに入った。その頃のOSSはリベラルな雰囲気が支配していた、とコルビーも書いている。トムソンはその直前、共和党から民主党に支持のくら換えをしている。彼はニュー・デイーラーだったろう。だから、戦乱の収まった直後のバンコックで、東南アジアの政治に意欲を燃やし、インドシナ諸国の民族主義者と組んだのだ。そのかぎりで、彼はCIAにも米政府にも協力するつもりがあったろう。

 ところが、アメリカの戦後政策が転換し、共産主義の伸張阻止のためには、東南アジア諸国の民衆の経済も独立もふみにじるようになった時、そして、戦争中、戦後の繁栄を夢みつつ協力していた古い友人たち、自由(フリー)タイの指導者たちがつぎつぎと失脚していった時、アメリカに失望する。ベトナム戦争の激化とタイのそれへの全面協力は、タイの民衆を愛していたトムンンをますます絶望させる。こうして彼は、タイ駐留米軍の司令官として赴任してきた旧友ブラック将軍から、東北タイヘの旅行の案内をたのまれた時、ラオスやタイの悲惨な現実を指摘しつつ、アメリカの政策を真向から批判する。ブラック将軍との激論の中で、トムソンは決定的なことを口に出す。トムソンが関わってきたことで、アメリカにとって外部に知られては絶対に困ることがある。それをトムソンはばらすという。ブラックは必死でそれをいさめるが、思い込んだら強情なトムソンは聞き入れない。困ったブラックはCIAと相談する。そしてCIAは、ブラックにもはからず、独自な行動を立案する。カメロンズ・オペレーション!

 SEATO本部に勤めるヌーンは、それを知る。だから彼は、トムソンがジャングルの中にはいない、と断言できる。原住民からの情報も入ったかもしれない。イギリス人である彼は、病院で殺される。証拠は抹殺される。CIAは、その一員であるウォレン教授をつかって、トムソンのCIAとの関係を強く否定する伝記を書かせる。それが『失跡』となる。私がそれを訳す。……いやいや、これはとんでもないことになった。空想のままに展開してきた筋を抹殺する。松本清張氏は『熱い絹』でこれにどんな解決を与えるのだろう。楽しみである。

 いつの間にか、車は雑踏をぬけだし、バターワースヘの道を走っていた。

 舞い戻ったバンコック。アマリン・ホテルのアーケードに「モノグラム」という古美術品の店を出しているコニー・マンスコー夫人を訪ねようと考える。マンスコー夫人は戦後初期以来、トムソンと親交があり、行方不明になったマレー行きに、バンコックから同行した人物である。問口は小さい店だったが奥行きは深く、古い石の仏像や金箔をぬった像が所狭しと並んでいる。

 彼女は留守で、中年の婦人が店番をしている。マンスコー夫人は老齢のため、パタヤの別荘に住み、週に一度店に顔を出すだけだという。私の日程はもう残り少なく、夫人に会うのは断念する。

 事件の周辺にいた人は、つぎつぎと姿を消しつつある。今度訪ねようと思った人びととは、ほとんど会えなかった。たった一年半の間だけでも、この前は現役だった運転手のモハメッド氏と、月光荘のユヌス老人が引退してしまっていた。十二年前の事件を追うというのは、もはや不可能なのだろうか。

 バンコックでもう一人訪ねる人がいた。トムソンの家と同じコンパウンドにすむ若い女性である。ロンドンの大学を出たあとバンコックに住み、国連の難民救済事務局の職員として働いている。

 トムソンの家を訪ねた時、その入口に、同じように伝統的なタイ様式の家が並んでいるのには気がついていたが、彼女はその一軒に住んているという。紹介状をもって約束の時間に行くと、西日が正面からいっぱいに当る二階のテラスに案内された。出された麦茶のグラスの中の水が、みるみるうちに溶けてなくなった。

 同じ敷地に住むというだけでトムソンのことを知っているだろうと考えたのは、こちらの一方的な思いこみだった、ということにすぐ気がついた。

 彼女は単なる借家人で、トムソンのことは何一つ知らないのだった。

「私、あの家へ一度も入ったことないのよ。すぐ隣りだっていうのにね。あら、そんな面白い話があったの? 全然知らなかったわ。その本、読んでみるわね。でもね、ここのところ、とうっても忙がしいの、ご承知の難民問題でね」

 私はトムソンの話をやめ、ベトナム難民のことに話題を移した。

「あら、ベトナム難民じゃないわよ。ラオスなのよ、ラオス!」

 彼女はタイの国連難民救済事務局がつくった統計や資料をみせてくれた。数日前に帰ってきたばかり、という国境沿いの難民収容所の話も開いた。彼女は、ベトナム難民にばかり焦点があてられている事実に憤慨していた。

 説明によると、今年の三月末現在、タイの難民収容所の総人数は一四万八八二九名。うち、ベトナムからの難民は、いわゆるボート・ピープルの三八二五名を含めて五二三七人。カンポジアからが一万四八二五人。そして大半の一二万八七五人がラオスからの難民なのである。

「すごい数なのよ。去年一年だけでラオスからは五万六千人が入って来たんだけど、先月一月だけで五、六千人も来てんのよ」

 一時間近くそこで話を聞いているだけで、顔や腕がすっかり黒く焼けたような気がした。強烈な西日だった。

 夕刻、また例の新聞記者に会った。

「シンガポールやマレーシアはどうでしたか。収獲は?」と聞く彼に、仕入れたばかりのラオス難民の話をした。

「そうなんですよ。凄い数です。さっき聞いた話では、例のメオ族にベトナム軍がナパームを使ったっていう情報さえあるんです。いくらなんでもそれは信じられませんけどね。散々アメリカに躍らされた山岳民族が反攻に出ており、ベトナム軍がこれを攻撃してるってことはありうるんじゃないですか。とにかく、タイとラオスの国境なんて、あってないみたいなもんですからね。ちょっと危くなったり、生活が苦しくなったりすると、続々難民が流れ込んでくるんです」

「なぜ、そっちのことがニュースにならないんですか、ベトナム難民のニュースは連日のように日本の新聞には出てますよ」

「政治ですよ、政治。いわなくたって判るでしょう。ベトナムからの難民は大きく報道されるだけの政治的価値があるってわけですよ。でもね、ラオス難民の記事なんて、いくら送ったってベタ記事ですよ。失礼――そろそろハノイ放送の始まる時間なんでね。中越会談について、何かコメントがある頃なんです」

 彼はそういうと短波ラジオの波長を合わせにかかった。

 トムソンのことは、別にこれといった収獲はないまま、私は十二年前の事件から現実の世界に戻ってきた。明日はまったく別の仕事のため、マニラに向かうことになっている。マニラは、パターン・デー(第二次大戦初期のバターン陥落を記念する国祭日、四月九日)の前夜で、UNCTADの準備に大童わのはずである。(写真撮影=筆者)

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