news-button.gif (992 バイト) 10. 「佐世保 一九六八年」(小田実編『市民運動とは何か――ベ平連の思想』番町書房 1968年刊に掲載)(06/06/21)

 横須賀市長が、米原子力空母の横須賀への常駐を承認し、2年先には、横須賀に原子力空母が母港として常駐することになった。今から38年前、長崎県佐世保では、原子力空母の寄港をめぐって激しい抗議の運動が展開された。このとき、佐世保の市長はやはり寄港を認めていた。しかし、労働組合、野党、学生運動、そして市民運動は、強い抗議の行動を行なった。そのときの、ベ平連と私の行動について、当時書いた文章を 再録する。これは最初『ベ平連ニュース』 No.29(1968年2月号)に掲載され、少し手直しをして『市民運動とは何か』に再録されたものである。

佐世保 一九六八年一月         (それぞれの写真は、クリックすると大きくなります。)
                                    吉川 勇一

 動く北爆の核基地、米原子力空母「エンタープライズ」が佐世保に入港してくる。私たちべ平連も、多くの労働組合や学生、一般の人びととともに、何度、寄港反対を叫んでデモを繰返したことか。国民の強い反対を押し切ってついに入港してくる。べ平連では入港してくるエンタープライズの乗組員に反戦を訴える英文のビラ一万枚をつくり、これをまくことにした。
 相談の結果、私たちは宣伝カーを借りて外人バー街と基地正面前で、それに船をチャーターしてエンタープライズの周辺で、米兵に訴える活動をし、ビラは地元や福岡の「十の日デモの会」の人びとの協力を得て直接手渡すことにした。
 長崎と佐世保の地区労や反戦青年委員会をはじめ全国実行委の人びとの好意的なはからいでべ平連に宣伝カーが一台提供された。労働者党の佐世保地区委の津田さんたちも、宣伝カーにつける看板やビラまきで大変協力してくださった。とにかく小田氏と私と、それに「北九州ベトナム反戦の会」の桜木君をのせた自動車は夜の佐世保の街を走り出した。
「あなたがたはイントレビッドの四人を知っているでしょう。彼らは戦線を離脱しました。彼らはもう戦わないのです。彼らはスウェーデンで平和に暮しています。彼らに続くべきではありませんか。ベトナム戦争は世界で最も汚い戦争です。殺人をやめなさい」。小田さんがマイクで道を行く米兵によびかけると与太者風のバーの用心棒たちが車の周辺にやってきた。運転手がドアのロックをかける。ネオンだけが暗い街に輝いて、三人、四人とかたまって歩く米兵が自動車のライトの中に浮び上がる。不気味だった。
 バー街を二周して基地正門へ向かう。十時半。外出から帰る水兵たちがタクシーで門へ乗りつけて降りるところへ英語のよびかけを始める。門の前には人垣が出来、私たちの話しを聞いている。五分、十分……。SP(海軍憲兵)が姿を現わし、聞いている水兵たちを門の中へ押し込んだあと、一隊をつくって私たちの車の方へかけ出してきた。私たちは放送をやめ、SPがもう少しで着く直前に車をまわして引上げた。
 私たちが泊っているホテルには沢山の佐世保の市民が訪ねてきた。夜間部の女子高校生、電気の検針係の人、主婦、岡山から来たという学生……。べ平連の仕事を手伝いたいという人びとだっ
た。彼らの手によって英文のリーフレットはつぎつぎにも ちだされ、外人バー街で水兵たちにまかれた。アメリカ兵の関心は高かった。二人に一人は受けとり、中には、NO・2とあるリーフを見て、NO・1はないかと聞いてくるものもいた。ある新聞記者に「イントレビッドの連中は幸福だというが、あれは本当か。共産主義者の宣伝ではないのか。君は記者だから本当のところを知ってるだろう。教えてくれ」とたずねたという。とにかくイントレビッドの四人とべへイレンの名はすべての米兵が知っていた。
 米誌『タイム』はエンタープライズの乗組員全員は、上陸前に「佐世保についたらべへイレンに気をつけろ」と上官から注意されたと伝えている。
 英文のリーフレットは、佐世保の市民たちの間でつぎつぎと手渡されていき、多くの人がビラを小脇に街頭に立った。総計何人の人がまいたのかは、私たちにも判らない。「米兵にあったら渡してください」といって十枚、二十枚と日本人の間だけを配ってあるくビラ配給専門係りも現われたから。とにかく一万枚もっていったビラは、帰ってくるまでに半分になっていた。
 一月二十一日、朝九時。私たちは佐世保市営第二桟橋に集まった。セスナ機のチャーターがダメになった代りとして、船でエンタープライズの周りからよぴかけることにしたのだ。船は全国実行委現地本部の世話で借りられた「進率丸」三・五トン。定員十二人。六十ワットの大スピーカーを二コくくりつけ、「STOP THE KILLING! LOVE YOUR CONSTITUTION!」「FOLLOW THE INTREPID FOUR! BEHEIREN」(人殺しをやめよ! 諸君の憲法を愛せ! イントレビッドの四人に続け! べ平連)と大書した幅二メートル余の大看板二枚をのせた船。
 出航直前にタクシーで思いがけない人がかけつけてきた。広島のレイノルズ博士夫妻(フェニックス号の船主)だ。「よくここにいることが判りましたね」「常識ですよ。ちょっと考えれば判ります」「出発が遅れたので会えたのです。本当ならもう出航していた時間なのですよ」「船というものはいつも遅れるものです。私の経験からもね」。ハイフォンへ航海したこともあるレイノルズ氏はそういって笑った。臨時の同行者二人を加え、他に北九州の桜木君や反戦青年委の小野さん、多くのカメラマンや記者をのせた ベ平連の船は、小雪まじりで波も高くなってきた佐世保湾へ午前十時に出航した。
 ねずみ色の不気味な巨体が次第に大きく眼前に迫ってきた。星条旗をつけたランチと大型ヘリコプターが艦と市内の基地を往復して水兵たらを上陸させていた。水上警察と海上保安庁の船が私たちの船の周囲をぐるぐると回った。船はエンタープライズから百メートルから二百メートル離れたところを回って、よ びかけを続けた。デッキや舷腹の荷物積降し口にいる水兵たちが、スピーカーからの英語のよびかけに聞き入っていた。風はとても寒かった。波しぶきを浴びながら小田氏はマイクを握って訴えつづけていた。十二時、私たらは桟橋に戻った。
午後からは、社共両党共催の二万人大抗議集会がある。それに参加するつもりだった。船に積んだ大看板が二枚手許に残っていた。捨てるのはもったいたい。どうしよう。午後の集会にそれを利用しよう。小田氏と二人で看板をホテルまで歩いてもち帰った。
 ホテル前の大通リの歩道に看板をひろげた私たちは、枠の上に紙をはりかえ、ポスターカラーで字を書いた。
「どこへも入るところのない人、いっしょに歩きましょう。――エンタープライズに抗議して! ベ平連」。
 書いている間にも、通りかかる人びとがつぎつぎに協力を申込んできた。「手伝わせて下さい」「一緒に歩きますよ」。
 看板をかついで歩きだした時は五、六人だった。アーケードのある繁華街を通っている間に子供二人をつれた若い夫婦が加わった。「小田実さんですね」といって入ってくる人、「やっぱり ベ平連は佐世保でもやるんですね、入れて下さい」と列に加わる人。集会の会場に着く頃には三、四十人の列になっていた。三つか四つぐらいの可愛い女の子が、学生二人のもつ大看板の端をつかんでヨチヨチと歩いた。道行く人から拍手が湧き、新聞杜やテレビのカメラマンが殺到した。
 会場は多くの労働者、学生で満員で、私たちの入る場所はなかった。集会の間、私たちのグルーブは、会場の周囲の道を二周した。歩くたびに人数は増え、百人近くになった。行進の最後尾につくつもりでいた私たちは、デモが出終るのを待つ間、公園の一隅で集会を開いた。小田氏も話した。東京からかけつけたという弁護士さんも話した。福岡の大学助教授も話した。大部分は今日はじめて顔をあわせる人びとだった。レイノルズ夫妻も再び姿をみせた。
 デモは全く進まなかった。先頭の全学連の部隊が橋上で機動隊と対決していたからだった。立止っているデモ 隊の脇をぬけて、私たちは橋のたもとまで進むことにした。「エンタープライズの入港に反対の人、警官隊の暴行に反対の人は、いっしょに歩きましょう! これは誰でも自由に参加できる行進です!」と福岡十の日デモのメンバーの人が携帯マイクでよ びかけながら歩いた。
 橋上では催涙液を入れた放水が学生や反戦青年委の部隊に浴びせられていた。数千人の佐世保市民が橋の周りでデモ隊を支援していた。機動隊が移動して横側や背後からはさみうちにする気配を見せると、福岡、長崎、大分などの県評の旗をかかげた労働者の大部隊が移動してそれを防いだ。べ 平連のグループは次第に前進して橋のたもとまで進み、事態を見守った。多くの市民の抗議もあって、橋上の放水もやみ、膠着状態に入った。一時間、二時間……。また小雪もちらつきだし、寒かった。共産党系のデモ隊は引上げていったが、私たちは残っていた。ふたたび円陣をつくって話しあいをはじめた。「こんなところへ来るのははじめてなんですけど、エンタープライズに反対するために何かしなくちゃいけないと思ってイライラしてたんです。こういうデモだったら私でも入れます。よかったと思います」女子高校生が真赤な顔をして話した。佐世保べ平連はこうして誕生した。
 その夜遅くまで、女性一人を含む世話人格の四人の若い人びとは、佐世保べ平連のこれからの活動について話しあった。その一人は、今年の春、大学を出て、佐世保の市役所につとめることになっている学生だった。「頑張って下さい」「やりますよ。明日からすぐに」「この看板をもらっときますよ。明日もかついで歩くんです」。私たちが別れた時、もう日付は二十二日になっていた。
 二十二日、私は佐世保を離れた。気がつくと、金東希氏のいる大村収容所はすぐ近くだった。私は収容所をたずねてから帰ることにした。大村湾の岸に近い、荒涼とした平地の中に、冷たいコンクリートの壁がそびえていた。面会は拒否された。四親等以内の肉親か弁護士以外は駄目だという規則をみせられた。小菅の拘置所以上のきびしい制限である。やむを得ず、若干の食料を買い求めて差入れ、それに手紙を書いて付した。金氏の裁判の第三回公判日は二月はじめに迫っている。収容所の廊下もとても寒かった。          (68・2)

(小田実編『市民運動とは何か――ベ平連の思想』番町書房 1968年刊より)

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