news-button.gif (992 バイト) 83.名古屋学院大学同窓会「プロジェクトZ会」の集まり (2003/04/15 掲載 )

 1960年代の終わりから70年代の初めにかけて、まさにあの激動の時代に愛知県瀬戸市にある名古屋学院大学のいくつかのゼミナールに在籍していた人びとの同窓会が「プロジェクトZ会」という名で、4月12日(土)から翌13日にかけて、名古屋市で開かれました。 【左は当日配られた名簿とプログラム】

 私は、1970年春から72年までのほんの短い期間でしたが、そこで講師を勤め、倫理学(!)や外書講読などを担当しましたが、思いがけない出来事から、なんと、非常勤講師なのに、ゼミ(社会学)を持ち、卒業論文まで指導することになりました。こんなことは、今だったら考えられないことですが、あのシュトルム・ウント・ドランクの時代には、何でもあり、ということだったようです。
 というわけで、私もこの同窓会に来賓として呼ばれ、梶原壽(当時、宗教部主任)、水谷宏(英語)、内村公義(宗教学)の三人のかたがたとともに出席しました。本来なら、私の担当することになったゼミの前任者、久能昭さんもおいでにならなければならぬ方なのですが、亡くなられてすでに9年になります。

 当時の4つのゼミの在籍者、はっきり聞いてきませんでしたが、60〜70人ほどが集まったでしょうか。東京から、埼玉から、あるいは九州から来たものもいました。卒業以来30数年ぶりに初めて顔をあわせる人も多くいました。当時の若者は、今、50代半ばです。

 もちろん、ゼミは4つしかなかったわけではなく、たくさんあったのですが、この日集まったゼミは、当時、全共闘運動をはじめ、学生の反戦、反体制運動に共感し、ともに議論し、対立し、理解しあった教員が担当し、また、そこにかなりの割合で、そういう活動家学生が集まったゼミでした。「来賓」4人の挨拶も、現状を憂え、批判精神を持ち続けること、行動が必要であることを訴えるものでしたし、内村さんなどは、一段高いところに座らせられた「来賓席」のことにふれて、こんなことを粉砕しようとしたのが君たちではなかったのか、と挨拶で言われていました。

 いい会でした。不況の中で、リストラに直面した会社員、倒産の憂き目にあった経営者、必死で大企業との競争に苦闘している商店主などなど、まだ大学生の子供をかかえながら、苦しい生活を送っている者も多く、そうした悩みや、現政治に対する批判・憤激も多く語られたのですが、しかし、私が嬉しかったのは、あの学生時代に体験したことが、この卒業生たちにとって、今も何らかの形で生きており、その生を支えるよりどころの一つになっている、ということでした。会場の名古屋厚生年金会館ホールでのメインの行事の後、この同窓生の一人が経営する市内のビジネスホテルを借り切って行われた二次会では、「ニーチェにとって神とは何であったか」だの、「上昇志向とは」だの、「内ゲバとは」だの、それこそ30数年前の続きのような議論の塊りがあちこちにできていました。私は11時半ころ、中座しましたが、あの調子では、おそらく朝まで談論風発が続いたのかもしれません。

 驚き、嬉しかったのは、メインの催しで、準備に当たった司会者の一人から、私が今力を入れて、最後の追い込みで必死になっている「イラク反戦・有事立法反対」の意見広告運動についてのアピールがされ、会場内で そのための募金が始められたことでした。あとで、まとめられて「旧吉川ゼミほか名古屋学院大学プロジェクトZ会」の名で、運動事務局へ振替送金されるとのことでした。 (5月6日追記 そのご、「名古屋学院大学内村ゼミOB会、同梶原ゼミOB会、同吉川ゼミOB会」の名で、それぞれ1万円、計3万円が、同運動に送られてきました。この意見広告は5月4日の『毎日新聞』〈中部本社版は5日〉に掲載されました。この紙面は、本ホームページの「News」欄 No.84 でみることができます。)【右は1971年8月27〜28日の吉川ゼミ、白樺湖合宿】

 この集まりからは、花束も贈られましたし、参加者一同には、記念品として、おそらく瀬戸の焼き物でしょう、夫婦のご飯茶碗と茶のみ茶碗のセットも配られました。ただ残念だったのは、その茶碗に入っていたこの日の催しの名称の脇についていた日取りが、「平成」という元号だったことです。

 さて、私にとって、あの名古屋学院大学での2年間の経験はどうであったのか。2次会の席で、周囲にいた諸君には話したのですが、私にとっても、ずいぶん教えられ、考えさせられることの多かった2年間でした。教え子の諸君からは、あの忙しいときに、よく毎週、東京から瀬戸市まで通ってくれたものだ、と感謝の言葉もいわれたのですが、こちらもお礼を言いたい2年間でした。すでになくなられたのですが、毎週一泊する名古屋市内での大学宿舎でご一緒した福田学長、そして、私の採用を決められた経済学部長の山田憲太郎教授からは、人間として教えられることが実に多くありました。いずれ、そういう話も書いてみたいと思っています。

 二次会の席でですが、私のゼミの諸君と話しているときに、ゼミ合宿の思い出話が出ました。私は、淡路島と、長野の白樺湖畔でやった合宿はよく覚えているのですが、何人かの諸君が絶対行ったという伊豆のゼミ旅行は、あまり記憶が鮮明でなく、歳のせいでぼけたのかな、とも思いました。 淡路島でのゼミ合宿の後、そのことについて短い文章を書いたことを思い出し、探してみました。それを「執筆文献」欄の中の「4.アルヒーフ」に転載しておきます。