203  針生一郎さんのお通夜・葬儀のお知らせW (2010/5/23掲載

 「原爆の図 丸木美術館」(埼玉県)の館長である美術評論家、針生一郎さんが、5月26日、急性心不全で逝去されました。84歳でした。針生さんは、ベ平連の活動にはその発足から参加し、さまざまな分野で、積極的な活動をされました。深い哀悼の意を表します。(写真は大木晴子さんから、2009年7月18日・新宿の集会で)
 いずれ近く、ベ平連が1969年夏に大阪で「ハンパク」を行なったときの、針生さんの文章を、長いものですが、掲載いたします。

 針生さんのお通夜は31日午後6時、葬儀は6月1日午前10時30分から川崎市多摩区南生田8の1の1の春秋苑(右下の地図参照)で。喪主は長男徹さん。(春秋苑への交通は、【電車で】新宿駅より小田急線で生田駅まで約20分【お車で】東名川崎I.C.より5km 約10分【バスで】生田駅より無料送迎バスを運行。)

針生一郎 はりう・いちろう
1925−(大正14〜)
美術・文芸評論家。宮城県生まれ。東北大学卒業。東京大学大学院大在学中に「夜の会」のメンバーとなり、1953年日本共産党に入党して美術評論、さらに『新日本文学』を舞台に文芸評論を展開。61年、60年安保闘争時の時の共産党の指導方針を批判して除名された。名古屋大学講師、多摩美術大学教授、和光大学教授、岡山県立大学大学院教授を歴任。時代に迎合しない芸術のあり方を思索し、死刑判決を受けた韓国の詩人、金芝河の救援活動などにもかかわる行動派。2000年5月には韓国で開催された光州ビエンナーレの特別展示「芸術と人権」で日本人として初めてキュレーターを務めた。02年自由な作品発表・批評の場として来場者による参加型のアートスポット「芸術キャバレー」を設立、戦争と芸術のテーマで連続講座を開催するなど積極的な活動を行う。2001年から丸木美術館館長も務める。
【著訳書】『芸術の前衛』(1961)、『われらのなかのコンミューン』(1964)、『針生一郎評論。]全6巻(1969〜70)、『戦後美術盛衰史』(1979)、『言葉と言葉ならざる もの』(1982)

(『平和人物大事典』2006年 より)