news-button.gif (992 バイト) 192 名古屋学院大学旧吉川ゼミなどの懇親会に参加、翌日は名古屋の文人たちと交流。(2008/09/15掲載)

 なかなか時間が取れず、この個人サイトの更新をさぼっていたら、一月も過ぎてしまいました。この間にいろいろなことがあったのですが、溜まれば溜まるほど、更新の作業が大変になり、ついつい……、という次第で、このニュース欄やら、「雑感」欄やらに、遅まきながら続けて載せることにいたしました。

 8月23日(土)に、名古屋へ行ってきました。40年ほど前に講座を持っていた名古屋学院大学の当時の教え子たちが、それぞれ還暦になったのを機会に集まるので、ぜひおいでくださいと、新幹線グリーンの往復券を送ってきてくれたのです。私は、いわゆる非常勤講師で、社会倫理思想史や外書講読の講座を担当していたのですが、それ以外に、普通では考えられないことなのですが、ゼミナールも持たされ、なんと卒論の指導まで引き受けたのでした。それまで社会学の専任教授だった久能昭さんが、急遽辞任されるということが起こり、そのゼミの卒論などを扱う教授がいなくなってしまったのです。折から、学園紛争たけなわの時期で、学生の発言権は強力でした。後任に誰を希望するかという学校側の問いに対し、ゼミの学生たちは、第一に鶴見俊輔さん、第二に久野収さんを挙げたのでした。もちろん、そんな方々がすぐに引き受けられるはずはなく、候補はとん挫。では第三の希望はという中で出てきたのが私の名前だったというわけです。かといって、教授や助教授の枠はなく、それで非常勤の講師でありながら、ゼミを担当するという、今ではありえないようなことが起こったのでした。
 ゼミでは、ミニコミ論をやることにし、全国各地のミニコミ発行者にアンケートを送って集計したりする作業をやりましたし、長野県や淡路島などにゼミ合宿の旅行もしました。今から思うと、授業の準備はかなりきつかったのですが、この大学での生活は楽しい思い出でいっぱいです。
 今度集まったのは、私のゼミの受講生だけではなく、当時、さまざまのクラスやサークルで学園闘争に駆け回っていた学生のグループも一緒に集まるという企画で、希望者はかなり自由に参加できる集まりのようでした。
あなたの話を聞きたい。2008年8月」という名称。案内状には、「還暦を迎えた方、迎えようとしている諸氏の、『2008年の夏を語る会』を開催します。今、我(ら)にとって如何なる意味があるかを考える時間にしたい。7月のある日、卒業生5名で、名古屋学院大学・白鳥学舎訪問。チャペルに入り、40年前を思い出しつつ。 仕事人から 遊び人へのメッセージを 遊び人から 仕事人へのメッセージを 今のわたくしの状況を どのように語るか 60歳の時代を どう生きていくのか 熱い日の3時間をお楽しみください。」とありました。

 会場は、名古屋市の「ホテル ルブラ王山」、約50人ほどの参加者がありました。私のゼミでは、卒業後初めて顔を合わせるというメンバーもいました。私以外に、大学の宗教部主任だった梶村寿教授も招かれて参加されていました。酒を酌み交わしながら、それぞれ、思いを自由に語り合う集まりでした。(写真は一本木康二さんから)

  二つだけ、エピソードを。
 (その1) 当日、旧吉川ゼミの有志からだといって、市民運動へのカンパ1万円が渡されました。ありがたく頂戴し、これは、来年5月3日に予定されている第8期の憲法改悪反対意見広告運動にお渡しすることにします。意見広告には、「名学院大旧吉川ゼミ受講生有志」として載るはずです。
 (その2) 私のゼミの学生は、ほとんどがいわゆる全共闘支持派で、セクトに属する者もいたのですが、一人だけ、異色の学生がいました。民族派右翼の闘士なのです。彼の生き方は40年たってもいささかも変わっておらず、この日も、南京大虐殺などなかった、という主張を展開し、他の参加者からは反論やら野次が殺到しましたが、まったく動ずることなく、自説を展開し続けました。
 そのあと、彼と二人で話したのですが、彼の話で印象的だったことをご紹介しておきます。今いちばん憂慮しているのは何か、という私の問いに、彼は、「一般の若者の極端な右傾化だ」と答えたのです。「?」という問いに対する解説はこうでした。「自分は南京大虐殺などなかったと確信しているが、しかし、日中で戦争をしていたこと、戦争だから、南京だろうがどこだろうが、一般民衆にかなりの犠牲者が出たことは当然と、それは認めている。ところが、最近の若者は、日中間で戦争などなかったとか、民衆を殺してなどいない、という極端な意見の持ち主が増えている。無責任なマスコミのせい で、それへの反動なのだが、これは心配だ。大虐殺説は葬り去らねばならないが、戦争や民衆の被害の問題は事実として認めた上で議論をせねばならない」というのです。若者の中でも、中間層が分裂し、一方では『蟹工船』や『党生活者』など多喜二の小説が広く読まれ、一方では民族派右翼の指導的メンバーさえ憂えるような極端な右傾化も進んでいるということなのでしょう。

 二次会も計画されていたようですが、それは遠慮して、用意してくれていたホテルに引き揚げました。宿舎は名古屋市の厚生年金会館だったのですが、入り口には、この10月で営業を停止するという掲示が出されていて、ああ、ここもか、という思いで憮然としました。親方日の丸の経営が破綻を招き、この種の比較的安価な施設が次々と閉じられてゆきます。しかし、そんなことは、超一流ホテルや料亭でしか会合を開かぬ政治家たちにとって、何ら顧慮するに値しない出来事になっているのです。

 翌日は名古屋の「もくの会」の有志の人々との懇談。

 
名古屋行きのことを、事前に名古屋の知人に知らせておいたところ、せっかく名古屋へ来るのだったら懇談の機会もつくりたいと、翌24日(日)に、名古屋周辺の文筆家などの集まり「もくの会」の有志と、昼食をとりながら話し合う小規模の集まりに招かれました。いつも思うのですが、名古屋のこの人びとの交流は、ゆとりがあって、政治や社会への鋭い関心を失うことなく、しかし交流と生活を楽しんでいるようで、それは、東京での、慌ただしい集まりばかり続く暮らしに比べて、実にうらやましく思っています。
 午後の新幹線で帰京したのですが、熱海のあたりから激しい雨が降り出し、品川に着いたら、豪雨のため新幹線は運行を一時停止しており、東京駅も先発の列車で満員になっているため、もう先へは進めない、というアナウンスがありました。幸い、品川駅まで来ていたので、山手線で帰宅できたのですが、あと1〜2便遅い列車だったら、熱海か小田原あたりで車中泊になりかねないところでした。危うくすり抜けられたというところです。