news-button.gif (992 バイト) 164. 金澤幸雄さん逝去。 (2007/02/20掲載)  

 1950年代に、全学連、東京都学連など学生運動で活躍し、その後『アカハタ』特派員としてベルリンに赴任、長く欧州に滞在した後、日本共産党を除名され、宮本顕治批判などの著書もある金澤幸雄さんが、今年1月28日、福島県須賀川 市の生家で逝去されたと、ご子息から連絡がありました。享年78。葬儀は、遺言に基づき、1月30日にご遺族により、密葬で行なわれたとのことです。謹んでご冥福をお祈りいたします。
 金澤さんは、東大の経済学部でやはり50年代に学生運動に参加していた故舛井孝行さんの遺稿集を編纂する仕事のこともあって、舛井さんのお兄さんと一緒に拙宅を訪問され、歓談したこともあります。この本は、金澤さんが監修して『舛井孝行遺稿集』(1998年刊)、および『思索のエチュード』(2000年刊)として発行されています。
 1999年のことだったと思いますが、金澤さんに誘われ、彼の知人が経営している
福島県の母畑温泉八幡屋に招待され、連れ合いの祐子と一緒に金沢さんとともに温泉保養に行ったことがありました。たしか、早春の時期だったように思います。須賀川の街中でご夫人が経営する大きな医院も訪ねました。2003年11月にそのご夫人の浜子さんが75歳で亡くなられた後、金澤さんは心臓を患い、療養中とのことでした。
 一昨年だったか、電話で話した際、前回須賀川を訪ねたときは、時期が早く、名物の牡丹園の満開の牡丹を見せられなかったので、今度は牡丹の時期にまた母畑温泉に行き、男やもめ同士の愚痴でもこぼしあおうという誘いを受け、楽しみにしていたのですが、それもかなわなくなりました。
 金澤さんの著書は、『
宮本顕治裏切りの34年 - 階級的犯罪を糾弾する』(東方書店「人民双書」1967年刊)などです。ここでは、『舛井孝行遺稿集』の「あとがき」として金澤さんが書いた文章をご紹介しておきます。ここで、金澤さんが舛井さんの生き方として書かれていることが、金澤さん自身のそれでもあるように思えてなりません。

 同時代人としての舛井孝行 回想

 知の狩人として、飽くなき探究者としての生涯を貫いた。経済、社会、数学、物理および哲学についての研究は、遺稿の中心を占めている。これらの学識の内容が純粋かつ非凡であることは確かである。
 あらゆる領域に様々な疑問を投げ掛け、結末のないような論説も展開している。一見空想的ですらあるが、最後には市民運動、ボランティア運動の指導理論として結実し、近未来の世界の市民運動に人類の希望を托している。
 これが様々な意匠に彩られた舛井理論のコンセプトである。ホスピスで彼は死と対決しながらも年来の思索を続け静かな死を遂げた。
 時として同じ学歴者にみられる権力志向、出世主義は露ほどもなく、清貧に身をゆだね、心は淡々としていた。独身を守り通したのは、己以外の人間に迷惑をかけるのをつねに戒めていたことに由来する。身を処するのにソクラテス以上に厳しかったということが出来よう。
 ハンガリー事件、プラハの春など旧ソ連の東欧支配に失望し、知識人としての責任をとり、政党活動を停止し、新しい市民運動の理論の確立と実践に活路を求めた。ある時代の一つの良心の軌跡を舛井孝行の生涯にみることが出来る。その行動と理論への賛否は別として。
 一高時代に全学連結成大会に代表の一人として参加。
 東大を出てからジャーナリストなどの職を経て72才で死去するまで、止むことなく世界を探究し、知識人として、市民としての責任を果すことに努めた。
1996年の秋、彼の確固たる唯物論者としての意志に従い、東京湾の海上に散骨し数十年に亘る友情とともに送葬した。思えば共に苦難と希望に満ちた半世紀であった。
  1998年9月26日
                                         金 沢 幸 雄