news-button.gif (992 バイト) 149.「声なき声の会」の6・15集会 (2006/06/16午後7時掲載) 

 
恒例の「声なき声の会」の6・15集会のごく簡単なご報告です。(写真は大木晴子さん撮影)
 集会は午後6時から、東京・豊島勤労福祉会館で開かれ、昨年よりやや多い50名弱の参加がありました。昨年同様、和歌山から91歳の本多立太郎さん、京都からは鶴見俊輔さんも お元気に参加されていたほか、声なき声の会の中心メンバーが多数参加されましたが、今回初めてこの集まりに出ましたという方が5〜6名もおられたのには驚きでした。鶴見さんは、明らかに今の世の中は「退潮期――引き潮時」だと言われましたが、でも「声なき声の会については上げ潮なんですかね」という感想も言われていました。
 出席者が多かったため、一人一人が、自己紹介や最近の報告、思うことなどを話したのですが、予定終了時間をずいぶんオーバーし、終わったのは8時40分でした。
 本多さんは、昨年に続き、今年も5月に中国を訪問され、帰国の前日、南京師範大学の大階段教室で、学生たちに自分の戦争体験を話されたそうです。話の途中で、ある学生がたちあがり、「私はあなたの思い出話を聞きに来たのではない。戦争のことを聞きたいのだ」と発言したそうです。本多さんは「私は一庶民の体験を話している。庶民にとって、戦争とは、別れであり、次は死なのです。私がその別れのことや、死のことを語っているのは、思い出話にふけっているのではなく、庶民にとっての戦争そのものを語っているのです」と応じたところ、大きな拍手がまきおこり、意見を言った本人も「よくわかった」と答えたそうです。本多さんは、日本では、こんな率直なやりとりが出来たことはなかったな、と言われました。講演のあとの質問は百出で、答えるのが大変だったそうです。
 鶴見さんは「『期せずして……』ということがあるものです」という言葉で話を始めました。46年前、樺美智子と小林トミという二人の女性の思想はたいへん異なっていたもので、ほとんど関係ないと言っていいものでした、として、二人の考え方を紹介 したあと、それから46年たって、世の中は「引き潮」になってきたが、引き潮の時には潮干狩りがやられる、今、私たちの記憶の潮干狩りの網の中には、樺と小林という、普通だったらとても一緒には並ばないような二つの思想が、隣り合わせに入っている、今がいかに引き潮の時期かを示すことでもあるのでしょうが、と話されました。また、鶴見さんは、英語やフランス語など、他の言語に比べて比較にならぬほど古い 時代の言葉を今も理解できるという特色を持つ日本語を、私たちは生きたものとして使えているか、と問題を提起し、本多さんの書かれた『ボレロが聴きたい――戦争出前噺』(1994/05、耕文社)と『父 を語る』(2004/11 すりふか文庫)
の2冊の著書の日本語は本当に生きた日本語のすばらしい見本だ、といわれ、こういう文を含めた生きた日本語のアンソロジーをぜひ作りたいと言われました。また、「君がみ胸に抱かれて聴くは……」という歌、歌えますか、と皆に聞き、「これ、今の日本の国会、政治家たちです、アメリカのみ胸にすっかり抱かれてしまってる」と笑わ せるような発言もありました。
 参加者の一人、C・I さんから、早速私のところに送られてきたメールには、「声なき声の会6/15集会での収穫は鶴見さんの話でした。樺美智子さんと小林トミさんの2人を我々は記憶している。無縁であった二人、東大生であり、社会変革の思想をもって活動していた樺と、変革思想とは無縁ではあるが、絵描き庶民の小林を我々ひとつの軸として記憶されている。と鶴見さんは事実と歴史を分析し語ってくれた。この共有されている記憶の意味は、とても深く重くそして新鮮なものとして私は感受しました。」と書いてありました。
 堀孝彦さんは、「一年経つの早いなぁと、吉川さんと言葉を交わしたところです。さらに悪くなった一年でした。一番あきれて物が云えないのは、教育基本法案の醜態! そもそも法律に道徳を書き込む恥知らずについてです。「法」に書き込まれた「徳」は、もはや「徳」ではなく、「愛国」のなんたるかさえ、問う所でなくなり、都合のよいように解釈された「徳」に従うか否か、だけの問題になる。大臣副署がないために、「法」的条件を欠いた――ただし後に超法規的な「神の声」として逆に猛威を振るったが――教育勅語起草者 (井上毅)の苦悩?すら何処吹く風の現今は、いまだに無類の「道徳国家・教化国家」(藤田省三)であり続け、亡国へ至りつつある。」(堀さんからのメールによる)と話されました。
 初めて参加した、という人びとの話も感銘深いものが多くありました。「46年前、私も国会南通用門の中に入った学生集団の中にいました。私は、隊列の中で、後ろから前へ前へと押しました。その先には樺さんがいたわけです。このことは、子どもの頃、兵隊の隊列に万歳を叫んだこととともに、いまだに、私はには整理しきれず、次第に重いものとなってきています」という発言もありました。また、「あの6・15は、私が中学2年のときでした。岐阜県の山の中に暮らしていたのですが、いてもたってもいられず、新聞への投書を書きました。涙を流しながら、何度も書き直しました。採用はされませんでしたが、忘れられないことです」と話した方もいました。中に、吉川のホームページを見て参加した、という人も一人おられました。ありがたいことです。
 会終了後、花束を持って雨の中を国会南門へ向かいました。昨年より1時間ほど遅い時間になり、早くから待っていた人もいました。昨年のように警備の警官ともめることもなく、献花(左の写真)、黙祷、写真撮影などを終えました。
 そのあとは、恒例となった新宿のクラッシク喫茶へ向かい、遅い夕食をとり、閉店まで話し合いました。
 この日の集会では、『声なき声の便り』の102号が配られました(右の図)。昨年の6・15集会の全記録が収められています。この号から、表紙の絵は、トミさんのお姉さんの小林やすさんが描かれることになりました。「あとがき」によると、きっかけは、今年2月末、『朝日新聞』夕刊に掲載された、小林やすさんと、その背景に見える、やすさんが描いたトミさんの絵が写っている写真だったそうです。『たより』をご希望の方は、以下にお申し込みください。
〒223-0064 横浜市港北区下田町3-31-19 柳下弘寿様方 声なき声の会 (ホームページは
 http://koenakikoe.seesaa.net/  )