news-button.gif (992 バイト) 130.「声なき声の会」の6.15集会と国会南通用門への献花のご報告 (2005/06/16 初稿掲載 、そのご午前11時に補正

 今年の「声なき声の会」の6・15集会と、国会南通用門への樺美智子さん追悼献花についての簡単なご報告です。

 集会は、午後6時から東京・池袋の豊島区勤労福祉会館で開かれ、昨年よりも多い40数名の参加者がありました。昨年は韓国からの青年の参加がありましたが、今年は、中国の青年夫妻と、アメリカからの研究者の参加があり、6・15も次第に国際的な広がりを持つようになったな、という感想(堀孝彦さん)も聞かれました。

 会は「声なき声の会」の柳下弘壽さんの司会で始まり、まず、和歌山から参加された最高齢91歳の本多立太郎さん(左の写真、撮影はすべて大木晴子さん)のお話がありました。本多さんは、今年、初めて訪中され、かつて日中戦争の際に派遣された江蘇省金壇の町などを一人で訪れて中国の人びとへの謝罪をされた経験を話されました。本多さんは、日本陸軍歩兵第52連隊の兵士としてこの町に駐屯していたそうですが、町の人びとから何も告げられずに案内されたところが、かつての慰安所だった建物で、当時の建物や、中の小分けされた部屋なども残っていたそうです。「これがあなた方が通った慰安婦のいたところです」と言われ、金壇の人びとの刺すような目に囲まれて、本多さんは言葉も出ず、ひたすら頭を下げる以外になかったとのことです。ただ、その厳しい視線が溶けると、あとは破顔一笑、でもあなたは友人です……となったのだそうですが……。本多さんは、「自分は一人で行ったのだが、町村(外相)でも小泉(首相)でも石原(都知事)でもいい、一人でそういう場所に行って、日本でしゃべっているようなことを言えるのか」と話されました。 そのほか、指導者や学者は別として、自分が会ったかぎりの中国の一般民衆の中では、日本国憲法の9条のことを知っている人は一人もいなかった、日本の中で、九条を護れ、護れとだけ言っているのではなく、もっと積極的に世界に向かって広げる努力が必要で、これまでその努力が足りなかった、ということも指摘されました。

 ついで京都から参加された鶴見俊輔さん(右の写真)。あと10日で83歳になられるとのことです。ふりかえって驚いたことを4つだけ紹介したいと前置きされ、要旨以下のような話をされました。(1)1960年6月15日、樺美智子さんが国会南通用門で死んだとき、私は、日本でこんなことが起こるとはまったく思ってもいなかっただけに、本当に驚いた。女子学生が戦争に抗議するデモに加わって押しつぶされて殺される、そんなことは それまで考えたこともなかったからだ。(2)自分の父は旧制高校の一高で首席だった。それを見ていてよくわかるが、成績一番という人間は当てにならない。必ず裏切る。ところが、「声なき声の会」の事務局長だった高畠通敏は、東大の政治学科に一番で入った。にもかかわらず、東大教授にはならなかった。 大学で一番になって信頼できる人間が一人だけはいた。これにはびっくりした。でも、後に東大学長にもなる大河内一男の転向についての論文を書いたくらいだから、なれないのもあたりまえだったかもしれないが、とにかく、彼の生涯は私の驚きだった。(3) 私は、この会の実務の中心のひとりである人の奥さん(羽生槙子さん)から、詩集を送り続けられてきた。大体、詩集というのは4冊、5冊と出していると、必ず質は悪くなるものです。デニソンも、ロバート・グレイブズも、ロバート・フロストもみんな、そうだ。フロストがケネディに呼ばれて、その大統領就任のときにつくった詩などダメです。私が学生だったときによんだフロストの詩は最高だったのですが……。ところが、この奥さんから今度送られた詩集『縫う』は、前のものより断然よくなっている。まったく感心し、 あとになるほどすばらしい詩を書く人がいるという、これには驚いた。(4)60年安保のとき、大きな会社の管理職になっていたため、労働組合員としての資格がなく、身近なところにデモに加わる場がなかった人がいた。でも、じっとしていることが出来ず、国会の周辺に一人で出かけていて、たまたま見つけた「声なき声の会」 のグループの中にふらふらと入ることになった。それ以来45年の付き合い を続けています。それが本多立太郎さんです。これも驚きの一つです。この四つの驚きが、私にとっての「声なき声の会」を象徴するものです。

 このあと、参加者全員から、それぞれ簡単な自己紹介や感想が語られました。毎年の常連の方も多数おれば、新規参加の方もありました。なかでも、「1960年のときには、私はマイナス26歳でした」という青年の自己紹介には、みなホーッという声を上げました。来年大学を出るというこの若者は、実は、会のメンバーである母親と一緒に参加したのだそうですが、二世代にわたる参加も今年の新しい出来事でした。

 予定の8時を20分ほど延長してお開きとなったあと、本多さん、鶴見さんも含め、半数以上の人が国会へ向かいました。今年驚いたことは、南通用門前での警官隊による厳重な警備と嫌がらせ抑圧でした。例年ですと、ごく短い時間の間だけですが、それぞれの参加者が南通用門の門扉の下に、持参した花を供え、黙祷をし、何人かの挨拶をすることが出来ました。
 ところが、今年は、門扉の前1メートル以上も離れたところに、鉄柵が置かれ、それより中へ入れさせないのです。もちろん、参加者は抗議の声を上げました。たとえば、私と一人の警官とのやり取り(左の写真)は以下のようなものです。  「昨年までよかった門のところまで、なぜ今年は行かせないんだ?」  「近づくのを認めれば、キリがないからだ」  「キリがないとはどういう意味だ?」  「門まで行かせれば、次は中へ入れろと言うだろう。要求はキリがなくなるからだ」  「本気でそんなこと言ってるのか。今の状況の中で、われわれを門の中に入れるなんてこと、ありえないじゃないか。そんなコジツケは、ただこれまでの権利を奪うための屁理屈にすぎない!」といった調子でした。人びとは次第に怒り出し、あちこちで言い合いが始まり、空気は険悪になってきました。たまたま、始まる前に路上で会話を交わしていた警視庁の警備の私服警官が間に入って、「今日はいいことにしましょう。これまで通りで」と言い出した(右上の写真)ので、それ以上の展開にならずにすみ、門扉への献花も出来ました(右下の写真)。そのあと、樺さんへの黙祷をし、全員で、門扉を背景に写真を撮って解散となりましたが、この間の時間は20分ほどだったでしょうか。 とにかく、これは今年の新しい現象で、各地で起こっている市民運動への抑圧強化の一環と見なさざるをえません。今後の厳重な対応が必要と思います。

 解散後、一部の有志は、例年のように、新宿の喫茶店によって、鶴見さんを中心に閉店まで歓談を続けました。来年も6月15日に。

 なお、この日『こえなきこえ』の第101号が発行されました(B6版 24ページ、左の図)。この号には昨年の6・15の集まりでの、本多立太郎、鶴見俊輔、大木晴子、岩垂弘、ソウ・ジェチョル、丸山新男、堀孝彦さんらのお話が全文掲載されているほか、多くの方の寄稿が載せられています。高畠通敏 さんへの追悼文も細田伸昭さん、宮地忠彦さんから寄せられています。1部200円。お申し込みは、223-0064 横浜市港北区下田町3-31-19 柳下弘壽さん方 「声なき声の会」へ。