news-button.gif (992 バイト) 129.私の連れ合い、吉川祐子の葬儀のご報告 (2005/05/05掲載)

 「ご案内」欄の No.159 でお知らせしましたように、私の連れ合い、吉川祐子は、6月7日に死去し、その通夜が6月8日に、葬儀が翌9日に、どちらも西東京市の大日堂斎場で、無宗教形式で行なわれました。 通夜には約140人、葬儀には約80人ほどの方がたがご参加くださいました。大連の女学校(旧制)時代の担任の先生、同級生、長いこと秘書室長を務めた勤務先の会社の社長さんを含め、多くの運動の仲間たちが参列してくださいました。また、多くの方がたから、生花や心のこもった弔辞、弔電をいただきました。厚く御礼申し上げます。
 本来なら、それを詳しくご紹介すべきところなのでしょうが、なにぶん、まだ、私自身の気持ちの整理もつかず、まとめられる状態になっておりませんので、とりあえず、その際、ご参加くださった皆様にお配りした祐子の書き遺したものの印刷物と、葬儀で、私が皆様に申し上げたご挨拶だけを以下に掲げさせていただきます。

  吉川祐子の葬儀の際の、私のご挨拶 (すこし、あとで手直ししました)

こんなにも多くの方が、祐子のために、昨日のお通夜に続き、今日の葬儀にお集まりくださり、本当にありがとうございます。祐子もありがたいことと思っているに違いありません。昨夜のお通夜でも私はご挨拶を申し上げたのですが、それとほとんど同じことを今日も申し上げることになるのをお許しください。それとは違った別のご挨拶を考えることができませんので。

 祐子は、62日、午前11時半ころ、急性心不全によって呼吸も意識も停止し、救急車で武蔵野赤十字病院に入院しました。長い間、呼吸器が不全で、心臓に負担がかかりすぎていたことが、遠因のようでした。いったんとまった心臓と呼吸は病院の手当てで回復したのですが、しかし脳に血液が送られなくなった時間が15分以上と長かったため、ついに意識はもどらず、まったく苦しむことなく、7日午後350分に死亡いたしました。

 1931年生まれでしたから74歳と4ヶ月の生涯でした。私と結婚してからは47年、今年の正月、あと3年生きれば金婚式だな、などという会話も交わしたのですが、それは果たせずに終わりました。

私の著書『市民運動の宿題』の巻頭には、本書を、妻、祐子に捧げると書きました。自分の著書の献辞を妻宛にするというのは、一般には、あまり格好がいいとは思われないのでしょうが、ベ平連をはじめ、私のこれまでの活動は、祐子の強い支えなしにはまったくありえなかったと思いますので、そう記したのでした。
 195410月の中国紅十字会李徳全女史の歓迎運動や1956年の砂川基地拡張反対闘争以来、彼女は、私とともに、さまざまな反戦運動に参加し、最後の活動は、そこにも張ってありますが、今年53日、『朝日新聞』と『毎日新聞』の全国版に同時掲載された「九条実現」の意見広告運動に賛同、参加したことでした。現在まで、「市民の意見30の会・東京」の会員でもあり続けました。憲法の前文と九条の厳守、そして、日本と中国の友好、これが彼女の政治的信条の中心にありました。

 5年前、インフルエンザをこじらせて、やはり危篤状態になったことがありましたが、そのときは、奇跡的と言ってもいいような回復力を見せました。退院後、入院していた病院へ行きますと、看護婦さんたちが、「あ、奇跡さんが来た」というほど、ぎりぎりでの生還だったようです。ただ、残念ながら、その入院中に、目を患い、ほとんど視力がなくなるという結果にはなったのですが……。
 そのときの経験は、お手元にお配りした私の文章にあります。その際は、ここにもおいでいただいている多くの方がたから、激励やお見舞いを頂き、そのおかげで、自宅に階段昇降機や拡大読書器などの高価な器具を備えさせていただきました。

目が見えなくなったため、買い物も炊事も出来なくなり、ここ5年は、私が炊事などを引き受けてきたのですが、私が救われたのは、そういう境遇にありながら、祐子はひがんだり、愚痴をこぼしたりすることがなく、また、心の奥底までは分かりませんが、人の世話になることを、過度に負担として受け取ることもなく、一緒に明るく暮らせたことでした。もし、「こんなに人の世話にならなきゃならないなら、死んだほうがましだ」とか、「世話になりっぱなしで、すまない、すまない」などということを繰り返し聞かされたとしたら、私はかなわなかったと思うのですが、そういうことを祐子は言いませんでした。

買い物や炊事は私、掃除は週2回来てくださったヘルパーさんの担当でしたが、自動洗濯機で、設定だけしてあれば、あとは自分でも動かせるからと、洗濯と物干し、アイロンかけは、倒れる前の日まで、酸素補給器のチューブを引っ張りながら、彼女がすべてやりました。天気予報が晴を伝えると、えらくご機嫌になり、天気が悪いと干し物が乾かないといって不機嫌になるのでした。

 字がほとんど読めなくなっていましたから、今朝まで、私は、毎日、『朝日新聞』の社説や主要記事、天声人語、あるいは「おりおりの歌」(今は「花おりおり」)、朝日川柳などを朗読して聞かせるのが日課になっていましたが、世界・日本の政治や社会のひどい状況に関しては、すぐ、「小泉はゆるせない」とか、いちいち、コメントをはさんでは、朗読の邪魔をするのでした。

5年前に入院したときも、今回と同じように、緊急に入院した時以来、意識はなく、私との会話も一切出来ませんでした。私は、こう書きました。
 「……やりきれなかったのは、四十数年ともに生活してきた連れ合いと、このまま、一言も会話を交わせずに別れなければならないかもしれないということだった。楽しかったこと、辛かったこと、喧嘩したこと……そういう出来事への感謝、文句、詫び、それらを何も伝えることが出来ず、聞くことも出来ずに、生ある人間同士の付き合いがこのまま終わってしまう、そう思うと、涙が出てきた。」(『市民の意見30の会・東京ニュース』2002年2月号) しかし、少し、気持ちが落ち着いてくると、突然の交通事故、あるいは天災、そして特に戦争で犠牲にされた一般市民の家族は、すべてそういう思いをさせられてきたし、しているのだ、ということに思い至りました。「阪神淡路大震災、湾 岸戦争、チモールでの紛争、アフリカ各地での民族対立、そういう場所では、この思いをさせられている人びとが、数千、数万の単位で一挙に作り出される。そう思うと、ますますやりきれなくなった。すこし想像力があれば、これは 容易に察せられるはずのことではあるのだが、しかし、自分がそういう立場(私の場合は、そういう立場の寸前)に立たされるまでは、本当の実感になっていたとは言えなかった。」と私は続けて書きました。…………

その思いが強かったため、奇跡的に回復してまた一緒に生活できるようになったこの5年間の暮らしは、私たち二人にとって、かなり充実したものであったように思えます。近頃はやりの老々介護、そして障害者障害者介護の生活だったわけですが、この5年間が与えられたことは、私には本当に救いでした。二人の間には、平等の関係を生み出すことが出来たように思えますし、また、幾分なりとも、それまでの恩をかえせたかのように思えるからです。

ただ、今回彼女が入院して以後のことで、私が驚いたことがあります。買い物は私の担当でしたから、ほぼ毎日のように、スーパーや近所の店で食材の買い物をしました。この魚を買って、こんな料理にすれば、祐子はうまいって言うかな ? そんなことを考えながら買い物をするのは楽しみでした。料理のレシピも随分増え、NHKの『きょうの料理』も4年分ほどが揃いました。ところが、今度祐子が入院して以後、私は日課のようにスーパーへ入ったのですが、買うものが何も思いつかないのです。野菜売り場も、肉売り場も、魚売り場も、どれを見ても買うものが思いつきません。そして、何一つ、かごに入れずに、レジを通り抜けることになりました。これは驚きでした。つまり、張り合いがなくなってしまったとでもいうのでしょうか。そして、これではダメだ、と今、懸命にその状態を脱出する努力をしようと思っています。5年間の炊事担当は、私が一人になっても生きられるようにするために、祐子が与えてくれた訓練期間だったのではないか、そんな風にも思うべきか、とも考えております。

これからは、祐子の出来なかった分も含めて、健康状態の許すかぎり、私は活動を続けてゆこうと思っております。みなさまのご支援をいただければありがたいと存じます。

本日は本当にありがとうございました。 

 

 以下は、葬儀の際に、ご参加くださった方がたにお配りしたパンフレット『吉川祐子さんの書き遺したものから』(右の図がその表紙)の内容です。このパンフレットは、祐子が死去したその日の晩に、吉岡忍さんと東一邦さんのご努力で、編集、レイアウトされたものでした。

■吉川祐子略歴
1931年2月5日、宮城県亘理郡亘理町で、父・南條武雄、母・よしのの次女として誕生。
1943年、大連光明台小学校を修業。
1946年、大連日僑女子中学校を卒業。
1950年、北京大学法学部政治学科に入学。
1953年、帰国のため中途退学。
1954年、日本平和連絡会事務局に勤務。
1955年、株式会社「大安」貿易部に勤務〓九六二年まで)。
1958年4月27日、吉川勇一と結婚。
1962年、ユニバーサル・プレス・サービスに勤務し、翻訳業務に携わる。
1963年、東京丸一商事株式会社に就職し、企画調査室、業務部中国課、秘書室などの勤務を経て、秘書室長を務める。
1984年3月、退職。
2000年2月、心肺機能の低下から半年間の入院。以後、視力と脚力が衰えたものの、意気軒昂な日々を送る。
2005年6月2日、自宅で急性心不全に見舞われ、武蔵野赤十字病院に緊急入院。
2005年6月7日午後3時50分、永眠。享年74。

 

吉川祐子さんは若いころ中国で過ごした体験をもとに、いくつかの文章を公表しています。そのなかから彼女の思想と行動を表す二篇を選び、ここに採録しました。

【村の政治の中で】

 *本稿は幼方直吉・野原四郎編『愛と革命と青春――中国の若者たち――』(平凡社 1956年刊)に収録されたものである。

 私(南条祐子)は北京大学の法律系学生として、一九五一年の九月から五二年の三月まで、湖南省内の三カ所の農村へ生産実習に行った。生産実習といっても、温室の中でままごとのようなことをするのではなく、工作隊の一員として、直接土地改革に参加したのである。以下はそのときの日記の一部である。

地主のたくらみ

  一九五二年二月某日 晴

 訴苦大会が終ったのが十二時半、それから村役場で、明日の仕事や近くひらかれる予定の斗争大会についての打ちあわせ。夜道と犬のこわい私のために、孫逸(スンイー)()王建民(ワンチェンミン)が送ってくれる。でも今夜は夜道も犬のほえるのも気にならないほど私の心は燃え、興奮していた。暗い田舎道を私たちはほとんど一口もしゃべらずに歩いた。宿舎の門前で、二人とかたい握手をかわしておやすみなさいをいう。春とはいえ南国の風がひんやりと肌にしみ、星がうつくしかった。
  ここ一週間ばかり、就寝はいつも十二時過ぎ、日記をつけるひまなどとてもなかった。今日だって、あと五分でもう午前二時になる。でも今日ばかりはこのまま眠れそうもない。どうしても、今日の感激をかきとめておきたい衝動にかられる。すぐ横で、もうぐっすり寝入ってしまった王桂花(ワンクイホア)の邪魔をしないように、ランプの芯をほそめてかくことにする。

 「訴苦大会をひらくまえに、みなさんに悲しいお知らせをしなければなりません。」 
そういって湖南省土地改革委員会から派遣された王政治指導員は、自分の心を抑えるかのようにじっと眼を閉じた。とざされたその眼は、ほんとうに悲しそうだった。
 彼は湖南の農民出身、抗日戦争時代の部隊生活と党の組織生活は、彼をすぐれた政治指導員に育てあげた。三十七、八才だろうか。いや、あるいはまだ三十そこそこの青年なのかもしれない。苦難な年代を経てきた人にありがちな落ちついた眼なざし、額に刻みこまれたふかい皺、土色がかったよくない顔色、そして痩せ細った体躯などが、彼を年令よりも老けさせてみせるのかもしれない。
 「みなさんすでに御存知だと思いますが、われわれ工作隊員の一人、祁有才さんが昨晩、村の地主、王学光(ワンシュエクワン)の手によってムザンな死をとげました。」
 王政治指導員の声は、思いなしかふるえていた。
「訴苦大会がたびたび開かれているこのときに、王学光がなぜ土地改革工作員を暗殺せねばならなかったか、あなたがたにはよくわかっていただけると思います。みなさんのなかには、こうした地主にたいして、これまでいくらかの幻想や同情心を抱いていた人もあったと思います。しかし、昨晩の事実が何よりも雄弁に物語っているではありませんか。地主階級は、あくまでもわれわれに反抗しようとしていることを! 彼らは、あなたがたの翻身(ファンシェン)することを敵視し、これを極力破壊しようとしていることを! そうなのです。彼らは歴史の歯車を逆転させようと必死なのです。では私たちは、いったいどうすればよいのでしょう? このまま放っておく? いや、そんなことを考えている人は一人だっていないと思います。」 
場内に「やっつけるのだ!」
というはげしい怒声。王政治指導員はにっこり笑ってうなずいた。
 「そうです。復讐するのです。地主階級をたたきつぶしてしまうことです。われわれは農民でありながら土地がない、米もくえない、そんなバカげたことがあってよいものだろうか。いったい、誰がわれわれをそうさせていたのだろう。理由ははっきりしています。そうです、われわれは土地がほしい、家畜がほしい、人間らしい生活がしたい。さあ、そのためにはどうしたらよいか、今日はみたさんの胸のなかに、長いあいだたまっていた不満や苦しみをお互いにぶ
ちまけて、そしてどうやったら幸せが得られるかということについて、みんなの知恵を出しあっていただきたいと思います。」
 八十名近くもつめかけた農民は、車座をつくって、まばたきもせずに王政治指導員の顔をみつめていた。王政治指導員が腰をおろすと、沈黙がしばらく会場を支配する。
 「おらたち、まちがっていましただ。」 つぎはぎだらけの衣服をまとった中年の百姓が、突然沈黙をやぶって、うめくようにいうと立ちあがった。
 「いままでおらたちには、あんたがたの苦労がよくわからなかったです。いや、知ろうともしなかったです。省政府から派遣されたという『おえらがた』、北京からわざわざ出てきたという大学生たち、そんな人たちにおらたちの苦しみがこれっぽっちだってわかるもんかい。迷惑なこった。やるなら勝手にやってくれ。正直、そう思っていましただ。いままで農村の解放だとか、税金の値下げだとかいって村にきたやつらは、どいつもこいつも学問を鼻にかけて、えばり散らしてばかりいたもんだったです。しかしおらたちの苦しみは、一向にへらなかったばかりか、ますますどうにもならなくなってきたです。おらたちの心は、容易に人様を信ずることなんざできねえほど、いためつけられてしまっていたです。」
 トツトツと語る百姓。
 しかしそうした考えは、工作員ひとりびとりの謙虚な行動によって大きく動揺し、崩れていったという。昨夜祁有才が殺されたことで、はじめて工作隊員がほんとうにわれわれ農民のためにつくしてくれる、毛沢東の派遣してきた優秀な工作員であることに気がついた。昨夜の惨事を防ぎとめることのできなかったのは、われわれ村民のとりかえしのつかないあやまちだったというのだ。
 彼の発言が発火点となって、場内のあちこちにざわめきが起り、それは大風にあおられた火事場の火のように、地主王学光に対する集中攻撃にうつされた。
 「きいて下され。」 貧農の老人は、やや興奮してきせるをふりあげながらこういう。

 「わしは物心つくころから、野良に出て働かされた。字なんざこれっぽっちも読めやしねえ。ただ働くことしか知らなかった。たのしかった思い出なんて、何ひとつありゃしねえだ。それでも猫の額ほどの土地があったころはまだましじゃった。わしが疫病でねこんだ年、ありったけの米や小麦も金にかえて使いはたし、なんともしようがなくて、王学光からひとにぎり――ほんにひとにぎりやで、――のタネ麦を借りうけて、フラフラしながら植えつけたもんだ。ところがその年はおやじは死ぬ、かかあは五人目のガキを産む、わしは十分に働けねえ、で借金はかえせなかった。そのあくる年はこれまた大水でよ、借金はますますかえせねえ、利子はべらぼうに高くなるときやがった。三年目には王学光の鬼め、わしらの哀願を尻目にとうとう土地をとりあげやがった。わしたち百姓にとって、生命から二番目の大切な土地をよ。ガキどもはオマンマがほしいよ!と泣き声もたてねえほど衰弱して、バタバタ死んでいくし、わしはわしで……」あとはもう涙声でききとれない。
 「おらたちもそうだった。」 同じような苦しみを訴える百姓が幾人かつづく。ふいに、「あたしにも、あたしにも一言しゃべらせて下さい。」 オドオドした若い女の声。私は思わずハッとして息をのんだ。楊月梅(ヤンユエメイ)ではないか! 私たちが話しに行っても、いつもうつむいたまま顔をあげたことのなかった婦人、だまりこくって私たちの説明する土地改革政策をききながらときどき長いまつ毛をパチパチやって、ためいきをもらしていた彼女。
 むぞうさにたばねた髪は油気がなく、おくれ毛が耳のわきに垂れさがっている。
 「あたしは王学光からさんざんなぶりものにされました。うちの人(夫のこと)が野良にでていったあと、王学光はよくあたしにいいよっていろいろいたずらしたものです。だけどあたしに何の抵抗ができたというのでしょう。一度、うちの人が具合がわるいといって早くもどってきたことがあり、王学光と二人しているところをみつかったことがありました。もちろんうちの人はあたしをひどくぶちました。でも、土地もなく、十分な供出もできなかったあたしたちには、泣き寝入りする以外に方法がなかったのです。あたしの二人いる子供はどれがうちの人ので、どれが王学光のか、それとも二人ともうちの人のなのかわからない……」
 感きわまって二、三の婦人たちが声をあげて泣きだした。楊月梅も、そばに坐った月梅の夫も青ざめて泣いていた。
 ああ、あの月梅が、どんなに恥をしのんで……そう思うと私の心ははげしく痛んだ。
 「よく話して下さいましたね。」
 婦人工作員の黄敏(ホアンミン)がたって、これも涙声でいたわるようにいった。
 「あたしたち女性は小さいときからだまっていろ、とおしえこまれてきました。何事もだまって耐え忍べ、そう教えられてきました。しかし私たちはもう、だまってはいられない、それほどあたしたちの過去の苦しみはおそろしかったのです。楊月梅、あなたの苦しみはあたしち、全中国女牲のくるしみ、そしてあなたが受けた侮辱は全中国女性の侮辱、あなたがそのことを訴える勇気をもったことは、また全中国女性の勇気と英知をあらわしたものです。あたしたちはいまこそいっさいの猶予と疑惑をすてて、地主階級と対決せねばならないときです。」
 「王学光をつれてこい!」
 「王学光をつるしあげろ!」
 「そうだ!」
 「土地をわけてもらおう!」
 「殺された子供を返してもらおう!」
 「やつをしばりあげて、はたらいた悪事を全部担白(タンパイ)(自白)させろ!」
 「おれは竹箒でいやというほど頭をなぐられたことがある。おれだってなぐりかえさねば気がすまんぞ。」
 「あたしの子供たちはやつの子供に馬鹿にされ、ぶたれ通しだった。あたしだってぶちかえしてやる。」
 「いや、おれはムリヤリ馬糞をくわされたことがあるぞ。三日ばかりヘドを吐き通しだった。畜生! おれだってマグソをしこたま、やつの口の中へおしこんでやる!」
 群衆はいきりたっていた。王政治指導員がたちあがって制した。
 「お静かに、みなさん! 王学光をつるしあげることは当然です。ぜひやらなければならない。しかし毛主席はいっています。われわれは地主の卑劣なことまでまねしてはいけないと。そうです、敵階級の卑劣なまねをしてはいけない。王学光は人民法院が法律にしたがって厳重に処罰するでしょう。いまわれわれにとって必要なことは、みんなの力を統一することです。みなさん、わたしたちは今日、過去のくるしみをみんなの前ではきだしました。みなさんが流した涙、それは苦しい涙であり、悲しい涙でした。しかし同時に安堵の涙でもあったはずです。私たちはひとりぼっちではなかった、みんなが同じような苦しみをなめていたのだということを知りました。われわれはみんな一家なのです。みんなの心と心、力と力をあわせて王学光に対する総攻撃を開始しようではありませんか。王学光個人から、さらに、われわれの中国農村を、極端な貧困と無知の世界においやっていた地主階級にたいして、反動勢力にたいして総攻撃をはじめようではありませんか。われわれ働く農民こそが唯一の土地の主人公でなければならないのです!」
 「地主。王学光を打倒せよ!」
 「封建制度をぶちこわせ!」
 「働く農民に土地を!」
 「土地改革を擁護せよ!」
 農民たちの腹の底からほとばしりでるスローガン。いっしょになって夢中で叫びながら、私は自分が学生であることも、工作隊員であることも、すべてを忘れていた。私はふと、封建制度という牙城がガラガラとくずれ落ちてゆくすさまじい音響をきいたように思った。やたらに涙がでた。
 なんとりっぱな訴苦大会であったことか! そしてまた、なんとすばらしい中国の農民たちだろう! 百冊の本を読むよりも、何十ぺん有名教授の講義に出るよりも、それは私の心をゆすぶり、私の魂の奥ふかく真理と知識を注ぎこんだ。いままでわかりすぎるほどわかっていたはずの「土地改革」ということばが、こんなにもいきいきと実感をこめて理解されたことはなかった。
 みんなが帰って行ったあとのガランとした会場で、私たち工作員は涙でクシャクシャになった顔をみあわせて笑った。心の底から晴れやかに。

 

毛沢東という神様

  一九五二年三月某日 晴

 朝食前のひとときを、手帳やパンフレットなどの整理をしているときだった。
 「お姉ちゃん、お忙しい?」 玉珍(ユイチェン)がませた口調でそんなことをいいながら、戸口から顔をのぞかせている。房東(ファントン)(家主)の一人娘で、ことし十才になる。肩まで編んだおさげが可愛らしい。まっくろい、大きないい眼をしている。この子は意味もわからないくせに、「階級斗争」だとか「封建主義」だとかいう新語をやたらに使いたがって、みんなを笑わせる。
 「別になんにも。入っていらっしゃい。」 そういうと、よろこんで入ってきた。
 「あたいね、学校に行けるかもしれないの。」
 大きな眼をいっそうクリクリさせて、そういう。
 「新しい村長さんが、今年は女の子も学校にきてもいいっておっしゃったって。そいであたいのとうちゃんが、玉珍にも行かせるかって――」
 「そうお、それはよかったわね。玉珍は勉強がすき?」
 「だあいすき。」
 「勉強して何になるつもりなの?」
 「お姉さんみたいに上地政革の工作隊員になるのよ。」
 「あらいやだ、玉珍がお姉さんくらいになるころは土地改革なんかありゃしないわよ。」
 「なぜさ?」 と不服そう。
 「おばかさんね、もう土地の分配はすんだし、地主は処分されたし、これ以上誰の土地をどう改革するつもりなの?」
 「あ、そうか、もう平等になったのだから『改革』はしないのか。そんならあたいタラキターじゃない、あのう、あのう、あ、そうだ、トラクターの運転手になるわ。お兄ちゃんたちがもうせんいってたわ。いまにみいんなトラクターで畑を耕やすんだって――」
 そこへ洗面に行ったはずの王桂花が、大げさな身ぶりをしながらとびこんできた。
 「ちょっと、ちょっと、ここの頑固爺さんダメなのよ。」
 「だしぬけにいったい、なにがダメなのよ?」
 「これ、これ。」 そういって桂花は合掌の手まねをする。
 話をきくと、玉珍のお祖父さんが毛沢東(マオツオトン)の肖像を拝んでいるので、王桂花がいくら話してもきかないばかりか、却ってどなりつけられてきたのだという。
 「放っておおきなさいよ、お爺さんの気持わからないこともないわ。」
 私がいうと、桂花はますますふくれた。
 「あんたまで! 毛沢東は神様じゃなくってよ。そんなこと放っておいたら、私たちの方がこんどはつるしあげられるわよ。」 
 不思議なことに桂花がそういうと、私はいよいよ落ちついてきた。
 「あわてないで、あなたの悪いくせよ。『せいてはことを仕損じる』 どりゃ、ひとついっしょに行って進ぜやしょう。」 立ちあがると、玉珍が心配そうに私たちの顔をのぞいていった。「あたいのじじちゃんと『斗争』すんの?」

 今朝のお爺さんは、たしかに少し不機嫌なようだ。この玉珍のお祖父さんというのが、ついこのあいだ地主王学光の斗争大会後、家中のオフダというオフダを便所桶にほおりこんで一躍有名になった人だ。ガラガラいうかわり、曲ったことの大きらいな、気持のいい爺さんだ。
 朝食のテーブルをかこみながら、桂花がしきりに私の肘をつっつく。早く話をきり出せ、という合図。玉珍がめざとくみつけて、気を利かして爺さんに話しかけた。
 「じじちゃん、毛沢東のおかげであたいも学校に上れるようになるんだよ。」
 「うん、うん、よかったのう。」 たったひとりきりの孫娘なのだから、その可愛がりようといったらない。たちまち相好がくずれた。ここぞとばかり私はきりだした。
 「ねえお爺さん、毛沢東の御恩はそりゃ大きなものよ、だけど毛沢東は神様じゃないわ。あたしたちみんなが盛りたててゆかなきゃならないのよ。拝んだりするかわりに、いろいろ意見をしたり批判をしたり、みんなで擁護するのよ。」 玉珍の両親もうなずいてきいている。
 「うんにゃ。」 爺さんの顔が、またしかめつらにかわった。
 「あんたらにゃわからんことよ。いままでいろんな神様がいたけどの、みな供物とりたてるだけ、苦しめられこそすれ何の御利益もなかっただ。毛沢東がきてから田畑も、家もおらたちのものとなった。餓死の心配なんぞまるっきりなくなった。もう貧乏とは縁切りだ。かせげばかせぐだけ自分が得するんだ、国が得するんだ、こんなおらたちの神様がまたとおるもんでねえ。」
 頑固に自説をまげない。
 「それはよくわかるわ。ただね、神様のようにおがんでいるだけではいけないわ。そんなこと知ったら、毛主席はきっと怒ると思うわ。」
 桂花がやっきになって説得これつとめる。
 「わかっとる、わかっとる。わしは恩知らずは大きらいじゃ。拝むだけではない、いっしょうけんめい働いて、もっとよい世の中にするんじゃ。たのしみなことじゃ。」
 私たちはもうこれ以上なにもいえなかった。爺さんのいうことにまちがいはなかったから。
 こんなにまで素朴で、絶対的な信頼をあつめている政治、だからこそ、同じような境遇だった人々の上にも、この自分たちの幸せをわかちあたえようとするヒューマニティ。これが新中国の外交にも政策にもl基調となっている、「大人性」の原因なのではなかろうか。
 北京へ帰る日が近づいている。うれしいような、それでいてすっかりなじんでしまったこの村や、村の人たちと別れたくないような複雑な感情。
 十年後、この村はどんなに変っていることだろう。玉珍のいうように広い畑を縦横にトラクターがかけめぐり、玉珍が得意気に運転しているかも知れない。お爺さん、もっともっと永生きして下さいね。美しく幸せな未来にいつまでも生きていて下さいね。 

 

 北京大学入試 今と昔 文革後初の統一大学入試に思う】

*本稿は『文藝春秋』1978年4月号に掲載された。 

学力低下の大学生

  北京大学を母校のひとつにもつ私は、職場推薦と各級革命委員会批准による大学入学方式が久しくつづいた中国で、文化大革命以来はじめての大学統一入試がおこなわれた報道に、ひとしおの感慨をもって接した。
 受験の年から起算して、四半世紀以上を経た一昨年一月に商社員として北京を訪れたときのこと。久方ぶりの私の「帰省」をよろこんで集まってくれたかつての級友たちは、すでに髪に白いものがまじり、大学進学年齢に達した子供をもつ父や母になっていたし、それぞれの職場にあっては、中核的役割りを果たしている壮年幹部でもあった。
ひとしきせり互いの生活紹介に話の花が咲いたあと、話題はごく自然に、亡くなったばかりの周恩来総理のことにおよんだ。(当時の学生たちにとって、なかば神格化され、やや泥くささをそなえた毛主席よりも、眉目秀でたインテリ周総理のほうに、人気が集まっていたものだ)彼らが故人の死に打ちひしがれつつ、遺志を継いでゆかねばならぬ決意についてふれた際、祖国のゆくすえを案ずるがゆえに、文革開始後卒業の後輩たちの著しい学力低下に対する憂いをこめた指摘があった。
古典ものの理解力欠如はもとより、簡単な化学記号やアルファベットの読み書きすらままならぬ「大学生」が氾濫しているという。労農政権下のこの国にあって、学生のうちから労農大衆と接触をもち、大衆から学び、彼らの生産を助ける作業にたずさわるのは不可欠な要素としても、それはあくまでも副次的なものであるべきで、学生の任務は、本来、知識を学び、究め、将来のよりよい貢献にそなえて、みずからを高めることにあるのではないか、というのが彼らの意見であった。
そして、現状のような大学なら、すくなくとも法・文科系はあっても意味がないとまでいいきるとき、彼らは一段と声を落とし、人差し指を口に当てて、私を牽制するしぐさをみせた。
 そのしぐさの裏にひそむ、得体のしれないなにものへかの憤り、自分たちが在籍したころの学び舎への誇りと自負、今のそれへの批判と痛みがないまぜになった心情をとっさに嗅ぎとった私は、ただひたすら、うなずき返しているだけであった。欝積されていたものが、直接かかわりのない私の出現によって、一気にほとばしりでたという感じでもあった。そうしたことどもをも思いあわせて、このたびの競争率百倍の数字が示す受験戦争のすさまじさ、そしてなによりも、向学の志やみがたい多くの若者たちが回り道せざるを得なかったけわしい歳月に、複雑な思いを馳せたことであった。
 

私の内側の中国

それは一九五〇年の初夏のことだった。中華人民共和国成立後初の統一大学入試が、三日間にわたって中国の主要各都市でいっせいにおこなわれた。第二次世界大戦終了後もひきつづき中国にとどまっていた私は、いわゆる日僑(在華邦人)技術者幹部の子弟として、当時両親が居住していた山西省太原市の山西大学構内試験場で受験に挑んだ。そして真夏のある日、人民日報掲載と受験地での公布によって、唯一の日本人学生として、第一志望校、志望学部でもあった国立北京大学・政法系への入学許可通知がもたらされた。
 当時の中国の新学期は九月である。残暑さめやらぬ九月初旬、私は単身北京に向かい、一九五四年の帰国まで、国際友人としての処遇を享受し、返還不要の奨学資金で学園生活をつづけることになる。
 十年ひと昔というが、三十年になんなんとする歳月が流れ去ったいま、私は記憶の糸をたぐりながら、新中国成立草創期の大学入試と今回のそれとに若干の対比を試みたいと思う。もとより中国問題専門家でも教育関係従事者でもない私だが、母校の変遷への関心が私をかりたてたことを諒とされたい。
 その前に、私が北京大学に入学するにいたった背景をすこし語ることにしよう。 
 大連で迎えた終戦。敗戦を機に、わがもの顔にふるまっていた日本人に対する中国人の報復行為が各所で頻発。大規模な暴動から小さないやがらせまで不穏な空気が満ち満ちており、それに加えて、ソ連軍の不気味な支配、なかんずく家宅侵入による財産強奪、婦女暴行におびえる日々で、敗戦国のみじめさをつくづく味わった。
 そんな状態だったから、医師であった両親が、思いもかけずに新中国政府から請われて帰国を断念せざるを得なくなったとき、日本人の人影みあたらない街なかで、不安におののきながら不運を怨み、綿々たる嘆きの言葉で明け暮れた私たち一家の心情は、容易にご理解いただける、ことだろう。ひときわの底冷えをかこった冬であった。
 一九四七年早春、住みなれた大連をあとに、私たちは海路山束省煙台に渡った。こうして、一九四九年のチべット、海南島、台湾島を除く全土解放まで、私たち一家は国共内戦下の華北地区を、正確にいうならば「晋冀魯預辺区政府」後方部隊に所属して、主として山東、河北、山西各省の抗日革命根拠地を転々と移動することになる。ダブダブの黄色い軍服と軍帽を身につけて――。
 三年間の農村生活は、世間知らずの私にさまざまなことを教えてくれた、いわば「農村大学」ともいうべきものであった。雄大にして、かつ人為の反抗を蔑視するがごとき苛酷な自然。行けども行けども、まるでレコード盤の上をグルグル這いまわっている蟻のようにも思われた一望千里の大地。乾ききって地割れした農地。かと思うと、一陣の大雨のあと、胸近くまで迫る泥水のなかをあえぎ歩いた何時間かのあげく、地べたで夜を明かしたこともあった。
 しかし土地改革が進み、すでに農民が主人公となったこれらの土地では、過去に強いられていた受難の歴史をみずからの手で書きかえる事業が、あらゆる面にわたってくりひろげられていた。
 どんな片田舎に行っても、私たちはその地の農民たちから、素朴な顔で、しかし沈痛な声で、かつての日本軍隊の残虐ぶりを訴えられた。その一方で、貧しい生活のなかから日本人である私たち一家の食事や住居に、せいいっぱいの気を遣ってくれた人たち。そして、けっして押しつけがましい「赤化」教育はしなかったかわりに、明るい未来の展望を熱をこめて語りかけてくれた誘導の解放軍幹部と兵士たち。行軍につぐ行軍(そのうちの大半は夜行軍)のつかのまの休息時に、郷里の民謡や踊りを手ほどきしてくれた老兵。
 彼らの身を挺しての護衛と、底抜けとも思える楽天性に対して私が感じていたいぶかしさも、しだいに理解すべきものへと転じていった。閉ざされていた心の扉が徐々にひらかれるにつれて、私の内側から中国人観が変わっていったのである。
 中華人民共和国成立前後の社会変革期に、たまたま外国人として居留し、古い中国が音を立てて崩れてゆく渦中に身を置いて、私の気持ちは急速に、新しい思想を系統だてて学びたいという方向に傾斜していった。
 

 知識を罪悪とした時代 

中国では、一九二二年以来、基本的にはアメリカの教育制度を受け入れて、六・三・三制をしいていた。つまり、小学六年、初級中学三年、高級中学三年で、その上の大学となると、四年から七年であり、私が入学した年までつづく。
 一九五一年十月に公布された新中国の学制改革は、労働者や農民のための速成、あるいは業余学校、各種の訓練学校などが正規の学校系統とならんで位置づけられたのが特徴で、大学の門は、働く人びととその子弟のために大きく開放されていたといってよい。
 そして、建国初期の、この第一次教育改革が根底から否定され、くつがえされたのが文革であったことは周知のとおりである。おもな対象となったのは、@教育内容が資本主義国、ソ連修正主義の経験をもとにしており、実践、政治、大衆の三方面から大きく遊離している。A就学期限が長く、教学内容に重複が多い。Bしかも成績第一主義で、学生は試験にしばられている、というものであった。。
 そういわれれば、私にも思いあたるふしはある。たとえば、私たちの時代には合格者名発表のときは、各人の総合取得点数もあわせて公示されたし、中間・期末テストの成績も、取得点数の多い者から順に校内掲示板に公開されていた。私にとっては、自分の学力がどのあたりに位置しているのかを知るうえで、また、平素えらそうなことをいっている人が意外にわるい成績であったり、その逆もあったりで、興味をそそられたものであったが。
 また北京大学のばあい、六十点未満が二科目あると落第。単位制ではないが、不足の分だけ翌年にとりかえすというわけにはゆかず、そして連続二年落第すると退学に処せられるきびしさであった。いきおい「ガリ勉」族も多かった。
 当時の教授陣は南方出身者が多く、北方語しか理解できない私にとっては、ことばの面での不便や、落ちこぼれ組に加わらないためには、友人のノートを借りたり、必死の自習で補うしかなく、生来の負けずぎらいも手伝って、勉学は往々にして深更におよんだが、傍らには必ず、幾人かの「同好の士」がいたものだ。余談になるが、苦肉の策として私は、第一外国語に日本語をえらぶことにした。講義に出なくても百点満点がとれるのだから、ぞのぶんだけ図書館で自習ができるというものだ。無理がたたって、のちに健康を害することになるのだが……。
 しかし、文革が進められた結果が、知識を罪悪とみなし、教師や大学卒業生などの知識分子は、地主、富農、反革命分子、悪質分子、右派分子などにつぐ「九番目の鼻つまみもの」の烙印を押されて、階級の敵として位置づけられたばかりか、大学修学年数の極端な短縮(三ヵ月から六ヵ月というものさえあったという)、労農兵を重視するあまり、高級中学(高校)からの現役入学拒否。さらには、社会実践優先の教学放棄(白紙答案を出した者をほめたたえた)などへとエスカレートしていったのである。
 これらすべてが、「四人組」の反革命修正主義路線のなせるしわざときめつけられているが、この十年間におよぶ停滞と迂回は、現代化をいそぐ中国にとって、なんとも惜しまれてならない。
 それにつけても、一貫して学問の自由を高くかかげ、弾圧に屈せず、時の権力ヘの抵抗の歴史と伝統を誇ってきた北京大学が、文化大革命へののろしをあげて先陣を切り、ついに「四人組」が党をのっとって、国家権力を奪う御用道具になりさがった、とこきおろされたことを思うとき、身寄りのものの私意を越えて、いささかの感懐なしとしない。
 いずれにもせよ、「古きよき」時代の北京大学に学んだ者としての郷愁からではなく、かつてそこに籍を置いた一人の日本人として、彼らが理想とする学園のありかたを、なんとか見出してほしいと願うこと切なるものがある。
 

大学生募集方法

そして、いま――新華社報道による大学生募集方法はつぎのようなものであり、学科成績を重視するなど、新中国成立直後に戻ったかのごとき一面をみせながら、故毛主席、周総理の遺志を継いで、今世紀内に四つの現代化を実現するための政治思想(紅)、専門技術(専)ともにすぐれた社会主義建設の人材を速かに養成する姿勢を打ち出している。
一、募集原則……徳育、知育、体育を全面的に評価し、優秀な者をえらんで入学を許可する。
二、募集対象……労働者、農民、農山村入りした知識青年、帰郷した知識青年、復員軍人、幹部、高校新卒者で、年齢は二十五歳以下。未婚者。
三、募集条件……政治的経歴がはっきりし中国共産党を擁護し、社会主義、労働を熱愛し、革命的規律を守り、革命のために学ぶ決意があること。高校卒業、あるいは同程度の一般知識水準にあること(在学中の高校生で、特に成績優秀な者は個人で申請し、学校の紹介を経て受験できる)。実践経験が比校的豊富で研究成果をあげ、または確かな特技を持つ者は年齢を三十歳まで引き上げ、未既婚を問わない。健康であること。
四、募集方法……自発的応募、統一試験、地区・市の一次選抜、学校側の入学許可、省・直轄市・自治区承認の方法をとる。
五、応募に際して……自己の志望と特徴に応じて、二ないし三の学校、学科を志願てきる。
六、試験科目……試験は、文・理二つに分けて実施する。文科系の試験科目は、政治、国語、数学、歴史、地理。理科系が政治、国語、数学、物理、化学の試験を行う。外国語専攻応募者は、外国語の試験を加える。
七、試験方法……省・直轄市・自治区が試験問題をつくり、県(区)が統一的に試験を行う。
八、少数民族出身者、一定数の台湾省籍青年、香港・マカオの青年、帰国華僑青年の募集に注意を払う。
九、卒業後は、国家の統一的分配に従い、祖国の最も必要としているところ、最もきびしいところへ行かなければならない。

 明治維新の意義を記せ

 私の受験体験をふりかえってみると、一から四までの部分は簡単な規定だけで、当時は「中華人民共和国を熱愛し、新中国建設に献身的に奉仕する気概と旺盛な求知欲をもち、健康にして、高校卒業、または同等の学力を有する青年男女」とあり、年齢や未既婚の別は問われなかった。労働者、農民、復員軍人からの優秀者選抜が一九五〇年はじめて登場して新鮮な話題を呼び、対象者は外国語と自然科学科目の試験を免除された。しかし実際には、労農兵の入学者はこの年わずか一割にも満たず、その比率が増大するのは次年度からとなる。
 応募者は、自分の進みたい校名と学部名を五項目まで志望することができた。ちなみに、一九六〇年代に北京大学で学んだ西園寺一晃氏によれば、十五から二十項目までの志望であったというが、全受験生が二十項目を書きこんだのであろうか。私は第三志望までがやっとであった。(すべて北京大学とし、学科は法、哲、経済学の順とした)
 試験の結果と志望にもとづいて、理工系なら当然理数科の成績が重んじられて、上から順にあてはめていかれたようである。
 試験科目は、法・文科系が政治、国語、地歴、外国語(英語もしくはロシア語)、そして数学、物理、生物、化学のいずれか一科目の選択であった。これに対して、理・工・医科系は専門科目の数学、物理などにプラス政治、国語、外国語であり、社会科学、自然科学系ともに、計五科目、五百点満点とされていた。
         受験制度の功罪やその方法については、わが国でも立場と角度をかえて論じられているところであるが、人間社会における競争の原理はともかくとして、人間はある程度苦悩すベきで、それを果敢に乗りこえてゆくところに人間的成長が得られるとする自説は、今も曲げたくない気がする。
 ただし、たとえ受験に失敗したとしても、分配された職に不服を申し出ないかきり、就職が保証される中国ならではのこと、というべきだろうか。
 さて、当時すでに、日常生活にこと欠かぬ程度に中国語を話し、文章も綴れた私だが、それでも受験勉強はずいぶん苦しいものだった。(当時の競争率は三十倍。今回の百倍にははるかにおよばないが、二十八年前でもこの倍率であった)
 なかでも、国語と歴史はもっとも私を悩ませた。案に相違して、国語は「中華人民共和国の成立に思う」「私の受験動機と将来の抱負」二題から択一の作文であったことが幸いしたように思う。(古文解釈など求められたら、お手あげだったろう)が、歴史は、おそらく芳しからざる成績であったにちがいない。わずかに、明治維新と南北戦争の西暦年号とその歴史的意義を記せ、が出題にあったのを記憶している。
 政治は、いわば社会常識問題ともいうべき内容のものであった。社会発展史や矛盾論に加えて、新中国憲法、発布されたばかりの婚姻法からの出題。
 外国語は、私のばあい、習いたてのロシア語で受けた。英語はかなり高度のものときかされていたし、戦時中日本では敵国語として、十分な教育がほどこされなかった私としては、敬遠せざるを得なかった。単語、文法(正誤判別)、華訳(童話)、露訳(ここでも新中国憲法がとりあげられた)の四本建てであつた。
総じて、基礎学力と知識さえそなえていれば、七分通り解答可能の試験問題であり、記憶力よりもむしろ理解力、文章表現力に重点が置かれていたような気がするし、その意味で、○×式の出題は一切なかった。
 

学科試験に力を入れる 

興味あるのは、今回、中国教育部(文部省)が学生募集に関する一連のキャンペーンを張っているなかで、学科試験について強調していることである。「試験が徳育、知育、体育の面で、生き生きとして活発であり、主動的に発展する青年を養成するのに有利ならしめるにある」とその基本精神を説き「毛主席は試験方法の改革は提唱したが、学科試験に反対したことはなかった」。「“四人組”を打倒したいま、堂々と学科試験に力を入れ、徳育、体育ともに同程度であったなら、知育が優秀な者を選抜して進学させてこそ、正しい政治方向に沿って、科学、一般知識の習得に励み、科学技術の高峰をきわめる基礎をうち固め、四つの現代化実現に、その聡明、才知を捧げるよう青年を鼓舞することができる」と述べている。
また、しごく当然のことながら、「大学は、大学という以上、高等な学力水準をもたなければならず、この水準は客観的なものであり、世界的なものでもある」と指摘しているし、現役学生を募集することの利点についてもあらためてふれ、各方面に社会主義中国らしい理論づけをしながら、学生の質の保証を重視する姿勢がみられるのである。
 そして中国教育部は、つぎのようなことばでしめくくっている。
 「広範な青年に心からつぎのように希望する。党中央のよびかけにこたえ、革命のために文・科学の高峰をきわめる雄大な志を立て、祖国が行う選択を受け入れなければならない。『一つの赤い心、二つの心がまえ』がなければならない。入学を許された者は革命のために学習につとめ、入学を許可されなかった者も、仕事の持ち場をしっかり守り、気持ちよく農山村に入り、革命に力を入れて生産を促し、実践を通じて学習し、向上しなければならない。
 大学に入学を許された者であれ、職場にある者であれ、すべて真剣にマルクス・レーニン主義、毛沢東思想を学び、専門の研究に励み、研鑚のうえに研鑚を重ねて、四つの現代化実現に頁献するよう努力しなけれはならない」と。
にもかかわらず、一部の幹部と学生募集関係者が職権を利用して不正をはたらき、自分の子弟の裏口入学をはかったことが名ざしで指弾を受けるなどの事件も今回に発生した。人間革命がいかに至難なものであるかを物語るよすがであろう。
 

栄えある革命の伝統 

現在の北京大学校舎は、往時の名門私大、燕京大学跡地にある。しかし私にとっては、現校舎より在学期間のほとんどを過ごした北京市内にあった旧校舎のほうが、はるかに思い出は深く、多い。
 
一昨年の「里帰り」の際、投宿先の北京飯店から王府井を抜けて旧校舎前を通り、ついで北海公園を右手にのぞみながら、西郊外の名勝地――頤和園に向う途中にある現校舎とを車で一巡した。真紅の色彩も鮮かな現校門の革やかさに較べて、旧校舎のほうは日曜日のせいもあってか、ひっそりと門を閉じたままであった。そして当時、建物の色分けや東西南北の方位によって、それぞれに呼び名のあった「紅楼」「灰楼」「北楼」などは一様に色褪せて、折からのきびしい寒気のなかに、黙々と屹立しているのみであった。
 入学当時は、昔ながらの長衣の裾さばきも優雅な教授や、流行しはじめた人民服を着こなした学生たちが往き交い、あるいは憩っていた庭園やグラウンドは、建物に遮断されて目に届かなかった。ほんの一瞬、私は門を推しあけて案内を乞いたい衝動にかられ、ついで、懸命にそれを抑えた。
 ことしの一月、私は再び商用で東京・北京間を往復した。しかし連日仕事に追われ、私的な交友や散策をたのしむゆとりはなかった。あるいは時間的制約というよりも、「四人組」追放後も北京大学内の運動がはかばかしくなかったことが、私の心のどこかにひっかかっていたせいだったかもしれない。
 そんな心を見透かしたかのように、帰国前日の人民日報は「北京大学に新気運、梁効グループを粉砕」と題するルポルタージュを掲載したのであった。
 「最近、記者は北京大学に取材にでかけて、北京大学には希望があるという印象をもった」ではじまるこの文は、学内の教学、研究活動に新しい気運が現われている現状を、「黙して“四人組”を蔑視しつづけた」老教授や、冤罪を蒙った教職員の陸続復活を告げながらつぶさに紹介し、一年あまり前まで閑散としていた図書館に、早朝から学生が駆けこみ、空席のいとまもない情景をコントラストに描き出して終っている。
 どうやら、北京大学の栄えある革命の伝統は、回復したというべきかもしれない。きびしい関門をくぐり抜けた今回の合格者は二月末までに入学手続き完了が報じられている。解放、文革につづく第三の教育革命がはじまったばかりの中国。いま、静かに新しい戦闘配置につきつつある教師にとっても学生にとっても、そのみちのりはけわしい。しかも、急がなければならない。
 二十三年後の一九九九年、私がもし、なお生きながらえているとしたら、半世紀をへだてた「後輩」たちの存在は、私にとってこのうえなくまぶしいものに映るにちがいない。

蝸牛角上争何事 蝸牛角上なにごとを か争う
 
石火光中寄此身  石火光中この身を寄
 
随富随貧且歓楽  富めるまま貧しいままにしばし歓楽せよ
 
不開口笑是癡人  口を開きて笑わざるはこれ癡人なり

                 ――白居易「酒に対す」から―

 

【手紙】

    *吉川祐子さんは、2000年2月から半年間の入院をしていたさなか、以下のような手紙を友人と知人に送った。ここには彼女の晩年の病状と心境がつづられている。

2000年5月31日

ごぶさたしております。今もまだ病院におります。1月の初めにインフルエンザにかかって入院して以来、なかなか病院とは縁が切れません。しかも、この間、一滴の水も一粒のお米も口から入れられない「点滴人間」の状態が4ヵ月も続きました。
  肺結核、気管支炎、肺気腫、心臓衰弱、腎不全、貧血、真菌性眼内炎、網膜はく離、……つけられた病名の一覧表を見せられただけでもゾッとするほどです。人工呼吸器ははずれましたし、食事も5月末になってようやく口から入れられるようにはなりましたが、人工呼吸器をつけるために気管を切開して喉に開けられた穴は、まだそのままです。
  5ヵ月以上も寝たままでしたので、足腰がすっかり弱くなり、今、歩くリハビリをはじめております。ここ数日はようやく、手すりにつかまりながら、
4050歩ほど歩けるようになれました。でも、日常生活に戻れるようになるには、今後かなりのリハビリが必要なようです。
 左眼の網膜剥離は、伊勢原にある東海大学病院に転院して、手術を受けました。なんとか墨絵の世界から抜け出したいと、懸命に努力してきましたが、どうやらこの手術は成功したらしく、眼帯がとれ、いまは、目を保護する荒いネット状の「メガネ」(?)のようなものをかけています。それでも、手術前よりは、ものの形、色などがかなりはっきり見えるようになっていますが、これも、視力が安定するまでには、あと3ヵ月ほどはかかるそうです。
  ようやく、みなさまにご報告とお礼の手紙を書こうという気持ちにはなってきましたが、まだいろいろ他のことに手を出すほどには体力が回復してきておりません。
  「絶対に病気を克服するゾ!」という強い決意などと言うよりは、痛みや不調と折り合いをつけ、付き合いながら、歳相応に元気になる方法を探りたいと念じております。何とか6月中には病院を抜け出したいと願っておりますが、はたしてどうでしょうか。
  このお手紙は、これまでお見舞いなどを頂いたごく親しい僅かな方だけに、とりあえずのご報告としてお送りいたします。
  現在、体重32キロ、すべての日常生活を一人でできる状態ではまだありませんので、何とかそうなれるよう、一所懸命にベッドでの毎日を送っております。この手紙もつれあいにワープロで打ってもらいました。

 

御会葬御礼

 妻 祐子はニ〇〇五年 六月七日 十五時五十分 心不全のため水眠いたしました。享年七十四でした。
 本日は妻 祐子の葬送の儀にご参列くださいまして、ありがとうございます。

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  吉川〈南條)祐子儀 去る○月○日死去しました。ここに生前のご交誼にに対し、心から感謝申し上げます。
  なお、「ひっそりと消えていきたい」という故人のたっての希望により、なにとぞ一切お構いなくお願い申し上げます。
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 これは、故人が、自身の「死亡通知」の文章として書き残したものです。故人の意思を尊重し、簡素な送り方を心がけました。なおご香典につきましては、本人が最期までねがっていた、憲法九条を守るための活動に役立てさせていただきます。ご了承ぐださいますようお願いいたします。

  東京都西東京市保谷町六の十七の四
               喪 主  吉.川 勇 一