相模原事件からみえるもの 基調報告 2016年11月23日 冠木 克彦 第1.はじめに 1.本日の集会の基調報告をいたしますが、なかなか、この原稿が作れませんでした。何回か試みてもうまくいきません。やっと、その原因がわかりましたが、それは、この相模原事件によって、気持ちが撃ちふさがれているからだとわかりました。それほど、この事件の衝撃は大きかったのだとおもいます。このままだと、この事件に負けたままになると自覚して意識的に障がい者差別への怒りをかき立てることによってはじめて正常な視点にたつことができました。 2.私たちは「脳死」問題から出発してきましたが、その心は、いかに死に近い命であっても生きているのであり、生きている限り平等な命として尊厳されなければならないことにあります。命に差別をつけたが最後、ゼロに近くなった命はより元気な命のために殺されても良いという発想になり、さらに、この資本主義社会の金銭的価値法則の序列に引き込まれると、命が損得の天秤にかけられ、相模原事件の犯人のように金銭的価値を生まない命と彼が考えた人は生きる価値がなくころされたわけです。 3.私たちは今回の事件が特異な犯人の個人的犯罪とはみていません。現在の政権がこれまでの自民党政治の社会保障削減、弱者切り捨て政策が進行するなかでその考え方や思想に影響された犯人がいわば政権の先駆けとして敢行した事件であり、この事件を徹底的に批判しその根底にある思想を批判するととも生存権を脅かす政策に戦わなければこの事件を克服することにはならないと思います。 第2「脳死」問題と「相模原事件」  1.私達は、脳死は人の死ではないことから、「脳死者」から臓器をとって移植することは殺人であるとして反対してきました。臓器移植法ができて現在は法的には殺人ではないとされていますが、実態はなんらかわっていません。「脳死者」から臓器を「かりとる」時に麻酔をかけてとります。生きているから、激しく動いたり、ときには暴れたりするからです。    なぜ、このようなことが許されるのでしょうか。それは、脳が「死亡?」したと判断され、脳が死ぬとそれは「ひと」ではないと「勝手」に決められたからです。脳死臓器移植が合法か違法か広範な論議になっていた30数年前、高名な心臓外科医は、脳死になったという人をさして「ミミズみたいな状態で生きているといえるのか」と公言しました。  2.相模原事件の容疑者は、重複障害者で「意思疎通のできない人は生きる価値がない」との考えで19名を殺害し、27名に傷害を加えるという戦慄すべき犯行を貫行しました。この事件でも、意思疎通という精神活動がない(と彼が考えた)人は、それは人ではないと考えたことを示しています。  3.脳死による臓器移植については、当初の臓器移植法では、自らの臓器を提供してもよいという本人の意思がなんらかの方法で認められる場合のみ移植を可能としました。これは、生きている人間から臓器をとることを合法化するためには、ただひとつ「本人の移植をしてもよい」という意思があることです。そして、それが絶対であったはずです。    ところが、移植を推進するため、2009年(公布・2010年施行)臓器移植法を改正(改悪)し、本人ではなく家族が同意しても移植できることにしました。即ち、脳死者は死者として扱われ、本人の意思を無視して臓器をとってもよいとされました。  4.相模原事件の容疑者の理想の社会は、重度の障害者達について「家族の同意で安楽死できる社会」とうそぶいています。    脳死について、その人は生きているのに脳活動不全によって「人の死」とみなし臓器をとる(殺す)ことが合法化されたことと、相模原事件の容疑者が意思疎通ができない=脳活動が十分できない人を人と認めないと考えたことにおそろしいほどの共通性が認められ、戦慄を覚えざるをえません。    さらに、家族同意のみで臓器摘出ができるとしたことと、家族同意で安楽死すべきとした考えとの一致性に驚かざるをえません。  5.「脳死」問題から現在は尊厳死法制化への動きと、法制化なしに医療現場で実質的に延命治療の切り捨てが進められています。終末期医療において延命治療拒否についての同意が当たり前のように実質的な強制が進んでいます。  6.相模原事件が提起した問題は、意思表示できない重度障害者や病者を抹殺してもよいという思想が公然と現れ、一方、社会的現実として、特に安倍政権によって顕著に進められている弱者切り捨て政策と相まって、広く社会保障政策や障害者やマイノリティーとの平等、インクルーシブ社会形成が大きな危機に立たされていることを確認しなければなりません。二つの闘い、即ち、切り捨て政策そのものへの闘いと、考え方、つまり、イデオロギー闘争を地道に進めなければならないでしょう。 第3.相模原事件の本質  1.生命と尊厳、二重の殺人    全盲と全ろうの重複障害を持つ福島智東京大先端科学技術研究センター教授は本件事件の本質を的確に規定されました。つまり、まず第1の殺人は「人間の肉体的生命を奪う生物学的殺人」、第2の殺人は「人間の尊厳や生存の意味そのものを優性思想によって否定する実存的殺人」と規定しています。    この後者の殺人こそ人々の思想・価値観・意識に浸透し、むしばみ、波及するウィルスのごとき「大量殺人」と的確な指摘をされています。(毎日 7月28日)  2.差別への対抗語らぬ政治(9月24日 朝日)    容疑者は「障害者は不幸を作ることしかできません」と差別をむき出しにした殺人犯行予告をしたにもかかわらず、犯行予告を受けとった衆院議長も、安倍首相も、殺人行為を非難したが、障害者差別は許せないとは言わなかった。そして、いまだに政権は口にしようとしていません。  3.真の被害者は誰なのか(10月12日 毎日)    被害者の氏名が匿名報道であったこと、からはじまってこの記事が書かれていますが、匿名だけでなく、殺人予告に警察が動いていないことや、戦後最大級の大量殺人事件であるのにそのような扱いはなされていません。    この記事は「傷害の子の存在を隠すのが救済か」という疑問を提示し、「真の被害者が何もいわないから、許されているだけ」と記載しています。  4.事件自体は、ナチスの「T4作戦」と同じ。ナチスは、優性思想に基づき、障害者を「生きるに値しない生命」とみなし、「安楽死」の名の下に20万人を虐殺しました。その恐怖と思想の伝播に障害者はふるえおののいています。 第4.私達がとりあげるべき対象  1.包括的対象としては    「差別意識を伴って攻撃にさらされる社会保障政策の切り下げや、要保護者への攻撃に対し、社会に対し告発する声を発信していく」    「人格に対する蔑視を伴った権利の侵害に対しては徹底して闘わなければならない」(イエーリング『権利のための闘争』)  2.思想、イデオロギーに対する活動は、他の課題と併行的にでも常に発信していく必要があります。    はじめにで述べましたように、私達は脳死問題から出発し、「ミミズの如く」と蔑視された脳死者の人権のために闘い、その誤った思想を批判してきました。    相模原事件は、正に、「生命の選別」を公然と主張する行為であり、この「生命の選別」は、後に具体的にみるように、現安倍政権によって積極的に推進されています。これに対して、政策とともに常にイデオロギーを批判する必要があります。 第5.私達の思想を積極的に主張・宣伝する必要があります。  1.優性思想批判   我が国には、ほんの20年前まで優生保護法という法律があり「不良な子孫を残さないため」という法の目的が規定され強制不妊手術などがなされたという歴史をもっています。今、この法律は母体保護法と名称を変え、上記規定は削除されましたが、優生思想自体が批判克服されたわけではありません。したがって、私たちは意識的にこの優生思想自体を批判克服しなければなりません。  2.新自由主義思想と政策批判   新自由主義とは国家による福祉・公共サービスの縮小と大幅な規制緩和・市場原理主義を根幹とし、社会的には競争・差別・自己責任が押しつけられ、これらの連続した攻撃は今や「命の選別」にまで至っている。この思想と政策の批判活動は不可欠の重要性を持つと思います。 。  3.憲法25条に基づく広範な社会保障の拡充に向けた主張と切り捨てに対する各政策の批判  4.インクルーシブ社会へ発展しましょう   分け隔てのない、差別のない社会、障がい者やマイノリチーが住みやすい社会こそすべての人にとって住みやすい社会であることを確認して発展させましょう 集会まとめ   大変重要であり難しい諸問題をそれぞれの担当者が簡潔に要点をまとめ非常に内容豊かな集会になりましたこと御礼もうしあげます。障がい者運動の入門書的な本に紹介されている感動的なエピソードは、いかなる刺激にも反応しなかった重度の障害者が職員の粘り強い働きかけの結果、約半年ぐらいたってその障害者が「笑った」という事実です。相模原事件の犯人は意識が通じない人として殺害しましたが、いかに重度の障害者も自分の意思をもっています。ただ、伝達や意思形成に困難を伴うだけであることを彼はしりもせず、あえて知ろうともせず人間あつかいせず殺しました。彼にはヒュウマンな豊かな未来をみる力がなかったのです。彼は滅び行く世界を象徴しています。私たちはインクルーシブな分け隔てのない発展する社会とその世界を体現するものとして、活動を広めていきたいと思います。ありがとうございました。