「死の自己決定権のゆくえ」                                 2014年2月22日                                     児玉真美 T.2006年に既にあった、その後の世界で起こることの縮図 ・NYの葬儀屋スキャンダル ・パキスタンの地震で臓器泥棒 ・臓器の闇売買は公然の秘密 ・貧困国に先進国の富裕層の医療をアウトソーシング:医療ツーリズム U.その後の世界を予言・象徴するかのように起きたアシュリー事件 2004年シアトルこども病院が重症心身障害児アシュリー(当時6歳)に行った医療介入。 親が考案し要望。“アシュリー療法”と名付け一般化を提唱。2007年に論争に。   @子宮摘出 A乳房摘出 Bホルモン大量投与による身長抑制 理由と目的 @ 子どもを産まないので子宮も乳房も無用。病気予防。レイプされた時の妊娠予防。 A 背が低ければ家庭介護がずっと可能。本人の活動性・生活の質を守る。 B 知的には赤ちゃんで身体だけ成熟した女性というのはグロテスク。 C 利益とリスクを比較検討して、総合的に「本人の最善の利益」 主な批判の論点 ・アシュリーの尊厳と身体の統合性を侵すものである。 (シンガー「人間の乳児より知的レベル高い犬や猫にも尊厳認めない」:パーソン論) ・障害者の生そのものを価値なきものと捉えている。 ・強制不妊など障害者の人権を侵してきた医療の誤りの繰り返しになる。 ・人を変えるな、社会を変えよ。 ・子どもの医療に関する親の決定権は絶対ではない。 ・意思決定のプロセスが不透明かつ不十分。 ・正当化論、擁護・容認論の行間から頻繁に聞こえてきた「だって、どうせ」 ・ブログ「Ashley事件から生命倫理を考える」 ・「メディカル・コントロールと新・優生思想の時代」のトバ口で起きた象徴的な事件 V. “コントロール幻想”と市場原理の世界 ・いとこ11人が胃を全摘して「がん予防」 ・ 乳がん予防で健康なうちから乳房摘出 ・“乳がん遺伝子”ゼロ保証つき赤ちゃん誕生(英 09) ・臓器ドナーとして生まれてくる子、“救済者兄弟” ex.『私の中のあなた』(09) ・代理母ツーリズムと「自己選択・自己決定」 搾取かWin-Winか ・グローバル化した新自由主義経済 ・わずか1%のスーパーリッチが米国の富全体の5分の1を所有(2012) ・格差の広がりと、これまでの世界ではありえなかった規模の利権 ・マーケットの創出と消費、それに伴って拡がる“コントロール幻想” ・市場原理正当化のツールとしての「自己決定」は「自己責任」に転嫁される ・新型出生前遺伝子診断 ⇒ 新型着床前全ゲノム読解(NGS) ・「199の国で禁じたとしても、それは200番目の国にとって大きなビジネスチャンス」 ・これだけグローバル化した世界で日本だけが世界の動向と無関係でいられるものか? ・日本での議論もこうした「大きな絵」の中に位置づけて考える必要があるのでは W.「死の自己決定権」 ・(積極的)安楽死、医師の幇助を受けた自殺の合法化や、それに向けた議論の広がり ・2006年段階で合法化されていたのは、オランダ、ベルギー、米国オレゴン州 ・その後、米ワシントン州(08)、ルクセンブルク(09)、米モンタナ州(09:合法判決)  バーモント州(13)とニューメキシコ州(14:合法判決) ・合法化した“先進国”で起こっていること       ○認知症の人への安楽死、安楽死専門クリニック(オランダ)      ○癌センターの「尊厳死プログラム」(米ワシントン州)       ○聴覚障害者への安楽死(ベルギー)     ○性転換手術の失敗に絶望した人が安楽死(ベルギー)     ○認知症の人と未成年への対象者拡大について議会で審議中(ベルギー) ・「安楽死後臓器提供」(ベルギー):ドナーには神経筋肉障害者、精神障害者 ・移植医はこれも「患者の自己決定」「一人で多数の命を救える愛他的行為」 ・「臓器提供安楽死」(2010年論文でウィルキンソン&サヴレスキュが提言)       ・議論につれて対象者が拡大していく現象 ・「障害のある生は生きるに値しない」という暗黙の了解?  X.「無益な治療」論 ・もとは「もう助けることができないなら無益な治療で苦しめるのはやめよう」 ・治療の一方的な停止や差し控えの決定権を医療サイドに認める論拠に ・米テキサス州の通称「無益な治療法」  ・ここでも議論につれて対象者が拡大 露骨になるコスト論 ・終末期 ⇒ 植物状態 ⇒ 最小意識状態  ⇒「元の機能レベルには回復しない」「救命しても24時間要介護状態」 ・英国では一方的な蘇生無用(DNR)指定と終末期パスの機械的適用問題  シノドス:『「どうせ高齢者」意識が終末期医療にもたらすもの』(1月10日)  「過剰医療」も「さっさと死なせる」も同じコインの裏表では? ・「無益な治療」論に感じる疑問3つ @ 「死ぬ」という一方向にのみ尊重される自己決定「権」? A 個別検討であるべき医療の決定が、障害像と年齢による一律の切捨て論に変質 B「無益な治療」論も臓器移植と結びついている   ○ナヴァロ事件(米2006):重症障害者の救命より臓器を優先し大量の薬物投与   ○ケイリー事件(カナダ2009):ジュベール症候群の乳児を心臓ドナーにと呼吸器停止 ・2008年の2つの気になる論争(米)   ○デンバー子ども病院の「75秒観察プロトコル」     「小児科病院で死ぬ乳児の3分の1は生命維持の引き上げの後で死んでいる。      これらの乳児は命を救う臓器の貴重なプールである」   ○ロマリンダ大研究者論文「小児脳死判定、14項目満たしたのはたった1人」     「チェックリストがきちんと守られようと守られまいと……回復可能性はすでに 極めて小さい。……不確実なのは死ぬかどうかではなく、いつ死ぬかでしかな い」 ・「どうせ死ぬ人」「どうせ死んだも同然の人」意識が広がっていく。 ・「どうせ」の共鳴と共有の勢いが、理や言葉や思いを尽くした議論を押し流していく。 ・「どうせ」の共鳴と共有の勢いが、ルールをなし崩しにしていく。 ・「どうせ」の共鳴と共有が人々の意識や社会のあり方を決定的に変えていくのでは? ・私たちは何か決定的に大切なものを手放そうとしているのでは? Y.最近の2つの事件から見る、米国の「死の自己決定権」と「無益な治療」論の現在 ・バウワーズ事件(米IN州):事故で全身まひになった翌日に呼吸器はずしを「自己決定」     「患者にはあらゆることを自己決定する権利がある」 ・ジャハイ・マクマス事件:扁桃腺手術から「脳死」になった少女の生命維持論争      「医師が脳死と診断したら、その人は法的にも科学的にも“死体”」     「家族が受け入れないのは、科学に対する無知」「死体に治療は無用」      1月6日に転院 回復の兆し?          マグナス「正しく診断された脳死から回復した人はいない」 ・松永正訓『運命の子 トリソミー        短命という定めの男の子を授かった家族の物語』(小学館)     ○1時間24分しか生きられなかった小さないのちを丁寧に看取り、悼んだ病院  ・この姿勢が何分の1かでもジャハイさんの手術をした病院にあったなら……  ・「どうせ」と言っていのちに線引きしない医療 ・「どうせ」と患者に背を向けて無関心へと立ち去らない医療 ・「どうせ」と言っていのちに線引きしない社会 ・「どうせ」と弱者に背を向けて「自己責任」の中に捨て去ることのない社会