元海兵隊員アレンネルソンさんは訴える

兵士よ故郷アメリカへ帰ろう!

アレンネルソン 

1947年生まれ。
アフリカ系アメリカ人

 1966年、海兵隊員として、ベトナム戦争に従軍。ベトナムへの途上、沖縄のキャンプハンセンに駐留。 

 除隊後はボランティアとして、軍隊にはいるかどうかで悩む青年の相談相手を長年勤め、現在、ニュージャージー州、カムデン市で教育活動をしている。

 カムデン市はアメリカの中でも貧しく、犯罪の多い町だが、その中で黒人とヒスパニック(中南米系)の中学生や高校生に勉強できる場を提供し、大学進学への道をつくる。

 今年、2月、ニュージャージー州とコロラド州を中心に、沖縄にいた元宣教師や、教師、それに市民運動家が集まってつくった「沖縄駐留米軍をアメリカに連れ戻すネットワーク」の呼びかけ人の一人。今回、同ネットワークの活動で来日した。


講演記録(要旨)96年5月20日、東京の早稲田奉仕園で開かれた
アレン・ネルソンさんの講演会の記録(要旨)です。 

 ようこそおいでくださいました。私は一週間ほど沖縄で過ごし、今日、沖縄から東京に来たばかりです。沖縄ではとても素晴らしい平和に満ちた人たちに会い、貴重な時間を過ごしました。前回、私が沖縄に来たのは18歳の時でした。1966年にベトナムに行く途中で、現在の私とはだいぶ違っていました。その時にはアメリカ海兵隊に属していました。

 今日、みなさんにお話ししたいのは、どんな人たちが軍隊を構成しているのか、彼らはどういう人たちなのか、なぜ軍隊に入ったのか、ということです。ほとんどの人たちは同じような境遇、すなわち私と同じ境遇の人たちが軍人になっているということをおわかりいただけると思います。

 海兵隊に入ったわけ

 私はニューヨークの郊外の貧困地域で母親に育てられました。母は4人の子どもがおりましたが、母一人で私たちを育てました。とても大変なことでした。母も、そして私も、子どもとしてたくさんの家庭内暴力を見、そのために私は怒りに満ちた人間になってしまいました。もう一つ、私を怒りやすい性格にしたのは、貧しい暮らしです。外出するときにも、汚い格好でいくしかありませんでした。

 私の父親が母を殴るのを見ると、私は翌日、学校で誰かを殴っていました。私は怒りに満ちていたからです。とても傷ついていたからです。どうして、他の子供たちが微笑んだり、校庭で遊んでいられるのかわからなかったのです。だから私は、微笑んでいる子どもを見つけると殴っていました。どうして彼の人生がそんなに「良く」て、私の人生がこんなに「悪い」のか、理解できなかったからです。

 私の両親はよくけんかをしましたが、たいていそれはお金のことで、それは夜でした。あるとき、両親は昼間からけんかを始めました。私が6、7歳の頃です。それはすごいけんかで、近所の人が警察を呼びました。私の地域でけんかぐらいで警察を呼ぶということはまれなことでした。警察が来て、ドアをノックしたので私がドアを開けにいきました。そこには2人の大きな私服警官が立っていました。

 けんかがひどくなった原因は、母が父に反撃したからです。母はただ殴られて寝室に行くというタイプの女ではなく、綿やタバコを摘み取っているような強い、田舎育ちの女でした。母はいつもやり返すのでけんかはいつも激しかったんです。

 警官はアパートに入ってきて、父に「一緒に来い」といいました。父がちゅうちょしていると、警官は父に飛びかかって、殴りつけました。父は殴るのをやめるように警官に懇願し、泣いていました。母も殴るのをやめるように頼みました。私は泣き、妹たちも泣きました。警官はついに殴るのをやめ、アパートから出ていきました。母と私と妹たちで父を抱いて寝室に連れていき、ベッドの上に寝かせました。父はそのまま2週間ベッドの上に寝たきりでした。子どもの私はベッドの上の父のところにいき、父の手を握っていました。父は元気になると家から出ていき、2度と帰ってきませんでした。

 16歳になると、私はこのような境遇から抜け出したいと考えるようになりました。何か、今までと違ったものを、自分のために欲しくなりました。テレビや映画で見るような素晴らしいところを見たくなりました。与えられていた唯一の選択肢は海兵隊に入ることでした。海兵隊はたいへん暴力的な軍隊だということを知っていましたが、私にとってそれは問題になりませんでした。私のそれまでの人生そのものが暴力的でしたから。家の中で暴力は十分に見てましたから…。だから海兵隊に入ったときに暴力的なことをすることは、私にとってきわめて自然なことでした。それどころか私が「ニガー(黒人の蔑称)」でなくなるチャンスを海兵隊は与えてくれたのです。アメリカ社会においては黒人は「ニガー」でしかありません。しかし海兵隊員になるということは素晴らしいことです。人々に尊敬され、職を得ることができ、みんなから「ありがとう」と言われます。また、「海兵隊になればそういうものが得られる」と言われました。

 こんな話をしたのは、私がベトナムに行ったときは、とても怒りに満ちた人間であったということをわかってもらうためです。その怒りを誰にぶつけようと気にしませんでした。アメリカ海兵隊は、その怒りをベトナムの人たちにぶつける機会を与えてくれたのです。

 ベトナムへ

 海兵隊が最初に新兵におしえること、それは「命令に従うこと」です。「疑問を持つことなく命令に従うこと」です。洗脳された兵士は、いったん戦場に行けば、与えられた命令はどんなことでも遂行するように仕込まれます。考えることなしに、質問することなしに、疑問を持つことなしに実行します。海兵隊にはこういう言葉があります。

「考えるのはおまえの仕事ではない。おまえの仕事は、実行し、死ぬことだ」。

 命令に従うことを教え込んだ後は、「殺し方」を教えます。多くの時間を「殺し方」を習うのに費やし、海兵隊に入って18歳になるまでに、25種類もの人の「殺し方」を覚えました。有益で、役に立つ技術です。それこそが兵士が持たねばならない技術だからです。兵士というのは、平和を維持する人(ピースキーパー)でもなければ、ソーシャルワーカーでもありません。兵士はピースキーパーとして訓練されていません。兵士は「殺す」ことを訓練しているのです。それが彼らの仕事です。「殺す」ことです。

 

 私はベトナムに着いたとき、とても興奮していました。アメリカという国に対して、私が価値ある人間で、いい仕事をし、教育もあることを証明し、私を黒人としてではなく、何をおいても国に対して奉仕した者として見てくれることを喜びました。だからベトナムに着いたことをたいへんうれしく思いました。ジャングルにいることは好きだし、私は速く走れるし、何が身の回りで起きているかといった観察力は優れているし、人を「殺す」ことも得意でした。

 私が初めて人を殺したとき、上官がやって来ました。上官はとてもうれしそうでした。というのも私がついに「敵」を殺したからです。私が「頼りになる」ことが証明されたからです。彼は私にナイフを渡して、「おまえの勲章を切り取れ」と言いました。「勲章」とは、耳のことです。海兵隊はベトナムで人を殺したとき、(勲章として)その耳を切り取る習慣があり、みんなそれをひもに通して首の回りに下げていました。

 私は自分が殺した男のところへ行き、耳を切り取ろうとしたときに、耳をぶら下げている兵士たちのまわりにはハエがぶんぶん飛んでいて、とても臭かったのを思い出しました。それで私は耳を切り取るのをやめ、その死んでいる男から立ち去りました。

 私はへんな気持ちになりました。自分のしたことが正しかったのか。なんか胃袋がキューっとなりました。上官がやってきて「どうかしたのか」と尋ねました。私は「へんな気がする」と答えました。上官は「初めて殺したときには、みんな同じような気分になる。気にしなくていい。すぐに良くなるさ」と言いました。しかし、「人を殺す」ことについて、その感情を克服することはできませんでした。私は、「人を殺す」たびにその感情を味わいました。気分が悪く、めまいのするような感じ…。「もっとたくさん殺せば、その『病気』は克服できる」と言う人もいますが、たくさん「殺す」ことによって、克服したり、慣れたりするということはありません。

 私を変えた出来事

 一方、私は与えられた任務をこなし、危険な作戦に何度も参加し、昇進し、隊の中での評価も高くなっていきました。よく「あなたのような人が、なぜ今、平和のために活動しているのか。何が変化をもたらしたのか」と聞かれます。この事についてお話ししたいと思います。

 私たちはベトナムで、ある村に入りました。そして迫撃砲を撃ち始めました。ベトナムの人たちはみんな家の後ろに防空壕を持っていてアメリカ軍が空から攻めてくると、みんな子どもを抱えて防空壕に逃げ込みます。私は壕まで降りていき、攻撃しました。すると誰かが私のそばにいるのに気がつきました。よく見ると、それは16〜17歳ぐらいの若いベトナム女性でした。最初にすべきことは彼女を「殺す」ことです。「殺人」は今までにもしてきたことであり、子どもでも、老人でも、誰でも殺しました。それは「命令」なのです。アメリカ兵は戦争を「ゲーム」のように思っています。オリンピックのようなもので、笛が鳴ったら急いで多くの人を殺すという「ゲーム」のように。私が「子どもでも誰でも殺した」と言うと、みんな驚きます。戦争とは、残虐な「ビジネス」です。人間が戦争でどんなことをしているのか、理解するのは難しいでしょう。

 さて、私は彼女を撃とうとしましたが、何かが私がそうするのを止めました。彼女の出血の仕方が今まで見たこともないようなものだったからかもしれません。けがをしているのか、なんだかよくわかりませんでした。とにかく、私は一瞬ちゅうちょし、よく見てみると、彼女は壕の中の壁を背に座り込み、何かを押し出すような、そんな動きをしていました。彼女は汗びっしょりでした。彼女に呼びかけると、私に殺されるのではないかとおびえていました。彼女は相変わらずなにかを押し出すような動作をしていました。

 ふと、両足の間を見ると、小さな頭のようなものが見えました。私は、高校で「出産」のことを習ったこともなかったし、映画でも見たことがなかったので、それが「出産」だとはすぐには気がつきませんでした。彼女は、さらに押しだそうとしており、私は思わず両手を差し出して、赤ちゃんを受けとめたのです。

 小さい目は閉じられたまま、小さな手は握りしめられ、へその緒もついたままでした。彼女はへその緒を口でかみきると、私の手から赤ちゃんを奪い取り、自分の着物に包んで壕から急いで逃げていきました。

 目の前で起きたことが信じられませんでした。あまりにも一瞬の出来事でした。もし、私の手にその「出産」のあとが残っていなければ、幻覚だったと思ったかもしれません。

 壕から出てきた私は、壕にはいる前と、違っていました。仲間の海兵隊員も「どうかしたのか」と声をかけてきました。私の気持ちが動転していた理由、それは、ベトナム人も「人」だということに気づいたからです。 海兵隊での訓練では、ベトナム人は「Gooks(=よごれ、いなかっぺ、黄色人種)」または「Slant eyes(目のつり上がった東洋人種-軽蔑的表現)」、「共産主義者」、「人間ではない」、「共産主義者=人間ではない」と教えられました。「Gooksは自分たちと同じような父、母を持たない」と教えられました。

 私は気がついたのです。自分がこれまで殺してきたベトナム人は、同じ「人間」であり、故郷で待っている自分の妹と同じくらいの年齢の少女たちを殺してきたのだということを…。私はいてもたってもいられない気持ちになりました。私はずいぶんひどいことをベトナム人にしてきたのです。また、今現在それを続けていることに気づいたのです。私はどうしたらいいのか、悩みました。以前の私を「攻撃的」というなら、「防衛的」になりました。以前は「狩り」をするために「獲物」を探していましたが、もはや「狩り」もしたくなければ、「獲物」を見つけたくもありません。どうしても殺さなければならないときだけ、非常に限定して、銃を使うようになりました。

 ジャングルの中で敵を見つけるには、まず彼らの排泄物を探します。ベトナム人はきれいに隠しますが、私は観察力が優れていたので、見つけるのが得意でした。排泄物は(戦場の兵士にとって)必要なすべてのことを教えてくれます。「何人いるのか」「何を食べているのか」「どのくらいの期間そこにいたか」、また、この「排泄物がある」ということは、「敵が近くにいる」「自分たちを狙っている」ということを意味しますので、これを見逃すことは死に直結します。こういうことを軍隊では教えるのです。「どうやって(戦場で)生き延びるか」ということを。しかし、私はこういうことをすることを、すべてやめてしまいました。

 ベトナム人・白人・黒人

 しかし、戦争は続き、私はまだベトナムにいました。あの「出産」の事件を機に、ベトナムの人を友人と思えるようにまでなりました。私たちのベースキャンプから遠くないところに、ある一人のベトナム女性が住んでいました。名前は知らなかったのですが、みんな彼女のことを「ママさん」と呼んでいました。彼女は私のことを「アル」と呼びました。ある日、ママさんのところへ行くと、彼女が私に言いました。「アル、海兵隊員、おなじ、ない」このように言うのです。「ママさん、どういう意味だい?」。「アル、海兵隊員、おなじ、ない、あなた」と言って彼女は私の顔をなでるのです。「わたしの、いえに、きなさい」「すわって、ビール、のみなさい」そして言うのです。「海兵隊員、言う、あなた、ママ、しっぽ、持ってる」。

 私は、彼女が何を言っているのかわからず、何度も聞き直してやっとわかったのですが、白人の海兵隊員がママさんの家に来て、ビールを飲み、ママさんに「黒人のおかあさんたちはしっぽを持っている」と教えていったと言うのです。

 奇妙な感じでした。私はここベトナムに来て、ベトナムの人を殺したり、ものを燃やしたりしています。しかし、(ベトナム人が)私に対して人種差別的な態度をとるということはありません。私のことを「ニガー」と呼んだりしません。「ベトナム人がアフリカに爆弾を落とした」という歴史はありませんし、「人々を鎖でつなぎ、たんぼで働くよう、連行した」こともありません。

 ところが、私たちはここで、ベトナム人を撃ち殺しています。それなのに、いっしょに作戦についている白人たちが、私たちのことを「ニガー」と呼び、ベトナムの人たちに「黒人の母親にはしっぽがついている」と教えている。

 「出産」の事件と、この話のはざまで、私は何がなんだかわからなくなりました。私はママさんに「私のお母さんにしっぽはない」と言いました。ママさんのような人が「しっぽの話」を信じるのは無理もありません。私のような友人がいなかったら、いまだに信じていたでしょう。

 この出来事のすぐ後に、私たちは村を攻めに行きました。40人ほどを殺しました。近く、村長選があるので、この村を「確保」しておきたかったのです。アメリカ政府の指示でその村を全滅させたのは、ベトコン(ベトナム兵)の影響下にある村の人を選挙に行かせたくなかったからです。そのため、40人の村人を殺し、また25人程の米海兵隊員が殺されました。こうして村は「確保」され、選挙は行われました。

 私たちはベースキャンプに戻りました。それは、ジャングルの中にあり、そこに我々は住んでいました。私は11歳の妹から手紙をもらったのですが、その中にニューヨークタイムスの記事が同封されていました。アメリカ南部では、マーチン・ルーサー・キング牧師と黒人のグループが選挙権を求めて運動しており、それに対して警察隊が犬や消火栓のホースで放水したり、棒で殴りつけたりしている記事が載っていました。

 これを読んだことは、私の「変化」に弾みをつけました。アメリカの南部では黒人は参政権も持っていない。私はベトナムにいて、これから選挙に行こうとしている(ベトナムの)人たちを撃ち殺している。

 私は自分の考えを変え始めていましたが、それは少々危険なことでした。というのは、私はまだ戦争のまっただ中にいたからです。

 さて、これから私がベトナムにいて、最後に起きた出来事についてお話しします。

 激戦、そして帰還

 私は30人の兵士とともにパトロールを命じられました。ヘリコプターが私たちをどこともわからない場所へ連れていき、そこに降ろして、何日かルートを調べるために歩き回り、またヘリコプターが来て私たちを拾い上げます。ある時、私たちは降ろされて間もなく、北ベトナム兵に待ち伏せされました。私ともう一人、「チーフ」というニックネームのアメリカインディアンの兵士の他は、みんな傷を負いました。丘に逃げ、傷ついた仲間たちを塹壕に隠し、地雷などの限られた武器で敵の攻撃に備えました。ベトナムでは、昼の時間はアメリカが制圧していましたが、夜は彼らが有利です。夜8時半、彼らの激しい攻撃が始まり、朝の4時にその熾烈な闘いは終わりました。

 すでにお話ししたように、私はすでに「生き方」を変えていたので、このままベトナムでは死にたくありませんでした。どうしても、生きて家に帰りたかったのです。しかし、再び北ベトナム兵に戦闘を開始されたらおしまいです。我々は自分たちを「気が狂った人間」と思わせるために、あたりに何百とあった死体の破片を、丘の上からベトナム兵の方に向かって投げつけ始めました。その結果、ベトナム兵は我々を放って去っていき、我々は生き延びることができました。アメリカ政府(海軍)はこの丘での功績を讃え、私にシルバースターの勲章をくれました。この丘の戦いは「881高地の戦い」として、アメリカ史上に残る戦いとなりました。

 アメリカ海兵隊が、この一晩で何人殺したのか、私たちは数え切れませんでした。翌朝、海兵隊は565人まで死体を数えましたが、ベトナム兵は、自軍の兵士の死体を運べる限り運んでいってしまうので、最終的に(ベトナム兵の)死体は何体になるのかわかりませんでした。

 私は、この丘を立ち去るときには、かなりイカレていました。帰りすがら、死体の頭をナイフで切り刻んで、投げ捨てたりしました。軍隊では、殺せば殺すほど勲章をくれます。海軍が私にくれたシルバースター以上の勲章は、これまで3人しかもらっていなかったものでしたが、私はその勲章を地面に捨てました。というのは、私は家に帰りたかったからです。勲章をもらうことよりも、家に帰りたかったのです。そして私は家に帰りました。

 「あんたは誰だい?」

 私は家に帰りました。

 私の風貌は(家を出たときにくらべると)たいへん変わっていました。家の中に入っていくと、母は私の顔を見て言いました。

「あんたは誰だい?」

 私は家を出て、海兵隊に入ったときの私ではありませんでした。家を出ていった「彼」は人を殺すような気違いでもなかったし、死体を運ぶようなこともしなかったし、人の排泄物を掘り返したりする人でもありませんでした。

 私は全く違う人間になってしまったのです。夜には眠れず、眠るといまお話ししたようなことを夢に見てしまい、うなされました。毎晩です。誰かが階段を下りていく音を聞くと、私は不安で眠れませんでした。アパートのまわりを歩いてチェックし、子どもが寝ていることを確かめ、妻が寝ていることを確かめ、窓、ベッドの下、タンスの中を確認しました。娘が「お父さん、どうしたの?なにもないから、安心して寝て」と言ってくれても、ベッドにも行けないし、眠ることなんてできませんでした。「戦争後遺症」にさいなまれていました。

 私は今、みなさんにお話ししていることを話せるようになるまで、何年も何年もかかりました。というのは、この話は、自分の犯した「罪の告白」に過ぎないからです。自分が「人殺しをした」ことを言うのです。上官は「撃て!撃て!よし!撃ち損ねた?気にするな!」こんな調子です。私たち兵士は全員、殺すことに責任を持ってます。殺したい人を殺します。

 それは兵士たちにとって、最も困難な告白です。上官は命令します。「あのばあさんを撃て!あのじいさんを撃て!あの子どもを撃て!撃て!」

 子どもを撃つのは難しいんです。老人は簡単です。彼らは走れないから。老人を見つけたとしても、まず他の難しい獲物からやり、10分後に戻ってきてもまだ間に合います。

 今回、沖縄を訪問し、たくさんの女性に会う機会がありました。彼女は90代だと思います。彼女たちは、沖縄戦についてよく話しました。とてもひどい、ひどい話でした。私はベトナムに行った経験があります。ベトナム(の戦場)では、女性たちは子どもを抱いて走らなくてはなりませんでした。子どもといっしょに逃げなくてはなりません。子どもを抱いて逃げるなんて、誰ができますか。今、この部屋に窓から「敵」がやってきたとしたら、どうやって逃げますか、しかも子どもと一緒になんて。

 ある沖縄のおばあさんがこの本をくれました。沖縄戦のことを書いています。今、私が話した内容と同じことが、この中に書かれています。「戦争」というものは変わってないのです。

 ベトナムでは、女性と子どもが大変苦しめられました。女性は、子どもといっしょにジャングルの中を逃げなくてはいけません。子どもの食べ物も必要です。母乳の出ない母親にたくさん会いました。それは爆撃や銃撃などの精神的ショックや死体の悪臭のせいなのです。もし、母乳が出なくて、子どもに与えるものが何もなかったとしたらどうしますか。

 私がベトナムにいるときに起きた、たくさんの出来事の中から二つだけお話ししました。私はこの話ができて、少し気が楽になりました。アメリカ軍は、ベトナムから引き上げていきました。私が殺してしまった人たちの魂も、安らかに休んでもらえるように祈っています。

 私は、幸いにして、このように戦争体験を話せるようになりましたが、私と同じような考え、意見を持っていても、戦争に参加したことによる精神的後遺症のために、自分の戦争体験を話せる人は多くはありません。きちんとした精神的ケア(治療)を受けていないからです。

 沖縄でこの話をすると、「それで、私の父は第二次大戦に参加したけれども、戦争中の話を全くしないのですね」と言う人がいました。

 平和を沖縄に

 今の課題は、どのようにして平和をつくっていくのかということです。私がお話した通り、兵士というのは戦争のために働くのであり、私たちは、平和のためにいったい何ができるでしょうか。新聞を見ると、誰かが何かをしなくてはいけない、なんて書いてありますが、こんな記事は何の役にも立ちません。ガンディーは「兵士というのは寝るところ、食べるものに不自由しても、それでもなお献身的な人たちだ」と言ってます。ただし、「人殺しのために」ですが…。

 沖縄の人たちはたいへん平和的な人々で、基地をなくすために、平和のために、アメリカ政府、そして日本政府に積極的に、平和的に立ち向かっていきました。先ほど言いました90代になる女性は沖縄戦の様子を覚えています。しかも、いまだに軍隊が目の前に存在しています。彼女が働く近くでは、タッチ・アンド・ゴー(離発着)訓練が行われています。これが平和だと言えるでしょうか。特に沖縄のような地方に押しつけておいて。

 私は沖縄に駐留している米軍基地の撤去を支持します。沖縄に駐留している米軍は「人殺しの訓練」をしているからです。解決策はあります。自分たちをピースキーパーと呼んでいる軍隊は、すべての戦車、すべての銃、戦闘機を捨て去り、ガンディーのしていたような眼鏡を支給し、髪の毛はそり、ガンディーの絵がプリントされたシャツを着て、平和維持のために行進させればいい。こうすれば平和は非暴力的に維持することができます。

 (今は平和的ですが)次世代の沖縄の人たちが、あるいは三世代、四世代、先の沖縄の人が暴力的になるかもしれないということを私は心配しています。米軍基地を撤去するためにです。その時には多くの血が流されるでしょう。ですから、私たちキリスト教徒や、平和を訴える人たちが、この問題に精力的に取り組まなくてはなりません。平和的な方法で、隣人たちと共存するために、軍隊を世界から無くさなくてはいけません。余りにも多くの暴力や銃がはびこり、軍隊ではない仕事や、そういった仕事につく機会が十分にないのです。

会場との質疑応答

「アメリカでは、犯人が黒人だから差別的に取り扱ったと言う報道がされたそうですが…」

 まず第一に、アメリカではこの件について、あまり報道されていません。「沖縄で3人の海兵隊員が12歳の少女を強姦し、逮捕されました。次に天気予報です」程度です。

 次に、沖縄の人たちは、これを人種の問題としてではなく、基本的に強姦事件、そして軍事基地の問題としてとらえています。私が沖縄を訪問してびっくりしたのは、(私が黒人なので)私に今回の事件について話すのをちゅうちょするのではないかと思っていましたが、そんなことは全くありませんでした。

 私自身の意見として、「強姦」というのは「女性全体」に対する犯罪です。世界的規模の問題で、この事について、これまで十分に訴えられていないと思います。強姦を犯した男性については、きびしく罰して、男性に対して、女性に関する教育をしていかないといけません。

〔アメリカの平和運動の現状〕

 アメリカの平和運動は、分裂していて、共に活動しようとしていません。女性運動、ゲイの運動、環境問題、子どもの問題、虐待問題、性差別問題、人種問題など、多くの問題がありますが、それぞれがそれぞれの問題だけに取り組み、少ないお金を奪い合っています。60年代には、共に活動し、成果を得ることができましたが、今ではてんでバラバラになってしまっています。政府は、我々が一緒に話し合わないので、喜んでいます。そんなこともあり、私たちは個人として、問題を提起していかなければなりません。

〔カムデン市の教育活動〕

 私の住んでいるニュージャージー州カムデン市はアメリカにおける貧しい市のひとつで、高校生の80%が中退してしまいます。去年は、67件の銃による殺人事件があり、これらの事件の被害者である子供たちの80%は18歳以下で死亡しています。11〜12歳の子どもが銃を持ち、コカイン、マリファナなどの麻薬を売っています。

 この写真は、麻薬に関連した事件で死んだ若者たちの、レンガ塀に描かれた追悼の絵です(死んだ少年たちの絵が描かれている)。私の住んでいる地域にあり、カムデンで麻薬売買の最も盛んな地区です。それぞれの絵の上にその子の名前と誕生日と死んだ日が書かれています。

 私は、活動する場として、このカムデン市を選びました。というのは、この市は、私の見た中でも、最も荒れた地域だったからです。ここは、平和のために働く人にとってもためになり、単に話し、議論するだけでなく、歩き、実行する場でもあるからです。人々は、私たちが何をやっているのか、ミーティングハウス(クエーカー教徒らの礼拝堂兼集会所)を見にやってきます。私たちがやっているのは、教育援助プログラムで、14人のアフロアメリカン(黒人)、ヒスパニック(中南米系の人)、の若者に提供しています。「読み」、「書き」、「数学」を教え、この子たちが大学に入れるようにすることが目標です。

 それに暴力を無くす(暴力に訴えないようにする)トレーニング、軍隊以外の仕事につくトレーニング、そして私はこの子たちに地域でのリーダーになってもらいたいので、リーダーシップ要請トレーニングをしています。ひとつ心配していることは、彼らが大学に入り、ミドルクラス(中産階級)になったら、この町から郊外に出ていってしまうのではないかということです。私たちは中産階級を育てるためにこのプログラムをしているのではありません。教育を受けたらこの町にとどまって、この地域を良くしていってもらいたいのです。

 みなさんはこの写真を見て「なんてひどい町なんだ。こんな町に良く住めるな」と思うかもしれません。しかし、郊外にはカムデンよりも暴力的な面があるのです。

 カムデンから郊外に歩いて行けば、車庫に2台、車を持っている家や裏庭にプールのある豪華な家があります。彼らこそ、「暴力的」なのです。カムデンのことを放置しておいて気にかけないからです。彼らが問題を起こしているのです。たくさんのお金、プールなどの財産を貯め、子どもは私立学校に行かせ、一方、カムデンの子どもは、十分なバスルームもありません。どちらの方が暴力的なのでしょうか。

 私たちのプログラムは、クエーカー教徒によって出資、運営され、主にフレンズスクール(クエーカー教徒による学校)の生徒たちが運営しています。実際に、東京のフレンズスクールの生徒が一人、交換留学生として来ており、私たちのセンターで働いています。子供たちとすぐになじみました。

 このプログラムではいろんな子供たちを交流させています。白人、上流階級、中流階級、高い教育を受けた子ども、クエーカー教徒の子ども、クエーカー教徒ではないけれども、フレンズスクールに行っている子供たち、などが週に3回やってきて、読み、書き、数学を教えています。最初、彼らがやってきたときに、彼らはこう言いました。「こんな空き缶やゴミの散らかっているところの子どもをどうやって教えたらいいのかわからない。こんなに散らかってる中でなんで笑っていられるんだ」。けれども、今ではきちんと教えています。

 東京では差別されたフィリピン人の子どもや韓国人の子どもがいると聞いています。彼らにこちらから手を差しのべていかなくてはなりません。彼らを放っておいたら、私たちは人種差別をしているのと同じことなのです。

 

 私がこのプログラムを始め、各家庭のドアを叩いたときには、町の人は誰もドアを開けてくれず、私が黒人であるということもあって、嫌っていたようでした。「教育プログラム」をベビーシッターのように思っている人もいました。この活動を始めて3年目にやっと、ドアをノックすると「どうぞお入り下さい」と言われるようになったのです。

 よく、「住民が自分のことをちゃんと受けとめてくれない」と言って、すぐに活動をやめてしまう人がいますが、冷たくされるのは当たり前です。どこの誰かもわからないのですから。信頼を得るまで、続けなくてはいけません。

 白人のクエーカー教徒のボランティアもたくさん来ますが、順調というわけではありません。肌の色も違うので、子供たちになかなか信頼されなかったり、感情的に傷ついていたりして、ボランティア自身、いろんな試練を乗り越えて、センターを出たり入ったりしながら成長していってるのです。いろんなボランティアが来ますが、ボランティアの条件は一つだけです。「子どもが好きだ」ということです。子どもが好きでない人が来ても、うまくいかないのです。子供たちに対しても、「まわりにいる人たちはあなたのことを愛しているんだよ」と言ってますので、このことはとても重要です。

 センターで活動する人、働く人は必ず、異文化交流トレーニング、男性・女性に関するトレーニング、人種に関するトレーニングのすべてのコースを受けます。

[平和運動の進め方]

 スリランカや他の紛争国、第三世界の国々は不幸にもたくさんの銃を持っています。食べ物よりもたくさん持っています。私は「平和運動」の進め方としてこう思っています。「国が兵器を持つことを禁止する」のです。しかし、「兵器」はきわめて大きなビジネスです。企業や、ロシア、ドイツ、アメリカは、銃や弾丸をどんどん送り出し、第三世界の人々は「調停」ということを考えることさえできなくなっていて、「平和的な手段によって解決する」ということに目がいかなくなっているのです。

 もし、武装を解除することができたら、「暴力」そのものを無くしてしまうことはできないかもしれませんが、かなりの効果があります。もし、彼らが銃ではなく、棒や石で闘うことになったらどうでしょうか。「銃を使う」ということとは、全くレベルが違うのです。

 私たちはアメリカが武装解除し、世界的に武器の輸出入ができないように訴えていかねばなりません。

 もし、「軍備」を放棄したら、武器を与える代わりに、食料、教育、そして若者たちのための旅行手段を与えることができるのです。

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