2000/01/23 東海村村議会選挙

 
 12月23日、東海村村議会選挙が行われた。昨年9月にJCO東海事業所で臨界事故が起きた後の選挙だけに、その結果が世界的に注目された。
 告示直前に市民団体「脱原発とうかい塾」で活動する相沢一正さんが県立歴史館研究員を辞して立候補の表明をした。選挙では、22議席に対し23人が立候補した。相沢一正さんは811票を獲得し、8位で当選した。
 同村は、人口約3万4000人のうち、3分の1が原子力関連施設の従業員や家族と
いわれる「原子力の村」。村議会も慎重派の共産党を除き、推進・容認派で占められて
いたが、臨界事故を受け、今回初めて「脱原子力」を明確に訴える議員が誕生した。
 巻町町長選挙そして東海村議会選挙、人々の心には大きく脱原発の動きが進んでいる事は確実のようだ。


選挙運動開始にあたって、東海駅にて相沢さん選挙演説

  JCO事故後、初の東海村村議会議員選挙が行われる。だが保守系を中心に議会定数内に候補者を絞り、22議席に対し22人の立候補という、原発の是非を一切問わない無風選挙になる所だった。「JCO臨界事故後だというのに、是非も問わないとは」「脱原発とうかい塾」で活動する相沢一正さんは村議会選挙に出馬する意向を固めた。「脱原発」だけで村議会に立つのだ。
 東海村で、脱原発を掲げて立候補するのは相沢さんが初めてである。多くの方は誤解をしているかもしれないが共産党でさえ原発推進である。今回の選挙でも「私たちは脱原発ではありません」と言っていたそうだ。

 相沢さんは、東海第二原発裁判をはじめ、長年にわたり、東海現地での困難な闘いをされてきた方で、県立歴史館研究員を辞してまでの立候補だった。また、東海村アスファルト固化施設の爆発事故後、「脱原発とうかい塾」を設立された方である。
 私は選挙とか大嫌いで、今まで一度も参加した事がなかった。が、今回はJCO事故後の初の選挙であり、初めての「脱原発」を掲げる候補者と言う事で、意義の重さを感じた。そして脱原発を望む一人である私も何かお手伝い出来ないか、と思い東海村に向かった。実際、候補者とは面識もあり、この方ならと思った事も原因の一つである。
 私のようなボランティアは関東圏からぞくぞくと集まってきた。

 選挙期間は1/18〜22日だった。私は初日(18日)と最終日(22日)しか参加した。両日とも、相沢さんと一緒に村内を自転車で回った。「少しでも村民の声を反映できるように」相沢さんは自転車で村内を回ることで、その事を示したかったのだ。私はその姿勢に多いに共感した。自転車は相沢さんの近所の方などが快く貸していただいたそうだ。東海村には反原子力茨城共同行動への参加などで何度か訪れているが、自転車で村内を廻るのは初めてだった。
 相沢さんが選挙演説をしていると、「あいざわ」のノボリを見かけ「脱原発を掲げている相沢さんってどんな方ですか」と聞きにこられた方もいた。その他にも「JCOの再開に本当に反対するのか?」と言う質問もあった。皆、相沢さんの長年の行動と人なりを聞き安心していたそうだ。
 相沢さんの選挙はボランティによる手作り選挙だった。看板もポスターも手作りだし、選挙カーもボランティアの車で手作りで、選挙事務所は候補者の自宅だった。
 私も看板の色塗りや、選挙事務所の設置のお手伝いもした。

 そして23日、選挙当日。開票が始まる頃、東海村に向い皆と結果を迎えた。開票は意外に時間がかかったが、11時頃当選確定。
 「おめでとう」家の中を祝いの言葉と拍手が充満した。私も皆と抱き合って喜んで、嬉し泣きをした。嬉し涙を流したのは何時以来だろうか。


 原子力の村で初めての脱原発議員が当選したのは大きな事だ。巻町町長選挙に続く快挙で、人々が脱原発を望む事が示された。ただし、村議となった相沢さんにとっては、これからが本当に大変な局面を迎える。なにせ21対1、ただし多くの支持者と共に脱原発の大きな一歩を記すだろう。私も少しはお手伝いが出来れば…そう思う今日この頃だ。
 酒も煙草も無く、皆ボランティア。相沢さんも「我が家が梁山泊になったようで、選挙期間実に楽しかった」と語っていたが、私も参加していて楽しく、実に気持ちが良かった。

 テレ朝は初日、最終日など、かなりの量取材をして本当は大きく扱うはずだったようだが「吉野川河口堰住民投票」「きんさん死去」「武双山優勝」などにおされ かなり縮小されていた。残念。


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