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三山の七年祭 −二宮神社式年大祭−
発行 習志野市教育委員会
企画編集 習志野市教育委員会 社会教育課
昭和52年1月1日発行
より引用


三山の七年祭りについて

 千葉県の祭りには未の年ごとに行なわれる香取神宮の軍神祭(船遊び)のように大規模な、しかも古い様式を伝えた雄大な神事がある。このほか、上総一ノ宮玉前神社の大祭、21年目に行なわれる東庄町東大神の浜下りの神事、船橋市二宮神社の七年ごとになされる大祭など、いずれも古い神事を伝えた大がかりの祭りがある。この後の三つの大祭には礒出式と称する海を生命のもとにした神事がともなっていて海の県千葉県ならではと思わせる祭りの神秘さに触れることができる。このうち二つの祭は未だ海の美しい九十九里の南端と北端で行なわれるのだが二宮神社の七年祭は東京湾に面した昔の海辺が年ごとに失われ埋立地となり、工場、団地、高速道路と変わってゆくため、この祭そのものの本質が汚染されてきている。まことに残念なことである。
この七年祭は丑と未の年に行なわれ、祭の内容は三山の神揃と幕張の産屋の祭の二つに分けられる。つまり近隣の八つの神社の神輿が二宮神社に集まる神揃の祭と、二宮と子安それに他の二社の神輿が礒出式を行い浜で産屋の祭をなす二つの神事とである。しかし集まる神輿の神社においても、それぞれ大祭の式を行うのであるから、七年祭は千葉市、習志野市、八千代市、船橋市と四市にまたがる広い地域で行われる大祭といわねばならない。
以前はさらに多くの神社が参加していたといわれているが現在大祭に参加する神社は次の通りである。
二宮神社 (船橋 三山町)
子安神社 (千葉市 畑町)
菊田神社 (習志野市 津田沼町)
子守神社 (千葉市 幕張町)
三代王神社 (千葉市 武石町)
大原大宮神社 (習志野市 実籾町)
時平神社 (八千代市 大和田町及び萱田町この二社は七年交代で神輿を出す。)
高津ヒメ神社 (八千代市 高津町)
八王子神社 (船橋市 古和釜町)
の九社である。
このほか口伝によると姉ケ崎神社(市原市姉ケ崎)が大祭に参加し互いに海岸で狼煙をあげ挨拶したというが今では祭典代表者が二宮神社に榊をあげにくるだけである。だが古くから大姉神として、この祭に参加していたものらしく、今日でも大祭の時、礒出式が終了すると姉ケ崎に向かって二宮神社の神輿は一礼する。
しかし、この大祭に集まる神社は眷属的な物というよりは地縁的なもののようである。この点、上総一ノ宮玉前神社の神揃えとはいささか趣を異にしている。二宮神社は注連下21ケ村とか23ケ村といわれ、現在大祭に参加する神社はすべてこれらの村に所在している。この村々は近世三山荘という荘域にあった。このことは二〜三金石文で証明できるが確証を全域にもとめることはいまのところできない。
だがこの地域に貴人渡来説のような伝承がある。ことに注意しなければならぬ。それは藤原時平の子孫が久久田(習志野市)の海岸に難船の結果上陸し深山(三山)に行きそこの神社の神主として定着したという伝承である。時平の霊は時平神社はもとより二宮神社菊田神社でも祀り、子守神社にも時平の子孫渡来の伝承がある。高津ヒメ神社が時平の娘を祀ったことになっている。菅原道真の悪役を務める藤原時平の御霊を祀ることは日本全国ほかに類例がないのではないか。あるいは時平またはその関係者の荘園でもあったかとも考えられるが古いことは全くわからない。ただしこのあたり平安末期伊勢神宮の厨となった萱田町・神保の地域がこの二宮神社の注連下と、ケなり重なることを付記しておく。要するに平安初期から相当ひらけていた農地であった。
7年祭は9月12、13日両日二宮神社で行なわれる小祭にはじまる。13日の湯立神楽で神がかりになった神主が大祭の日を告げたものであったが、現在は九月一日二宮神社に各社の神宮、祭典委員が集会し、そこで大祭の日時が決定されている。
9月12日は小祭準備の日。神輿に御霊が遷されると寅待会は二宮神社の神輿の管理をする会で三山町の各家の長男で構成されている。
9月12日は早朝(五時ごろ)神輿は境内を出て地区内を巡幸し、途中10カ所の休み場で休み夕暮5時頃帰還する。夜は神楽などあり、神輿は田喜野井の舁夫によって社殿前からもまれながら社殿の裏で藤崎の舁夫と交代し、もまれながら社殿を一周して社殿正面に鎮座する。こうして夜10時、神殿に御霊が移され小祭は終了する。
11月2日は禊の日である。三山の祭典関係者全員が鷺沼の海岸で全裸になって海水をあびたのであったが、海岸が埋め立てられた今日では夕方から鷺沼に行き桶に入れられた海水で口をすすぎ手を洗うだけで、まことに寂しい。鷺沼では集会場で接待を受ける。以前はヤドで接待される。
11月3日。大祭の日である。大祭にあったて、三山町の寅待会のものは、神揃に集まってくる各神輿や山車の接待などで多忙になるため二宮神社の神輿の渡御は藤崎町と田喜野井町のものが担当する。彼らは朝10時頃隊をなし一気に石段を掛声と共にかけ登り社殿の前に、右と左に整列する。左に並ぶ田喜野井の先頭の金棒は4名の女子(中学1年生または小学6年生)で藤崎の先頭の金棒は8名の男子だが女装している。祭典委員東は羽織袴に揃いの中折れ帽をかぶっている。明治時代の礼装である。
次いで神社本庁からの献弊使を迎えて社殿内で神事が執行されるが、上総玉前神社の大祭のような巫女の舞はない。
神揃場は二宮神社の社殿から約600m離れている。常日頃は広場になっているが、大祭の時は周囲に竹矢来がくまれ、二宮と子安の神輿をおく2つの御塚の前に7つの御塚が一直線上に作られる。御塚は上部1m下部1.4m梯形の立体で中間に芝生をいれる。
正午に大原大宮の神輿、次いで三代王、菊田、八王子、二宮、高津ヒメの神輿が神揃場に入場し同様に御塚に安置されるが子守が入場するときは午後5時に近かった。
三山の各ヤドにはいって接待を受けた各神輿は菊田、八王子、高津ヒメ、時平、大原大宮、三代王、子安、子守の順で二宮神社に向かい拝殿のうちまでねりこむが、子安の神輿だけは大きすぎるの理由で拝殿内に入いらぬ。この神輿の渡御の行列の中で特にはなばなしいのは子安神社の行列である。また行列の中に山車をともなうものもあり、山車は神揃場の外で囃子をつづける。
子安神社は、建久4年(1193年)に再建と書き入れと棟札をもつという。古社であろう。所在地名の畑は帰化人秦氏の関係するかもしてない。丘の上に老樹のある広い神域である。祭神は奇稲田姫命を祀り何時の時からか安産の神として祀られていた。礒出式はこの子安神社がひとつの中心となり、この祭の核をなす童児(以前は斉童であったかもしれない)童女は畑の旧家から選ばれることになっていた。それも前の大祭の十二月末日までに誕生したものと決まっていた。二宮神社にねりこむ子安神社の神輿の行列には男女の稚児がならび親がつきそうから数100人に及ぶ大行列となる。男子は陣笠をかぶる武士の姿、童女は普通の稚児姿である。
二宮神社拝殿に各所の神輿の参拝が終わると、菊田、八王子、時平、大原大宮の四社の神輿と山車は直ちに自分の神社に還御するが、三代王、子安、二宮の神輿は幕張の礒出式に向かう。このとき子守の神輿は、まっ先に幕張にかえって三社の神輿を迎えて礒出式に参加するし、高津ヒメの神輿は二宮の神輿が礒出式に行くのを三山の村境で見送って自分の神社に還御する。
幕張の旧海岸は埋立地になっているが、その空き地に竹矢来が組まれ、内に四つ、神揃場同様の御塚が作られている。竹矢来の入り口には礒出御旅所と書かれた提灯が掲げられ式揚の中に入れるものは一般の見物人はもとより大祭関係書といえども禁止され、わずかの人員だけに制限されている。従って従来、式場内の神事を調査することは全くできなっかた。今回はじめて調査員の入場が許されたのである。
神輿は子守、二宮、子安、三代王の順で矢来内に入場し、東から三代王、子安、二宮、子守の順に南面する。
神輿のすべてに神饌として蛤が供せられて、ほかに神酒、新米、赤飯も供えられる。以前にはこの祭りに用する蛤をとる斎貝取りの神事があったという。
真夜中もやがて過ぎ満潮時が近づくと、童児と童女二人を、それぞれおぶったハフリ姿の男が駆足で式場になかに入る。二人の童児は子安の神輿の前に据えられた盃の東に男、西に女と坐らさられる。と同時に神主の祝詞が奏上され、童児童女に神前の蛤が持たされ、男女がそれを交換することで神事を終わる。このとき、隣の二宮の神輿では祝詞が奏上され終わると一緒に榊がぬかれ榊を手にした男が神輿の舁棒の上に立ち枝を引きちぎって投げると榊の奪いあいが起こり、この榊の枝は竹矢来の外の人にも投げ与えられる。この騒然としたなかで童児童女は逃げるようにおぶられてヤドに帰る。しかし式場の外にいる知人に榊の枝を与える騒ぎはなお続く。これが産屋または湯船という神事である。
これが終わると二宮と子安の神輿は海寄りの出口から出てぶつかり合う神事をする。
こうして東の方がしらむころ、二宮に神輿は途中のヤドに休みつつ久久田と鷺沼の中間にあるカンノ台につき御塚に神輿を安置する。カンノ台はヒノクチ台ともいい、以前には姉ケ崎神社に向かって狼煙をあげたという。ここでは神輿に特に鯛が供せられる。こうして藤崎や田喜野井で休んだり接待を受けたりしながら二宮神社に還御するのであるが、神輿から御霊を社殿に移すのは夜になる
昭和四十八年の七年祭は以上のようにして終わった。この祭はさまざまなモチーフがいりまじり解明は困難である。伝承によると安産の祭をして近在の女性に人気がある。しかし祭の中心は安産以外のモチーフにもっとメスを加えねばならないだろう。


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田久保 崇士 E-mail:ttakubo@alles.or.jp