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三山の七年祭 −二宮神社式年大祭−
発行 習志野市教育委員会
企画編集 習志野市教育委員会 社会教育課
昭和52年1月1日発行
より引用


1.大祭(タイサイ・ダイザイ)

1.大祭のこと
大祭の概要については既に前述されているが近年執行された年は次のとおりである。
昭和 48癸丑年11月3〜4日(1973)
 〃 42丁未年11月3〜4日(1967)
 〃 36辛丑年11月23〜24日(1961)
 〃 30乙未年11月20〜21日(1955)
 〃 24己丑年11月21〜22日(1949)
 〃 18癸未年11月21〜22日(1943)
 〃 12丁丑年11月21〜22日(1937)

以前は新嘗祭(勤労感謝の日)前後に執行することが多かった。五穀豊穰と安産祈願をむすびつけた理由と、この頃は農家の麦蒔が終わり比較的に農閑期であることの理由だと説明されている。なお昭和15年11月12日奉祝紀元2600年記念及び昭和21年11月15〜16日憲法発布奉祝記念行事は中年(ナカドシ)でもあり、小祭同様の規模で臨時祭典として執行している。
二宮神社の注連下は21ケ村とも23ケ村ともあるいは24ケ村、28ケ村ともいわれるが、物収袋(ブッシュブクロ)の配布先(資料編参照)を見ても、また昔は参加していたという旧村の数を数えても、かなりの注連下があったと思われる。遠くは茨城、竜ケ崎、埼玉にもおよんだという。また、よく次のようなこともいわれているが、現在では参加しなくなったという神社が数社ある。八千代市萱田の権現神社、船橋市飯山満町の飯山満神社、上総姉ケ崎神社等であるが、姉ケ崎神社は二宮神社の姉君に当たるなどともいわれ大祭には毎回神主が臨席している。

二宮神社   船橋市  三山町  (三山) 父君・夫
八王子神社   〃   古和釜町 (古和釜) 王子・息子
菊田神社   習志野市 津田沼  (久々田) 叔父君
大原神社    〃   実籾町  (実籾) 叔母・姫宮・仲人
子安神社   千葉市  畑 町  ( 畑 ) 母君・妻
子守神社    〃   幕張町  (馬加) 伝子役・子守役
三代王神社   〃   武石町  (武石) 産婆役
高津比メ神社 八千代市 高津町  (高津) 姫君・娘
時平神社    〃   大和田  (大和田) 息子・長男・仲人
        〃   萱田町

2.寅待会のこと
大祭執行に関し主体的な役割を果たす会であるが、青年会(若者組)とは性質が違うようである。この寅待会(トラマチカイ)は神輿の維持管理、神輿の渡御、舁夫などすべて神輿に関することを掌握する。したがってこの七年祭の運営は寅待会ということができる。
会員以外は舁夫となることも禁じられている。組織は三山の各家々より一名とし主に長男が加わる。その子(長男の長男)が入ると株若衆(株若者)といわれる。平年の役員は会長等のほかに年番8名、組長7名であるが大祭に当たる年に限り、大年番3名、舁夫長1名、棒頭16名(従来の棒頭は神輿のタテ棒ヨコ棒とも1本当たり1人で計8名であったが、本年より1本当たり2人とし計16名に増員した)を選出する。任期は1年間で毎年1月15日以後の寅の日に総会を開き役員の改選交代をする。現在会員は300数十名という。会費は年間千円程度という。この会費は6年間積み立てられ、会の運営、神輿の維持管理費等に当てられる。金銭的には大祭までに200万ほどになるが、大祭の必要経費はほとんど寄付とヤド主負担で賄われるようである。
大祭時の役及び任務分担は、一般の舁夫は会員であるが、最近はその会員の紹介による臨時的会員の舁夫も多い。棒頭(ボウガシラ)は、実際の神輿の発着やサシモミ等の技術的な舵取り役であり舁夫長の指揮に従う。舁夫長は神輿の渡御道中の進行係であり順路、方向、呼吸の統一、休憩時間等を棒頭に指示する。大年番、年番は大世話人、世話人、ともいわれ渡御行列や神事等に参加する。
組長は戦前三山全体を字名により、西の庭組(ニシヤグミ)東の庭組(ヒガシヤグミ)新田北組、新田南組、神揃場南組、神揃場北組、台の庭組(ダイヤグミ)中の庭組(ナカヤグミ)衛門前組と9組に分けていたその区の組長、今の町会長に当たるものである。現在7組。しかし今回から新町会も参加させるようになりこれらの組決めも今後ますます変化するものと思われる。(資料編参照)

3.御霊遷(ミタマウツシ)
二宮神社の神輿は、飾りづけを終えると明日の大祭に伴う神幸のため、本殿より御霊代(御神体の一部)を神輿内部に遷される。この儀式を御霊遷(ミタマウツシ)と称し、夕刻より始められる。また普段は神輿倉と呼ばれる倉庫は、御霊の遷された神輿の入ることによって、御仮殿(オカリヤと呼ばれる)に変わり、翌日の大祭当日まで不寝番がつくなお大祭終了後のミタマウツシと、いはれる儀式があるが、これは全く同様にして御霊代を神輿より本殿に遷す儀式である。

<以下略 子神社と二宮神社での御霊遷の記録>

4.禊(ミソギ)
大祭を前に二宮神社及び祭りに参加する三山地区の者は全員、鷺沼の海岸で身体を海水で洗い清める。この儀式はミソギと呼ばれ大祭前夜に行われる。帰ってくると昔は神社で、御籠をしたというが現在は行われていない。またミソギの方法も、今回から海の埋立てにより大きな変化があらわれた。

<中略 ミソギの記録、ミソギのヤドについての記録>

禊場と宿の準備
以前は鷺沼の千葉氏の流れを引く個人の家がヤドになって、世話をしたという。今回はちょうど1日に漁協の事務所がやはり埋立てにより移転したので、この事務所をヤドとした。接待役は鷺沼の連合町会と根神社でありいつもながらこの大祭の隠れた支援者になっているという。けさは9時から、各町会より4〜5名づつ集合、計30名ほどで準備をした。
埋立てによる今回の禊の方法は始めての試みだという。

以前の禊のこと
今回の禊は海の埋立てにより従来の慣習が、大きく形を変えた最初であった。
以前は鷺沼部落南側を通る国道14号線沿い南へ100m足らずの、通称鷺沼海岸または、谷津海岸といわれていた砂浜で現在の習志野市袖ケ浦4丁目付近である。ここでの禊は昭和36年を最後に、昭和38年より始まった宅地造成(袖ケ浦団地)の埋立てにより変り始めた。昭和42年の夏頃には団地・舟溜・京葉道路延長工事が完成するが、まだ京葉道路南側に干潟が1kmほどあり辛うじて慣習を維持したという。しかし再び、昭和47年頃から始まった京葉港造成の埋立てにより適当な禊場の海を完全に失い、やむなく今回の方法となったものである。また、埋立てにより漁業組合も移転し、そのあとをヤドとしたが以前は個人の家であり現在は地元連合町会に変わっている。禊の方法も以前は全員、全くの素裸になり祭り手拭一本のみで、高提灯を先頭に神主、金棒(錫杖は持って入らない)役員等一斉に暗闇の海に走っていったという。干潮時などは腰くらいのところまで1km以上も沖合に出た。中には子安貝というが、実際には蛤などを縁起良しとして拾う者も多かったという。(写真参照)所要時間も1時間以上かかり、上がってくると海岸に大きな焚火が焚かれていて、みなそこで暖をとったという。

<中略 禊からの帰りの記録>

不寝番(フシンバン)
禊から帰ってくると毎回夜の10時頃になるが、神輿には翌朝までフシンバンがつく。御仮殿内に安置された神輿の見張番であるが、社殿の四方8カ所、御仮殿前2カ所、計10カ所にある常夜提灯の蝋燭の取替え等、境内全般の警護をする。夜10時から翌朝9時まで、2人づつ2時間半の4交代、計8人で当たる。


5.勢揃い(セイゾロイ)
舁夫及び役員を中心に渡御に参加するものが大祭当日の朝、神社境内に集合する、これをセイゾロイと呼ぶ。二宮神社の神輿は田喜野井と藤崎の舁夫で交互に渡御するため、二宮神社境内で勢揃いをするがその前に各々の部落の神社に集合(勢揃)する。

<以下 田喜野井の勢揃いの記録続く 一部を抜粋>

背中の赤いたすきは以前はしなっかた、各自好みで着用するという。火打袋にはそれぞれ適当なものを入れるが、タバコを入れるものが多いという。また、昔から田喜野井の舁夫は、人数が少なく、親類縁者の人を頼んで(謝礼等をするのでカイビトと呼ばれる)いたが今回から町会自治組織で参加することになり、買人(カイビト)は殆どいなくなったという。しかし、新しい舁夫は馴れていないので三山より応援を頼んだという。
同11分、金棒引き2名(中学1年、小学6年)拍子木2名(小学6年)の女子計4名来る。選出はとくに資格基準はなく、子供会の役員に一任されたという。(衣装は写真参照)以前は18才から25〜6才の未婚の男子2名で金棒引き(カナボウヒキ)だけであった。今回よりは子供神輿も出るようになり、また新町会も加わったので変わったという。


6.11月3日大祭当日二宮神社の記録

<大祭当日のようすを時系列に記述 一部を抜粋>

同50分 境内では山車の上で囃子連、音合せの練習、笛1、太鼓、締太鼓2、当鉦1、大祭には三山の山車は動かず境内に据え置かれ囃子だけを奏する。囃子連は褐緑色の衣装、白足袋、雪駄履き、長烏帽子に着替えると伶人(レイジンと呼ばれ、奉学を受け持つ)一方社殿向かって右側の縁回りに設けられた、御札売り場(オフダウリバ)に茣蓙、座布団を敷き売り場を作り、お札類を並べる。この係は、寅待会の世話人5名が当たる。お札類は大祭のときだけ売捌かれるという。今回売り出されたものと価格は、サラシ1、000円 晒木綿半反、朱肉で社印が押されている。妊産婦の腹帯として使われるという。
オフダ 100円 タイマ 200円 オマモリ 200円 の4種類であった。また、今回から売らなくなったものは、ヒシヤク アルミの、50cmほどの木製柄付産湯を使うときに使用するという。アサ 1間程のものを、1尺程にまるめたもの、赤子の臍の緒をくくるのに使うという。ゴフ 前回の礒出式の際、神輿に供えられた赤飯を干したものを、小さな紙袋に入れたもの(船12〜13参照)

9時38分 拝殿右側の神饌所を神主お祓いしていく。この戸欄の中には三方に盛った御神饌物が準備されている。米、塩、水、酒、餅、林檎、蜜柑、柿、人参、大根、甘藷、菠薐草、キャベツ、トマト、胡瓜、バナナ、干昆布、鯣、鯛、等。

午前10時15分頃 献幣使の行列社殿前に到着。立烏帽子、浄衣装束の案内神官を先頭に拝殿正面より入殿、金棒引き、傘持ちは上がらない。神主、伶人は幣殿へ役員来賓等は拝殿へ用意されたパイプ椅子(一部牀几)に着席。

*別記 献幣使
県より派遣された献弊使による献弊の儀は、従来二宮神社に参拝するときに行われていたが昭和30年より、神揃場に到着したとき、直ちにその場で行うように変わった。理由としては二宮神社境内の混雑と、時間がかかり過ぎてその後、礒出式に臨む舁夫がもたないからだと説明している。そのため二宮神社の神事が終わると献幣使は神揃場に行き、各神社の到着を待ち、仮社務所に参着の報告ありしだいに献幣の儀を行う。
今回始めて献弊使の休憩所となったという三山町35番地、土橋徳治氏宅門左側に、「神社本庁献幣使休憩所」と書かれた立札が出されその庭先には、釣り太鼓1、(太鼓持ち2名、同足持ち2名)赤い参内傘2、(傘持ち2名)唐櫃1、(唐櫃持ち2名、立烏帽子、浄衣、短靴装束)と役員数名待つ。

午前9時54分頃二宮神社より、献弊使の休憩所(土橋氏宅)にお迎えの行列到着。全員庭先に整例献弊使(ケンペイシ・供進使ともいう)を迎える。(三13.参照)

午前11時10分頃、御仮屋前に田喜野井と藤崎の舁夫合流、田喜野井の舁夫神輿の回りで手じめ神輿を舁ぎ始める。今回の舁番は田喜野井からである。(前回は藤崎が先き)同25分頃境内より発御、旧道(ナナマガリ)を通り神揃場へと向かう。渡御行列の順序は、〈た〉(田喜野井)の金棒男子2名。両側に〈た〉の金棒世話人各1。〈た〉子若稚児拍子木女子2。〈た〉金棒女子2。〈ふ〉(藤崎)の金棒男子8。両側に〈ふ〉の金棒世話人各1。(前回は12人だったという)〈三〉(三山)賽銭係3。ジープに乗った〈三〉の神官2と〈三〉金幣持ち1。〈三〉太鼓の台持ち2。同釣り太鼓持ち2。〈三〉伶人5。(釣り太鼓1、大笛2、笙1、篳篥1)。〈三〉高張提灯持ち1。〈三〉纏提灯持ち2。〈三〉社名旗持ち1、(3名で交代)〈三〉榊持ち1、(5名で交代)。祭典委員長等役員。神輿〈三〉神輿の台持ち2。(以下二宮神社舁神輿渡御の記録は別記)
二宮神社の神輿が神揃場に向けて発御していった後は、境内ではとくに何も行わなかった。参詣客は非常に多い。

午後0時20分頃、午後からは二宮神社の神輿を最初に各社の神輿が参拝に来るそのため、疲れた舁夫のために休憩用の茣蓙を敷き境内の掃除をする。

同52分神官4名神揃場へ献幣の儀に行く。

午後3時30分、二宮神社の神輿境内に帰着10分程もみ御仮殿(オカリヤ)に着御。

3時40分、畑の稚児行列の先頭境内に着く、そのまま社殿を一廻り参拝して三山のヤドに向かう総勢役400名程の行列。(別記 稚児行列参照)

同51分頃、菊田神社の神輿境内(境内の配置については、三14.参照)に入る。しばらくもんでから拝殿内に参入する。その前に神主、役員等弊殿内に上がる。向かって左側菊田神社、(参拝神社側)、右二宮神社側手前横に役員等座す。修禊、祝詞奏上、玉串奉奠、御神酒(舁夫の一部までまわってくる)以下神事は各神社同様に執行されるがこの神事の中には、各神社が唐櫃に持ってきた玉串料を奉り、またこの際に神社本庁より幣帛料をもらうやりとりも含まれている。因に各神社の唐櫃は行きに玉串料を運び、帰りに幣帛料を入れて帰るものだと説明されている。
拝殿の中央畳の上に神輿がおかれ、まわりに舁夫等が座す。神事は神官、役員の数にもよるが約10〜15分程で終わり次の神社を迎える準備ができると太鼓が鳴らされる。また、山車をともなってくる神社もあるが山車は境内に入らず外で囃子を続ける。
拝殿内参入は二宮神社、子守神社の神輿(大きいため)を除いては、金棒、高張提灯等も神輿とともに練り込んでくるが、神輿の着御を待たず神事が進められる例が多い。これは元来、神輿は参入しなかったものであり、また時間的理由からだというが、その神社によって整然としているところもあれば、いつまでも拝殿内でもんでいるところと、立ちっぱなしの舁夫のところ等々様々である。午後4時菊田神社の神輿拝殿中央に着御、手じめ神事終わり同13分神輿舁ぎ上げられ、その場でぐるりと神輿の向きが変えられそのまま拝殿から出る。しばらくもんでから、同20分境内より出旧道の方に向かった。太鼓の音響く。

<以下各神社神輿の拝殿の記述>

*別記 神輿渡御(神揃場 往復渡御)
二宮神社の神輿は七年祭のときだけに渡御する習わし(式年大祭に当たる未・丑年の小祭と大祭)であり、小祭の9月13日には三山町内の渡御。大祭の11月は日が定まっていないが2日間、一日目は神社から神揃場まで往復。その後夜になってから再び発御。実籾(習志野市)武石(千葉市)幕張(千葉市)久久田(習志野市)藤崎(習志野市)田喜野井(船橋氏)と昼夜を問はづ渡御し続け二日目の夜三山に還御する、この3回だけの渡御である。また、その渡御順路や途中の休憩所(ヤド)は、昔から決まっていた。しかし近年の時代の変遷とともにヤド、順路、慣習等が大きく変えられ必ずしも従来の慣習が守られてはいない。午後11時25分頃、神輿神揃場に向けて境内発御。今回の先の舁番は〈た〉田喜野井である。順路はナナマガリを通り、三山町30〜1番地、三橋渡氏宅の休憩所に着く。神輿の着く位置には、葉付の青竹を四隅に立てて注連を張りその中に砂を敷く、またその中に砂を持った御塚が作られ中央に榊が立てられている。そこの竹と注連を除き神輿が安置されると、〈た〉の舁夫等手じめ、その後〈た〉と〈ふ〉の世話人立会の上神輿の点検がなされる。終わると、榊持ちは神輿正面に榊を立てかけて休憩。
ここから〈た〉より〈ふ〉の舁夫に交代される舁夫交代(カタヲカエルという)である。12時35分〈ふ〉の舁夫神輿のまわりで手じめ舁ぎ始める。先頭の金棒は舁番の金棒が先に立ち、舁番以外の舁夫は神輿の後に行列する。同45分三橋宅を出発。午後1時11分神揃場に神輿入る。同23分二宮神社と立ち札のある御塚の四隅の竹と注連縄を取り除き、御塚の上に用意してあった真菰の茣蓙を横に敷きそのうえに神輿をおく、手じめ。実際には御塚の前後に神輿台(脚)を据えその上に置く。他の神輿も同様。
神輿正面両側に神幣と四神旗、纏提灯、中央に社名旗、三山、田喜野井、藤若の高提灯、榊。左側に立札、唐櫃等を置く。神輿に向かって左側に役員、右神官4名、整列。午後1時28分頃より献幣の儀執行、祝詞奏上約1分程で終了、同2時カラヅツ揚がる、また「祝、二宮神社大祭」と落下傘により懸垂する花火打ち揚げられる。同2時10分頃100数十の風船を放つ。同33分〈た〉手じめの後舁ぎ始める同40分神輿神揃場を出る。二宮神社の神輿は、神揃場より、他の神社が全部が発御した後、最後に出る。しかも二宮神社に着くのは一番最初に着く(一般の順路とは違う、三15.を参照)習わしというのが近年、実際には変わってしまっている(三16.17.参照)が、とにかくバス通りを通って旧道に入り午後3時祭典委員長将司正之輔氏宅休憩所に到着、さしもみ数回後〈た〉の舁夫手じめ、3時9分御神輿点検。〈た〉より〈ふ〉の舁夫に交代し同23分頃二宮神社に向かって出発。午後3時30分頃境内に到着。境内で〈ふ〉が10分程もみ御仮屋に還御。以上約4時間で神揃場往復渡御を終る。

                 12:45着
11:25発┌─────────→三橋氏宅─────────┐
      │  田喜野井    (休憩所)  藤崎    │
      │                       ↓
    二宮神社                     神揃場
      ↑                       │
      │  藤崎      (休憩所)  田喜野井  │
15:30着└──────────将司氏宅←────────┘14:40発
                 15:23着

*別記 稚児行列
稚児行列は、子安神社の関係だけであるが前回の大祭の年に生まれたものが参加する習わしという。今朝7時半に集合し、畑をバスで8時半に出発した。途中検見川1丁目のヤド同2丁目のヤドに寄り、武石の植草長衛門氏宅のヤドで休憩。次に大久保の海老原氏宅ヤドで休憩昼食。三山についたのは午後2時20分頃。徒歩行列をなし神揃場を通り、先頭が二宮神社についたのは3時40分。参拝しながら行列はそのまま社殿を一廻りして、三山町32番地のヤドに4時過ぎに着き休憩。帰りはバスで畑まで直通で変える。
行列の先頭はツユハライといわれ稚児(チゴ女子という14〜20才くらいまで、花笠を背にする)20人。警護(ケイゴ男子をいう)の計32人(その年によって人数は変わる。決まっていない)チゴは冠をつけて121名。警護は陣笠、陣羽織に刀90名。で今回の参加者は計243名それに母親が添い総勢約450名になったという。それに対し畑の世話人は18名に三山側に出迎え案内が10数名であった。近年似なく今回は大勢になったという。

7.神揃場の記録

神揃場(カミソロイバ・カミソリバ)

位置
船橋市三山町字南込578〜1・579〜1・581〜1番地二宮神社の南、約550m程の所3筆続き
面積
578〜1番地 原野 8畝6歩
579〜1番地 原野 6畝15歩
581〜1番地 原野 1反1畝18歩 計2反6畝9歩

現在の船橋市役所の公図及び昭和30年2月28日現在の土地課税台帳によると上記の通りであり、また、地元でいう「神揃場」という字名はなく、旧名称と思われる)「南込」に当たる。なお現在では神揃場全面のバス通りが拡張され3畝16歩が道路になっている。もとの広さはこの道路用地になった分を加えても2反9畝25歩だが、おそらく以前は3反以上はあったと思われる。
現在の神揃場3筆合計2反6畝9歩は二宮神社所有地となっている。
現在の神揃場といわれるところは、普段、半分は空き地、半分は市管理の児童遊園地である。そのため、付近の子供たちの格好の遊び場になっており簡単な遊具がおかれる。また中央には道路が横切るが大祭時には閉鎖され、遊具等は一切撤去される。東側の端には三山自治会館兼消防団器具置場の木造2階建てがあるが、これは、神揃場内の二宮神社仮社務所として使われる。

準備(塚積み・ツカツミ)
この準備をする日は決まっていないが、この日を「塚積み」という。神揃場に「御塚」(オツカ)と称する土壇9つと、竹矢来を組んだり、幟棹を立てたりする。最近は勤め人が多くなったので休日を利用することが多くなった。最初予定された日は10月28日の日曜日であったが雨が降り翌日の10月29日に延期された。



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制作 千葉大学文学部哲学専攻 
田久保 崇士 E-mail:ttakubo@alles.or.jp