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三山の七年祭 −二宮神社式年大祭−
発行 習志野市教育委員会
企画編集 習志野市教育委員会 社会教育課
昭和52年1月1日発行
より引用


2.小祭

1.小祭のこと

二宮神社式年連合大祭は通称ミヤマノマツリ、シチネンメのマツリ、シチネンマツリ、ニノミヤジンジャシチネンサイなどといわれ二宮神社を中心に特別な祭礼を6年目毎に行っている。一般にはこの特別な祭礼を「七年祭」といい丑年及び未年の11月に行う。この七年祭に当たる年には、地元三山では毎年10月16日に行う二宮神社の御祭礼(秋祭りに当たる)を行わず、湯立祭と称する祭を9月13日に行う。七年祭は11がつと月が決まっているが日の定まりがない、そのため湯立祭を行い、祭の日を決定するものだという。
このようなことから地元では、9月13日に行うこの湯立祭を、11月に行う大祭(タイサイ、ダイサイともいう。七年祭、連合大祭)に対して小祭と称している。この小祭(湯立祭)は、大祭の日を決める重要な祭日とされている。かつては湯立神楽の祭、神がかりになった神主が大祭日を告げたという口碑がある。近年(少なくとも明治以後)は関係神社神主、氏子総代等の打ちあわせ会を数回重ね、9月1日二宮神社に於て、恒例の「二宮神社大祭に関する大集会」と称する集まりで決定されている。
また今回より新町会も参加することになったが現在三山町会には32町会がある。終戦直後頃は3町会(今の第一・第二・第三町会)のみであり、240〜50軒程度であった。世帯数、人口は20年前(昭和28年11月 626世帯、2026人)に比し現在(昭和48年11月4481世帯 15、017人)では、約7倍に増加しており地元の人だけでは運営上にも難しくなったものと思われる。従来大祭時には三山側は、各種の役を割り当てると舁夫としても人手が足りなくなり、二宮神社の神輿は渡御できないため、田喜野井、藤崎の舁夫により渡御していると説明されている。事実、田喜野井では今回も何件かあったと聞くが、カイビト(買人、その家のものとして雇われた舁夫、主に親戚縁者が多い)と称し、割り当てられた人手を集め神輿渡御に供奉している。このようなことで三山の氏子は大祭に御輿を舁げない、そのために小祭で舁ぐのだと説明するものもあるが、地元三山では、10月16日の例祭(秋祭り)の意味もあるようである。因に二宮神社の神輿はこの小祭と大祭にだけしか渡御しない習わしである。小祭は9月12日の前夜祭に始まる。当日朝から諸準備を進め、夕方、勢揃い(セイゾロイ・ミタマウツシともいう)を行い、神輿に、御神体の一部を遷す儀式が行われる。9月13日の小祭当日は早朝より三山町内の神輿渡御が地元三山町寅待会の舁夫により行われ、夕方境内に還御する。それを待って田喜野井町の舁夫と藤崎町の藤若の舁夫とが境内で神輿勇めをする。終了後は翌日の祭の朝まで神輿に不寝番(フシンバン交代で翌朝まで)がつく。

2.神輿のこと

例年1月15日の春祭りと10月16日の秋祭りがあるが、二宮神社の神輿は未年、丑年の小祭と大祭にだけしか渡御せず、毎年1回8月19日の虫干しの祭りにのみ神輿倉の中で飾りの外された神輿が見られるだけである。この大祭の前にはいつも神輿修理、化粧直しを行う。今回は5月に行徳に出して9月6日に帰ってきた。立派に飾られて村に帰ってくる日は。寅待会(トラマチカイ)の役員、氏子らが、囃子方を連れて村境までに御迎えに出、賑やかに神輿蔵に納められる。今回の修繕量は150万とも160万ともいわれる。また今回より新町会も参加し子供神輿を出すことにした。子供神輿の借料は一日あたり10万とか。
地元三山では、米俵1表18貫、内容のみで16貫というが、神輿の重量は米俵12表分という、また200貫ともいう。約800〜860kgほどの計算になるが、近郷近在では一番重いといわれる。神輿の製作年代については不明であるが、神輿の四方にさげる鏡の裏にある鋳込文字によると、正徳五年未の九月十四日(1776)とある。鏡は直径25〜6cm、厚さ1、2cm前後で4面ある。

<鋳込み文字の図>

一面は村名に当たる部分が、なぜか削り取られている。
神輿の大きさは、縦棒(タテボウ)530cm。横棒(ヨコボウ)335cm。下台(マス)135cm。屋根巾(ワラビの先より)150cm。高さ(マス下より屋頂まで) cm。鳳凰高42cm。同羽巾76cm。化粧綱(化粧綱または太綱・フトヅナ)長さ約900cm2本。



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制作 千葉大学文学部哲学専攻 
田久保 崇士 E-mail:ttakubo@alles.or.jp