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習志野市発行の習志野市史からの引用です。
藤崎村は、徳川家康が東金鷹狩に通行のため、造らせたという東金御成街道に面している。この村の近世前期以前の状況はよくわからないが、領主は元禄年間までは天領で、元禄十四年(一七〇一)正月、幕府の奥医師を勤めていた吉田周竹宗知が五百石の知行地を千葉郡の内で与えられた時、この吉国領となり、その後幕末まで変らなかった。
村高は一九五石三斗四升九合、耕地は田一四町八反余、畑八町四反余、屋敷五反余で、田が約三分の二を占めている。
村内の家数は、掘込にある天保四年(一八三三)九月の富士講碑には五八軒とあり、安政二年(一八五五)の明細帳では家数六四軒、人数四○○人、うち男二一○人、女一九○人で、烏が四一疋いたが、明治二年(一八六九)には家数六五軒、人口四〇四人、明治西年には六八軒、四五○人、馬三一疋、明治八年には家数七二軒、人口四七○人と幕未から明治期にかけて家数・人口とも増加してくる傾向にある。
村内の職業をみると、濁酒造一軒、商人三軒、職人二軒で、その他は全て農業を営み、明治三年には上農一四軒、中農一七軒、下農三四軒となっている。
農業の合間には男女とも薪取をしているというが、幕末には薩摩芋・西瓜を作り、江戸へ売り出していることは注目される。
明治二年には、この薩摩芋の売上高が年間全五〇〇両にものぼったという。大都市の近郊型農村となっていく芽は、江戸時代からあったといえよう。
このことは江戸に直結する御成街道沿いにあったという地理的柔件にもよる点が大きいが、そのことは又、助郷負担を負うという結果にもなった。
この村と近隣の実籾・長作・天戸の四ケ村は組合となって、御成街道の継立場犢橋の定助郷村に指定されており、鷹の餌確保に東金辺へ往来する幕府鷹匠や、関束取締出役一行の通行などには、馬・人足を出して荷物輸送等を負担しなければならなかった。
また、ここは小金野の内下野牧に付いた牧付の村でもあったので、牧場役人よりの指令により村高百石につき六人宛の人を出し、野馬捕御用や、圍土手の普請、犬落穴の浚い、渇水の時は野馬呑水の汲み上げ、雪降りの時には雪払人足差出等々、一年を通して小金の牧と野馬の管理に動員される重い負担も負っていたのである。
村内の寺社は、村の南端台地上に鎮座する子安大明神と、その北の正福寺で、子安大明神(子安神社)は境内除地一反歩と、他に畑六反五畝歩が附属されており、明治四年時点での神主は田窪良連であった。
また、藤崎山正福寺は、新義真言宗宇郡谷付(現千葉市)大聖寺の末で、境内除地三反五畝歩、薮山二反歩をもっていた。なお、ここに明治初年に藤崎小学校が設けられた。(川名登)

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制作 千葉大学文学部哲学専攻 
田久保 崇士 E-mail:ttakubo@alles.or.jp