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習志野市教育委員会発行の『三山の七年祭』より、大祭について記した部分です。


95 三山の七年祭(その一)

昭和五十四年の十一月には、二宮神社を中心とする”三山の七年祭”が行われました。この祭りは五〇〇年の伝統があるもので、近在の郷土行事の中でも最大のものです。 丑と未年を祭年として七年に一回行われる所から七年祭といわれるこの祭りは、船橋市三山にある二宮神社を中心に、次の八社が参加して行われます。 八王子神社(船橋市古和釜町)、菊田神社(習志野市津田沼)、大原大宮神社(習志野市実籾町)、子安神社(千葉市畑町)、子守神社(千葉市幕張町)、三代王神社(千葉市武石町)、時平神社(八千代市大和田・萱田)、高津ヒメ神社(八千代市高津町) この祭りは安産守護にちなんだ祭りであり、参加する九社は、二宮神社を中心に一大家族の間柄に関係づけられています。そして、中心となる二宮神社の棟札には、神社の名称について次のようなことが書かれています。 「二宮神社の二の時は、天の略字で天の中から人をとりだした文字が二である。二は天地を生み成した男女の二神の意である。」 >こうした由来からにのみや神社には昔から安産を祈願することが多かったのでしょう。 七年祭の発端は幕張町にあった馬加城の城主、千葉康胤の安産祈願によると伝えられています。

96 三山の七年祭(その二)

今から五三〇年前ほどの大安2年(一四四五)、馬加城の城主、千葉康胤の女御が懐妊をしましたが、一一カ月を迎えても出産の気配が現れませんので、康胤は痛く心配しました。そこで神の力に頼り安産をはかることにし、幕張、三山の神社を中心に、近隣の神々に安産加持祈祷を命じ、無事安産の願いが成就したあかつきには、盛大に御礼の大祭を執行することを神前に誓いました。 やがて神効が現れ、無事男子が生まれました。康胤の喜びはもちろん、家臣一同も多いに喜び、早速先の誓いのとおり、領地の村々に触れを回し、盛大に祭礼を行いました。これが「三山の大祭」の縁起です。この祭りは、磯出祭りと御礼大祭という二つの祭りからなっています。磯出式は、幕張の海岸で真夜中に行い、この祭りには二宮神社、子安神社、子守神社、三代王神社の四社が参加し、安産の行事をとり行います。この磯出式の前日の昼間、三山に集まって行う祭りが御礼大祭です。 この祭りには、先の四社のほか、八王子神社、時平神社、高津ヒメ神社、菊田神社、大原大宮神社が加わり、全部で九社が集まる盛大な祭りとなります。この磯出式と御礼大祭を総称して、「三山の祭り」と呼んでいます。 「三山の祭りは後が先」といわれています。これは本来、出産の後に、御礼の祭りをすべきなのに、御礼の祭りを昼間行い、その番に出産の祭りをするので、こんな言葉が生まれたのでしょう。

97 三山の七年祭 その3

七年祭は、かつては秋の芋掘り、麦蒔きが終わって農家の手のすいた時期を見はからって一一月二三日(勤労感謝の日、戦前は新嘗祭といい、天皇が新米を神に献じ自らも召し上がる儀式を行う日)の前後に行っていました。 現在は生活様式が多様化したので、ここ数回は一一月三日(文化の日)を中心に行われています。 祭りの日、三山にある神揃場と呼ばれる集合場所には、九社のみこしが勢揃いします。この九社には、二宮神社=夫、子安神社=妻、八王子神社=息子、子守神社=子守、三代王神社=産婆というように一大家族の間柄に関係づけられています。そして神揃場でのみこしの並び方も、夫(二宮)、妻(子安)が正面に位置し、それに対座して左から娘、息子、子供たち、産婆、おじ(菊田神社)、おば(大原神社)、子守と決められています。こうしてお昼ごろに九社が勢揃いすると、行列を連ねて二宮神社に参向し、参拝を終えると各社それぞれ決められたコースに従って帰っていきます。 昔はこの往復とも若者の方で神輿を支えてきたものですが、今は交通事情を考えてトラックで搬送しています。 各神社はみこしを中心にそれぞれの立場によって数十名の可愛いらしい稚児を行列に参加させたり、立派に飾った山車を引くなど、いずれも笛太鼓の音もにぎにぎしく行列が進み、この日の三山はこれらに音と人に波にも包まれます。

98 三山の七年祭 その四

鷺沼では大祭(一一月三日)の前夜、二宮神社氏子全員が海に入り、禊の行事を行います。禊とは、神事に従う者全員がその前に身の汚れを洗い清める行事で、数百名の氏子全員が鷺沼の宿で身につけた一切の衣裳をぬぎ捨てて,高張提灯を先頭に海中に入り身を清めます。二月の寒風を着いて夜中、裸の若者が起きに向かって駆け込む姿は、まことに勇壮なものです。今は、海岸が埋め立てられたためこの行事ができなくなり、形式的に海岸に用意した大樽の海水で身を清めることにしています。この後、地元鷺沼町の接待で、御神酒とあさりの熱い汁の接待を受けるならわしになっています。 また、菊田神社の祭礼用地の一つに、「火の口台」(津田沼六−七付近で、神の台の意)と称される場所があります。一一八〇年頃、京を追放され房総を目指した藤原師経羅が久久田浦に漂着し、海上で離ればなれになった仲間に、その無事を知らせるため、ここに大きな焚火をたいたといわれています。 師経卿は、しばらく菊田の地にとどまり、やがて二宮大明神の地に行き、ここを永住の地に定めたそうです。そして自分たち一族の祖として、二宮神社の祭神とともに藤原時平公を併祀しました。そのため、今でも三山の祭礼の度に、菊田神社はもちろん、二宮神社も幕張の磯出際の帰途、火の口台へ立ち寄り、みこしをこの台上に安置し、昔を偲ぶ祭事が行われています。

99 三山の七年祭 その五

昭和54年の七年祭も大変な賑わいを見せて終わりました。 さて、祭りには多くの費用がかかるものですが、この費用の捻出について、津田沼の古老によれば「昔は年に1度、村中の人が出て、懐中の船道(澪)の泥土を掘り上げて、船主からの代償金を村の責任者が預かっておき、それを祭りの費用に充てた」といい、村の人々の祭りへの思い入れの深さをうかがうことができます。また、各家庭でもこの祭りのために晴れ着を用意し、着飾って参加したものですが、こうした人々にあわせて商店の売り出しも盛大に行われていたようです。写真は七年祭に合わせた売り出しのために旧久久田村にあった三河屋茂兵衛という呉服屋が配った”かわら版”の版木で、谷津の加藤峯太郎氏が保存していたものです。 かわら版というのはその名のとおり、始めは粘土に文字や絵を描き、焼いて版にしたものといわれていますが、この写真の版木は桜か桂のような堅い木でできています。 その内容は、「今年は作柄もよく、豊穰で結構なことです。さて、御山二宮大明神の七年祭が間近になりましたので、私の店では次の品々を用意し、八月六日から八日まで売り出します。」というもので、男帯地、女帯地、お召ちりめん、めいせん等の九品目が挙げられています。人々はこうした品目を買いそろえて、七年に一度の大祭を心待ちにしていたことでしょう。 今は、海も埋め立てられ、祭りの様子も多少変わってきていますが、祭りに対する地元の人の熱意は変わることなく引き継がれています。


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制作 千葉大学文学部哲学専攻 田久保 崇士 E-mail:ttakubo@alles.or.jp