教育援助

教育支援

1. パキスタンでの教育支援:パキスタン国クエッタ市の「ヌール難民学校」

(1988年〜2005年)

1)クエッタで難民学校を開校

難民の間に、教育に対する要望が強いことを知り、1988年4月から、クリニックの庭でテントを張り、アフガン難民の教師を採用して、アフガン難民の小・中学生のための「ヌール難民学校」を生徒数32人、費用は月4万円で開校しました。

さらに、1989年4月から、成人を対象とした「技術習得奨励基金」を創設し、1990年からは看護師、検査技師学校の併設となりました。これらの目的は、アフガン難民が帰国後、自立するために必要な技術を習得させるためのものでした。

クリニックの庭にテントを張って教育 授業風景
クリニックの庭にテントを張って教育
授業風景
熱心に学ぶ子ども達 悲惨な戦争体験の絵
熱心に学ぶ子ども達
悲惨な戦争体験の絵

その後、生徒数の増大に伴い新しい校舎を借りて学校を継続しましたが、毎年生徒数は増え続け毎年1,300〜1,600人の生徒数、現地職員60人の大所帯で、高校生を3年間教育するところまで発展しました。

難民学校の特徴

「ヌール難民学校」は、 a.男女共学 b.部族間の差別なし c.教える教科は国語/英語/理科/社会など多教科 d.宗教的や政治的に中立、などの特徴があり、イスラム圏においては極めてユニークなシステムを持っています。


授業風景① 授業風景② 授業風景③
授業風景①
授業風景②
授業風景③
借りていた校舎 ヌール難民学校の生徒たち 教師と職員たち
借りていた校舎
ヌール難民学校の生徒たち
教師と職員たち

1996年には、初めて19名の卒業生を送り出すことができました。2002年からはカブール大学への正式な受験資格を得ることができ、これ以降毎年、多数の卒業性が優秀な成績で合格しています。

卒業式
初めての卒業式
難民学校の生徒数の推移

2)パキスタンからアフガニスタンでの
支援に向けて

1992年4月旧ソ連軍の撤退により、アフガニスタン国は共産主義政権から暫定評議会へ政権が移行しましたが、浜田現地代表一家にはビザの再発給が行われず、4月16日帰国しました。

アフガニスタン国内ではゲリラ同士の内戦がはじまり、共産政権が支配していた時よりも戦況が厳しくなって、難民たちが帰国する環境は全く整いませんでした。

通学用のバス
通学用のバス

2. アフガニスタンでの教育支援:「ヌール小・中・高等学校」の校舎建設と運営

(2005年〜現在)

1)仮校舎での授業開始

2005年4月、「ヌール難民学校」の多くの教師や生徒の出身地であったアフガニスタン国ガズニー州ジャグリーに「中・高等学校 (各クラス30人/男女で12クラス/360人)」を設立し、建物を借りて授業を開始しました。

クエッタの「ヌール難民学校」は、その規模を縮小しアフガニスタンへ移行しました。その後2008年12月まで、『燈台』は資金援助を続けましたが、現在は自立して活動を継続しています。

仮校舎での授業風景① 仮校舎での授業風景②
仮校舎での授業風景①
仮校舎での授業風景②

2)アフガニスタンの首都カブールで
専門学校を開校

8月からはカブール市内で、女生徒を対象に「アフガニスタン専門学校(コンピュータ・英語・科学を教える専門学校)」を開校しました。

パソコン教室
パソコン教室

3)ジャグリー校の校舎建設
(2006年〜2011年)

ガズニー州ジャグリーは、アフガニスタンのほぼ中央からすこし南東部に位置し、首都カブールから直線距離にして約200km、車で6~7時間もあれば行けますが、現在は治安の悪化から、片道2日をかけて舗装していない道を通らなければなりません。

国内の交通の障害ともなっているヒンドゥークシュ山脈を越えた高地の盆地で、日本人に似た顔つきのハザラ人がたくさん住み、タリバンに多いパシュトゥン族の住む地域に周りを囲まれています。教育に熱心な土地柄で、学校数も少なくありません。

アフガニスタンマップ

ジャグリーに学校が移転した理由は、第1にクエッタの「ヌール難民学校」の教師の多くが、この地の出身者であったこと。第2に「ヌール難民学校」の優れた評判が、この土地にも以前から届いていたからです。事実、内戦時代すでにジャグリーからヌール校に留学した人がいたほど、ジャグリーではヌール校が知られていたのです。

仮校舎での開校から半年後、新しい学校のために、ジャグリー市から『燈台』に一辺500メートルの土地が譲渡され、2006年11月15日に、土地の盛大な譲渡式が州知事を迎えて行われました。

譲渡式 与えられた広大な土地 譲渡された土地での入学式
土地の譲渡式
与えられた広大な土地
譲渡された土地での入学式
ジャグリーでの開所式① ジャグリーでの開所式② ジャグリーでの開所式③
ジャグリーでの開所式①
ジャグリーでの開所式②
ジャグリーでの開所式③

ジャグリー市から、中高一貫校の校舎の建設を依頼されましたが、『燈台』にはその貯えはなく、初めはとまどいましたが、私たちへの新たなチャレンジとして受ける決断をしました。

2006年の『燈台』理事会で、「ジャグリー学校建築3ヵ年計画」が立案され、ジャグリー学校校舎建設がスタート。その結果、従来の支援金に追加して、さらに総額1,500万円の建設資金が必要になりました。

◇ 計画案
  • 初年度 (一期目:2006年4月~2007年3月)
    500万円の予算で、井戸を掘り、6つのテント教室、3つの部屋、2つのトイレ、風呂、 台所を建設し、工事用の車両も購入する
  • 二年度目 (二期目:2007年4月~2008年3月)
    650万円の予算で、10の部屋と4つのトイレを作る
  • 最終年度 (三期目:2008年4月~2009年3月)
    350万円の予算で、グランドを整備し塀を設置して校庭を確保し、計画を完了する
◇ 方針
  • 中高一貫校で360人の生徒を教育する
  • アフガニスタンのこれからの安定した社会建設のために、平和的手段により一歩ずつ社会を改革していこうとする意思と能力を持つ、良質な人材の育成教育をめざす
◇ 2006年度(一期目)
  • 学校建設を3年計画で開始
  • 総予算:1,500万円、初年度(2006年4月~2007年3月)予算:500万円
  • 土台となる石、井戸掘り、教師用の3つの部屋、風呂、台所が完成
  • 2つのトイレと、仮校舎となるテント6張りを設置
井戸 石切場 授業用のテント
はじめに井戸を掘りました
石切場から石を運びました
授業用にテントを6つ張りました
テントでの授業 建設中の校舎 建設中の校舎とテントの教室
夏は暑く冬は寒いテントでの授業
建設中の校舎
建設中の校舎とテントの教室

◇ 2007年度(二期目)
  • 予算:650万円
  • 内装・トイレ・教師用の部屋・台所等が完成。加えて、必要な資材を収納するための倉庫を建設
  • 7月に韓国人の拉致事件が発生。治安悪化の影響を受けてしばらく工事がストップした。そのために、工事に取りかかるのが大幅に遅れたが、生徒用のトイレ5つ・洗面所・教師用の部屋は、別棟の校舎(教室10部屋)が期限内に完成
  • 冬の間工事は休みに入り、翌年の春に再開
校舎の全貌 完成間近の校舎
見えてきた校舎の全貌
完成間近の校舎
塀に囲まれた井戸 資材運び
塀に囲まれた井戸が完成
カブールから資材を運ぶ
◇ 2008年度(三期目)
  • 予算:350万円
  • 教室と生徒用のトイレが完成、水や電気回り、グランド等の整備を完了
  • 工期の遅延、情勢の変化による物価上昇(ガソリンは二倍以上、ガス、電気料金も値上 げ)等の影響により当初の予算をオーバー。最終的に400万円をかけて完成
完成間近い校舎の中 教室の椅子と机
完成間近い校舎の中
教室に椅子と机を準備

4)中学校・高等学校の校舎が完成

2008年12月にジャグリーの学校の校舎は完成。すでに夏ごろから、教室としていたテントをたたみ、教室で授業ができる状態になりました。

この段階では、校舎の外壁も内壁もペンキが塗られていません。当初の予算は使い果たしてしまったので、予定していたグランドの整備には手が届かず、校庭を囲む壁もなく、土地の境界線をめぐって将来争いが起きると教師たちは心配しました。

学校の敷地周囲に塀をつくる

とにかく授業ができる教室が完成したことは、現地の人にとって大きな喜びでした。教師たちはじめ現地の人たちは、支援下さった日本の方々に心から感謝しています。現地のスタッフも様々な困難を乗り越え、限られた予算を最大限に使い、より良いものをつくることに努力したのです。工事の現場監督も教師たちの数人がその任に無償で当たり、校舎の建築に必要な物資の買い出しも、業者を通さず教師たちが担当しました。また、教師たちは、普段はのんびり仕事をするアフガニスタンの職人たちに対して、工期を決めて、それを守るようにさせました。

ジャグリーでは手に入らない質の良い建材を首都カブールで調達し、タリバンが多く出没する危険な地域を抜け、何度もジャグリーまで運んだのです。そのようにしてできた建物は、ジャグリーで一番いい建物と言われており、しかも、現地の人たちが冗談だと笑いだすほどの安い費用でそれを建てたということは、現地のスタッフたちの自信にもなりました。

完成した美しい校舎 教職員たち:完成した校舎の前で
完成した美しい校舎
教職員たち:完成した校舎の前で
新校舎での授業がはじまる コンピュータのクラス
新校舎での授業がはじまる
コンピュータのクラス

5)小学生の教育と校舎の建築

ジャグリーの地域を管轄するガズニー州の教育省から、来年度より小学校1年生の生徒を受け入れ、教えるように要請されました。『燈台』の学校は7年生(日本の中学1年)からスタートしますが、他の学校の優秀な生徒が6年生を終えて『燈台』の中学校に転入してしまうために、地元の学校からクレームが出ていました。そこで『燈台』も、自分たちの学校で小学校をはじめるようにしました。

手前が建設中の小学校校舎 グラウンドで遊ぶ小学生たち
手前が建設中の小学校校舎
グラウンドで遊ぶ小学生たち

取りあえず、2008年4月からは、小学校1年生だけを入学させました。『燈台』の予算とは全く無関係にはじまったことですが、生徒から授業料を取って教師を雇うようにしました。しかし将来的には毎年学年が増えて教師も必要になり、またその子供たちのための教室も必要になるわけですが、この段階では先のことは未定でした。

相変わらず各地域を掌握しているタリバンは、教育の必要性を否定していましたので、学校のための物資の通過、あるいは外国のNGOの働きに関する物資の通過に目を光らせていたのです。だれもが歓迎しているわけではない中での支援は、いつも危険と隣り合わせで、妨害を受けながら行われてきました。

6)全ての校舎が完成

2011年11月に小学校校舎が完成しました。

浜田現地代表は、2010年5月にジャグリーに危険を押して行くことができ、クラスの様子をすべて見学しました。そこでは各クラスの生徙たちからの温かい歓迎を受け、クラスを代表する生徒や先生や市長から、日本の支援と『燈台』の働きに対する感謝の言葉を受けました。

パキスタンの難民学校時代から、アフガニスタンの子どもたちの教育を長年支援してきましたが、これまでテントや仮小屋や賃貸住宅を使用してきたため、子どもたちがちゃんとした学校の教室で学ぶのは初めての体験でした。

子どもたちも、自分たちの教室を喜び大切にしています。浜田現地代表は、日本の学校のように、生徒たちが教室を掃除することを長年言い続けてきましたが、ようやくそれが実現し、子どもたちが自ら掃除するようになりました。

掃除する子どもたち① 掃除する子どもたち②
掃除する子どもたち①
掃除する子どもたち②

それはアフガニスタンの学校には、まったくない習慣であり、他校から転入してきた生徒たちは、まず何よりも、そのようなこの学校独自の決まりごとに戸惑います。

『燈台』は、アフガニスタンの習慣と日本の良いものとが融合して、より良いものを自分たちで見つけて行くことができるよう願っています。

小学校校舎が完成 通学する小学生たち
小学校校舎が完成
通学する小学生たち
教室いっぱいの小学生 太陽光パネルを設置
教室いっぱいの小学生
太陽光パネルを設置

7)卒業して大学へそして社会人へ

大学に進学した学生たちの専門は、下のグラフの通り教育関係が多いです。留学とあるのは、インド政府給付による留学です。

昨年に卒業した生徒たちは、全員2011年の春に大学に進学することができましたが、下図は、その合格者48人の進路です。

卒業生の進路先

8)そして未来へ

2008年から小学1年生を受け入れはじめ、毎年1学年ずつ増えて行きましたが、今は6年生までが埋まりました。

全ての学年で、女子生徒の数が男子生徒を上回る勢いですが、この子どもたちは片道2時間近くかけて徒歩で通学しています。女子生徒が多いということは、生徒の家族たちから、安心して娘を学校に送れると言う信頼を得ている証拠です。

この春、この学校を卒業し大学で学んだ女子生徒が、二人目の教師として学校に戻ってきました。若い先生たちが成長し、また、生徒たちの憧れと目標になることを『燈台』は願っています。そして、アフガニスタンの未来を築くために、この学校から多くの子どもたちが、育っていくことを期待しています。

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