TKOPEACENEWS
 2面 NO.49/04.10.18発行


特集 反原発の闘い 3



原子力資料情報室
西 尾  漠


 ■ 電力「自由化」と原発  ■

 小回りのきかない原発は、自立できないどころか、現在進行中の電力の「自由化」のなかで、電力会社にとってありがたくない“お荷物”になろうとしています。
 2001年11月5日から、電力「自由化」を次の段階に進める検討をおこなってきた総合資源エネルギー調査会の電気事業分科会は2002年12月27日、報告書案をまとめました。現在は契約電力2000Kwの大規模工場や官公庁、デパート、ホテル、大学など大口の需要家に限られている自由化対象の範囲を段階的にひろげようとするものです。
 ここで自由化とは、A電力会社の供給区域内の需要家に、区域外のB電力会社や、区域内あるいは区域外の独立電気事業者や自家用発電設備の所有者が電気を売れることをいいます。その対象となる需要家が、2004年度には契約電力500Kw以上の中規模工場やスーパー、中小ビルなどに、2005年度からは50Kw以上の小規模工場やスーパー、中小ビルなどにと、対象が拡大されます。50Kw未満の小工場、コンビニ、商店、家庭への全面自由化については2007年ごろに検討を開始するといいます。
 日本の電気事業は、北海道から沖縄までを10の供給区域に分割し、1区域に1社の電力会社「一般電気事業者、と呼ぶ)が、独占的に電力を供給してきました。発電・送電・配電(小売り)のすべてを1社で行ってきたのです。電気事業法のもとでは、消費者に電気を小売りすることは、原則として一般電気事業者のみに認められていました。
 1995年4月、電気事業法の31年ぶりの本格的な改正が成立しました。「世界一高い」と言われる電気料金を下げるために、電気事業にコスト競争を持ち込む電気事業改革=電力自由化の始まりです。地域独占の体制は大きく変わりませんが、ともかくも風穴が開けられたとは言えるでしょう。
 電力会社に電気を卸売する事業に国の許可が要らなくなり、入札制度のもとで、一般電気事業者ならぬ一般の企業が、独立電気事業者として発電事業に参入できるようになりました。自社で酸化鉄の還元用に石炭を使っている製鉄会社や、殘渣油(石油精製後に残るアスハルト分)を抱える石油精製会社など、さまざまな会社が入札に応じています。また、再開発など特定の地域を限ってではあれ、消費者に直接、電気を小売りすること(特定電気事業)も可能になりました。
 これをさらに推し進めて、前述のように大口需要家への小売りの自由化、そして対象需要家の拡大に電気事業へのコスト競争の導入は、各国の現実に明らかなように、原発の新設を不可能にします。原発は建設コストがきわめて高く、リードタイムが長いからです。新設どころか、発電コストが全面的な競争にさらされたら、既設の原発すら運転を続けることが難しくなります。放射性廃棄物などの後始末のコスト、それも原発が廃止され売電収入がなくなってからもかかる膨大な費用を考えれば、原発に経済的競争力はまったくありません。
 しかし、原発の経済性よりもっと直接に電力会社を脅かしているのは、原発の硬直性です。
 部分自由化が認められた大口需要家は、24時間操業のところが多くあり、そうした需要家が夜から朝までの需要の落ち込みを下支えしていることの意味は、きわめて大きいものがあります。つまり、その需要家が他の電力会社に乗り換えてしまったら、余った電気を揚水動力(揚水発電所の下池の水を上池に汲みあげること。需要のあるときに下池に落として水力発電をする)に使ったり、他の電力会社に安売りをしたりしてもなお消化しきれないかもしれないのです。
 原発の比率を増やしたら、いかにやっかいなことになるかは、火を見るよりも明らかです。
 A電力会社の顧客であったX社が、電力の購入をB電力会社に乗り換えたとしましょう。X社は、24時間操業の大工場とします。A電力会社では、他の電力会社と同様に、夜間の電気の需要は昼間の半分以下になります。X社は、夜間の需要を支える大事な顧客なのです。X社に乗り換えられると、夜間の需要は大きく落ち込みます。
 A電力会社には原子力発電所があり、B電力会社は原子力発電所を持たないとしましょう。需要の減ったA電力会社では、原発の発電量だけで需要を越えてしまうと、原発の運転を止めざるをえません。夜だけ止めて昼間は動かすということは、原子力発電の場合にはできないので、原発を作っても動かせない事態すら、今後は起こりうるのです。そこで政府は、B電力会社が一定の量の原発の電気を買ってX社に供給することを義務づけることまで考えています。
 しかし、そんなことをすれば、世論はますます原発に厳しくなるでしょう。やはり原発には未来はありません。

■ 原子力安全行政の独立を ■

 日本の原子力行政の最高決定機関は、原子力委員会と原子力安全委員会です。原子力基本法第四条では、「原子力委員会は原子力の研究、開発及び利用に関する事項(安全確保のための規制の実施に関する事項をのぞく)について企画し、審議し、及び決定する」とし、「安全の確保に関する事項」については原子力安全委員会が企画・審議・決定すると定めています。
 原子力安全委員会の発足は1978年10月4日で、1955年12月19日の原子力基本法の公布時には、原子力委員会しかありませんでした。1974年9月1日の原子力船むつの放射線漏れ事故を契機として原子力行政の見直しが行われ、原子力安全委員会の設置となったものです。
 原子力船「むつ」の事故が招いた原子力行政への不信を鎮めるため、75年2月25日、首相の私的諮問機関として「原子力行政懇談会」が設置されました。懇談会は12月29日に中間意見、76年7月30日に最終意見を取りまとめて首相に提出。この意見を受け入れて78年10月4日、それまでの原子力委員会が、推進政策を決定する新原子力委員会と、規制政策を決定する原子力安全委員会に分離されます。ただし、76年1月16日に科学技術庁原子力局が、原子力局と原子力安全局に分離されていますから、分離の考え方が懇談会の独創ではないことは確かでしょう。ありていに言えば、75年1月29日にアメリカの原子力委員会がエネルギー研究開発庁(のちのエネルギー省)と原子力規制委員会に分離されたことの模倣です。
 本家のアメリカと違って日本では、原子力委員会と原子力安全委員会のそれぞれの専門部会の委員を多くの委員が掛け持ちしていたり、原子力局と原子力安全局の職務を何人もが兼任していたりと、分離はきわめて不徹底でした。また、当時の通商産業省では、外局である資源エネルギー庁に推進担当課と規制担当課が部屋を並べていました。
 そうした推進行政と規制行政の癒着を指摘されて、たとえば原子力委員会と原子力安全委員会、原子力局と原子力安全局とを同じ建物の別の階に配置替えをするような姑息な分離策が実施されたりもしましたが、2001年1月の省庁再編では、資源エネルギー庁の規制担当課と科学技術庁原子力安全局の規制担当課の一部を「原子力安全・保安院」として独立させました。
 しかし、この「独立」は、不十分だとする批判が根強くあります。原発推進の経済産業省の外局として推進行政を担当する資源エネルギー庁の「特別の機関」というのが、規制行政を担当する原子力安全・保安院の法的位置付けです。経済産業省からの分離独立を、と立地自治体の首長や議会などは求めています。
 ところが経済産業省では、これを強く否定しています。大臣は、2002年6月17日の閣議後の会見で「原子力を推進するうえで安全を知らないという体制は無責任だ」と述べ、同月26日の定例会見で事務次官は「ミスを早く発見し、大事故への拡大を防ぐためにも、情報の共有が必要だ」と分離独立に反発した。と報じられています。そこに見られるのは、推進行政(資源エネルギー庁)と安全規制行政(原子力安全・保安院)を包摂して、より高次の推進行政(経済産業省)があるとする考えだといってよいでしょう。

■ 原子力基本法の改正を ■

 以上のように経済産業省の考えは、原子力基本法にその源があります。原子力基本法は、その第一条で、次のように法の目的を定めています。「この法律は、原子力の研究、開発及び利用を推進することによって、将来におけるエネルギー資源を確保し、学術の進歩と産業の振興とを図り、もって人類社会の福祉と国民生活の水準向上に寄与することを目的とする」
 このように原子力基本法においては、安全規制行政がまったく正当に位置付けられていないのです。原子力基本法第二条の基本方針に「安全の確保を旨として」加えられたのは、法の制定から23年が経った後、前述の原子力安全委員会の新設に際してのことですが、このとき第四条の「原子力委員会」が単に「原子力委員会及び原子力安全委員会」とだけ改められました。すなわち、「安全の確保」は、あくまで「原子力の研究、開発及び利用を推進する」ためのもの、「原子力の研究、開発及び利用に関する国の施策を計画的に遂行」するためのものなのです。
 脱原発が完了するまでの期間を少しでも安全なものにするために、原子力基本法の改正(安全確保目的の明確化・積極化)と、推進・規制行政の分離が早急に求められます。

■ 脱原発に向かうヨーロッパ ■

 世界で運転されている原発の規模は、この10年は大きく増えることはなく、年によっては前の年より減ったりもしています。新しく動き出す原発がある一方で、古い原発が廃止されてきたからです。そして、次の10年には大きく減る方向へと動いてきました。
 次の10年には大きく減るというのは、1990年代に入ってからの新しい発注が少ないことから明らかです。90年以降の発注は、欧米ではフランスの2基のみ。最も多いのが韓国の13基、中国が8基、インドが7基、日本が6基、台湾が2基、パキスタンが1基です。
 アジアでの原発建設が盛んだといわれますが、いくつかの国に集中していて、必ずしもアジア各国で原発を作ろうとしているわけではありません。また、どの国の発注も、すでに一段落を迎えました。
 むしろ欧米での原発離れが、いよいよはっきりしてきています。フランスの発注も93年どまりで、80年代には19基もあったのがウソのようです。2000年6月15日、ドイツで、脱原発の道筋について政府と電力会社の合意が成立しました。その合意にもとずいて2002年2月1日、脱原発法が成立、4月27日に施行となりました。19基の原発の運転期間を、原則として32年に制限するものです。最も新しいネッカーハイムウェストハイム原発2号炉が1989年の運転開始ですから、それから32年後の2021年に全廃となる計算です。
 ただし、1基数千億円の投資額をまだ回収できていない比較的新しい原発をもつ電力会社は、早期の廃止に反発しています。失業を恐れる労働者の抵抗もあります。そこで、政府と電力会社の合意では、それぞれの原発の今後の運転可能量を譲渡できることにしました。投資額を回収済みで老朽化した原発の「発電権」を、投資額が未回収の原発に譲り渡すことができます。また、失業者対策の整った原発から先に止めていくことができるものです。
 もっとも、実祭に32年以上動かした原発は1基もなく、どこまで寿命が延ばせるかは疑問なしとしません。発電の権利を使いきらずに全廃となる可能性もあります。ともあれ世界第四位の原発国が、現実に全廃への道筋を示したことの意味は大きいといえるでしょう。
 スウェーデンが脱原発の政策を決めたのは、1980年のことです。その年の3月23日、将来の原子力政策についての3つの路線をめぐって、国民投票が行なわれました。投票の結果は、当時運転中の6基と建設中の6基を限度とし「分別のあるやり方で原発を廃棄しよう」と訴えた路線が38.3%、運転中の6基のみを限度とする脱原発路線が38.5%でした。当初は無制限の推進を主張、途中で12基を限度と後退しながら「廃棄」の言明を避けた路線は、18.9%でした。
 これを受けて同年6月10日にスウェーデン国会は、12基を限度とし、2010年までに順次廃棄していくことを議決しました。そして1999年11月30日、いよいよ最初の廃棄が行われることになり、バーセベック原発1号炉が閉鎖されました。なお、電力会社などの抵抗があり、2号炉の閉鎖は、2001年から2002年に延期されています。
 ベルギーでは、3月1日に政府が脱原発法案を国会に提出、2003年1月16日に成立しました。5月18日の総選挙では緑の党が大きく議席をへらしはしたものの、脱原発の方向性そのものは変わらないでしょう。
 台湾では、2003年5月7日、原発の段階的廃止をふくむ非核国家推進法の草案が閣議で了承されました。

■ 推進の動きもあるけれど ■

 2001年5月17日、ブッシュ米大統領は新しい国家エネルギー戦略を発表し、原発推進をうたいあげました。しかし、本音は、原発より化石エネルギーの利用拡大です。日本の電力会社も「政府が建設するわけでもない」と冷静に見ています。
 また、フィンランドでは2002年5月24日、議会が原発の新設承認しました。とはいえ、この原発計画は産業界の自家用と呼べるもので特別な例外だと、電力中央研究所の矢島正之研究参事は繰り返し強調しています。「その証拠に同国の電力最王手、フォータムは『新設はできない』と判断した」(2003年2月10日付電気新聞「原子力と自由化ー識者に聞く」)2003年5月18日に実施されたスイスの国民投票では、残念ながら脱原発派の提案に過半数の支持が得られませんでした。しかしこれも、現実には原発の新設はないという安心感と、投票前の3月21日に成立した改正原子力法で使用済み燃料の再処理停止の10年間延長が決まっていたことのためと言えそうです。

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