TKOPEACENEWS
 1面 NO.41/03.11.1発行


東京平和運動センター第7次平和視察報告

ポーランド・アウシュビィッツ博物館)
・2003年9月26日〜10月3日
・報告 … 視察団事務局長 森本 一雄

・ものすごーく、緊張した!
・背筋が、ゾーとした!
・今でも、恐怖を感じる!
・こんなことを、人間ができるのか!
・むごい! 残酷だ!
・この犯罪は、どうぬぐっても消えないであろう!
・この虐殺は、戦争犯罪では片付けられない!
 (アウシュビィッツ虐殺現場を視察した参加者の感想)

*アウシュビィッツ収容所は、虐殺の現場です。しかし収容所のなかで、生きるために闘った人々の生きざまと勇気と尊厳が、いたるところに人々の魂として伝えられ感じられる貴重な場所でもあるのです!
 

 

アウシュビィッツ博物館
 アウシュビィッツ収容所(正確には、国立オシフィエンチム博物館―1939年9月にこの地方一帯を占領したナチス・ドイツによってアウシュビィッツに変更された。)においては、現地で平和活動をしながら博物館の案内されている、仲谷さんに館内の案内、展示物の説明と解説をしていただいた。以下、仲谷さんの説明と博物館発行の案内書を要約して報告します。
☆収容所は第二次世界大戦中5年間にもおよびナチス・ドイツによって占領され国民に恐怖感を与え続けた。この収容所は1940年ポーランド人政治犯を収容するために設立された。当初はポーランド人虐殺の場として利用する予定であったが、時間がたつとともにナチスは全ヨーロッパの人間、主にそれぞれの国籍をもったユダヤ人、そしてジプシーとソ連軍の捕虜をここに送り込みはじめた。人々にはチェコ人、ユーゴスラビア人、フランス人、オーストリア人、そしてドイツ人もいた。収容所が解放されるまでポーランド人の政治犯もここに送り続けられていた。
 収容されていた人々の労働力によって、最終的には写真にあるようにレンガ造りの2階建ての建物が28棟あり、一時は28,000人が収容されていた。収容者の数が増大すると同時に、収容地域も拡大し、巨大な絶滅工場に変わっていった。
 この収容所には、現在もそのまま保管され、「死のブロック」「第一焼却炉」「ガス室」「高圧電流が流されていた有刺鉄線」などナチス犯罪のゆるがすことの出来ない証拠があります。
☆ナチス・ドイツがソ連を攻撃してまもなく、アウシュビィッツにはソ連の捕虜も収容されるようになった、収容所へ12,000人の捕虜が送られてきた、そしてほぼ5ケ月以内にそのうちの8,320人が命を奪われた。ある人は毒殺され、ある人は銃殺され、残りは衰弱し、死んでいった。
☆逮捕されたユダヤ人のなかには、2,400キロもアウシュビィッツから離れたところから運ばれてきた人もいた、この人たちは、多くは密閉された貨車で、食料なしで旅をさせられた。貨車に身動きひとつできないほど押し込まれ、オシフィエンチムに着くまで7日間から10日間も旅をさせられた。
 列車はオシフィエンチムの貨物駅、そして1944年からはブジェジンカに特別に設けられた鉄道引き込み線に着いた。ここでSS将校とSS医師が選別をおこない。労働のできそうな人たちは収容所に入れられ、仕事ができないと判断された人たちはガス室へいかされすぐ殺された。ルドルフ・ヘス元所長の証言によると、運ばれてきた人間の70から80%がガス室に送られたという。
☆第2焼却炉・ガス室(写真)においては、SS隊員にシャワー浴びさせるとだまされ636坪(210平方メートル)の部屋に約2,000人が押し込まれ、扉を閉じてから、天井の穴から(写真)毒薬チクロンBを投入した。なかの人々は15分から20分の間に窒息して死んだ。その後、死体から金歯が抜かれ、髪の毛が切られ、指輪とピアスが取られた。そして死体は一階の焼却炉へ、死体が多すぎるときは、積み上げられるために外に運ばれた。この収容所で170万人の犠牲者がでたと報告されています。
☆アウシュビィッツ収容所が開放された時、ソ連軍は倉庫で袋に入っていた約7トンの髪の毛を発見した。この髪の毛をつかってドイツの会社はマットレスと布地をつくっていた。このほか、殺された人々の死体から抜かれた金歯は、金の延べ棒の形でドイツ中央衛生局へ運ばれた。人間の灰は肥料として使われたり、または近くの川・池に投げ捨てられた。
 開放日前に、犯罪の跡を消すという目的で、SS隊員は倉庫に火をつけた。35棟の倉庫のブロックから6棟だけが残り、その中から何万足の靴、ブラシ、洋服、眼鏡、旅行用の大型トランク、身体障害者の義足と義手がのこり現在展示されている。なかでも子どもたちの小さな靴の山には、なんとむごいと涙が出ました。
☆人々は、収容所に送られてきた日に、収容所管理局長から「お前たちに出口は一つしかない、焼却炉の煙突だ」といわれ、到着した人々たちは、洋服とそのほかのものを取りあげられ、髪をきられ、消毒をうけて、そして番号をつけられ登録された。各人は3ポーズの写真をとられ、1943年からは、その代わりに左腕に刺青をいれられた。現在でも、収容所の両側の壁にその人達の写真が展示されている。
☆収容所の生活は、縞模様の囚人服に着替えさせられ、生地が薄く寒さに苦しまされ、下着は何か月も着替えをもらえないためいろいろな伝染病にかかり、なかでもチフスやカイセンに感染し多くの人が死んでいった。労働は、死刑執行とガス室についで効果的な人々の虐殺方法であったくらいの重労働が課せられた。食料も朝食として500ccのコーヒーと呼ばれた液体、昼食は1リットルの殆ど水のような腐った野菜でつくられたスープしかもらえなかった。夕食は、300から350グラムの黒パン、3グラムのマーガリンと薬草の飲み物だった。そのため重労働と栄養失調になり最後は死んでいった。収容者たちの住居(寝床)はコンクリートの上の藁で寝起きするもの、マットレスをあてがわれた者、などで40人から50人用の部屋に200人詰め込み、レンガ作りの3段ベッドは家畜の寝床ではと思うほど悲惨な状況であった。(写真)
☆収容所内の処刑場は「死のブロック」と呼ばれ、両側から高い壁で区切られていた。この「死の壁」の前で数千人の人たち、主にポーランド人を銃殺した。私たちは、犠牲になった人々の冥福を祈って献花しました(写真)銃殺の他むち打ち、杭に吊す(後ろ手に縛り、体を吊す)、地下のまったく明りの無い立ち牢、移動絞首台、餓死を宣告された監房などなど、これが人間のやることかと思うほど残酷な犯罪の証拠が残っています。
☆アウシュビィッツ収容所2号・ビルケナウが設立されています。その収容所の面積は約175ヘクタール(53万坪)で、300棟以上のバラックがあった。(写真はバラック内の木造3段ベッド)この収容所は、1944年8月の点呼で収容されていた人々の数は、男女あわせて10万人、収容所には水がなく、衛生的に欠陥があり、ネズミの大発生が人々の生活環境をさらに悪化させた。ナチスは殆どの虐殺設備をビルケナウに設置した。4棟の焼却炉・ガス室に改造された農家、そして死体を焼くための野外焼却場である。
 中央の衛兵所の塔(写真)からは、その最大の絶滅収容所全体が見渡せる。真正面には人々を運んだ鉄道の引き込み線(表紙の写真)がある。今も、当時のままの人々が収容された棟が残されている。レンガ造りのバラックは、引き込み線の左側にある。湿地の上に基礎なしで建てられたバラックである。殆どのバラックには床がなく、多くは地面が土泥下していた。レンガ造りのバラックには、女性が収容されており、3段ベッドで、しかも腐ったワラの上に寝かされていた。1段ごとに8人が寝ていた。木造バラックは(引き込み線右側)もともと52頭用の馬小屋であったが、多少改造されて1,000人の人々を収容するために使われていた。その真中を暖房用の煙突が通っている。
 鉄道の引き込み線の一番奥には、2棟の焼却炉・ガス室がガレキの形で残っている。それらは撤退するSS隊員によって、犯罪の跡を消すために爆破された。しかし跡をみるだけでも、死刑を宣告された人たちが裸になっていた地下の脱衣室、そしてガス室がはっきりわかる。1階には5台の焼却炉の跡とそのレールもはっきり見える。

戦争は絶対悪だ!
 アウシュビィッツ絶滅収容所を案内していただいた仲谷さんは、「死の壁」「ガス室」「焼却炉」などの前で、ここで行われた犯罪は、国民投票で選ばれた政治家によって人々を殺すことがシステム化されていたことである。今日と変わらない民主主義社会の中で犯罪が行われたことである。このことを今日博物館を訪れた皆さんは、けっして忘れてはならないといわれていました。他民族に対しての憎しみや差別、排除、敵対などは今もあることですから、だから、こうした犯罪は起こりうるからです。ドイツもポーランドもすべての子どもたちは一度はこの収容所をおとずれる事になっています。それは子どもたちが政治かかわる年頃になったとき、二度とこの過ちを繰り返さないために勉強しています。また、過ちを繰り返さないために両国は、歴史の教科書を同じ内容で記載された教科書を使い勉強していると話されていました。教科書だけでなく日常の生活のなかから戦争の匂いを一掃するため、ナチスを賞賛した行動だけでも警察官がでむき、街のなかで日本のように軍艦マーチが流れるようだとすぐにやめさせるための警察官の出動になるという。
 アウシュビィッツ収容所で行われたことは、絶対の悪であり、戦争は絶対の悪であることを徹底している両国の政治に拍手を送りたいと思います。

戦争反対の行動に立ち上がろう!
 アウシュビィッツで学んだことは、戦争を拒否すること、歴史の認識を正しく継承すること、他民族を排除したり差別をしないこと、すべての人々の人権を侵害しないことであったと思います。このことが今、日本においてはすべてが否定されている状況で、ナチス・ドイツの狂気の政治家とかわらない非常に危険な小泉政権のもと、戦争への道へと国民が引っ張られているといっても過言ではないと思います。
 国連憲章や国際法を無視してアメリカ・ブッシュ政権は、3月20日イラクに武力侵攻し、なんの罪のない子ども、女性、老人などを中心に数千人を劣化ウラン弾やクラスター爆弾などの空爆によって虐殺したと報道されています。現在も占領しつづける米軍などに、攻撃が繰り返し実行され、戦争終結宣言をだしたものの、これまで米兵100人以上が死亡するなど、イラク全土で戦争状態がつづいています。
 この戦争に、世界の人々は一千万人以上が反対に立上がり、反戦のウエーブが世界をかけめぐりました。日本においても、あのベトナム戦争反対の行動をはるかに上回る人々が立上がりました。こうした、世界的な世論にもかかわらずブッシュ政権も、ブレア政権も、小泉政権も戦争に突入しました。国連憲章に違反した武力侵攻は戦争犯罪ということになります。当然、この3人は戦争犯罪として国際刑事裁判所にひきだされるべきと思います。
 小泉政権は、アメリカのイラク占領に12月にも陸上自衛隊を派兵することと、占領のための費用を5,500億円を10月17日来日したブッシュ大統領にくれてやる事を約束しました。自衛隊が戦後はじめて戦争状態のなかに派兵されることになりました。もちろん、憲法が禁止してきた海外派兵や集団的自衛権にふみこむことになります。憲法に違反する政治や、国民の安全や、自衛隊員の命、他の国、地域にみられない軍事費の使用についても国民的な議論を保証させず、一部の国会議員で決定するなどこの国の政治はファショ化していると思います。
 東京平和運動センターは、自衛隊のイラク派兵反対のため全国の平和運動センターと協力しながら北海道・旭川市で開催される全国集会に代表を派遣したり、都内の主要駅での街頭宣伝行動などを実施していくことを決定しています。また、イラク戦争反対の中心になったWORLD PEACE NOWなどの市民団体ともに今後も反対行動を盛り上げたいと思います。自衛隊員はイラクの市民を殺してはならない!、自衛隊員もヒツギ(棺)に入れられて帰国させてはならないと思います。

以下写真は省略

▲シフィエンチム博物館(アウシュビィッツ)
▲アウシュビィッツ1号収容所正門。「働けば自由になる」との文字がある
▲収容所内の監獄
▲監獄内の廊下に張り出されている収容された人々の写真
▲高圧電流のながれる有刺鉄線の間に不安そうな子どもたち
▲収容所内では全員、このような服を着せられていた
▲監獄内での生活は、このようなベッドに寝かされていた
▲体がふれると即死する有刺鉄線が監獄をとりまいている。脱獄に失敗して多くの犠牲者がでた
▲「死の壁」の前で犠牲になられた人々の冥福を祈って献花する本郷議長。この壁の前で数千人のポーランド人が銃殺された
▲「死の壁」前の銃殺されている証拠の写真
▲アウシュビィッツ第1ガス室と焼却炉入り口
▲「ガス室」の内部
▲猛毒のチクロンBをこの天井の穴から投下して殺した
▲焼却炉前で説明される、仲谷さん
▲焼却炉
▲ビルケナウ収容所内の監視塔と有刺鉄線
▲ビルケナ収容所に到着したユダヤの人々奥に焼却炉のエントツがみえる
▲収容所内の一段に8人が寝かされた木造のベッド
▲t53万坪の収容所跡地。暖房用エントツの数だけ監獄があった(ビルケナウ)
▲人々が使用していた「トイレ」。悪臭と伝染病が発生し、人々を死にいたらしめた。(ビルケナウ)
▲戦後、収容所内のこの場所で所長のルドルフ・ヘスが絞首刑になった
▲アウシュビィッツ第2収容所(ビルケナウ)の木造の監獄

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