「オトコの交差点」日本経済新聞連載

 

沽券と滑稽−どちらにこだわる?

 「男はつらいよ」が国民的な映画である国に生まれてよかったと思うことが多い。シルべスター・スクローンやシュワルツェネッガーのような筋肉もりもり男が艱難辛苦を乗り越えて、フーフーいいながら生き延びるような映画とはちがうのである。

 立する摩天櫻のあいだを三釦(ぼたん)スーツでさっそうといきかう姿、法廷で弁舌さわやかに相手をうちまかす姿など、手に汗握るハリウッド映画をみるたびに、おもしろいけれど、男としてため息がでることが多い。これでは疲れるなと思う。正義をテーマにして男を主演にすると、どうしてこうも肩ひじはるのだろうか。

 その点われらが主人公の寅さんは、ふらふらして飄々(ひょうひょう)としている。男の活券(こけん)などとは無縁。肩のカが抜けている。男というよりも自分なのだ。自分がどういう風に生きるのか、それが世間のもつ男らしさイメージに合致することもあるし、そうでないこともある、ただそれだけのことなのだ。

 でも、男らしさというのはそう簡単ではない。男らしさから自分らしさへ視野を広げるには努力がいる。大学三年生のB君が言っていた。「彼女とデートして、議論で負けるといい気がしないので、ぼくは自分と同じ分野で勉強する女性を恋人にしたくない」。これを「男らしさのジレンマ」と呼んだのはコマロフスキーという人。男女平等の意識が広がり、表向きはそれを支持する男性も、しかし、男のメンツにとらわれることが多いということだ。身体に染みついた臭いのような男らしさの観念。

 寅さんは肩の凝る、そんな男らしさを滑稽(こっけい)なものにしてしまう。正義とメンツの中の男らしさ、滑稽と笑いのなかの男らしさ、あなたはどちらが好きですか。

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父親と息子−会話、照れ捨てよう

 最近増えてきた自治体主催の男性セミナーに講師として呼ばれることが多い。30代から60代までの、40人前後の男性たちが仕事を終えて集まってくる。

 介護や育児体験をとおして学ぶこと、男らしさの戦場としての会社談義、妻とのいい関係をつくるアイデア交換会、父親としての苦しさらなどをテーマにしてセミナーが進む。講師が一方的に話すのではなく、参加者同士のかかわりをつくりながら、四人ずつぐらいでグループ討論してもらう。

 ポイントはいろいろな年齢の男性を組み合わせること。息子、父親、祖父のような三世代にわたるグループができると面白い。実際の家族のなかでもこうした世代をこえたコミュニケーションは難しい。55歳の公務員、Cさんが息子と話ができないと言う。大きくなった息子と飲み屋で一杯やりたいと思っていた。でも話す話題がない。「最近元気か、と親父。うん、まあなと息子。ビールを注ぐ音、そして、沈黙。で、何をしていると親父。うん、いろいろ適当にと息子。まあビール飲めやと親父。ビールを注ぐ音」。こんな光景が浮かぶ。話題があわない、照れくさい、親父のメンツ、どうも男の家族同士のコミュニケーションはぎこちない。おしゃべりはストレス発散にとても役立つのに、同僚と酒を飲みながら話す上司の悪口には長(た)けていても、それ以外のコミュニケーションは苦手な男が多いようだ。

 だからセミナーでは、異年齢集団をつくり、コミュニケーションの役割演技をしてもらう。酒を入れずに、30代と50代と60代の男性が一つのテーマで話し合う。するとどうだろう、意外や意外、話がはずむのだ。やっばり男もしゃべりたがっているのだ。これは役割演技ですよとメンツの照れを捨てるように指示したのが大きな効果を発揮したようだ。

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もてない男―女性誌で自分探しを

 「こんな男に出会いたい」「おいしい男を狙いうち」「一生ものの男を扱せ」「いい男の見分け方」「私好みの男に育てる」「女に聞けっ!」。なんだ、これは。最近の女性雑誌の特集テーマである。

 かたや男性雑誌。「女の子にもてる方法」「この夏が勝負、引き締まった身体を」「知的な男の読書」……。どうも十年一日のごとくマニュアルもので、進歩がない。自由闊達(かったつ)な女性たちのおしゃべりが満載の女性雑誌に比べると、内容はつまらない。

 女性たちはこんなおしゃべりをしている。「医者の卵とつきあっていたころ。医者の世界がわかってないなあ。そんなことじゃ医者の女房にはなれないよなどと、ことあるごとに医者の世界では……を連発するのでうんざりして別れた」「昔、暴走族だったという自慢話を延々とする男。聞いちゃいなかったけど。そもそも自慢になるか?」「オレ、家に帰ったときに明かりがついてなくて真っ暗なのってイヤなんだと真顔で言う同僚のWくん。という具合。勝手なおしゃべりと片づけられないある共通点がある。「あなたが見えない」といっているのだ。

「自分のペースで生きていけそうな相手なら一生ものかな」「君に話しても問題が解決するわけじゃないからと言って、会社をやめることを相談してくれなかった。解決ではなく共有できるような関係が欲しかった」という話を聞くと、こうした女性雑誌も捨ててはおけない。

 自分の意見をもっている、借り物ではない自分の言葉で語ることができる、ポリシーがみえる、そんな男であって欲しいと願っているからだ。既成の男らしさの観念によりかっていてはだめである。要するにもてないということだ。

 時には女性雑誌をバラバラとめくるのも、悪くはない。

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男らしさ−現代版「飲む打つ買う」

 スリムでハンサムな28歳になるシステム・エンジニアと話した時のこと。彼は結婚しているが子どもはいない。男らしさって何と聞いてきた。そうね、たとえば「俺はマッチョな男だ」と言う場合、これは男性優位主義ということになるけど、ピンとこないよね。わかりやすく言えば、「飲む打つ男うと三拍子そろった道楽者」という日本らしい言い方がある。男の甲斐性だとも言われてきたと説明した。でも彼は不思議そうな顔をしている。そんなことなら僕もやっていると言う。君が?と絶句。

 仕事の帰りには友人とおしゃれなカクテルラウンジで飲む、毎日パソコンに向かってキーボードを打っている、オフの日にはブランドもののお気に入りの洋服を買いに行くという話をしてくれた。確かに、飲んで、打って、買っている。

 ついでに聞いてみた。「男は閾(しきい)をまたげば七人の敵がある」とも言われてきたがこの意味分かるかと。実感したことはないが、普段の暮らしのなかで考えれば、閾をまたがなくても敵はいるし、またいだ先が敵ばかりとも限らないと言うのだ。閾のなか、つまり家族のなかの敵の方が手ごわいという。だから男は家族から逃れ、会社の仲間と夜の町へと消えていく。そう、閾の外の敵は戦友にもなるのだ。

 こうして考えてみると、男らしさを表す言い回しとは裏腹な男たちの生態である。システムエンジニア氏の生活に異臭さはない。マッチョスタイルには、アルコール、ギャンブル、セックスがよく似合う。リスクを冒しても冒険するに値するもの、それが男らしさの中身なのだ。「義をみてせざるは勇なきなり」の男気も同じだ。でもこのスタイル、型にはまったものが多すぎる。「のむ、うつ、かう」のあなたのスタイルに時代の変化があらわれる。

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男の有事−本音が語るひらがな言葉

 どうやら男は、挫折や喪失の体験に弱いようだ。事故や病気、仕事の失敗や失業など自分がかかわるようなものだけではなくて、肉親の病気や死、夫婦不和や離婚など、人とのかかわりの中で生じる挫折や喪失体験に弱い。

 大学時代の後輩だった34歳の男から電話がかかってきた。「金を貸して欲しい」と言う。何か新しい商売でも始めるのかとかまを掛けてみた。それでもなかなか話さない。うん、じれったい。二度仕事を変わり、三度日の職場になれたころ、妻とうまくいかなくなった。今は別居し、離婚手続き中だという。失意の中で仕事までうまく行かなくなってきた。出社拒否に陥った。そしてとうとう失業。まっすぐな性格できちょうめん、失敗を嫌うタイプの彼に初めて訪れた試練の離婚と失業のダブルパンチ。とにかく一緒に食事しようと呼び出した。

 学究肌の彼は状況を的確につかみ、問題解決型の思考バターンを持っている。たとえばこんな具合に。子どもが不登校になった時、フリースクールに行かせればいいさ。妻が乳ガンの手術で乳房を失う不安を訴えた時、形成手術でうまく回復できるさ。悩む子ども、不安がつのる妻への理解と共感が欠けている。たとえ結論は正しく、節道立った考えであっても、人のこころに触れない。

 単に忙しくて家庭を顧みない男のことを仕事人間というのではなくて、仕事の論理にどっぷりつかり、仕事以外の場でも問題解決型の思考ですませようとする人間のことをそういうのだと思う。彼にはひらがなの言葉がないのだ。すべて漢字でしゃべっていた。こころを伝えるのはひらがながいいと思う。問題解決には漢字がよさそうだ。

 食事をしたあと、必要だという額だけ貸してあげた。別れる時、彼は「ありがとう」とひらがなで言ってくれた。

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浮きこぼれ−仮面に戸惑う優等生

 先生の本を読んだといって手紙が届いた。男性学を勉強したいので話を聞いて欲しいという問い合わせはしばしばある。彼もそうかと封を切った。T君はK大学の医学部を出た現役の医師だ。もうすぐ30歳。わざわざいまさら大学院、しかも異業種のフィールドへと転身したいと言うのだ。独身、稼ぎはいい。茶髪でルックスもいい。英語抜群、海外体験も豊富。

 ありきたりの男らしさイメージから脱出しようと各地を講演して回っていると、共感してくれる男たちにはある共通性がある。広い意味での挫折や喪失の体験をしていることだ。男が弱くなるという経験である。世間が持つ男らしさ像を重荷に感じ出す時だ。要するに、男らしさからの落ちこばれだ。そう考えると、T君は落ちこばれてはいない。では何が不満なのか。話を聞くと、医者とか優等生という物差しではなく、私を私として見て欲しいと願っているようなのだ。

 自分らしく生きてきたつもりのT君の人生物語が、既存の男らしさイメージによるライフストーリーヘと収れんしていく。結婚、持ち家、大黒柱、出世と続くレールだ。男らしさからの「落ちこぼれの劣等生」ではなく、男の人生物語にあまりにもフィットしすぎた「浮きこぼれの優等生」のT君である。

 優等生だったに違いないT君は、素顔のまま努力したいと願い、今の地位にたどり着いた。でも、そこで見たものは、サクセスストーリーという台本にそって動いてきた仮面をかぶった自分だった。仮面と素顔がちゃんとあって、演技している自分を見つめる自分が心の中にいればいい。しかし、そのうち、周りの人も自分も、何が素顔なのか分からなくなる。仮面の下がのっペらぼうになってしまうような感じなのだ。男30代、まだまだ続く自分探しである。

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妊夫体験−出産の重み、汗だくで 

 「男も妊娠してみよう」という呼び掛けで集まった30組のカップル。初めての出産を準備するパパとママの育児講座の講師に呼ばれた。13`にもなる重り、水袋などを身につけ、にわか妊婦、いや妊夫が誕生する。単に重いだけだと太っているような感じなので、羊水を摸して水袋にしてある点がみそ。胸にはサポーターのようなものをきつく締める。

 妊娠している女性たちからこんな姿勢がしんどいからやってみてと声を掛けてもらいながらの妊夫たちの悪戦苦闘が続く。和式トイレでしゃがんでもらったら、後ろに倒れて便器にしりもち。あおむけに寝にくいこと、布団から起き上がるのがしんどいこと、階段の上り下りが疲れることを体験してもらう。やっている妊夫たちは汗だくだ。

 続いて赤ちゃん人形を使ってのもく浴、着せ替え、おむつ換えの実習。ベビーバスにお湯をはっての講習。保健婦さんがついて指導する。赤ちゃんをガーゼで優しくなでるようにしておなかは腸の流れに沿って「の」の字を書く。胸は肋骨に治って漢字で「八」の字を書くようにしてと指示する。22歳の若い父親が怒られている。「あんた数字の8の字を書いてどうするの、赤ちゃんの骨折れてしまう」「うわっ、あんたの親指で赤ちゃんの目つぶれてるで−」。会場は大経ぎ。

 母親はこれが我が子だという確信を持っている生物学的な存在。他人が出産に立ち会い、確かにこの人から生まれた子だと言える証人がいるからだ。でも父親は本当にこれが我が子だと言える確証はない社会学的な存在。いちいち血液鑑定や遺伝子鑑定をして、父親であることを確かめるわけではない。父親と思い込み、信じるしかないのだ。二人で取り組みながら、男は父親である確証を求めていく。帰りの際の妊夫たちのはにかむような笑顔は、さわやかだった。

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心のリハビリ−対話妨げる男気質

 「年齢を数える時、どうやって数えるか」とカウンセリングを専門にする同僚から聞かれた。「そうですね、ただ数えていって37年生きたかなと考えます」と答えた。「そのうちに、あとどのくらい生きることができるのかと数え出すときが来る」と言われて会話は終わった。それ以来、出会う男たちに聞いている。

 だいたい40代で数え方が変わるようだ。普通の人は、聞かれて初めて時間感覚が変化したのに気付く。例外は病気や事故のあった場合。ビジネスシーンから一転し、静寂と孤独の中で向き合うのは自分自身。

 男たちのグループ討論で、リハビリの技師さんが語っていたのを思い出す。中年男性のリハビリにはちょっと工夫が必要だという。ふがいない自分を受け入れるのにたいそう時問がかかる。肩書きの高い人はどその傾向がある。そういう男たちには弱い自分を受け入れる、心のリハビリが大切らしい。弱さを受容することを妨げるのは、内面化された男らしさイメージ。しかしやはり努力の男たち。心のリハビリに成功すればパワーが出てくる。

 よく似たことはもっと身近にある。男女のコミュニケーション能力の差について、友人が話してくれた。大部屋に詰め込まれた男性患者は常にカーテンでベッドの周りを囲っているのにたいして、女性の部屋はやかましく、井戸端会議ならぬ床端会議に花が咲く。病気になっても男らしさイメージは衰えないのだろうか。病は気からということが一面の真実ならば、男気質というのがやっかいではないか。

 だれしもふがいなくなることが老いるということだ。定年後生活へのソフトランディングは、こうした心のリハビリに学ぶことが多い。しなやかさと潔さが心のリハビリには必要だ。時間の流れが変わる時、心は潤いを求めている。

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3つの性別−“その他”にも市民権を

 米国のオレゴン州ポートランドに行ってきた。家庭内暴力、心理的トラウマなどゆがんだ男らしさがもたらす社会病理現象やジェンダーに関する事柄を扱う会議に出るためである。題して「男と男らしさについての全国会議」。

 もって生まれた性別に違和感を持ち、性転換をした人の体験を聞くセッションがあった。話をした三人とも女から男へと変わった。共通していたのは感情のコントロールだ。男であることを他人に認めさせるには、感情の起伏を見せてはいけないと感じたそうだ。特に悲しみと怒りの表現が大変だった。ちょっとした事で泣いてはいけない、そしてヒステリックにならずに勇気を持って怒らなければ男になれないと思い込んで、演技をしてきたそうだ。

 名前や年齢を記入する欄と共に「男、女、その他」と区別してあるアンケートをとっていたセッションがあった。ゲイやレズビアン、性転換をした人や望む人など色々考えれば「その他」があっても当然だ。「体の性別」とは違い、自分がどう思うかという「心の性別」、異性を好きになるか同性を好きになるかそれとも両方かという「愛の性別」という具合に、少なくとも三つの性別がある。それぞれに中性的、両性的という区別も入れて考えると、組み合わせは三の三乗通りで二十七通りあることになる。

 身も心も男もしくは女として異性を愛する組み合わせは、多数派ではあるが選択肢としての一つに過ぎない。三人が異口同音に言っていた。「手術でちょっと無理したけれど、今は一番落ち着いてる」と。

 彼らのユニークな体験は男と女の両方にまたがっている。だから体験としては二重である。これからは「ニューハーフ」ではなく、「ニューダブル」と呼べたらいいなと思いながら話を聞いていた。

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花婿学校−“低速”の人生考える

 「へ−、珍しい学校もあるものだ。結婚したいけど相手が見付からずに悩む男たちのための自己開発セミナーか。うまい商売を考えたものだ」ぐらいの独断と偏見で引き受けた「花婿学校」の講師である。請われたテーマは「新しい男の物語をつくろう」。しかし悩む。男の物語って何だろう。

 女性たちの社会参加と自立を促すために、国連から自治体に至るまでのシナリオづくりが話題となっている。一言で言えば女性のパワーアップ」作戦だ。

 では男のシナリオは何があるのか。マッチョ、フェミ男、ハウスハズバンド(主夫)などのイメージが浮かぶ。対比すれば「パワーダウン」というところか。でもすでに生得したパワーをそう簡単に手放すだろうか。だから「パワーシフト」という言葉がいいかも知れない。

 ちょっとだけ走り方を変えてみるのだ。二つの意味がある。高速で走りたい男は自由にどんどんマッチョスタイルを取ってもらう。しかし中には低速で走りたい男もいる。女性だってそうだ。キャリアを志向しどんどん走りたい女性もいれば、平穏なミクロコスモスの座にすわる主婦願望の女性もいる。問題は、多様なライフスタイルを選択できる条件があるかどうかだ。

 「就職せず家事に専念したい」「子どものお迎えに行くので5時には帰りたい」と男が言えば、どんな反応があるだろうか。大黒柱となって妻子を養わなければならない男、単身赴任で家族と離れて暮らす男、揚げ句の果ては「ぬれ落ち葉」。たまったものではない。

 30歳前後のサラリーマンが大半の花婿学校の生徒たち。講演後、遅くまで話し込んだ。はにかみやさんたちが多く、世間で言うハンサムでもない。でもゆっくり走りたいと願う男たちに見えてくるものは多い。高速になればなるほど、周囲の景色は見えないからだ。

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美男の時代−見られるのは生きざま

 男が美しくなってきた。十代の男の子だけではなく、二十代や三十代の男たちも含めてそう思う。

 アイドルたちもあか抜けして、しゃれたファッションをうまくこなしている。人気グループのSMAPは美男の典型だろう。しかもメンバーそれぞれ味がある。アイドルたちに共通しているのは男臭くないこと。中佐的ではあるがフェミ男君ではない。「脱色した男」という感じだ。

 二十代のビジネスマンもまたおしゃれだ。ネクタイとシャツのコーディネートがうまいと思うビジネスマンに出会うことしばしばである。三十代も味がある。仕事人間だけど、どこか一点、自分らしさを表現していると感じさせる人が増えてきた。

 また、男の裸も目にすることが多い。ベルサーチの「ネクタイのない男たち」という写真集、メイプルソープの作品などのアートからアンダーウェアの商品まで、男の美しさに関心が集まる。つまり、見られる存在に男がなりつつあるということだ。

 マーケティングの対象として「オトコ市場」が成熟してきたのだろう。ジーンズの似合う男、和服の似合う男、エプロンの似合う男、スーツの似合う男など、それぞれ活動するシーンの中で男も見られている。

 男が見られる時代に「やっばり男は外見より中身だ」というのは弁解じみている。はっきり言う。やはり外見なのだ。外見というよりスタイルと言った方がいいかもしれない。

 男臭さを脱色するにはそれなりの努力がいる。その後に来るものは、らしさを失った中性的な人間ではなく自分そのもの。色あせた男臭さに寄り掛からなくてもやっていけるには、生き様として見えるスタイルがなくてはならない。男たちの、美というと大げさだが、自己を演出することへの欲望は確実に大きくなっている。

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企業家精神−テーマを持ち人を活用

 放送局に勤務する教え子から本が届いた。この春に就職したのだから、半年もたたないうちに本を出したことになる。『英語「超」勉強法』というもので、中学の時に英語の全国弁論大会で優勝した時から今日まで、自分が体験した格安で確実な英語学習の仕方を書いたものだ。

 たかが半年で本を書くのだから、「超」を付ければ売れる便乗商法のたぐいかと、軽い気持ちで読み始めたのだが、なかなかしっかりしていて驚いた。どんなテキストがいいか、ラジオ講座の活用の仕方、辞書の使い方、効果的な文法学習の順番など、それ自体はそうかと思うだけのことだが、ありきたりの学習法と違うのはどんどん動いていることだ。

 弁論大会の準備のために英語の教師はもとより近くの外国人をただで活用している。英語塾を始めた。米国でのホームステイを組織し始めた。これで米国を行き来できる。大学の一芸入試でこの経験を生かした。大学でもこの調子で、ジャーナリストにあこがれて熱心に勉強していた。著名なジャーナリストに会うために全国を動き回っていた。「テーマを持つ」ことの大切さを会うたびに語ってくれた。

 何かにつけて厳しさによって鍛えられるのか、キャンパスでは女子学生の方が元気だという大学の先生は多い。そんな中できらりと光る男子学生に会うとうれしくなる。シナリオなき人生の出発地点で悩む男子学生たちではあるが、中には新しいシナリオを書き始めた者もいる。

 そんな学生には共通点があるように思う。目が輝いていること、文章がうまいこと、テーマを持っていること、野心的であることなどだ。中でも大きいのは人を活用する能力にたけていることだ。彼らは「しなやかネットワーカー」なのだ。「起業家志向」の若者たちもよく似た性格を持っている。

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父の崩壊−イメージ一新する好機

 父と息子は実に厄介な人間関係の一つだろう。実感できないが、母と娘の関係よりもそうではないかと思う。すべての母と娘がそうだといえないが、両者には共通体験があるからだ。それは母性にまつわる体験、つまり出産である。しかし、父と息子はこうした共通体験がない。だから色々演出し、つくり出さなければならない。

 かつてはこうした演出装置がたくさんあった。例えば、父の偉大さを伝えるアウトドア活動。自然の中でサバイバルする技法を伝える。スポーツもよく似た機能を持つ。キャッチボールを通してきずなを結ぶ。父の権威と息子の驚嘆。敬うに値する威厳と乗り越えるに値する価値がそこには埋め込まれていた。父が堅物であるほど息子の反発心も強くなり、乗り越えようと努力する。父と息子の物語がそこにはあった。

 出産や生理などはそう変化するものではないが、父の活動領域は違う。共通体験は皆無になりつつある。テレビゲーム橡を通してすでにパソコンに精通した息子世代。片や中年のためのパソコン教室に通い、慣れたころにはもう定年とCMでいわれる父である。自然の中でサバイバルする能力はすでに持ち合わせていない父。キャッチボールよりゲームセンターにはせ参じる息子たちだ。いったい何を共通の話題にできるだろうか。

 こうして進む「父の崩壊」である。その裏側で進行しているのは「母の支配」だ。いや正確には「弱い妻、強い母」だ。邪魔なだけの権威なら崩壊してもいいが、「強い母」はマザコンをもたらす。これは男の自立にとって問題だ。将来マザコン男と結婚する女性にも益少なしだろう。

 けれども「父の崩壊」は男がよろいを脱ぐチャンスであると考える。肩の凝らない父になれる千載一遇のチセンスである。

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リエゾン−恋愛としての異分野交流

 リエゾンという言葉をよく耳にする。異業種交流、ネットワークと言い変えてもいい。組織が硬直しないように絶えず異質な外部と交流することだ。国際的に展開すれば異文化交流になるし、個人でも構わない。

 ある都市で公務員をしているMさんと知り合った。43歳になる。縦割り行政の中で生きているとは思えないほど、色々な人や組織や活動をつなげるのが好きな人だ。仕事としては生涯学習を担当している。行政の取り組む生涯学習の多くは、カルチャーセンターの域を出ないものが多いが、彼の企画はこの異業種交流としての役割を重視したものだ。

 例えば、エイズ問題と銘打って、免疫学の最先端、薬事行政のあり方、企業における健康管理をリエゾンして、かなりの受講生を集めたそうだ。生涯学習にしては高度なテーマである。関心を持ったのは、彼の活動内容もさることながら、実に軽快なフットワークと異分野をつないでいく時の柔軟さである。

 泉のようにわき出る発想の源は、米国で身につけたようだ。キャリアの再開発やリニューアルとして、随分と豊かなメニューが用意されている米国の生涯学習プログラムである。

 大学の中だけで暮らしているとついつい閉塞(そく)してしまう。学問の壁を越えた交流も楽しいが、大学の壁を越えた交流はもっと楽しい。「タウンとガウン」という言い方があるそうだ。タウンとは市民のこと、ガウンとはアカデミーを象徴する角帽とガウンのこと。ごろがよいのでタウンとガウンの交流という。

 しなやかさ、柔軟さ、開放的などと形容されて養われるハイブリッドマインドは、今後の社会の活力だろう。マッチングの妙やネットワークを楽しむ活動は、恋愛に近いのではないか。恋愛としてのネットワーク時代、男の働き方も随分とソフトになるだろう。

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別姓父娘−国境を越える難しさ

 わが家は夫婦別姓なので、4歳になる一人娘は私と異なる姓を持っている。去年、二人だけでカナダのビクトリアから米国のシアトルへ行った時のこと。ファミリーネームが異なるため二人の関係を疑った入国審査官氏に日本の事情をあれこれと説明するはめになった。つたない英語で日本の民法のことを話したのだが、二人の関孫を証明する公的なものがないので、相手に信じてもらうしかない。幸いにも通過できたが、冷や汗ものだった。

 子どもを持つ別姓夫婦の父は、こうしたことをリスクとして背負い込む。米国の友人たちにこの話をしたところ、「ファミリーネームが違うこともあるだろうが、幼い娘と一緒だったということが災いしたのだろう」と言われた。

 児童虐待が深刻になる米国だ。親権を失ったかってのわが子を誘拐する元父が多いという。子どもへの性的虐待も妻のボーイフレンドや父である場合が少なくない。ファミリーネームの違う、幼い女の子と父という組み合わせが、米国社会においては、社会問題の一つの焦点になっていることに気がつくほど、そのときは余裕がなかった。

 もう一つある。サンフランシスコに長期滞在していた時、私は研究者ビザをもっていた。当時3歳の娘と二人で暮らそうと、子どものビザを申請したのだが、うまくいかなかった。理由はわからないが、米国大使館の係官の質問から察するところ、「男のお前がちゃんと面倒見られるのか、家事と育児の能力はあるのか。仕事中の子どもの面倒はだれが見るの。おまけにファミリーネームも違うではないか」ということらしい。

 「単親子連れ赴任」を実行しょうとしたのだが、「男性差別」もあるらしい。声高に「逆差別だ」と言うつもりはない。そう判断されてもやむを得ない男の現実があるからだ。しかしやっばり不合理だ。これをカテゴリー(男という集団)とアイテム(個々の男)の矛盾という。別姓夫婦の夫もつらいよね。

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男のスタイル−「自分に花を買おう」

 男を課題にした市民運動が多く存在する欧米諸国。暮らし方や働き方をとらえ直す男たち、父親として、息子としての悩みを交流するグループ、離婚制度の改善を求める夫たち、同性愛をはじめとしたセクシャリティーの多様性を高めようとするグループなど、活動領域は広く種類も多い。

 何より、全米各地にメンズセンターのような居場所もあり、それぞれがボランティアを組織し、非営利団体(NPO)として活動していることが特徴だ。こうしたフィールドで活経する男たちを取材する中で、実にたくさんの男と親しくなった。

 サンフランシスコの近くに住むモスミラーさんはもうすぐ50歳。彼は州立大学付属総合病院のケア・マネジメント部門のディレクターをしている。アルコールや薬物への依存症診療部門のプログラムを組む仕事だ。

 十代の少年少女のカップルが妊娠中絶しに釆たときの心と体のケア、ベトナムをはじめとする帰還兵たちの社会復帰支援、家庭内暴力にかかわって男の攻撃的行動をなくす心理教育プログラムも開発した。仕事が終わるとメンズグループの事務局長としてダウンタウンのセンターでボランティアを行う。

「私の仕事は男の暮らし方に結び付いています。プログラムの中で男たちのいろんな姿に出会います。もっと男のスタイルを人間的なものにする必要を感じます。自殺を急ぎ、事故に巻き込まれるのも男たちが多いのです。男と女の闘いが今の社会を特徴付けているのではなく、実は男と男の戦いの方が深刻なのです。男同士がもっと平和的になれたらいいのに」と言う。

 そして彼は男たちにこう呼び掛けた。「自分のために花を買ったことがありますか」と。米国で、男らしさからの自由を願う動きが広がった、一つのきっかけとなった名言である。

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パパの意識改革−酒を断つ日も作ろう

 K市の女性問題懇話会の委員をしている。総勢15人の中に男は5人。一応、学識経験者ということで入っている。目指すは男女共同参画型社会。政策決定に女性も加わり企画を練るのでそう言う。

 学校教育、地域づくり、仕事、子育て、ボランティアと市民生活のすべての分野で女性の行動しやすい条件づくりの課題を探る。女性の委員たちは自らの活動の経験を生かして、市民の目で行政をチェックする。新旧住民のニーズの違い、地域の中での子どもの変化、福祉事務所への文句と期待など実に多彩な意見を述べる。

 そして我が身を振り返る男たち。地元経済界、自治会などの団体を代表して参加している男の委員だが、いつの間にか、男性代表という具合になっている。

 男たちの暮らし方は自治体密着ではない。地域といってもそれは寝に帰るところ。生活している実感が薄いから、具体的な政策への注文が出てこない。

 だから、女性主導型で男性政策がつくられる。狙いは男性の意識改革。男の生き方再考を促すセミナーの開催、生活自立と銘打って、単身赴任にも役立ちますよと料理教室、高齢社会をにらんでの介護実習、若いパパへの父親教室、十代の男の子には性のことを含めワークショップなどだ。こうして地域に帰ろうと男たちに呼び掛ける。

 とはいえ忙しい男たち。とりあえず労働時間の短縮が必要。かつて、時短先進国ドイツは「土曜日のパパは僕のもの」という名文句を考えた。勤勉な日本人にはこうした工夫はいかがだろうか。せめて週に一度は残業しない日を設けたい。でも放っておくと飲み屋にはせ参じてしまう。だから週の真ん中の水曜日は生涯学習の日にする。

 行政は無料で教室を開く。キャリアアップのための高度なニーズも満たせればいいだろう。男たちの自分探しのヒントにもなるメニューを開発する。せめて「水曜日のパパはお酒のにおいがしない」としたいものだ。

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通過儀礼−求む新たな人生筋書き

 講演の中でカタカナが多いと、「お前、学者だろう。もっと市民に分かりやすく、日本語で話せ」と注意を受けることがある。確かに、男気、ますらおぶり、雄々しさ、義侠(きょう)心と男らしさを表す日本の言葉は多い。マッチョ、ジェンダーなどと言わずに日本語で語りたいと思う。

 「ホモ・ソシアル」という言葉がある。男同士の社会的なきずなを指す。兄弟愛ともいえる。例えば祭り。ふんどし一つで肌触れ合いながらのワッショイの世界。地方の青年団などに残る男衆の文化もそうだ。こうした日本産の言葉で見ると、世代と地域によって、随分と異なる姿を見せる男の経験だ。

 男らしさの規範は、家族という私的世界から社会という公的世界へと進む男たちの成長において、通過儀礼のような役割を果たしていた。

 七五三の祝い、元服、結婚、厄年というものがある。例え言葉で筆おろしというのもある。かつてあった若者組など、地域社会の大人に仲間入りする役割を果たしていた。

 こうした通過儀礼は人生の節々で男らしさ意識を強調する。公的立場や役割を割り振られることの多い男たちは、こうした男らしさの規範に合わせて人生を組み立てていった。

 ところが、この通過儀礼が崩れ始めた。土台となっていた女と男の分業の仕方に変化が起き始めているからだ。男同士の「ホモ・ソシアルの世界」にどんどん進出してきた女性たち。男同士では許されていたものがそうではなくなる。

 通過儀礼とは人生物語の筋書きのようなもの。私の少年時代のシナリオほ「巨人の星」や「あしたのジョー」だった。今はこんなしんどい漫画は男の子には受けないだろう。だから独自に作るしかない。競争、努力、根性から変化して新しい言葉にはどんなものがあるのだろう。

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危機管理−軽視できぬ夫婦喧嘩

 アメリカでは家庭内暴力が深刻だ。銃が家庭の中にあるので、夫婦げんかと殺人は紙一重。いわゆる110番通報の半数は家庭内暴力関係だという市もある。

 比較的軽い暴力で、過去に家庭内暴力で逮捕されたことがない場合は、カウンセラーのもとに通うように命じられる。「殴ってしまう男のための心理教育プログラム」が開発され、専門家が男たちを集めてグループワークを行う。

 老舗のグループにエマージュというのがある。20年ほど前からマサチューセッツ州のポストンやケンソブリッジで活躍している。そこのカウンセラーをしているターナーさんが来日して、「なぜ男は暴力的になるのか」いうシンポジウムを開き、私はコーディネーターの一人を務めた。

 親密な関係でうまく気持ちを伝えることが苦手な男たち。「アイ・ラブ・ユー」とパートナーに言えると思っていたが、米国人たちも苦手だという。

 問題は、怒った時の感情処理の仕方だ。怒りの感情が配るという行動に結び付いてしまう。ターナーさんの経験によると、カウンセリングに通う男たちに共通しているのは、決して自分を主語にして語らないということ。

「男というものはな‥・」「他の多くの男だってこうだ」という具合。

 裁判所やソーシャルワーカーに命令されて通う男たちはまず、カウンセラーに同情を求めるという。「男だったら仕方ないよな」と。揚げ句の果てに「おれはどうしてこんなところに通わなければならないのか」と食ってかかるケースもある。

 そんな男たちが時間と共に変化していく。上手な感情表現を身につけ、暴力を振るわなくなる男たちの姿に共感するという。日本でも今から考えたい。危機管理という流行の言葉、家族に当てはめることを。

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男性セミナー−難しいほめ言葉

 春と秋、恒例となった「男・再発見セミナー」。大阪市は実に熱心に取り組んでいる。会社帰りの男たちが多い。六十人ほど集まってくる。年齢層は三十代から入十代までと幅広い。

 重視しているのは、参加者同士のかかわり合いだ。六十人もの男が小さなセミナー室で私の来るのを待っている。男ばっかりだからシーンとしている。ものすごい緊張感。凝りをほぐすように雰囲気をつくらなければならない。

 何しに釆たのか、自己紹介を二人ずつのペアでしてもらう。決して名刺を渡すな、仕事の話ばかりするなと指示しなければならないほど、男たちのそれは自己紹介ではなく会社紹介が多い。次に四人のグループになってもらい、いま聞いた人の話を残り二人に伝える他己紹介。しかし人の話をちゃんと聞いていないから、はじめに組んだ男の情報をうまく伝えられない。

 別のペアを組み、相手を頭のてっペんからつま先までじろじろ観察してもらう。そして何でもいいから一言相手の服装をほめてもらう。恥ずかしげに、おもしろそうにほめ合っている。男は、連れ合い、恋人、子ども、部下のことをなかなかほめない。男たちは他人に賛辞を贈るという機会が少ないので、ほめるボキャブラリーも貧しい。

 また、できるだけファーストネームで呼び合うようにする。男たちが名前で呼ばれた記憶ははるかに遠いこと。母に叱責(しっせき)されたころまでさかのぼる。夫婦の間でも子どもができれば、お父さんと呼ばれることになる。私は名字がシンプルで同姓の人がたくさんいるから、名前で呼ばれることが多い。何だかとても親しくしてもらっているようで、感じがいい。

 こんな具合にセミナーが進む。もちろん難しい話もする。自分探し、趣味探し、友人探しに暇つぶし、好奇心に向上心、妻に言われてと参加の動機は様々だ。特に役立つわけでもない。それでも集まる男性セミナーである。不思議な時代だ。

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男らしさの周辺−生き方多彩楽しそう

 男のフェスティバルと銘打った「第一回全国男性会議」が、錦秋鮮やかな11月の京都で開かれた。好奇心のおう盛な170人近い男と女たちが集まった。基調報告も、目標も、結論もない緩やかなものだ。唯一設けられたルールは、「我々は」という複数形の主語を使わないこと、批判しっばなしでなく対案を付けた批判をすること、マイクを独占しないというコミュニケーションのルールだけ。

 会議の中心は多様なテーマのワークショップ。男のためのコミュニケーション教室、父と息子の確執を語る、メンズ・グループ作り入門、男と仕事など。

 男の運動とはなにかということが隠れたテーマだった。一つは「イズムなき市民運動」という側面。集団としての男は支配的な立場に置かれ、女性に対しては多数派である。だから、何かに対抗する原理としてのイズムは成立しない。

 でも、実際は男も多様だ。経済的地位、性的な志向、世代間の違い、地域の特性などからなる分化した男たちの姿がある。だから、対抗原理としてのイズムが成立する側面を持っている。これが二つ目。対抗するターゲットは、中心に置かれた男らしさ像である。男らしさの「中心と周辺」だ。しかし、イズムという神々の争いは避けたい。だから、とりあえず色々な男たちの声を聞くために設定された会議である。

 そうしてわかってきたことは、周辺部に追いやられた男らしさ像は意外におもしろいということ。育児や介護に励む男たち、出世をあきらめ多数とは違う働き方を選択した果たち、ゲイや異性装などの性的志向や自己表現を好む男たちだ。「オタク文化」もそうかもしれないと話題になった。リストラを機に転職した男、残業を断り続け趣味に生きる男、シングル生活を楽しむ男、いろいろだ。

 今、こうした男らしさの周辺部は、何だかとてもにぎやかで楽しそうだということがわかってきた。

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タイの男たち−人間の開発課題に

 末の娘が家を継いでいく。タイの伝統社会はそうだった。結婚した後、妻方居住の場合も多い。そうなると同じアジアの社会とはいえ、随分と異なる男らしさイメージがあるのではないかと思い、「男のフェスティバル」にタイの社会学者Sさんをお招きし、「世界のなかの男たち」というワークショップで話していただいた。

 子どもと過ごす時間の国際比較調査によれば、タイの父親はトップで平均週六時間。日本の父親は最低でタイの半分以下。しかし、急速な工業化で、伝統的な家族制度も変わり、シングルは増え、結婚時期は遅くなる。女性の社会進出も進む。家事や育児へのかかわりは少なくなりつつあるとSさんは話す。

 とはいえタイの男は違うと思いながら訪れたバンコクを思い出す。仏門に入り修行するのは男性。オレンジ色の袈裟(けさ)を身につけて町を歩くタイの男性たちの姿は優しい。祈りのために合わせる手もやわらかそうだ。タクシーの乗り降りのたびに合掌してくれる若い男たちの表情は穏やかだ。

 祈りの心と工業化のバランスの中で男らしさ像もゆらぐ。Sさんの関心は「脱開発の思想と行動」。祈りの気持ちで社会を見直すSさん。第三世界の開発現場に精通している。そこで何が起こっているのかを直視するまなざしは鋭い。弱者としての女性と子どもへの開発のしわ寄せだ。性的な被害を伴うことも多い。こうして女性運動が高まる。それに呼応するように、メンズ・グループも生まれたという。

 Sさんは、経済の開発、社会の開発に加えて、人間の開発が課題となってきたと考えている。開発現場で人々の支援を支持するのはNGOやNPO。タイのメンズ・グループもこうした広がりの中で活動している。彼は「インターピープル」ということを大切にしている。世界各地のメンズ・グループも、こうした民際ネットワークの一環として交流できれば楽しいだろう。

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自分探し−音に表現する“らしさ”

 東京の青山にあるライブハウスでユニークな企画があった。このコラムを愛読してくれているミュージシャンたちが企画して、少し変わったイべントとなった。「男らしさより自分らしく」というトークセッションで、私が話した。コラムに書いたエピソードをもとに、この間出会ったいい男たちの話をした。そして「アイデンティティーの揺らぎの中で始まる男たちの自分探しのために音楽や芸術は何ができるか」と問い掛けた。

 ギタリスト・吉川忠英が歌い、井上鑑がピアノを弾き、ボーカルのおおたか静流が「花」を熱唱した。エイズ問題でも活躍するDJのパトリックも来て、グラス片手に男についてディスカッションした。

 「コンサートにたった三人しか来てくれない売れない時代があった。その時まで、おれの音楽はこんな程度ではないというおごりがあったことがわかった」と語るギタリスト。

「一人も来てくれないこともある。そんな時でも歌う。がんばれよ!と応援している幻のもう一人の自分に向かって歌った」というミュージシャンの話もしてくれた。

「歌はよどみなく気持ちを表現できるから好きだ」と語るボーカル。鍵盤(けんばん)をたたく手の動きが柔らかいピアニストは、ナイーブな男のイメージを乾いた音で表現した。「ピアニッシモを表現できる音楽家はやはり素晴らしい」とギタリスト。静けさにしみいるようなという形容がぴったりのはりつめた表現ができれば素晴らしいと言う。

 決して饒舌ではないミュージシャンたちの心の渇きが音になってくる。男らしさに「おごりとプライド」、自分らしさに「じゆう」とルビをふる彼らとの楽しいライブの余韻はいつまでも心に響いている。

 潤いが欲しくて、人はそれぞれの表現方法を探す。自分探しとはそれを表現する仕方を身につけることなのかもしれない。言葉と音のジョイントコンサート、ちょっときざでおしゃれな一晩だった。

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たたき上げ−自負心と劣等感にゆれ

 「戦後を駆け抜けて生きている感じですね。私らたたき上げの人間はずいぶんと苦労してます」と昭和17年生まれのMさんが切り出した。工業高校を卒業してすぐ石油化学関連の製造の現場に入った。現在は関連会社の総務で働く54歳のサラリーマンだ。

 三十代のころ。三交代制勤務の工場から、現場の経験を生かした営業をしたいと願っていた。合成ゴムをつくるノウハウを知り尽くした者ならではの、きめ細かい営業ができるという自信はあった。顧客のニーズに即座にこたえられる知識もある。ようやく念願かなって営業へ。勇んで弾む気持ちもつかの間、苦労が始まる。工場での肉体の疲れは休めばとれる。でも、営業職の人間関係のストレスは、そう簡単にはとれない。

 「泥臭い営業でしたね。でも、大きな契約がとれるとものすごい充実感でした。経済の屋台骨を支えているという感じでした。それとやっばり妻や子どもを養わないと男じやないと思って生きてきました。女房を働かせるなんて考えもしませんでした」と振り返る。以降、七回の転勤、単身赴任、長時間通勤と続く会社勤め。

 でも、たたき上げの現場に生きてきたMさんの自負を支える気持ちは少々複雑だ。学卒者へのコンプレックスがあるという。その気持ちが、娘たちへの過剰な教育熱となって表れた。そして家族の一大事件。娘の登校拒否である。それがもとで引き起こされた精神的ストレスでMさんも出社できなくなった。

 娘のつまずきをとおして見えてきたことは、振り返る余裕のない自分だった。努力と自負のたまものの自分史に重ねて思う。孤独なマラソンランナーのような生き方だったという。

 Mさんの葛藤(かっとう)はようやく落ち着いてきた。饒舌(じょうぜつ)に半生を語つてくれた。「飯、ふろ、寝るしか言わなかった会社人間やったのに、違う人と再婚したみたい」と連れ合いさんが言う。男たちも人生の思秋期で再生する。老い方の中にその人の生き方が表れる。

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人生再考−習慣変わり動き多様に

 電子メールでたくさんの感想や意見をいただいた。ひと味違うオトコ論だというおほめの言葉が多かったことをありがたく思う。メールの送り主たちが等しく言う。オトコの通過儀礼という文化のマニュアルが失われつつあるので、人生指南書が必要になり、それと等しい機能を果たすものが切実に求められている、と。

 男性セミナーもその一つ。みんな人生再考のヒントが欲しいんだなと、男たちと話していて思う。各種のセミナーに参加してありあまる退職後の自由時間を使ってる男性がいる。セミナーでびっしり埋まったスケジュールである。日々のはっきりとした課題がないと充実感が得られないような暮らし方が見えてくる。

 働き方、考え方、話し方、酒の飲み方すべてにわたって、男らしさのハビット(習慣)がつくられている。高齢化や少子化という社会の変化は、自分と向き合わなければならなくなる時を増やしていくだろう。そうした変化の中で、既成の男らしさのハビットに安住していては、乗り越えられないことが多くなる。

 男性セミナーにはまってしまう彼ではあるが、楽しそうだ。だれにも強制されていないからだ。これまでのハビットとは違うものが彼を動かしている。利害のない出会いを通して、他人を鏡にしながらそこに自分を映す。男らしさのハビットが大きく変わろうとしている。どこに着地するのかわからないが、男たちも多様なライフデザインを描こうとして動き始めたことだけは確かだ。

 さて、私自身のライフデザインはどんなものになるのやら、ゆっくり考えようと思う。男たちのオルタナティブ・スペース、メンズセンターをよろしくと宣伝して、ご愛読感謝の言葉にしたいと思う。

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