あとがきー男性研究への誘い

 こうして集めた100の本である。メンバーの勝手な読み込みで解釈した男らしさ論だ。この本は、自分探しをしたいと思う男のためのブックガイドではない。なぜなら、ガイドというと、ものを知った者が、何も知らない人に教えてあげるというニュアンスがつきまとう。この意味では、男たちが直面している課題を自ら乗り越えていけるヒントになるような、とくにこうすべさだという指示をしているわけではないので、ディス・オリエンテーション(ひとつの方向に指示せずに、多方軌に行けるようなスクランブル交差点。多方向迷走型の道標)のためのリストだと考えている。

 というのも、たいそうに、「男の人生かくあるべし」と指示する書物があふれているからだ。たとえば「男20代にしておくべきこと」「男30代、やっておかないと後で後悔すること」「老いてもなお男の美学を」「人の上に立つ成功戦略」「勝つための男のコミュニケーション」「歴代武将に学ぶ人生設計」という具合の本である。これらは、伝統的な男らしさへのオリエンテーションの書物に他ならない。これらはたいがいは命令調で書かれている。艱難辛苦を乗り越えて、無理と忍耐を重ねて生きるという男の人生論なのだ。これらは、画一的で紋切り型の男らしさイメージヘと人を煽るオリエンテーション・ブックなのだ。だから、私たちの本は、ディス・オリエンテーションということにしたい。人を導きはしない、ガイドもしない。自分らしく生きるやり方は自分が決めることなのだ。とはいえ、孤独に自己決定すべきだというわけでもない。井戸端会議のように話し合い、情報を交換しあって、ヒントを得る。そんなアイディア・ブックとしてとらえている。

 メンバー一人ひとりの解読作業も、その人の個性を表している。先人たちの経験と言葉と理論に託して、ありきたりの男らしさイメージから抜け出る作業を行ってきた。ジェンダーという存在としては自分を見る機会のない男たち、「濡れ落ち葉」などと女性たちから悪罵を投げつけられる男たちではあるが、ずいぶんといろいろな経験を積み、自らを語る言葉も開発してきていることが、この本をつくる過程でみえてきた。また、一人ひとりの男たちの問題だけではなくて、男らしさをつくる制度や構造を明確にする手がかりも見えてきた。男性の個人的・社会的経験、男らしさの観念を内面化した男と女、私たちは、こうしたフィールドをとらえて、とりあえずは「メンズ・スタディーズ」と呼んでいる。これを「男性学」とは訳したくないが、いい訳はまだ見つかっていない。ましてや、一つの学問分野でもない。

 単純な男の人生論とは別に、もう一つ、精力的に男を語ってきた分野がある。女性学やフェミニズムだ。もちろん、語る人の立脚点により描かれる男性像は異なる。「男性中心社会」という単なる枕詞や形容を超えた言葉も流通しているぐらいだ。男性の一つの存在形態である父親の社会的あり方に焦点をあわせて、「家父長制」という言葉も社会をとらえるキーワードとして成熟してきている。

 そこで語られる具体的な男性像は、差別者、加害者、圧制者、レイピストなどである。抽象的な社会のありようを語る言葉と、具体的な一人ひとりの男性のありようを語る言葉が重なりあい、女性学やフェミニズムを前にした沈黙と沈痛なムードが男をおそう。総論では分かるが、各論では針のむしろに座らされるような感じなのだ。これは性差別を語る時、男は独特の困難に陥ることを表している。つまりある立場決定を迫られるのだ。これに対応してメール・フェミニスト(男のフェミニスト)、プロ・フェミニスト(フェミニストにはなれないが同調する男たち)という立場が生まれる。他方、男も性差別の犠牲者だと言い、男らしさによる抑圧を語る立場がある。こうして、加害か被害かの両極に揺れながら、性差別やジェンダーのことを語る、存在の不安定感のようなものを感じる男たちである。

 そこで、立場の決定を迫るようなやり方ではなくて、とりあえず、男たちの経験の多面的な側面をクリアにしようと考えた。もっと男のことを語る言葉を豊かにしたいと考えた。もちろん、言葉とともに、男のことを語る時の方法やものの見方も熟させていきたいと願ってのことである。だから、解説を書いた一人ひとりの立場や方法は多様だ。

 別の言葉で言えば、男ということを自覚して、個人一般でも、人間一般でも、日本人一般でもない、「男という私の諸経験」をクリアにすることが共通の関心である。そして、そういう視点から、社会と構造を見てみようということを意図している。もちろん、「男として語る」ものばかりではなく、女性によって語られた男についての本も数多い。異なる視点でみた男性像もまた貴重だと思うからだ。まとめて言えば、「男というジェンダーを発見する」という作業だ。この作業は、自分探しの前提となる自己洞察や自己発見にとって不可欠なものだと思う。ジェンダーは何も女性のためにだけある言葉ではない。

 もちろんここに集めた100冊以外にも、男のことを書いたユニークな本は多い。自分探しのヒントにもなるようにという願いから、どちらかというとアカデミックな書物は避けた。

 たとえば、ニコラウス・ゾンバルトの『男性同盟と母権制神話』(法政大学出版局)という書物がある。ドイツ近代史を男性性という視点から組み直したものだ。ロナルド・タカキの『アメリカはなぜ日本に原爆を投下したか』(草思社)は、トルーマン大統領の男らしさ意識と政治姿勢のかかわりを論じている。ミチャーリヒの『父親なき社会』(新泉社)は、父なるものという視点を入れたナチズムの大衆心理分析である。

 ジョージ・L・モッセの『ナショナリズムとセクシャリティー市民道徳とナチズム』(柏書房)は、ファシズムにおいて頂点に達するナショナリズムと特定のセクシャリティの同盟関係を、ドイツの歴史のなかで分析したものだ。それを結びつけたものは「市民的価値観」だという。それは性についての正しい意識を含む礼にかなった作法と道徳をさす。正常な家族、正常な性行動、正常なエロスとは何かを定義するセクシャリティを中心にした市民的価値観の功罪がうまく描かれている。モッセには The image of man ; The creation of modern masculinity(oxford University Press,1996)という著作もあり、ここでは近代社会における男らしさ分析と現代社会におけるその変容が扱われている。

 ロバート・コンネルの『ジェンダーと権力ーセクシャリティの社会学』(三交社)は、「ヘゲモニックな男らしさ」論を展開している。これは男性性の多様な表現類型をみるべきで、単一の男性性ではなくて、歴史、文化、社会、政治などの社会的諸関係総体のなかで特定の男性性が支配的となる過程を考察すべきだという主張だ。その後コンネルは、Masculinity’s(University of California press)という本を1995年に著し、この立論を詳細に展開している。

 エドワード・サイード『オリエンタリズム』(平凡社ライブラリ)は、東洋的なるものという知の体系が西洋をとおして形成されてきた過程を描いたダイナミックなものだが、その過程にジェンダーのレトリックやメタファーが多用されていることを示した。女らしさのメタファーをあてがわれたオリエンタルの男たちという位置が浮かび上がる。

 このように、男らしさと男性性のパースペクティブを意識した文献を読み解き、これをメンズ・スタディーズの一環としてとらえていく作業も始めてはいるが、今回は除いてある。

 また、明示的には男らしさと男性性の視点で書かれていなくても、ジェンダーに無関心な諸科学はすべて「男性の視点」からの「男性学」だともいう女性学の一つの見地からすれば、行間や背後仮説を男の視点で再構成することも面白いと思っている。たとえば、ジエームス・メッサーシユミットの『男性性と犯罪』(翻訳はない)という書物は、男らしさの表象としての逸脱の社会学的な研究という視点から、これまでの非行と犯罪の理論を再構成しょうとしたものだ。こうした試みもフォローしていきたいと思っている。

 この本を作る過程で参考にしたのは、『ニュー・メンズ・スタディーズ』と題された文献解題書(Eugene August, The New Men’s studies ; A selected and Announced Interdisciplinary Bibliography, Libraries Unilimited,inc,1994)である。英語で書かれたメンズ・スタディーズの書物に、詳細な解説が付された文献目録だ。身体、少年、離婚と親権、エロスとポルノグラフィーから仕事までの二七のトピックスに整理されて1049冊の書物が紹介されている。男のセクシヤリティにかんするゲイ・スタディーズ、男らしさイメージの文化表象分析としてのカルチュラル・スタディーズ、ジェンダー・スタディーズ、そして暴力や逸脱などの諸研究などとも結びついた、分野横断的なフィールドとして、これからも多くの文献が蓄積されていくと思う。

 こうした英語圏での試みに触発されて、とりあえずは、日本の男たちの経験にねざした書物を中心に、読みやすく、入手しやすいものを中心に選んだ100冊である。引き続き、版を重ねて充実したリストにしていきたい。

中村 正