元七三一部隊員・篠塚良雄氏〈3〉

※『第1回中国戦跡を訪ねる平和の旅記録集』(1998年発行)より、1997年8月22日夜、北京・天橋賓館にて


特別班での人体実験

 そのようななかで私も人体実験にかかわり合いを持つようになりました。これは42年、七三一部隊に入って3年何か月かたった後ですけれども、それに参加しました。これはどこの場所で行ったかと申しますと、特別班です。石井四郎の兄が特別班の班長でした。この班員というのは、秘密の箇所、いわば七棟、八棟の建設にたずさわった者たちです。石井の故郷の千葉県千代田村加茂という所、そういうことから一時期、加茂部隊と言った時期がありましたけれども、加茂出身者かその隣の多古出身者。これが、この秘密の箇所を作った者たちです。ほとんどは農家の者たちです。大工とか左官であった者は建設班とか工務班に行った訳ですが、そういう土工のような仕事で入って来た者が、今度は特別班の班員になった訳です。
 この特別班というのはどんな格好をしていたかというと、看守のような役割でもありますし、確かに中に収容していた人がちょっとでも抵抗すれば射殺する銃も持っていたと思うのですが、屈強な人たちでした。白衣を着て戦闘帽をかぶって長靴をはいて拳銃をぶら下げている。これが通常のスタイルでした。私たちが白衣というイメージからは七三一の白衣っていうのは違っていた訳です。この特別班に入るには、特別班出入許可証というのが必要でした。だから一定の年数が経つ、幹部クラスは別です。大学から入ってきた者たち、大学の講師だとか助教授クラス、七三一に多くいて第一部がほとんどそれであった訳なんですから、彼らはもう来たときからそこに出入りしている。また、それに出入りしたくて来たのかもわかりませんし、そういう所で、私なんかは3年何か月たってから下働きのために連れて行かれました。
 ついていって私たちがおこなったのは、自分たちの作った細菌の毒力試験でした。とにかく殺傷力の高い細菌を作るんだと。動物実験も多く行いますが、動物実験では埒(らち)があかないと、言えば抵抗力の問題、抗体の問題、ワクチンの問題、予防接種の問題などとの絡(から)みがあるからだと思いますけれども。その生体実験に加わりました。それを特別班の班員、この腕力と銃の力で屈伏させる。それで血液を採って抗体を調べます。
 そのあとで私たちがやったのは、当時七三一で開発し作った優秀なワクチンというのはペストのエンベロープワクチンと言ったと思いますけれど、このワクチンを注射したもの、それと他の国のペストの予防接種液。これらを使いまして、予防接種をやる。まず、1人だけは死ぬ。あとの四人の人たちにそのようなワクチンを注射します。今度は日にちが経ってから抗体を調べます。それから菌数計算をしましたペスト菌を注射しました。そのような経過をたどりました。やはり一番最初にペストの症状が出て瀕死の重体になられた人は、予防接種をやらなかった人です。それを見て、連中は喜んでいました。

特別班での生体解剖

《写真》生体解剖の動く模型 北京・中国人民抗日戦争記念館

 その解剖にも私は連れて行かれましたけれども、私が一番最初にこの解剖室のどこで解剖したかというと、七棟、八棟というのがあります。今、その証拠になるものは全部破壊しちゃってない訳ですけれども、ロ号棟が3階建てで、そのなかに八棟、七棟とありました。七棟に実験中の人と女性を監禁していました。そこで解剖を始めました。私が最初に命じられたのは、デッキブラシとホースの水で身体を洗えと、こういうことでした。私は一番最初の人、接種しない人については当時も一番最初に会っているんです。しかし、私たちに対する燃えるような憎しみの表情、これだけは忘れなかった訳ですけれども。そういう人が、そのようなペストに感染する。解剖台に特別班の班員によって連れてこられると、人が違うという感じを受けました。黒くなっている、真っ黒になっている、のけ反るようになっている、しかし、まだ息があったことは間違いないんです。私は、洗えと言われてデッキブラシで洗いました。それで顔はどうするのか、これで拭くのかと言ったんですけれど、それでいいんだと。私たちは皆、防菌しているんです。眼も眼鏡で塞いでいるので、動作で表す訳なんですが、それでやれと。私は初め躊躇(ちゅうちょ)しましたやはり。やれ、やれと顔からなんか、目をつぶってデッキブラシで最初は洗いました。しかし、2人、3人になってくると、もう平然とやった訳です。
 それで1人が、聴診器を確かに心音があるから、1人は解剖刀を持つと、あと3人が助手なのですけれども、聴診器をはなすと同時に、解剖刀でまたたく間に腹を裂き断ち切りました。そうすると今度はもう1人が内臓を取り出しました。七三一で病理を専門的にやっているのはともかくとして、細菌を扱っている人間は病理的な知識もないし、関心もなかったかもわからないけれど、とにかく細菌さえやっていればいいという感じだったと思いますけれども、内臓を取り出して、部位だけは明らかにして。今度は白金耳(はっきんじ)です。まあ白金耳というのは細菌を培養するときに使うものなんですが、それをブンゼン灯で焼いては食塩水で冷まして、切った内臓を突き刺して、今度は培地に塗って、注射した細菌と同じものが出てくるかどうかというのをまずは確認すると。もう1つは増菌培地という中に入れて、どの部位にどれだけの菌量があるか、これらを調べる訳ですが。まず、細菌を扱うそのような解剖、なぜ生体解剖かと申し上げますと、私たちが聞いていたことは、人は死ねばすぐ雑菌が増え出すんだと、腐敗菌です。これによって今までの実験がパァーになっちゃうんだぞと。この聴診器を外すタイミングって難しいんだぞと。こういう言い方でした。

平気でそういうことが言えた

 このようにして2人、3人と、彼らは予防接種した者が死ねば喜んでたんです。乾杯してたんです。自分たちの作った細菌の方が強いんだと。こういうことです。このようにして私たちの実験、今思うとこのようなことが平然とやられていた。夜遅くです。こういう実験をやっていると夜帰るのがたいがい遅くなった訳ですけれど、そうしますと、風呂の中ではやはり同じようなのがいます。お前んとこは何本倒したと、このようなことが平然と人の命を奪ってですね、殺してですね、平気でそういうことが言えたんです。それだけもう、人間性を失ってた。今思うと、自分ながら身の毛のよだつような思いがする訳です。
 七三一については、まだまだ私の犯罪行為っていうのは多くある訳なんですが、そのような点をこの場を借りて証言させていただきました。また、明日現地で証言の機会を与えていただければ幸いだと思いますけれど。まず、ひとまず終わらせていただきます。(拍手)

保里:どうもありがとうございました。今お話しいただきましたけれども、時間の関係もあって、それ以外のこともおいおいお話していただきたいと思うんですけれど、今のお話をうかがって、何かお聞きになりたいことがあれば、この機会ですので是非補っていただきたいと思います。ご質問でもよろしいかと思うし、またご意見でもいいんですけれど、今の証言とか七三一などにかかわって日頃考えているとがありましたら、ここで出していただけたらと思うんですが。
篠塚:ちょっと私、追加を。先程申し上げて、証言しておいて、もしその現場を見ていただけたらと思いまして、あえて発言させていただきますけれど。私が七三一に入った時期について申し上げましたけれども、まだ建物が完全にできていないとお話したはずでありますけれど。1939年の6月頃だったと思いますけれども、私たちは第一棟の一番最初の建物なんですが、そこの一番左側に内務班を作って生活して追った訳で、夜中にです、非常な騒動が起こった訳です。騒動というより、私たちの寝ているところへライトをまともに当てられて、帯剣の音と鎖を擦る音が非常にしました。私たちは何事かと思って、まだそういうあれを知らない時期ですから、それで皆、目を覚まして音のする方に行こうとしたんです。そしたら、2階の方に下士官が生活してました。それと憲兵が来まして、「マルタ」を運搬中だと、出るなと、こういうことを聞いて、初めて聞いたのが「マルタ」という言葉です。その時に、今思うと、一番大勢の人を連行して来たのではないかと思います。
 ちょうどこのロ号棟の中の七棟、八棟が完成した時点です。その時に、今ハルビンの奮闘街という所、今児童公園になってその近くに、七三一の白樺寮という寮がありました。今、簡易ホテルになっていますけれども、その地下が監獄であったということです。で、上は憲兵だとか特別班の班員の宿舎になっていました。そこに監禁しておった人たちを、ロ号棟の中の建物が完成したので運び込んだのではないだろうかと、このように思っています。それ以外にも何回か、そういうのには遭遇していますが、その時が一番多くの人たちが連行されました。もしハルビンに行かれて時間がありましたら、その簡易ホテルになっているその地下はそのままに残っています。ぜひ一度その辺も見て、犯罪、日本の侵略軍七三一部隊の犯罪の一面を刻んでいただければと思います。ま、あえて発言させていただきました。

保里:いかがでしょう。ご質問、あるいはご感想でもいいんですけれど、どなたか。
(質問):今お話されたことなんですけれど、地下にあった所というのは旧日本領事館の地下のことですか。
篠塚:いや、そうじゃないんです。領事館の地下にもそういうのがあったと言うんですが、七三一の1つは吉林街分室というのがあったんです。これはもう1つは白桃寮、白樺寮というのがあって、その白樺寮というのが主として憲兵だとか、特務機関じゃないかと。特別班の班員の宿舎になっている。だからそこに、監獄作って収容して、それで監視の役もした。それでロ号棟が完成したので、こちらに運んだ。それでその前は、前にあったのは五常県の背陰河に中馬部隊というのが最初にあった訳ですが、それからあとは、浜江駅の近くの香房から来まして、そこは後に七三一部隊の三部になっています。私たちは当時、南棟と言っていたんですが、これは後に防疫給水部の三部になったところなんですが、そこでもその前はそういう実験をしたのではないかと言われておりますが、その確証は私にはありません。背陰河時代というのがありまして、背陰河から南棟と言ってた場所に来て、そこに来たときはすでに平房の建物の準備、準備って言うより工事を初めていたんじゃないかと思います。13年(1938年)、12年(1937年)の終わりか13年、14年には完成していますんで。昭和で申し上げましたけれども。

(質問):先程のお話、私の聞き違いかもわかりませんが、七三一部隊の犯罪性がまだ明確になっていないということで、いずれ明確にされるであろうというお話がありましたけれども、これだけいろいろ物証があるように私には思えるんですが、それでもその犯罪性は明確になっていないのかどうか、それから、なっていないとしたら、いずれ明確になるであろうではなくて、だんだん風化する前、今日現在です。まあ、どういう人たちが明確にするために努力をしているのか、今やらないと、風化してなくなっちゃうんじゃないかと心配するんですが、その点についてはどうですか。
篠塚:その点についてなんですが、七三一の犯罪は、なぜ今になってという疑問があろうかと思いますけれども、これについてはアメリカが非常に関与しています。これは私は当時日本にいなかったのでわからないのですが。まず、石井その一党のミドリ十字を作った内藤良一、彼が立役者だと言われていますけれども、アメリカとの取引、免罪符をもらうために、今までの生体実験を含めた細菌戦のノウハウの資料をアメリカに引き渡すことによって東京裁判から免訴されたといういきさつがあります。その資料が、明らかにはなりつつありますけれども、その点で七三一に関しては、まだまだ具体的などんな実験をやってどんな結果を得ているのかその辺の問題だけは残っていますけれど。それと、先程申し上げました防疫給水部です。これは、日本の政府が知っているはずなんです。恐らく防衛庁あたりにその資料があるはずなんです。それが公開されれば明らかになってくる。七三一に関する問題も、防衛庁に、アメリカの方では日本に渡していると言っているはずですので、日本が隠している防衛庁に多くのものが入っているのではないかと言われていますけれど。そうしますと、先程私が申し上げました防疫給水部の任務ですが、彼らはこれで逃げきるんです。第一線部隊に跟随し、水を供給するんだという逃げ口上です。だから隊員自身が、もう証言も、部分的にはあるようです。だからこの辺のところを日本の政府を問い詰めていくより他ないと思います。今でもおかしな発言が閣僚の中から出る日本ですから、必死になって隠すんだろうと思うんですが。まあ、そのように思います。私たちにも力及ばない点が多くある訳なんですけれども。

保里:まあ、七三一部隊に限ってお話をされている訳ですけれど、 僕なんかは専門では全然ありませんので詳しいことは知らないんですけれど、僕が七三一のことを知ったのは、最初は森村誠一さんの『悪魔の飽食』三部作がありますよね、あれを読んだときに、石井四郎というのをトップとして満洲のハルビンの非常に特殊な部隊が特殊なことをやっていた、こんなおかしなこともあったのかと、非常に猟奇的な意味での関心しかないというようなことが何年か前にはあったんじゃないか。その後、陸軍の予防研究所ですね、ここを通じて医学界から若い研究者を呼び込んで、日本の医学界全体がかかわってくるというあたりが次第に解明されてきたのと、この間、七三一部隊展なんかも全国的に行われて、その辺のことと戦後のミドリ十字などをはじめとする製薬会社と予防研を中心とするような国家、厚生省全部とは申しませんけれど体質とかそういった所が、日本人の問題としてある程度明らかになってきた。
 最近、実際に細菌戦が各地で実戦に使われたという解明がかなり進んできているんですけれど、ただまだまだ解明していかなくちゃいけない問題点というのはまだまだあるんじゃないかと感じているところなんです。特にさっき篠塚さんもお話になりましたけれども、七三一に関係した上級の軍人ですね、この辺がソ連が侵攻してくるとなるとすぐに命令を受けて引き揚げてしまうと、そういった素早い動きの所にはかなり日本の軍隊の中央部といいますか、そういったものがかかわっていただろうし、政府がかかわっていただろうというそのあたりが解明されていないのが1つあるんじゃないかという感想を、まあただの感想なんですけれど思った次第です。
 今後質問かたがたで結構なんですけれど、七三一に関係してどういうあたりを日本人の問題としてあるいは課題としていかなくちゃいけないのか、それについて戦争の真実を伝え広めていく私たちとしてはどんなところに力点を置いて運動していくのか、そんな所までいくと難しくなっちゃうんですけれど、ただの感想でいいんですけれど、日頃考えていることがありましたら、発言を継ぎ足していただきたいんですが。

(質問):ちょっとお伺いしたいんですが、私も体験者の方々のお話を聞くときに、自分がその立場だったらやめることができるかなと、非常に怖い思いをしているんですけれど。先程、死体じゃないまだ生きている人をデッキブラシで洗う時に最初、躊躇されたというお話をされたんですが、ノミの培養とかいろいろやらされているうちに、これはやはり大量に人を殺すためにやっているんだということはおわかりになったと思うんですが、どういうお気持ちでいたのかなあというのが一番知りたいのですが。たとえば、上官の命令だから従わなければという事だったのか、それとも手柄をたてて上に行きたかったのか、当時のお 気持ち、いろいろあったと思うんですが、そのあたりをお願いいたします。
篠塚:当時の私が最初に七三一に入ったその経緯については先程申し上げましたけれども、最初から知ってて入った訳ではありませんでした。しかし、さっき申し上げましたように、秘密があればあるほど何か、やりがいのあることが待っているんじゃないだろうかという幻想です。これはやはり、その秘密の中に食い込んでいければ何か自分が得取るんじゃないだろうかと、こういうことと結びついています。だから口では国のためだなんだと言っていますけれど、やはり自分の出世という問題、これは給料を少しでも良くなろうということ、これと密接にかかわります。
 今、私自身もこんな人間だったのかと思うのはです、結局、特別班出入許可というのが出たときに、私がどんなことを思ったのか、当時はもう特別班に入れば人体実験の下働きをやるんだということがわかっていながら、やはりそこに幻想があるんです。やはりその中にいれば、エリート、そう全員が入れないところに入れるようになったという何とも言えない心理が働いています。これはやはり、ずるずる、ずるずると悪の中に入っていって、最初はだんだんはこういうことをやることによって少しでも残っている良心の疼きがあったんですが、それがだんだんなくなっていく。確かにそれがある訳なんです。
 それから七三一の部隊訓というのがある訳なんです。石井が作ったのです。「科学に国境なし、科学者に祖国あり」という言葉。それが、特別班の入り口に貼ってあったんです。それと「自分のおる所を深く掘れ」とかですね、そんなのが部隊訓としてありましたし、また、私は常に、ABCDの包囲の中にあるということで、やらねばならないと、この連発です。
 このような教育の中、また私たちが細菌学だといって教育を受けたのは、最初から生きた菌で実験をすると、また、動物解剖実験を主としてやらされると、この残忍性です。まず動物を殺すことから平気になっていく。
 もう1つあるのは、アジアの人たちに対するいわれのない蔑視観です。これらのものがグルグル巻きになってやってきたと、そのように私自身は反省しておりますけれども。

(質問):どうも長い間ありがとうございました。七三一部隊にかかわった人たちは、秘密は墓場まで持っていけということを言われてなかなか証言していないということもあると思うんですけれど、篠塚さんはもう10年以上も前から証言活動をされているというふうに伺っているんですけれど、証言されるんきっかけとなった事柄と言いますか、それから右翼の妨害とか、証言した後そんなの嘘だということを言われたこともあったとか聞いたんですけれど。証言をするきっかけと、それから七三一部隊展というのをすでに全国的にやったと思うんですけれど、その中で一番大きな収穫っていうのは、七三一部隊展にかかわった 人たちが新たに証言者として証言したという、その中でそれこそ秘密に七三一部隊展の人たちに電話をかけて来てこれは絶対に名前を出さないとか、非常に神経を使いながら証言者が出たという話を聞いているんですが。篠塚さんの体験を通して、今回私たちにの中にもちろん戦後ずいぶんたってから生まれた若い人たちも多いんですが、そういうご自分の体験を通しての若い人たちへのメッセージをお聞きしたいなと思うんですけれど。あともう1つ、時間があればそのようなだんだん平気になっていって鬼のような状態になった篠塚さんが撫順の戦犯管理所でご自分の罪に気づかれて人間性を回復されてた個人的なきっかけ、向こうの方々の対応などについて何かあればお願いしたいなと思うのですけれど。
篠塚:どうお答えしていいのか。私自身、私たちって言った方がいいかもわかりませんけれど。中帰連の仲間たちが証言する。これはやはり撫順または太原の戦犯管理所、ここで本当に人道的な扱いを受けましたし、また人間としてはどうあるべきなんだろうかと、これを教えられたというより、その中で自分自身がくみ取ってきたと、こういうことに尽きると思います。本当に人間ってこうあるべきなんだと言うことを確かに教えられました。

小学校から戦争、戦争

 具体的に申すと、これは直接関連ないと言われればそれまでなんですが、私自身はバレーだとかバスケットだとか全然知らない。私たちは小学校からはっきりいうと人殺しなんですね。戦争、戦争ですから。勝ったといえば提灯行列をやる。勝ったということは人殺しをたくさんやったということなんですから。それで提灯行列にも引っ張り出される。まあ、人殺しに出征しに行く。それを送りに行く。このようなことをやりました。また学年が上がってくると今度は教練です。毎日、毎日、教練が主な日課になっていく。学校へは配属将校に殴られに行くようなものです。私はトロかったから殴られたのかもわからないんですが。1つは、配属将校の点数を稼げは幹部候補生になれると、兵隊にいってそんなに苦労しなくても幹部候補生になれると、こういう点でも釣る。まあ、叩くのと持ち上げて釣るのと、そのようななかでずっとやってきました。

文化活動、体育活動を通じて

 ま、確かに私自身の変わってきたのは、戦犯管理所の中でです。人間的な扱い。本当に、バレーとかバスケットとか平和的な球技、こういう中からも学びましたし、また、文学的な作品も多く見せてもらいました。また、映画も『自転車泥棒』だとか『どっこい生きてる』だとか『箱根用水録』だとか、皆さん方も年配の方は見られたこともあると思うんですが、日本のでも外国のものでも、中国の映画も見ましたけれども、そのような文化活動、体育活動を通じて、平和っていうものを身につけましたし、また人間ってどういう生活をすべきなのかと、こういうことも教わりました。また、国際情勢、私たち自身は国際情勢だとかそんなことも何も教えられない、また、ある面、無関心であったのかもわからない。そういう資料もなかったのかもわからないですけれど、中国に行って国際情勢というものを、世の中っていうのはどう動いているんだと、今、世界はどうなっているんだと、その戦犯管理所にいてわかってきました。そのようなもろもろのことが私たちを変えていきました。
 それで日本に帰ったら真実を訴えると、侵略軍の犯罪行為を暴露することによって、二度とふたたびそのような道を歩まないような国にしようと、こういうことを最初からやってきたんですが。やはり私たちは最初の時期は受け入れられませんでした。中国で洗脳されてきたから、そういうことを言っているんだと。洗脳されているんだと。それで日本の平和運動っていうのは被害だけが全面に出ている、加害発言なんてのは押さえられちゃうんですね。こういう時期がありました。それでも私たちはずっとおこなってきた訳なんですが。

若い人たちを見直した

 それで、私は七三一部隊展で若い人たちを見直しました。本当に日本の若い人たちって何の関心もないんじゃないだろうかと、こう思ってましたけれども、そうじゃないんです。やはり、そうじゃないんだっていうことがわかりました。実際、部隊展に集結してきた人たちは若い人たちです。本当にいちばん熱心に勉強したのも若い人たちです。なぜそのような状況を作ってきたのかというと、やはり日本の政府、まあ文部省にしても厚生省にしてもみんなそうですが、そういうのはみんな隠しているんですね、真実を隠している。こういうことに対してやはり若い人たちがどう考えていいのかわからなくしちゃって、こういうふうにも思います。やはり真実というもの、事実は事実としてはっきりさせる。これがいちばん必要な事柄じゃないだろうかと、私たちは撫順のそういう生活の中から、1つの回答として感じています。二度と再びというより、日本はアジアの人たちとの友好を深める以外に生きる道はないという感じすらも今は持つ時期になっているんじゃないかという気もします。回答になっていなかったかもわかりませんけれども。
 撫順に行ったら、私たちの生活の全部がありますので、日本よりも多くの資料が戦犯管理所にありますので、是非見ていただきたいと思います。私たちの変わっていく過程が、ずっと出てくると思いますので。私たちも最初は凄いもんでした。やはり。抵抗に抵抗を重ねてきた訳ですから。
保里:今日は本当にありがとうございました。本当におつかれさまでした。もう一度篠塚さんに拍手を。(拍手)。ありがとうございました。
(終わり)
(小見出しは編集者)



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