元七三一部隊員・篠塚良雄氏〈2〉

※『第1回中国戦跡を訪ねる平和の旅記録集』(1998年発行)より、1997年8月22日夜、北京・天橋賓館にて


菌株の運搬

 それで今日、私がお話をしますのは、七三一部隊で自分の行った行為です。このように教育を受けながら私自身、私たちと言ってもいいかもわかりませんけれど、少年隊は、実習という名目でもう入ってからすぐ、いろんなものに関わり合いを持ってきました。さっきもちょっと触れましたけれども、ノモンハン事件というのがありました。私たちがノモンハンに使った病原菌の大量生産に動員されたのは恐らく7月頃だったと思います。前期の少年隊というのが20名ぐらいチフスにかかって、もう動ける状態じゃないというのが出ておりまして、その中で私たちがその中に組み入れられたものだと思っております。私たちはまだ、実際に細菌の植え付けとか掻き取りとかこういう仕事にはつきませんでしたけれども、私が命じられてやったのは、研究室に行って、この病原菌を大量に作るために使う「スタム」と言っておりましたけれども、菌株です。私が命じられてやったのは、研究室に行って、この病原菌を大量に作るために使うスタム、これは試験管に入ってまして、3%の普通寒天、これ細菌培養のため通常使われる物、細菌をちょっと知っている方ならわかると思いますが、3%の普通寒天培地を斜面にしまして、そこに細菌を塗り付けて、それにブイヨンを入れまして、液体ですね、滅菌したその操作は一般の細菌学と同じでありますが、それがスタムであります。元になる菌。それを私は研究室に取りに行くのが仕事でした。でき上がった頃に取りに行くんです。

赤痢菌の運搬

 それで、当時私たちが入った当時の石井部隊、七三一部隊なんですが、まだ部課制です。それほど人数も多くありませんでした。それで、各研究室の主任研究員の名前を取って何々班といっておりました。まあ、赤痢をやってるのは藤井班だとか、瀬戸口班はコレラ菌だとか、山口班は細菌弾だとか。このように研究員の名前を取って作っていきました。私は藤井班に行って持って来いと言われて、「ああ、これは恐らく赤痢だな」と、その当時はわからなくて後からわかってきた事ですけれども。ノモンハンのときにこのように大々的に作りはじめました。

石井式培養缶を使って

 それがどのように作ったかというのは、またもし時間がありましたらハルビンで証言したいと思いますけれども、石井式培養缶というのが使われていました。これは今ハルビンに行かれて罪証陳列館に行かれると現物があります。それを使うと非常に大量生産ができるわけです。一つの缶で10g以上の細菌ができます。普通培養時間が20時間ですから、操作時間をいれても20数時間で大量の細菌、まあ普通の細菌はできました。通性好気性菌、破傷風菌とか結核菌などです。もちろんリケッチャ(発疹チフスの病原体)ウィルスを除いてですが、普通のコレラ菌とかペスト菌とかチフス菌、パラチフス菌、普通の病原菌と言われている細菌はこれで大量に作ることができました。そのようなことから当時作った細菌というのは、チフス菌、パラチフス、赤痢菌、これだったと思います。このチフス菌については、水に弱いという点を確かめるため、1939年の4月にこの実験を松花江でやったと聞いています。これは水の中でどのくらい時間が経つとそのチフス菌が死ぬかと、そういう実験を松花江でやったと聞いています。それでチフスは確かに水の中にいれると感染力がなくなるわけですけれど、ほかの細菌はそんなにかわらないということだろうと思います。

ノモンハンでの細菌缶

 それで、ノモンハンのときにたまたまだったと思いますけれども、その作った細菌の処理の下働き、これを命ぜられてやりました。どのようにやったかと申しますと、掻き採った細菌は、500g入りのペプトンの空きビンに入っていました。ペプトンというのは、細菌を培養するときに一番多く使います。そのことからペプトンの空きビンは多く出るのですが、500g入りの広口ビンです。これを滅菌したものにその菌が入っている。これを、無菌室内でブイヨンで薄める訳です。ブイヨンとペプトンと肉エキスと食塩が入って、ペーハーを調整して、それで、薄める。濃度がどのくらいだったか、ちょっと記憶はないんですが、適当だったんじゃないかなあという気もします。それを石油缶に入れまして、最後に酸化防止じゃないかと思いますけれども、グリセリンを入れました。石油缶に入れたものを、箱に入れまして、2缶を1つにしまして、木の箱にドライアイスを入れまして、普通の菰で結わえ、荒縄で結わえ、このような物を作った訳です。これを、私たちは、少年隊員も含めた部隊でノモンハンの時に将軍廟まで持っていきました。どんな方法で持っていったかと言いますとハイラルまでは汽車で行きました。きっと、汽車が一番安全だったかもわからないんです。まさか細菌を汽車で運ぶと、菰をかぶせたものです、それも16歳か17歳のものが2人か3人ついて、それで運んでるとは誰しも思わないから、その裏をかいたのではないだろうかと思いますけれども、ハイラルまで汽車で行きました。当時、もうハルビンは暑くなっていましたが、デッキに置いて、風通しはいいんです。で、夜になると夜行になりますから、そう暑くはないんですが、それで運びました。私は1回それを運びました。多くの者が7月以降運んでいる訳ですが。
 その細菌が、どのように使われていたかということについてですが、これはノモンハンのときです。七三一部隊は細菌の大量生産をやる人間を除くと、皆ノモンハンに行ってきました。さっきも申しあげました防疫給水部、石井式濾水器を使って水を濾して兵隊に飲ませるという、これは看板ですが、あそこはホロンバイル草原で水のないところですから、また炎天下ですから。その水を濾して兵隊に飲ませるのに、大部分が行って、それと同時に碇挺身隊というのが行っていました。これは碇常重という者なんですが、彼がずっと二部、細菌戦の実験と実施部隊の責任者になっていた者で、ノモンハンのときも彼が隊長で何人かを連れて行きました。そう人数は多くなかったようですが、それについていった者の話を聞いた訳ですが、この缶を破って、ハルバ河の上流のホルステイン河に投げこんだんだと、これだけだよと、こういう話でした。しかし、「投げこんだだけだよ」で済む話じゃないはずなんです。確かに缶を投げておけば、水に流れて、水が細菌に汚染されることは間違いのないことですけれども。

ノモンハンでの細菌戦と勲章

 このノモンハンについてはその先があります。ノモンハンが決着して9月の末か10月の初めだったと思いますけれども、ノモンハンから引き揚げてくる日本の兵隊の中に、伝染病患者が多数発生しました。パラチフスでした。今度は私たちも動員されてやったのは、便の検査です。便の検査で夜も寝ないでです。そこに行って、私なんかはろくな仕事もやらされないで、セロハンに包んだ便を広げる仕事が私たちに与えられたものでした。ちょっと細菌学を知っている者が、培地に塗って細菌を見つけだす訳ですけれども、その仕事に日本の兵隊がだいぶ掛かりました。
 ノモンハンについてはまだ先があります。その次の年になってから、いわゆる論功行賞、勲章の授与がありました。このとき、碇挺身隊に加わった者、下士官将校、これらについては金鵄勲章が授与されています。金鵄勲章っていうのは、当時の最高の勲章で、一番人殺しを多くやった者に与えられる勲章ですが、それが、この細菌をばらまきに行った者たちに与えられた訳で、石井四郎はそれと同時に陸軍最高技術有功賞というのを手に入れました。まあ、なぜ知ってるかって言いますと、披露宴がありました。大宴会をやったようですが、私らまだ飲めない時期でしたけれども、いまだに記憶があります。これがノモンハンの時期です。当時でもおかしいなと思いました。日本の兵隊があれだけ感染してなぜ金鵄勲章だろうかと。これは今にしてみれば、確かにノモンハンのときは、細菌戦、実験戦としては成功したと、日本に兵隊が感染したにしてもです。細菌戦実験の結果は成功だと、こういう事であったと思います。それ以降、細菌の大量生産という方向が大々的に行われるようになってきた。私、自分の経験から、このように思います。

ノミの増殖

 いろいろありましたが、年を追って申しあげますと。1940年春、私たちは今度はノミの増殖を命ぜられました。田中・篠田班と言っていました。篠田ってのは予研の昆虫部長を逃げ出してやってきた男です。ロ号棟の3階です。暗室がありました。そこに木の台二段ぐらいです。せいぜい胸の高さまでですけれど、これも石油缶がありました。身動きができないほどの小さなかごですが。それにネズミを入れまして、その暗室の中へ置くんです。私たちが命ぜられてやったのは、死んだネズミをみつけて生きたのと取り替えることです。非常に暑かったです。自分の体に感ずる温度は40度ぐらいあったんじゃないかと思います。3、40分も入っていたらすぐ飛びださないといけないような状態で、相当な湿度もあったんだと思いますけれども。まあ、恐らく高温の中で、一般の適温というのはあるかもわからないけれども、高温でノミを増殖するというのは一定の理由があったんだと思います。これはペスト菌とのかかわりあいの問題だろうと思うんですが、その解明については、これから専門家の方々に解明していただく問題ではないかと思いますけれど。私たちはそれを命ぜられて、3、40分入ると出てきて、汗びっしょりになって、七三一当時の石井部隊のドリンク剤、重曹と酒石酸を入れて、砂糖を入れて水で溶かしたものをガブガブ飲んではまた入る、これが私たちがやった仕事でした。

ノミとネズミとペスト

 少しそよ風が吹くころかそれ以前だったか、恐らく3か月か4か月しか経たない時期だったと思いますけれど、今度はそのノミを集める仕事、これをやりました。どのようにやったかと申しますと、私はそのものずばりのものであったと思うんですが、浴槽です。前はよくあったんですが、寝て入る浅いものです。浅いといっても50cmぐらいありますか。それで、片側に浴槽ですから穴があります。それで片側から赤い電球がつくようになっている。ノミっていうのは赤い電球から逃げ出す習性を持っているそうですけれど、そのようなことから、ネズミを、生きていれば他の缶に移して、そのモミをひっくり返し、棒でかきまわします。そうしますとノミとモミは分離されて、こちら側の穴のある方には液量器を置いてあります。それでもなお動かないのは、ドライヤーです。それで追いたてる。そうやって液量器の中に落としていきました。ノミは相当増えていました。ノミを何ccという単位で量った、このように記憶しております。このノミは何に使われたかということについては、私は実際にはおこなっていない訳ですけれども、やはり自分たちのつくったものについては聞きたいので聞きましたが、なかなか教えませんでした。しかし、それがわかってきたのはペストの事柄にかかわってからです。ペストの教育のなかで、漏らしていくというか、教えることはしないんですが、そういうなかでわかりました。ノミはその多くが、ネズミにいちばん寄生します。それとノミは死んだ動物からは、すぐ離れる習性を持っています。ペストにいちばん感受性の高い動物はネズミと人間なんだと。そのようなことから、ネズミにペストを感染させるということは比較的簡単です。菌数計算をやって、注射すればペストに感染させられます。そしてノミがたかって、そのまま飛行機から落せばネズミは死にます。ネズミが死ねば他の動物に、人につくと。こういうことが、その中でいろいろと出てきます。それ以外にいろいろな方法を使ったと思います。綿につけたり、モミごと飛行機から落っことしたりです。私たちが作った細菌が何に使われたか、これは後で分かったんですが、いわゆる寧波作戦です。寧波で多く使われた細菌、私たちが作った細菌が、使われていた。寧波の人たち、その近辺の人たちの証言と私が当時やっていたことは、完全に符合します。それ以降、ノミの増殖を専門的に始めました。私は、ノミの増殖については、それ1回だけでしたけれども、これを専門的に行なう部署ができてきました。

関東軍特別演習(関特演)の頃

 それから、1941年になりまして、関東軍特別演習というのがありまして、おそらく7月の末だったと思いますが、中国の東北地域に兵力を集中させました。兵隊をたくさん招集しました。私たちが当時聞いていたのは、南を撃つのか北を撃つのかと、こういう話でした。このような時期があったわけですが、それで七三一部隊も、このいわゆる関特演の中に組み込まれたわけです。当時、私は盲腸で入院していたんです。そのためにこの関特演から除外されました。多くの私と一緒に同期で入ったものは、この時点で、先程も申し上げましたように他の防疫給水部に行っていました。一部の人間は、後で聞いた話によりますと、大連の衛生研究所に行きました。大連の衛生研究所から台湾に行った、台湾からシンガポールに行った、それで、シンガポールの防疫給水部に配属されてる訳です。このように七三一部隊で細菌戦の訓練を受けた人間がこのような場所に散って行ってる訳です。その後にまた七三一部隊には隊員が入ってきました。軍医がまた入れ替わっていく。こういうようなことがありました。

病原菌の大量生産−柄沢班の任務

 それで、私がいた少年隊というのがその時点で解散になりました。私は第四部第一課柄沢班というところに配属になりました。第四部第一課柄沢班というところは、病原菌の大量生産、これを任務とするところでした。この場所はロ号棟の1階、これが主とした仕事場でした。ロ号棟の1階、特別班に入る入り口の、ずっと広いその辺ですが、そこで、作戦命令があると、病原菌の大量生産を始めました。私がそこに配属になったとき、化学兵器取扱者を命ず、という命令を受けました。それで化兵手当なるものをくれました。25円であったと思いますけれども、給料が43円ぐらいのときでした。その手当が25円。将校になると60円でしたけれども。このように化兵手当、化学兵器取扱者を命ずと、当時その命令を受けたときに、毒ガスでもやらされるのかなと思ったのです。毒ガスは兵器として使われるけれども、細菌を完全に兵器としてみるのかどうか、まだはっきりとはしませんでした。しかし、当時、細菌を兵器としての観点を持ち、扱ったことは事実です。このような点からも言えると思います。まさか細菌兵器取扱者という言葉ではなかったけれども、そうであろうと思います。それでさっきちょっと触れましたけれども、作戦命令によって行うということによってです。そのロ号棟の1階というのはすごい規模のものでした。培養基をとかす溶解釜なんですが、半自動になってましたけれど、1つの釜で1トンの培養基が作れるようになっていました。また、高圧滅菌機は明日でも石井式培養缶を見ていただくとわかるんですが、それが1つの滅菌機に30缶入るようになっておりました。30缶が1階に1つありまして、それが三棟という手前の所に10機ありました。30缶で10機、1回に300缶の石井式培養缶。それで、その裏の五棟という所と、ロ号棟の裏側なんですが、そこを私たちは三棟ともう1つは五棟と言っていましたけれども、まあロの形をしているからロ号棟と、当時ロ号棟と言ったかどうかっていうのは、私はちょっとわかりませんけれども、私たちは三棟、五棟と言っていたんですが、そこの五棟にも同じような装置がありました。また、それには孵卵器が必要ですが、そのロ号棟の右側が、全部孵卵室でした。これは自動調整できる孵卵室です。細菌が大量生産できるかどうかっていうのは、高圧滅菌機の使用能力と孵卵室の使用能力、これによって1回にどれくらいの細菌ができる かどうか決定できると思うんですが。孵卵室はそのような装置を持っていました。通常、私たちが聞いたのは、石井式培養缶、実際に全部動かせば、相当の人数は必要だけれども、1,000缶は操作できる。そうしますと、1,000缶を動かすとすると、その1,000倍になります。通常は300缶、多くて500缶位を1つの作戦で製造したことは間違いない事実でありますけれども、私たちが配属になったときは、そのようにしてつくりました。また、同時にパラチフスとかチフス菌とかそういう細菌を培養することは非常に少なくなってきました。それよりももっと猛毒の細菌、コレラ菌、チフス菌、脾脱疽菌などの細菌を作り始めました。脾脱疽菌は人畜共通伝染病といわれる動物も殺せば人も殺すというものです。

細菌戦実験−安達の試験場

 それで、いわゆる太平洋戦争になって、日本が制空権をだんだん失っていきますけれども、その時点で輸送の点、また細菌戦としての効力の問題から、細菌弾を実戦段階で使おうとします。実験については安達(アンダー)の実験場、これが大量殺戮の実験場として使われた訳です。ハルビンから150kmか200kmぐらいの所だと思いますけれども、ここで細菌弾の実験をやりました。30余名、40名ぐらいの方々の命を奪いました。細菌の毒力試験、これでも多くの方を殺害していますが、この細菌弾の実験については、この安達の実験場では非情な殺戮行為が行なわれていることは間違いのない事実です。

細菌戦実験−農安

 それと同時に、もう1つは先程ちょっと触れましたけれども、スタム、菌株という問題を指摘しましたけれども、農安(ノンアン)というところがあります。長春(チャンチュン)から近いところですが、農安というところはペストがよく出るところだと言われていました。最近明らかになったことは、七三一部隊の自作自演だろうと、こういう点が明らかになった場所ですけれども、この農安にも私は何回か行っております。いちばん最初に行ったのは、40年の7月から行っています。ここで私たちが命ぜられてやったのは、まず死んだネズミを集めることでした。それを実験室、テント場のところへ持っていきまして、腹を割いて内臓を切って、これをいわゆる平板培地に塗って、このなかからペスト菌を純培養して部隊に持っていきました。それと生きたネズミ、これも捕まえました。これには建設班なるものが行っていまして、囲いをして、患者が出た家とか、そういうものに火をつけて燃やしてしまう、こういうことです。それでネズミを捕まえるのが目的です。このようなことをやりました。やはりこれもペスト菌、新鮮なペスト菌を取り出そうとしたのです。いわゆる毒力の問題は継代培養といって、培養基から培養基に移していくとだんだん毒力がなくなってしまいます。当時聞いていたのは、結核のB.C.G.については継代培養をやっていて毒性をなくしたのがB.C.G.なんだと。こういう理屈もあろうかと思うんですが、確実に毒性を高めるためには人体を通すことが必要であると。これにも人体実験がかかわっています。
 確かに農安では私自身はこういうことを命ぜられてやりましたけれども、そのほかに高橋班というペスト班の班長自身、これは彼が軍医団雑誌に出しているものですけれども、人体実験をやったとは書いてはいませんが、彼はペストの皮内反応ということについて、農安で行ったことを書いています。これは軍医団雑誌で明らかになっています。このようなことで住民を代償にした人体実験も行っています。
(つづく)
(小見出しは編集者)



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