篠塚良雄氏写真

元七三一部隊員・篠塚良雄氏〈1〉

※『第1回中国戦跡を訪ねる平和の旅記録集』(1998年発行)より、1997年8月22日夜、北京・天橋賓館にて

略歴


保里:それでは皆さん、大変お疲れのところ、もう暫くこの団体の日程に付き合っていただきたいんですが、これから2時間弱ぐらいの時間を用意しておりますけれども、最初1時間ぐらい、お招きをしました篠塚良雄さんに、ご自分の体験をお話いただいて、後で意見交換なりをできたらいいかなと思ってます。
 ご承知のように篠塚さんは、私たちの団体で今度のツアーを企画したときに、戦争を体験された方と一緒に日本の加害の地を訪れて、追体験したいというたっての希望で、中国帰還者連絡会というところに講師として派遣してくださる方をお願いしてあったのですけれど、今回篠塚さんが快く引き受けてくれたという次第です。
 篠塚さんのお生まれは、1923年ですか。

篠塚:そうです。

保里:大正で言うと12年でしょうか。うちの父親よりは3つぐらい若い方だというふうに思いましたけれども。千葉県のご出身ということです。2つ大きな体験をされていまして、1つは、今名前が出ました中国帰還者連絡会という会を作りました。一旦中国で戦犯として撫順あるいは太原の戦犯管理所の方に約1,000名が収容されてた訳ですけれど、そこの中で認罪という非常に重い体験をされたうえで、ご自分の侵略戦争への反省にたって、帰国後、中帰連という団体を作って、平和の訴えと日中友好にご尽力されている方です。もう1つは、ご存知のように、明日行きますハルビン郊外にあります七三一部隊、ここに、少年隊員として細菌等の取り扱いに従事をしたという体験をもっていらっしゃいます。この両方の体験をされて、加害の責任の上で、お話をしてくださるというのは非常に貴重な存在であろうかと思います。本当に、数名しかそういった方はいらっしゃらないと聞いておりますが、現在お亡くなりになられた方もいらっしゃいますので、殆ど篠塚さんだけではないかと考えております。私と篠塚さんが同室だったものですから、ちょっとお聞きした のですけれど、中国に度々いらっしゃっているということなんで、それではハルビンの方も何度か行かれましたかということをお聞きしたんですけれど、実はそんなに行っていらっしゃらなくて、2度かそのぐらいだということでした。やはり、自分の加害の体験の地であるハルビンを訪れるのは、大きな心の負担と言いますか痛手が、重いものがあるということでした。中国帰還者連絡会の方々は、いろいろな場に出かけてご自分の体験をお話くださっていますけれども、やはりその自分の加害の過去をお話になるのは非常に苦しい中でのお話かと思うのです。その辺のこともどうぞ踏まえまして、これからのお話をお聞きいただければと思います。それではどうぞ、恐縮ですけれどお願いします。

篠塚:はい。今ご紹介にあずかりました篠塚でございます。この度は、皆さん方のご尽力によりまして、訪中ができましたし、また、証言の機会も与えていただいて、誠にありがとうございます。この場を借りて、御礼申し上げます。それで、私自身の犯罪行為については今、団長さんからもお話がありましたが、侵略軍の一員として、もろもろの犯罪行為にかかわわっております。また、その中では特に、七三一部隊の隊員であったということです。何重もの犯罪をおかしておる、このように自分でも自覚しています。
 それで、皆さん方も最近よく耳にすることは、「O-157」という病原性大腸菌の問題です。これについて、誰しも戦々恐々としております。このように、細菌、これは病原性大腸菌といっても、当時の七三一細菌戦部隊からみれば毒性の低いものです。七三一部隊では、この毒性の高いものを追求すると同時に、それを作って、それをばらまいてきた。今、中国の人たちは、「日本軍が三光作戦をおこなった」とこのように言っています。日本の一部の歴史学者は「三光作戦なんかなかった」とこのように言っています。この三光作戦の「殺し尽くせ」という作戦、この任務を負っていたのが、七三一部隊であったと思います。また同時にそれに関連した防疫給水部、これです。まあ、私自身下級隊員ですので、その全貌については到底わかりません。しかし私がたどった道、入ってからずっと自 分のおこなってきたこと、また、見たこと聞いたことを含めて、今から話をさせていただきたいと思います。

石井部隊への入隊試験

 私が入りましたのは1939年3月です。まあ、入ったんではないんです。当時私は実業学校に在学しておりました。16歳でした。私たちの学校にも、どうも七三一部隊隊員の募集がきたようであります。とくに千葉県の農村地域の中学校、実業学校、農学校、これらに、集めにきた。私の学校にもあったようです。卒業生については、そのような勧誘があって、2人が行くことになったようです。それで私のところに、いろいろと世話になっている関係、また、同じ方から通学しているということで、特に私自身が面倒をみてもらった、先輩から声がかかったんです。当時、石井部隊といっておりましたけれど、部隊長は石井四郎といって千葉県の人間だった。面倒を見てくれるというから行かないかと、まあ2人より3人行った方がいいだろうと、私はまだ卒業してないし、行けるのかという話をしたんです。試験さえ受ければ入れるらしいよと、こういうことです。3月の時点で。それで、試験だと言われて連れて行かれた所は、千葉県の県庁でした。それでほとんど全員が合格したんだと思いますけれども、集まって来たのは30人ぐらい、おそらく30人全部合格したんだと思います。

石井四郎との対面

 それで4月の1日に、軍医学校防疫研究室に集まれ、と、こういう指示を受けました。当時、私は親にも話はしてませんでした。それは、試験を受ければ恐らく落ちるだろうと、絶対に受かるはずがないと、こういう感じが強くありました。それで、集まれと言われたら親に話さない訳にはいかない訳ですが、親に話しても親は納得しませんでしたけれども、やはり当時は軍の力の方が強い訳です、親の力より。そのような点で、4月1日、防疫研究室に集合ということで行きました。みな当時は、着るものだってそんなにないんです。学生服に、学校の校章を取っただけの服装です。それで防疫研究室に行きました。それで私たちが入ったときの防疫研究室に行く道中と申しますのは、当時は牛込区戸山町、今は新宿区やはり戸山町だと思いますが、これは予防衛生研究所なんかができてる場所ですが、当時は済生会病院、陸軍病院、軍医学校、これらが通用門が一緒でした。私たち、下っ端の入りたては、通用門をぞろぞろ入っていきます。最後に着くところが防疫研究室でした。軍医学校にも司令所があったのですが、そこを通って最後のところには入れてくれなかったんです。最初の日は何だろうと思ったんです。上は戸山学校の軍楽隊です。下は断崖のようになって、練兵所になっている場所です。一番のぶつかったようになった場所。で、入れて貰えないでいる間に、中から人が来て入れてもらえました。
 ビデオなどで見られた方はご存知だと思いますけれど、そのような建物です。比較的、防疫研究室という名前からは、想像もできないようなでかい建物でした。3棟ぐらい大きな建物がある、こういう場所でした。そこで、私たちは仕事がすぐ与えられた訳ではありません。少し中国語を習ったり、細菌学の基礎というか培養器の作り方ぐらいは習って、そこで初めて部隊長石井四郎と対面しました。彼がハルビンから来たようでありまして、当時大佐でした。一見、一風変わっているというのがすぐわかりました。彼も少将、中将になるとだいぶ自分の服装に用心するようになりました。貫禄をつけようとし始めた訳ですけれども、大佐の時期は、一般の当時のいわゆる軍人というイメージからは外れている感じでした。すべてが、一見、野放図といいますか変わっているという印象を受ける人間でした。私たちに対して一番最初に言った言葉は、この中に顔色の悪いのがいると、まず、寄生虫の検査をしろと、もう1回徹底的な身体検査のやり直しだと、ついてきた副官にそのような話をしました。私たちは当時、やっぱり軍医だなぁという感じを受けた訳ですが。それと同時に私たちに対しては、ハルビンはいい所だと、行く時期については後から指示するから、お前たちは石井部隊の少年隊だと、少年隊員だと、勉強すれば大学に入れるし、それ以外は下士官だぞと、まずこのようなことを言い渡されました。これが、石井との初対面でした。
 そのような中から当時私自身の受けた感じは、結局、細菌戦を組織し実行し殺戮の限りを尽くす部隊の部隊長だという感じは到底受けませんでした。これが、軍医学校防疫研究室です。

ハルビンへ

 それで、私がハルビンに着いたのが5月12日でした。5月の9日にノモンハン事件が始まったその直後です。それで私たちが着いて、一番最初に目に入ったのは「関東軍司令官の許可無き者は何人といえども立ち入りを禁ず」という小さな立て看板が一つ立っているだけです。明日、現地に行ってみられるとわかると思います。濠はもうなくなっていますけれど、まわりは濠が掘られていまして、鉄条網が張りめぐらされていました。それで、あとで衛兵所になったのですが司令所がありまして、そのとき中に入ると、隊員のタイムカードこれが全部差し込んである。それで入っていくと、カードをガチャンと押して、入る時間を押すような装置になってたようです。何で部隊長が軍医なのにこんなに厳重にしているのかなぁと、まず、それも受けました。また、普通のところですと、部隊の名前を表示してあるはずなんですが、それがぜんぜんないんです。それででかい建物、今、証拠隠滅しちゃってなくなりましたけれども。一棟から上にでかい「ロ」号棟があった訳ですが、その辺の建物はできておりました。

七三一部隊での教育

 私たちは少年隊ということで教育を受けると、こういうことになりました。当時、隊員宿舎はできておりませんでした。今、平房に行かれると、建物の外に宿舎になっていた場所、現在でもありますけれども、それはできてないので、私たちは、今学校になってます、一番手前の建物その左側に内務班を作って生活するようになった訳です。
 それでまず、一番最初に教育を受けたのは、着いて次の日だったと思います。配属将校からの教育がまずありました。それは、軍機保護法というものでした。軍の機密を保護する法律とこういうことになりますか。それで、くべこべと、この地域は特別軍事地域に指定されている場所なんだと、この上空は日本の軍隊の飛行機も飛ぶことのできない場所なんだぞと、こういう話がまずありました。それと、見るな聞くな言うな、これがこの部隊の鉄則なんだぞと、確かに上空を飛行機が通れば、ロ号棟の中に実験する人たちを収容しているのが全部見える訳ですけれども、後でわかりましたけれども、当時は何があるのだろうと思ってました。
 次が陸軍刑法。やはり配属憲兵から習う陸軍刑法でした。これは、ここの部隊から逃げ出すと敵前逃亡と同じように処刑されるぞと、処刑するぞと、こういうことでした。かいつまんで申し上げますと、敵前逃亡というのは、当時の日本の侵略軍にとっては一番重い罪だったと思います。戦闘中に逃げ出せばその場で処刑すると、されると、これが鉄則であった様ですけれども、その様にするんだぞと。当時その話を聞きまして、ますます判らなくなりました。どんな秘密があるんだろうと。こういう疑問でした。当時いわゆる「マルタ」とか、人体実験にする人たちを収容しているとは最初は判りませんでした。そのようにして第一の教育が行われました。
 しかし、私たちに潜在的にあったのは、何か秘密があれば、やり甲斐のある仕事が待っているのではなかろうかと、こういう幻想をもったことは否定できません。あとあと色々な残虐行為に対する教育を受けるというふうにその元には、やはりそのような秘密に対する期待感、こういうものです、やはりどんな命令があってもおこなっていくと、命令さえあればやっていくんだと、このようなことが元になっていたような気がいたします。これが第一の教育でありました。

「防疫給水部」の全容

 それと同時に、私たちは、いわゆる細菌学の教育、毒物の教育、またドイツ語だとかそんなものもありましたけれども、そういうものもあるのと同時に、防疫給水の教育を受けました。七三一部隊、当時の石井部隊も関東軍防疫給水部という固有部隊名でありました。こういうことからと思いますが、防疫給水の教育、この部隊の任務だと言われたのは、今でも覚えております、「防疫給水部は第一線部隊に跟随し、主として浄水を補給し直接戦力の保持増進を図り、併せて防疫防毒を実施するを任務とする」これが部隊の任務だぞとこのように言われました。部隊の任務はこれなんだぞ、これなんだぞと。それとその編成というか組織の、防疫給水部の組織でありますが、それは毒物検知、水質検査、これは石井・勝矢式毒物検知器という優秀な毒物の検知器があるんだぞと。これは実習もやりましたけれども私にはわかりませんでした。恐らく大したものじゃなかったんじゃないだろうかとこういう気もしますけれども、まあ、青酸なんかはそれでもわかるはずですので。それと防疫斥候、疫学調査。それと浄水と給水ですが、浄水についてはです、石井式衛生瀘水器、これがあると。これが車載用と駄載用(注:馬による運搬用)と携帯用とあって軍の通称からいえば甲乙丙丁なんだと、このようなものがあると。この生命は濾過管だと、これは珪藻土とでん粉を混ぜて焼いたものなんだと、ミクロコックスといわれる細菌の中でも一番小さい細菌も通さないんだと自慢げな話もしていました。しかし、この濾過器は後で分かってきたんですが、この濾過管、水をこす濾過管自身が、やはり細菌弾、生物爆弾にとっては必要なものだった訳です。一定の通気性が必要であった訳なんですが、この濾過管は、当初東京で作って、東京というか日本の国内でつくっておりました。それを後では細菌弾との関わりの中からハルビンの浜江駅の近く、第三部に属する場所でつくりました。そこでその濾過管を焼き始めた訳です。これも今行くとまだその辺に積まれてあるかもわかりません。この防疫給水でありますが、ここの地域(北京市天壇公園)の近くにありました。今でもその建物はあろうかと思います。これは華北防疫給水部です。それと、華中防疫給水部、これは南京にありました。もう一つは広東です。またいわゆる太平洋戦争、シンガポールにもできました。これが、主要な防疫給水部ですが、私はこの防疫給水部の細菌戦の実戦についてはわかりません。しかし、細菌戦の実施部隊としての役割、これらが負っていたことは否定できない事実です。私の知っている範囲でもです。七三一部隊は飛行場を持っています。常に南京との往復、これ一番頻繁に行っておりました。東京と南京です。このような点から、防疫給水部、表面は水を濾して、兵士に飲ませるんだと、これが部隊の任務だと言いながら実際は細菌戦の実施部隊であった可能性は充分持っております。とにかく七三一部隊がその研究部門を通じて実際面についておこなって来たことはやはり間違いありませんし、先ほど申し上げました防疫給水部の隊長というのは、皆、石井の配下でした。一度は石井部隊又は軍医学校防疫研究室に関わっていた者、これが全部隊長となっている。またその要員も、防疫給水部、東京の陸軍軍医学校防疫研究室から派遣されていると、こういう面が多くありました。これも否定できない事実ですが、今まだはっきりとその犯罪行為については、明確にはなっていないというのが実状であろうかと思います。この辺は、後々は、当然明らかにしなければならないし、明らかにされるものであろうと、このように確信をもっておりますけれども。

(つづく)
(小見出しは編集者)



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