用語辞典

※「第1回中国戦跡を訪ねる平和の旅報告集」の「歴史用語解説」をベースにしました。順次追加していきます。
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※「学徒出陣」を追加しました。(2001.01.21)



学徒出陣(がくとしゅつじん)
 1943(昭和18)年9月、学生・生徒の卒業までの徴兵猶予の停止が閣議決定され、20歳に達した者はすぐさま徴兵検査を受け、同年12月に入隊した。理工系・医系・教員養成学校関係は除外。同年10月21日の出陣学徒壮行会(明治神宮外苑)は有名。同年12月には徴兵年齢が1歳引き下げられ、さらに多くの学徒が出陣していった。入隊段階での教育水準が高く、即戦力(下級幹部)として第一線に送られたため、戦死者も多い。出陣者の総数は不明であるが、約20万人と見積もられている。

満蒙特殊権益(まんもうとくしゅけんえき)
 日露戦争の戦勝と対華二十一ヵ条の要求により条約上認められた「満洲」及び内モンゴルにおける鉄道・鉱山・商租権などの日本の権益をこう呼び、その維持拡大を強く要請するようになった。中国統一の進展にともないこの問題が日中の対立を深化させ、「満洲事変」の一要因となった。

関東軍(かんとうぐん)
 1919(大正8)年、関東都督府陸軍部隊をひきついで関東州の防備と南満洲鉄道の沿線保護に任ずるため創立された日本軍部隊。「満洲国」建国後はその軍事力の中核となった。

南満洲鉄道会社(みなみまんしゅうてつどうがいしゃ)
 日露戦後から第二次大戦期まで日本の「満洲」侵略を担った国策会社。通称満鉄。日露戦争に勝利した日本は長春以南の東清鉄道・撫順炭鉱などロシアの「満洲」における利権の一部を獲得、1906(明治39)年に満鉄を設立。政府は資本金の半額を出資して「満洲」経営を推進した。事業は鉄道・鉱山などの産業開発、付属地経営、調査研究など広範に及び、1920年代後半からは直営事業を分離してコンツェルンを形成した。「満洲国」が建国されて関東軍主導の産業開発が本格化すると満鉄は鉄道経営に一元化された。大戦後閉鎖。

総力戦(そうりょくせん)
 第一次世界大戦によりうまれた新しい戦争の形態または概念。戦闘員による戦闘のみが勝敗を決める要因ではないとされ、国家全体の政治・経済・技術・軍事諸力を効果的に戦争指導に結びつけることが重視された。日本では、後に昭和期の軍部の中核を担う少壮軍人などによって大正期から戦時動員形態の研究が行われ、1938(昭和13)年の国家総動員法制定へと至った。なお、第一次大戦参戦の1914(大正3)年から第二次大戦敗戦の1945(昭和20)年まで、日本が海外派兵しなかったのは1926(大正15・昭和1)年と1930(昭和5)年の2年があるのみである。

山東出兵(さんとうしゅっぺい)
 1927(昭和2)年から1929(昭和4)年にわたり、中国国民革命の北方への波及を阻止し、日本が支持する奉天派軍閥の首領張作霖擁護のために田中義一政友会内閣が三度にわたって行った山東省への出兵。その反対運動として日本では対「支」非干渉運動が労働農民党などによって担われた。

張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつじけん)
 1928(昭和3)年、関東軍が張作霖を通じた「満洲」間接支配を放棄し、武力制圧を計画して起こした列車爆破事件。中国では皇姑屯(こうことん)事件と呼ぶ。田中義一内閣は、張を利用して「満洲」を中国から分離しようと北京まで進出していた張に引揚げを要求していたが、他方、関東軍高級参謀河本大作は軍事占領をもくろみ、張を排除すべく6月4日「奉天」(現瀋陽)郊外で彼の乗る列車を爆破した。結局は陸軍中央に抑えられて張を爆殺したにとどまったが、日本国内では民政党が「満洲某重大事件」として内閣を攻撃。田中首相は真相究明と関係者厳罰を昭和天皇に上奏した。しかし陸軍の圧力により上奏内容を変えたため田中は天皇の不興を買い、内閣は総辞職した。

「満洲事変」(まんしゅうじへん)
 日本による「満洲」、内モンゴルへの武力侵攻。1920年代から30年代初頭にかけて日本の対外政策の主流を占めたのは幣原外交に象徴される対英米協調路線すなわちワシントン体制への順応であった。世界三大軍事大国として存立しつつもその経済基盤を英米に依存していたからである。とはいえ幣原外交も従来の権益保持発展を図ろうとする点では後述のアジアモンロー主義路線と同じであり、それを外交的に処理しようとしていたにすぎない。
 将来の総力戦準備を唱えて「満蒙」の武力領有を計画する(アジアモンロー主義路線)関東軍の板垣征四郎、石原莞爾らは、1931年9月18日に「奉天」(現瀋陽)北方の柳条湖の満鉄線を爆破、これを張学良軍の仕業として北大営を攻撃した(柳条湖事件/九.一八事変)。以後約4か月半で関東軍は東三省の主要都市と鉄道沿線を軍事占領下においた。
 若槻礼次郎内閣は事変の不拡大方針をとったが、中国からの提訴を受けた国際連盟やアメリカは現地での軍事行動の積み重ねをみて日本政府の統制能力に不信を抱いた。柳条湖事件が発生すると、日本各地の神社には「武運長久」を祈願する参拝者が急増し、師団・聯隊区の司令部、役場、警察、新聞社などへ慰問金品を届ける者が続出した。さらに1931(昭和6)年10月に国際連盟理事会で日本撤兵の決議案が採択されると、日本民衆の中国蔑視・国連憎悪と事変支持機運は一挙に高まり、「満蒙権益擁護」「支那膺懲」などの決議をおこなう集会が各地で開催された。また、児童の慰問文には「支那の悪い兵隊」、「わからない支那人」などが決まり文句のように登場したという。
 1933(昭和8)年、満鉄付属地への早期撤退と中国の「満洲」に対する主権承認を内容とするリットン報告書が国連で採択されると日本は国連脱退を通告。さらに熱河作戦を展開して支配を拡大、同年の塘沽(タンクー)協定によって「満洲」の分離が確定した。

満洲国(まんしゅうこく)
 「満洲事変」の結果、1932(昭和7)年に「満洲」及び内モンゴルを領域として設立された日本の傀儡(かいらい)国家。五族協和の王道楽土を謳ったものの、実際の建国目的は日本の総力戦遂行のための資源供給地化、対ソ連戦略拠点化及び朝鮮統治の安定にあった。実権は日系官吏が握り、議会は置かれず協和会を唯一の政治組織とした。また、満洲移民の入植地として広大な農地を中国人から強制買収した。1945(昭和20)年8月17日解体宣言。建国直後から日本人の傍若無人な振舞はすさまじく、「……婦人にからかふ……停車場で入場切符も買はずに入る。何だ俺の顔を見ろ、日本人だぞと呶鳴る……食堂車を占領して大酒盛をやる」(『満州縦横記』1932年、発禁)などといった「戦勝者たり大和民族なるが為の優越感」にかられた行状を第一〇師団長はじめ陸軍将校自らが視察報告せざるをえないような有様だった。

抗日運動(こうにちうんどう)
 日本の侵略に対する中国の民衆運動。満洲事変以降、日貨ボイコット・反日デモが広がり、のちに中国共産党が主体となって「内戦停止・一致抗日」を中国国民党や民衆によびかけた。1937(昭和12)年に第二次国共合作、抗日民族統一戦線が成立した。他のアジア地域でも、朝鮮では金日成の朝鮮人民革命軍、仏領インドシナではホー・チ・ミンのベトナム独立同盟、フィリピンでは抗日人民軍などが成立して運動を展開した。

平頂山事件(へいちょうざんじけん)
 柳条湖事件一周年を控え、「満洲国」を日本の傀儡国家とする日満議定書が締結されるとあって、1932(昭和7)年9月15日前後は抗日ゲリラの一斉蜂起が予測されていた。その15日深夜、遼寧民衆自衛軍は満鉄が経営する撫順炭鉱を襲撃。これを平頂山住民の通謀によるとした関東軍独立守備隊の一部は、16日に住民を集めて機関銃や銃剣で虐殺、死体に石油をかけて焼き、さらにダイナマイトで崖を崩して埋めた。住民の殆どは炭坑労働者と貧農であった。犠牲者数は、400名説から2500名説まであり、今となっては正確な数がわかる由もないが、戦争中の日本軍による各地での住民無差別虐殺の先例といえる。1971(昭和46)年、平頂山殉難同胞遺骨館が竣工。また、数少ない生存者の一人莫徳勝氏が日本国政府に対し補償を請求中である。

盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)
 射撃の音と行方不明になった日本兵をめぐって、1937(昭和12)年7月7日北京郊外盧溝橋付近で夜間演習中の日本軍と中国軍の間に起こった武力衝突。中国の呼称は「七七事変」。11日には現地で停戦協定が成立したが、その日近衛文麿内閣は「支那側の計画的武力抗日」として「満洲」・朝鮮からの派兵を決定、28日に日本軍が総攻撃を開始して日中全面戦争に入った。事件50周年にあたり設立された中国人民抗日戦争紀念館は、1997年には60周年を期して大改修、展示が従来の三倍に拡充された。

南京事件(なんきんじけん)
 日本陸海軍が南京攻略戦と南京占領時において中国軍民にたいして行った戦時国際法と国際人道法に反した不法残虐行為の総体をいう。
 1937(昭和12)年12月、中支那方面軍は国民政府の首都南京を占領。戦闘の間に日本兵は中国人捕虜を殺害し、また一般民衆に対しても略奪・放火・強姦・殺害などの行為に及んだ。
 事件は直ちに世界に伝えられて問題となり、極東軍事裁判訴因の一つとされた。被害者の実数の正確な算定は不可能であるといわれ、事件虚構説から数万〜三〇万説まで諸説ある。
 算定不可能をもって「まぼろし」ということができないにもかかわらず、実数をめぐって心ないイデオロギー論争を挑む者が後を絶たない。学問的には本多勝一・藤原彰・笠原十九司らの近著によってほぼ決着がついたといってよいが、このような新たなウルトラ・ナショナリズムの台頭に対しては今後も予断を許さない。南京市内の殉難各地には慰霊碑が建立されており、また六〇周年にあたる1997年には慰霊行事が営まれた。

七三一部隊(ななさんいちぶたい)
 1936(昭和11)年、生物(細菌)兵器の研究・開発・実戦使用のため日本陸軍がハルビン近郊の平房(ピンファン)に設置した関東軍防疫給水部、通称七三一部隊。ほかに華北に一八五五部隊、華中に一六四四部隊があった。石井四郎軍医中将のもと、捕虜や抗日運動家を「マルタ」と呼んで推定三千名以上を人体実験の犠牲にした。日本国内の一地域においてもこのような人体実験への「協力」がそれとは知らずになされていた。埼玉県庄和町の高校地歴部生徒と指導教諭の近年の調査研究によって、同県春日部市及びその周辺地域でペストノミ繁殖に用いるネズミが大量に飼育されていたことが明らかにされたのである。
 1945(昭和20)年のソ連参戦に際して部隊は証拠 隠滅のため収容者の殺害と建物爆破を行い、また石井はアメリカへの研究情報の提供と引換えに戦犯免責を得た。さらに隊の軍属の多くが戦後医学界に君臨し、軍医の中からは薬事会社を興す者も現れた。なお、ハルビン市の七三一部隊罪証陳列館と周辺施設は観覧可能。また、現在被害者遺族の敬蘭芝(ちん・らんず)氏らが日本国政府に対し補償を請求中である。

十五年戦争(じゅうごねんせんそう)
 1931(昭和6)年の柳条湖事件から1945(昭和20)年の太平洋戦争の終結までを連続した戦争とみなす呼称。1956(昭和31)年に鶴見俊輔が唱えて以来、現在では一般的に使用されている。極東軍事裁判も満洲事変・日中戦争・太平洋戦争を一連のものととらえ、満洲事変以降の中国侵略を問題とした。

太平洋戦争(たいへいようせんそう)
 日本が日中戦争を遂行しながら武力南進政策をとったことに起因する、米・英・中・蘭・ソなど連合国との1941(昭和16)〜45(昭和20)年の戦争。当時の日本政府は「大東亜新秩序建設を目的」とするとして大東亜戦争と名づけたが、大東亜共栄圏という虚名とともに侵略戦争を美化するものであるとして占領後GHQによって使用を禁止され、太平洋戦争という呼び方が定着した。近年では、アジア大陸での戦争継続を重視したアジア太平洋戦争という呼称も提起されている。なお、大東亜戦争・太平洋戦争・帝国主義戦争・抗日戦争・十五年戦争といった様々な戦争の呼称と戦争史叙述の諸類型が出揃ったのは1960年代であることを中村政則が最近明らかにしている。また、中国歴史学界では八年戦争論などこれらとは異なった時代区分が唱えられている。

大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん)
 1940(昭和15)年の松岡洋右談話以降用いられるようになった日本のアジア侵略及び支配を正当化するためのスローガン。「満洲」・中国・東南アジアを包括的に示す概念とされ、日本の南進が欧米帝国主義の植民地政策とは異なることを強調すべく「八紘一宇(はっこういちう)」「共存共栄」の名のもとにアジア解放の夢が掲げられた。

中国人強制連行(ちゅうごくじんきょうせいれんこう)
 太平洋戦争中、日本国内の労働力不足補填のため中国人を強制的に連行した行為。1942(昭和17)年に試験的連行が始められ、1944(昭和19)年からの本格的連行を経て日本敗戦までに約三万九千人が連行されたとみられる。過酷な労働条件下多数の中国人の生命が奪われ、傷を負わされた。
 なかでも1945(昭和20)年の秋田県花岡鉱山における花岡事件では、抵抗した約百名の中国人が警官・在郷軍人・消防団員らに殺害された。

中国残留日本人孤児(ちゅうごくざんりゅうにほんじんこじ)
 「満洲」で肉親と離別し中国人に養育された第二次大戦終了当時一二歳までの日本人。厚生省は1975(昭和50)年に孤児の公開調査を行い、1981(昭和56)年からは日本に招いて身元調査を開始した。1996年までに延べ二〇二四名が来日。調査は現在も継続中だが身元判明率は減少しつつある。


【参考・引用文献】

『日本史総合辞典』(東京書籍)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『日本史大事典』(平凡社)
『日本史広辞典』(山川出版社)
『新版日本史辞典』(角川書店)
『地方史事典』(弘文堂)


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