友だち

吉田和彦

第一章 持ってて貰いたい一品

力と汗

 この文章は今から一五年前にさかのぼる。それは自分自身の個性とか、こだわりとか、そういう気持ちが自分の中で爆発した年なのだ。というわけで、できあがるまでちょっと時間がかかるかもしれない。いっぱい時間がかかるかもしれない。わかりやすくするつもりでがんばる。なつかしさだけにとどまらず、私の夢とか、そこから、どうやっていきたいのかというところまで書けたらいいなあと思っている。

 とりあえず一五年前に息苦しさを感じて爆発した。突然ではなかったが、その頃から私は感じやすい性格だったのかもしれない。それまで施設の中とか、家の中にいる時間が長くて、社会がどうなっているかとかについて考えることはなかった。それが、その年突然そういう気持ちがふくらんできて、私の頭の中を占領してしまった。

 私の問題意識は、車イスで階段を上りきったところから始まっている。

 そのとき一緒に階段を上った人は、私を含めて五人くらいだったのだが、車イスを持った人の心臓のドキンドキンという力強い鼓動が聞こえるようで、私は瞬間的に、

「どうもすいません」

と言ってしまったのだ。するとその中の一人が、突然わめき始めた。よく聞いてみると、

「どうもすいませんなんて言うんじゃねえ」

と、激しく言った。

 そこで僕は何でお礼を言ったらだめなんだろうという気持ちをもったまま、しばらく渋い顔をしていた。と同時に、どういう様に言えばいいんだろうって考えた。しばらく考えてもそのときはわからなかった。それが私自身への初めての問いかけだったのかもしれない。

 その頃は心臓に毛がはえていなかったので(肝っ玉がすわっていなかったとも言う)、小さな声でかわいらしく、

「わかりません」

と言ったところ、

「ありがとうと言えばいいんだ」

という返事が返ってきた。そのとき、私は同時に車イスを持った人の顔と手をちらっと見てしまうくせがあるのを発見した。

 私は小さい時から人の言う事を素直に聞くのがあまり好きじゃないところもあった。それが、「なんでどうもすいませんと言ったらいけないのか」という気持ちを引き起こした。それを私が言葉にする前に、もう一人が、

「何も悪い事はしていないんだから、『すいません』なんて言わなくてもいいんだ」

ということを言った。それで初めて私は納得したのだった。ちょっとだけ時間がながれて、車イスを持った手のひらを見た時、少し汗ばんで赤く光っていたのを、私は見のがさなかった。

 私たち障害者には多かれ少なかれ、そう、そうなんだ!、『かわいく・目立たなく・素直に』という三原則があって、頭の上に見えないアンテナがある。誰からも教えてもらっていないのだが、不思議な現象だ。とにかく私はそういう見えない教育がいやだった。

夕暮れの街

 それから一ヵ月くらい過ぎて、夕方の時間になる前に、私を含めて四人で電車にのり、ある駅についた。改札を抜けると、そこは橋の上であり、下には川が、流れていた。そこまでは、ごくふつうの景色ではあるが、そこからが違っていたのだ。

 少し目線をずらすと、なんと川より高い位置に、トンネルが見えた。その確認をする間もなく、地下鉄の電車が見えたのだ。

 私の目にはとても不思議な情景に映って見えた。

 あたりは薄いブルーと濃いブルーが重なりあう色に囲まれていた。街灯の光が徐々にいろいろな輪郭と立体感を照らしだして、目の中に入ってくる。そんな空間の中を進んで行くと、目的の喫茶店があった。

 友だち同士で喫茶店へ行くのはそれが初めてだった。お店の中に入ると、いらっしゃいませと言いながら出てきた人がいた。とても白い歯がいやに目立っていた。

 壁のあちらこちらからバレリーナのような、しなやかな光が店内の人々の目の中でキラキラと踊っているように見えたから、誰も彼も可愛かった。

 席についてまもなく、友だちの一人がブツブツ言いだした。よく聞いていると、いきなりテーブルをドン、とたたいて、私のえり首をつかみ、

「東京大学に通っている人たちは、いい人だと思うかね」

と、とつぜん言ったのだ。私が小さな声で、

「いい人だと思うんだよね」

と言ったとたん、その人はまたまたテーブルをたたいた。

「君、それは甘いよ」

と言ってきた。

 私はその頃から裁判官が見下ろすような言い方が嫌いになった。そういう言い方は自分でも慎もうと思う。そのとき、三人は私に、東京大学という大学が今までどんなにひどいことをやってきたのかということを伝えたかったらしい。三人は自分たちが通っている学校のことをしゃべる時に、どことなく恥ずかしそうな表情を見せたから可愛かった。だけど、今になって考えると、どうせ話してくれるんだったら、もっとわかりやすく言ってくれればいいのにと思う。

 その頃の私の中の東京大学のイメージは、小さい頃、母の運転で何度か赤門の前を通り過ぎた時に、

「ここがトウダイだよ」

と言われて、私はもっと前はここら辺まで海が来ていたのかと思った、というくらいのものだった。それぐらい大学のことなんて知らなかった。

 大学の中の文学部学生ホールという所で、三人で福祉研究会というサークルをやっているので、私も参加することにした。一週間に一、二回集まっていた。この大学は古そうな建物がたくさんあって、時代を感じさせるものだった。そんな建物の中の一角で私たちは集まっていた。

「いつも、もう少しメンバーがいるんだけど、講義の時間が合わなくてね」

と言いながら、始まることが多かった。その頃は差別に関する議題が多かったと思う。ある校内のトイレの中に部落の人とか障害者に対する差別落書が発見されたという資料を持って来て話し合ったりした。私はこうやっていろいろな差別に反対するよう意識を高めるのはとてもいいことだと思いつつも、難しい問題になるとあくびを一、二回してしまうことが多かった。

 そんな、一九八〇年の夏の終わりであった。

解放書店で

 ここまで書いた時に、私の頭の中を流れ星が斜めに通った。

 すごく大事な事を書き忘れたのだ。ちょっとその時代から大幅に飛んじゃうかもしれないが、この文章を書きはじめたのは、一九九四年の一月の初めで、解放書店という本屋さんの中の机を借りて、原則的に一週間に一回、書いている。

 私は実は一人では書けないのだ。私が右を向くと、にっこり笑う人がいて、その人に書くのを手伝ってもらうのだ。私は別の人と本屋さんに着くと、文章を書く前にミルクとお砂糖が入っているコーヒーを飲むのだが、とうていインスタントとは思えないようなほろ苦い味がほどよく残って、まさにその人が作ってくれた味がして、私は心の中で『うまいんだなあこれが』となんとなく言ってしまう。私はそのコーヒーを飲むと、落ち着くような気がするのだ。

 でもにっこり笑うその人の顔を見すぎるとあがっちゃうので、あまり見ないようにして書いているのだ。そうこうしているうちに時間はすぐに動いてしまう。

 午後一時近くになると歩いて一分くらいの喫茶店にお昼ご飯をその人と本屋さんの人たちとで食べに行く。喫茶店の中では、ゆったりとした時間が流れていて、特に窓側はそういう気持ちをふくらませる。窓を見ると昼下がりの柔らかい光線が見えた。溶けそうな気持ちでいると、

「はい、おまちどう」

と言って、食べ物を運んできてくれる。それからその人といっしょに食事をする。そのとき、おもしろい雰囲気が生まれるんだ。

 お店の中にいる他のお客さんたちが見てないようで見ている、そんな視線を感じる私は、そこである一つの仮説をたてた。

 先に食べ物をその人だけとか、私だけが食べるのではなく、さまざまな話をしながら、いっしょに何気なく食べているということで、他の人たちはちょっとした驚きを感じる、こういうふうに感じたから、お客はこちらの方を見たのかなあと私は思ったのだ。さらにつけ加えたいのだが、この社会で一番大切なのは、こうやってほんとにごく自然につきあえることなのだと思う。

 さて、ここいらへんで、私という人物が何者であるかということをちょっと話すべきなのではないだろうか。

 私というのは、男で、人に言わせると、私の顔はジョン・レノンか、そのまんま東に似ていると言われた事がある。そしてスケベかエッチかともし聞かれたら、誇れる話ではないがスケベではなく、エッチなのだ。

 スケベと言うのはどうしようもなくいやらしいというイメージがあるが、エッチというのは限りなくさわやかであるというイメージがある。

 私はそう認識している。

 そう思っているのは私だけかもしれないが。

 では、話を一九八一年の年が明けてからに戻すことにする。

私の片思い

 そのとき私は友だちといっしょに東京駅のプラットホームにいた。私と友だちは、奇妙な話かもしれないが、別々の目的でいっしょに新幹線に乗ろうとしていた。だいたいの人たちは友だちと電車に乗るときには、同じ目的のために乗る事が多いんだと思う。

 けれどもそのときは違っていた。

 友だちには実家に里帰りするという目的があり、そして私は片思いの女性の所に会いに行く目的があった。

 家に行って、ちょっと話がしたいなあと思っていた。

 友だちの実家と彼女の家が偶然にもあまり離れていなかったので、そういう私の思いが実現したのだった。

 後でわかったのだが、友だちはその時悩んでいた。私が見た所その人は、きわてあまえるのがうまい人でとうてい、悩みなんか無縁に思えた。

 ともかく、友だちの事はひとまず横においといて、私の思いをぶつけていきたいと思う。

 ともかく、私は四日間、友だちの実家におじゃまする事にした。

 友だちの家から電話をかけて、

「近くにいるんだよねー、もしよかったら、会って話しがしたいんだ」

と、顔をこわばらせながら言った。なんと彼女からOKという返事をもらう事ができたのだ。

 話しが終わって、ほっとして私はちょっとこの家の前にある庭へ出てみた。すると今まで気がつかなかった青い空がいちだんとすがすがしさを運んでくれた。

 彼女の家へ行く日友だちが車で送ってくれた。彼女と話が終わるまで友だちに待っててもらうのは嫌だったので、私が考えたことは、一晩彼女の家に泊まるということだった。まだ、そのことは彼女にも彼女のお母さんやお父さんにも伝わっていないということを友だちに話した。

 友だちの運転する車の中で、さっそく彼女の両親に対してどう話しをすればいいかを、友だちに伝授してもらった。

 私は彼女のお父さんにまだ会ったこともしゃべったこともなかった。もしお父さんが顔を縦に振ってくれなかったらどうしようかと思うと不安だった。天気は良かったんだが、そんな気持ちでは窓の外を見る余裕なんて、なかったのが残念だった。

 私はある一つの決意をした。その決意というのは、彼女の家の玄関先に座ってお願いしてみようかなあということだった。

 しかし、彼女の家に着いたら、友だちは私をノンストップで、アッという間に、家の中の居間まで連れて行ってしまい、私はちょっと目が白黒としてしまった。私は顔をこわばらせながら、しかし、いっしょに来てくれた友だちの事なんですが、私はさすがだなーと思いました。少し乱暴そうな所があります。が、思い切った事が出来て、あまり躊躇はしない所、早く私もなりたいものだと思った。

 お父さんとお母さんと彼女の前で、

「話があるので一日泊まらせて下さい」

と言った。お父さんは、

「いいだろう」

という返事だった。私としては、そんなに話が簡単に終わると思っていなかったので、顔の内側ですごく喜んでしまった。

 少しすると友だちが「明日迎えに来るから」と言って、帰って行った。私としては、頭の中で綿密な計画を練って臨んだつもりだったが、その頃は自分の頭で考えたことの十分の一も言葉に直すことができなかった。かくして一日泊まってがんばるんだという画期的な計画も、中身がそなわっていなかったから、現実という荒波に飲み込まれてしまった。

 彼女が言うには、親があなたは長女なんだから、帰ってきて結婚しなさいと言われた事があるらしいのだ。

 悩んでいたらしい。彼女の家はちっちゃな畑を持っていて、昔ながらの案山子が立っていた。帰り際に、とっさに私はなれるものだったら案山子になって、彼女をずっと見ていたかった。

ぼくの失恋体験

 その頃、私は一週間のうちの四日間くらい、自立生活をする準備に入っていて、他の所でも生活できるようにと、友だちの家に泊まりながら、これからの相談をしてという日々を送っていた。

 そうした生活の中で私が聞いたことは、障害者はなかなか友だちから彼女へのワンステップが、なかなか越えられないという噂だった。

 そういうわけで、一泊したのにがんばれなかった後、私は二カ月くらい落ち込んでいた。でも、ほんとに越えられないのかどうか、一回だけじゃわかんないじゃないかと思い直し、もう一回挑戦したくなってきた。

 ちょうどそのとき、私の友だちである大学に通っていた人が、

「部落問題研究会の中で一人の女性が入部してきたのだが、その女性がなにやらすごく悩んでいてどうしようもないから、私の所に連れていきたい」という話があった。

 その女性と私は、五カ月くらい経つと、意外にいろんな話ができるようになっていて、電話で歌を歌うほどだった。友だちが横にいても歌うことさえあった。すごく笑われてしまった。そのとき初めて、電話で歌を歌うことは一般的には恥ずかしいことなのかもしれないなと思った。

 彼女の方から少しだけだが、「私がこういう活動をしていることは家族には内緒なんだよ」という言葉を聞いたことがある。そして、私は彼女だけの問題じゃなく、多くの人たちは親に秘密にしているらしいということを聞いたので、それこそ恥ずかしいことじゃないのだと言った。

 しかし、どうして秘密にしないといけないことなのかよくわからなかった。どうも秘密にしないといけない何か大きなうねりが社会を包み込んでいるのかも知れない。

 こうして一年くらい過ぎて、彼女とちょっと仲良くなってきた。

 そういう感じを噛みしめながら、毎日を暮らしていると、私に彼女を紹介した人が来て、

「僕はやっぱり彼女が好きになってしまったので、だからよろしく」

と私に言った。私はなんのこっちゃと思って冷静になって考えてみて、憎いとは思わなかったが、ずるいと思った。

 大学に行ってるからって、健常者だからって、なめるなよ! と言いたかった。

 やはりふつうの人の方が二人の時間がお互いに作りやすいのはわかるが、私は納得がいかなかった。でもそんなことで競争するのもいやだなと思っていた。私はどこかで頭を切り換えないとつまらないなあとか思い始めていた。

 もしも今度仲良くなりたいなあと思う人が出てきたら、二人の時間っていうものを作んないといけないんだと思った。そして、できたらもうちょっと軽い話もできるようにした方がいいと強く思った。

 それでこの分だと、もっと失敗を繰り返さないとだめだなあと思いながら、さらに闘志を燃やすのだった。

ナンパのテクニック

 その頃、私は自分でもちょっとだけ車イスを動かせたので、人通りのある所まで一人で車イスをゆっくりゆっくり動かして、歩いている人に、

「あそこまででいいから押してって」

というようにヒッチハイクみたいな感じで、上野公園まで行くことが多かった。

 ちょっとしんどいけど、そうすることによって、いろいろな事がわかってくる。

 たとえば、私が声をかけた人が、車イスを押したことがない人がほとんどであり、車イスに触るのも初めてだという人が多い。私をわざわざよけて歩いて行く人も多い。私はあまり大きな声が出せないので困っちゃう。そこで私が考えたのは、たまたま上野公園という所は、動物園とか美術館とか音楽ホールがあるので、友だちを作りやすいのだ。

 そんなころいつものように、歩いてきた人に声をかけてみた。私の前で立ち止まってくれたのは、中学生ぐらいの人だった。上野動物園に行くんだと言うので、私とだったらただで入れるよと言ったら、その人は一緒に行こうといってくれた。

 動物園の中をいっしょに歩いて親睦を深めながら、車イスというものを理解してもらうという作戦だった。その人とは園内を二時間ほどで見終わり、少し公園を歩いて別れた。

私が一番重要だなあと思うことは、知り合った人と、どうしたらいっしょに飲んだり食べたりできるかという事である。いっしょに飲んだり食べたりすることからいろいろな話が始まると思う。

 ところで、私と知り合った人と、ボランティアとしてつきあうのか、友だちとして見ていきたいのか、介護者として会っていくのかでだいぶ困った覚えがある。

 これは大きな問題で、それらの三種類を私なりに分析してみたのだ。 

 ボランティアという人たちは、生活の中に特別な時間を作って自分の感情を打ち消してつきあうような気がする。

 それから、介護者という言葉は、私の中のイメージは、障害者がいつでもどこでも中心にいて、主役を演じていて、お互いが言い合う事が難しく感じるのだ。

 私にとって友だちという言葉は、すごく気持ちがいい言葉なのだ。

 だから、知り合った人たちを気持ちがよくなる言葉で呼びたいと思っていて、そしてその考えはこれからも変わらないと思う。

 さて、その頃の私は、障害者が動くときに世間の人たちがどういう反応をみせるか、今までは、耳で聞いて知っているだけではなく、データを自分自身で体験してみたくなり、ワクワクするような気持がどうしようもなく、膨らんでいった。

 その日、私は今日一日中雨がふらない事を確認してから、ある駅へ行った。その駅から電車に一人で乗ってみるのだ。

 それはまだ足を踏み入れたこともないような見果てぬ夢へいざなわれるようなものであり、なおかつジェットコースターに乗った気分のようでもある。

 駅に着くとまず最初に、少し私は悩んでいた。電車に乗り込むやり方は、二種類があるからだ。駅員を呼ぶやり方と、通行人に呼びかけるやり方である。私は通行人に呼びかけるやり方を選んだ。このやり方は電車に乗るまで少し時間がかかるかもしれないが、やってみる事にした。

 私が見るに、通行人は大きく三つに分ける事ができる。

 まず一つは、私が声を掛けるとすぐに立ち止まる人、もう一つは何が何でも交番に連れて行く人。が、交番に行ってもなんの解決にもならないのだ。臭いものにはふたをするというようなことぐらいしか考えてない交番が多い事も、付け加えておくべきだろうと思う。

 しかし、たまったもんじゃない。

 そして最後の一つが、見て見ないふりをして、歩いて通りすぎる人がいる事も、見のがせない事実なのだ。

 と、まぁ、こういったぐあいで、いろいろな人がいるから面白いと思った。

 私は以前にも一人で電車へ乗ろうとした事があったが、その時は駅員が二人ぐらい中から出てきて、私に向かって、だれでもいいから、付き添い者を連れてこいと言われた。

 そのころはまだ、怒る事ができなかったので、うやむやのまま終わってしまった事がある。しかし、今回はごまかされない、意気込みがあった。

 ちょっと見方を変えると、それはただのナンパだが、私は質が違うんだと、固く信じている所があった。そして、ついに私は一人で電車に乗ることができた。

 そのころ、私はもう一つ駅前にひかれる物があった。それはケーキを売る私の好きなお店だった。そのお店というのは喫茶店がくっついているというお店なんだ。私一人でも入れるお店だつたので、そこをよく利用する事が多かった。

子どもと私

 次に私が経験してみたことは一人で、どこまで年下の人(子ども)と話ができるかということだった。もちろん、それはいきなり子どもに声を掛けると誤解が起きる事もあるので、私は考えた。

 なるべくその、子ども達がいる公園にたくさん行って私を、覚えてもらう事から始めたのだ。私はずっと前から、なぜだかわからないのだが、何となくのんびりとした時間が流れているようで、たまらなくひかれるものがあった。

 何度となく公園に行っていると、子どもの方から寄って来たのだった。それまでは知らなかったが、私のすぐ目の前であばれるように、遊ぶ子ども達の姿がどのくらいすごいかどうかは、本当に見てみないと、なかなか言葉では言い表すのが難しい事もわかった。そして私が感じた事は、ふつうの子どもは本能的に、体を動かして遊ぶんだなーと言う事がわかった。

 この公園に集まってくる子どもたちと何回も話しかけているうちに、一人の賢そうな男の子が私の所にきたのだ。その男の子は小学校六年生で学級委員をしているらしく、言葉がていねいで、遊び方がちょっと他の子とは違っていた。

「何か手伝うことはありませんか」と、言ってきた時は本当にびっくりしてしまった。緊張をしていたらしくその時は、「別にないよ」と、そっけなく言ってしまった。

 そのうちに、いろいろな会話をするようになった。そうしてついに、おトイレも頼めるようになった。その子どもが言うには、家におじいちゃんがいるので、時々お手伝いをしていると言うのだ。

 何日か過ぎて公園へ行ってみると、あの子がきたので私は、この前のお礼に飲み物をおごってあげたら、その子は喜んでくれて、一緒に飲むことができた。

 その子は学校帰りだったので、私は家の人に何か言われるかなあと思い、子どもに聞いたら、ちょっと顔を横に振って、

「うううん、そんなことないよ」

と言って、飲んでしまった。二カ月ぐらいでそういうたわいもない関係ができたなんて、少しびっくりであり、少し感動でもあった。 それに、子どもっていうのは、言いたいことをあまり躊躇しないで言えて、さらに、やりたい事をすぐ実行にうつせる、やあ! これが子どもなんだなあって思った。あと、私事ですが、私の中の知らなかった部分も、分かってしまった。

 それは顔には出さなかったけれど、緊張すると口があまり動かなくなるということだった。

私と警察官

 半年ぐらい過ぎて私は、もうちょっと動く範囲を広げたいなーと、考えるようになっていった。

 そこで私は電動車イス(バッテリーで動く車イス)に乗ることを決めた。私は電動車イスの後ろにかごをつけて、いろんな所で充電することにした。

 良い道に見えていても貧弱な道が多く、平らだったら真っ直ぐ行くはずだが、どうしてもあっちこっちに曲がってしまうので、その運転が難しかった。でもおもしろくもあった。

 電動車イスだから、速度がそんなに速くないのだけれど、なるたけ速い方がいいなと思った。電動車イスは前のタイヤも後ろのタイヤも空気を入れる。私はなるたけ速く走るために、後ろのタイヤに四キロ、前のタイヤに三キロくらいの空気を入れていた。一ヵ月に一回、ガソリンスタンドに行って、バッテリーに蒸留水を入れてから、空気圧を確認してもらっていた。

 どういう道を通ればバッテリーにあんまり負担をかけないで長く走れるか、という細かいことを考えている事が多くなっていった。 手で押す車イスに乗って動いていた時よりも、道の状態をすごく気にするようになっていった。基本的に電動車イスは、階段を除いた、人が歩くのと同じ所を走るべきなのだが、同じ所を走るとすごい振動が、私をおそうのだ。それに、バッテリーが幾つあってもたりなくなる。という事で私にとって、いやな事ばっかり、なのだぞ。

 だから私は、私なりの運転をしてしまうのであった。

 人が見ると、私の運転は無謀だと言う批判が、つねに私の背中をヤリでつっつくのであった。言われている事が、分からないのでは、ないのだ。であるのだが、これが、どうも、旨く私の頭の中に入って行かないのだった。

 原因を探っていった時、やはりわが国の福祉行政の悪い部分が見えてくるのだ。

 そう言い切れるほど、歩道と車道の作りかたに疑問を感じるわけで、すなわち、私が言いたい事は歩道も車道のように、力を入れて作れと、言いたいのだ!!

 不満が溢れ出て来る、ぶつぶつぶつ……。

 だから、私は車道という所は自動車だけのためではないという結論をたてているわけで、べつに、背中をヤリでつつかれているせいで、反発をしているわけでもないのだ。

 警察官が文句を言ったところで私は動じることもなかった。

 私は警察官に、

「そんなに文句を言うのだったら、もうちょっと歩道を整備してから言えばいい」

と言ったことがある。そうすると、文句を言う声の大きさがだんだん小さくなっていくので、聞いてるとおもしろい。

 さてその、国家権力の象徴のひとつにも、数え上げてもいいのが、警察軍団と言ってしまっても、過言ではないと思っているが、私がただ一つ、警察に対して理解をしてる事があった。 

 それは、人間一人一人の頭の中に、警察としての考え方を叩き込みながら、じわじわ、国家と言う医者が解剖を、していくのかなーと思っている。

 そう言えば、電動車イスのバッテリーに、充電をするために、私はよく、交番に立ち寄る事が多く、警官の個性のとぼしい所を見る事も多かった。

 交番に用があって尋ねる人は、やはり、道が分からないので、聞きに尋ねて来る人もあった。ある日、私はそこでいやな物を見てしまった。交番に尋ねて来ていた人が、警官に向かってちゃんとしゃべっているのに、警官は、尋ねて来た人の近くへ、近づこうともしないのである。

 尋ねてきた人がわざわざ、警官の耳に向かって一生懸命にしゃべっているという姿を見た事があったが、私はそこから警官の体質に、あり方を変えていかないとだめだなあと思った。

 私が交番でバッテリーに充電する前には、毎度毎度、同じ会話でと言ってもいいほどではあるが、警官と会話を始めると、すごく、疲れる事が多かった。

 私が、

「二時間くらいバッテリーに、充電をしたいんだ」

と言うと、警官は、

「交替の時間があるから一時間にしろ」

味気ない顔で警官が言ってくるのであるが、私は何も交替の人に連絡すればいいことじゃないのかと思ったんだが、少し大きな声で、

「じゃあ一時間半ではどうだろう」

と言うと、警官は、

「まぁ、いいだろう」

とか言うのである。まるでバナナのたたき売りだ。

 あるとき、いつものように交番で充電していると、一人の警官が電動車イスのタイヤをちょっと蹴飛ばした。私が乗っていた電動車イスは頑丈にできていたので、ちょっとぐらいだったら壊れたりしないが、警官が履いている靴は、ごっついので、タイヤちゃんが大丈夫かなと思って心配だった。

 その時、

「なんだ、これは」

ともう一人の警官が叫んだ。

「おーい、ちょっと来てくれ」

ちっちゃい交番だったのだが、奥から三人くらいドカドカッと出てきた時はおどろいた。

 私の電動車イスの後ろに、カゴが着いてあり、そのカゴの中にバッテリー補充液が、積んであったのだ。

 どうも、とても恥ずかしい事だが、警官がそれを、なんと、火炎瓶だと思ったらしいのだ。滑稽だと思った反面、まったく、じょうだんじゃないと言う気持ちで、一杯だった。

 

第二章 私にとっての友だち

 私にとって友だちというのは、普通の友だちというよりももうちょっと深い意味を持った大事な存在なのだ。

 それはどういう事かと言えば、普通の友だちというのは、あまり深くつきあわなくても友だちとして会話とかができると思うが、私とつきあう友だちはそれとは大いに違う。

 大げさな事と思われるかもしれないが、私の命がたくさんあるとしたら、命のひとつひとつを一生懸命につないでくれていると言っても過言ではないのだ。だから、私も友だちもお互いがいい加減に付き合うのは、いけないことを知っていると思う。

 それをふまえて、私には友だちを作る段階において気をつけたいと思っていることがある。それは、人を外見だけで判断しては絶対にいけないこと。長い時間かけて、その人と接することが大事だと思うのだ。別に変な意味では絶対にない。

 私の友だちはいろんなものに挑戦してくれる。エプロンをかけたコックさんになったり、フォークリフトに乗ったり、議論をかわす仲間にもなってくれる。私はそんな友だちをほんとうに大事にしたいと思っている。

小さい頃の私

 少し話が飛ぶかもしれないけれど、ここで私の小さな頃からのことを書きたいと思う。

 私の小さな頃は、明けても暮れても体を動かすことをたくさんしていたので、他の人と話すことがあんまりなかった。だからと言ったらおかしいけれど、その頃の私にとって友だちと言えば家族であり、家族が、だいぶ小さくなってしまうが、私の世界のすべてだった。

 その中から私は思想や知性に近いものを自分の中に入れようとしていた。

 私にとっていろいろな世の中のいろいろな情報は家族を通して入ってきた。障害児にとって家族というのは、大事な友だちであり、命の源でもある。

 毎日の生活の中で、障害児は家族に対して、できるだけ一日を気持ち良く過ごせるように、例えばここはちょっとがまんしようとか、いろいろな事を考えてしまう。

 私もそうだけど、障害児だったならば、誰でも自分では意識しないうちに、自然にそういう人格を作り上げるようになってしまうと思う。

 そこで、往々にして障害児は人の顔色をすぐにうかがう、という言葉が施設の中でもどこでも流行ったのだろう。

 好きで障害児が人を観察したり、人の考えを先取りするようなことをしているんじゃないのだ。

 小さな子どものときは、できるだけ気ままに生きるということが子どもらしさをひきたたせると思う。

施設でのこと

 施設という言葉が出たついでに、少しだけ施設のことについて書いておこう。

 私も小さい頃に施設みたいな所に入っていた経験があるが、そこには一、二歳というようなほんとに小さな子どもまで入っていた。 その施設には一週間に一回、面会日というものがあるのに、子どもに会いに来る親は少なく、子どもたちの大部分は家族に忘れられているんだなと、幼かった私にもわかった。

 それから、ある施設のうわさでは、のどが渇いてもあまりお水を飲んではいけなかったり、ひどくなると、医者が個人を無視して女の子の子宮をとってしまったりという話も聞いた。

 ある障害者は家に帰りたくて、施設からちょっと離れている門まで歩けないのだが、脱走を図ってすぐつかまったこともあった。

 私は脱走まで考えが及ぶことはなかったが、ときどきベッドから窓の外を見ると、施設の門が見え、その門の向こう側は、自動車が行きかっていて、私は子どもながらに、

「なんでここにいないといけないんだろうなあ」

と思ったものだった。

施設に自分だけのものはない

 話は変わって、私は最近、ベンポスタ子どもサーカスという、スペインでサーカスをしながら自分たちで生活している子どもたちの映画を見たのだが、その中に、子どもが、自分のおもちゃをしまっておいてもちょっと目を離すと誰かが使ってしまうという場面があった。それを見て私はあることを思い出したのだ。

 私が施設で生まれて初めて悟ったことは、自分の家から持ってきたおもちゃはいつのまにかみんなのおもちゃになってしまうことだった。自分の引き出しというものがちょっとあって、そこにちゃんとしまっていても、いつのまにかとられていることが多かったのだ。ここでは自分のものということを捨てないといけないんだということと、絶対にさわりたいなというものがあったら、自分のものにしてしまうという勢いがなくてはだめなんだということを思い知らされたのである。

施設でのいたずら

 それから私は施設で、もう一ついたずらをしたことを覚えている。

 私のいた施設では、他の施設でも同じだと思うが、テレビを見る時間が決まっていて、その前にはテレビをつけてはいけない規則だった。ある日、勇気を確かめるというので、その規則を破って時間前にテレビをつけすばやく消せばわからないという遊びをやったことがある。私もすぐに消せる自信があったので、やってみたが、たまたま体に力が入ってひっくり返ってしまったのだ。

 すぐにおっかない顔をした人とちょっと優しそうな人が来て、一人が、口を顔の半分以上大きくしながら、

「お約束を破った人は誰かな?」

と言った。

 みんなはすばやく私の方を見る。

 するともう一人の保母さんが、

「罰はどうなるかわかっているわね」

と反論できないような、あまりにも強すぎる、圧倒的な口調で、私をにらみつけた。

 私は、そのときは、全然悪ぶっていなかったので、純真な顔で、ちょっとうなずいた。

 すると、顔の半分以上あるような口から、怖そうな声で

「そうね。お約束を破った人は、みんなより早くベッドに行って、寝るのよ」

と言い、もう一人に

「ベッドに運んでってね」

と命じた。私は抱きかかえられて、ベッドの方に向かうことになった。

 ベッドに行くまでに、距離は四〇メートルもあっただろうか。途中、床がゴムのようなものでできた廊下を歩くのだが、私を運んでいる人も、ゴム敷のサンダルをはいていたので、私の重みも加わり、しんと静まりかえった廊下にキュッキュッという音が気持ちよく反響した。

 普通だったら、そういう時は、いやだなあとか、怖いなあとか思うんだろうが、私の場合は、普通ではなかった。そのときに私を運んだ看護婦さんは、私が一番気に入って、たまに二人でチョコレートを食べたことがある人だった。だから、ベッドに乗っかるまでもじもじしていた。

 私はそのころから、マセてたんだなあと思うのだ。

高等部のお姉さんのこと

 そうなんだ! そのときから、うきうきする気持ちが広がっていったのかもしれない。私もようやく小学校一年生になった。学校は施設から歩いて五分くらいのところにあり、私はそこの養護学校に通っていた。そこは小学部から高等部まである学校だった。その頃は障害児は普通の学校に行ってもかまわないということになっていたようだが、その反面、特に学校には行かなくてもよいということも決まっていた。家の中だけで過ごす障害児も多かったらしいのだ。

 私は、私の住んでいる近くの小学校へは行かず、養護学校に行くことがなんとなく決められてしまっていた。別に私が決めたわけではないが、その養護学校は、日本で二番目にできた養護学校なんだそうで、今はなくなってしまったが、そのころは学校の裏庭に行くと、米軍キャンプの野戦病院がすぐ近くに見えた。ときどき外国人が手を振ってくれたりしていた。

 私は小学校二年生のとき、自分の家からスクールバスで学校に通うようになった。スクールバスは一便と二便とに分かれていて、私はまだ小学生だったから、一便で帰ることになっていた。ところが、わざとではないのだが、ときどき、一便のバスに乗り遅れることがあった。

 実は、私は一年生に上がったころから、お姉さんに興味があるらしいことが、小さかった私でもそれがちょっとくらいはわかっていた。私は高等部に、お昼の給食が終わってから、たまにお話をするお姉さんがいて、何回行ったのかは覚えていないが、そのお姉さんがいる教室までよく行ったのだ。お姉さんに、私はブタチャンとあだなをつけていた。何でそうつけたかと言うと、あまりにもふっくらしていたからだろうと思う。そして、一便のバスに乗れなかったときは、放課後の時間を使って、学校に小さな花壇のような所のそばで、何回か花の冠とかを作ってもらいながら、私の方はほっぺたにちょっとさわってもいいかなと、あどけなく、無心に遊んでいたのだった。

養護学校にもいろいろある

 そのころの私の時間割は、その大部分がリハビリの時間で、ほとんどそれだけで一日が終わっていた。だから、勉強は二の次だった。

 小学校五年くらいになると、まわりのことが少しだけ見えてきた。どういうことが見えてきたかと言うと、学校を卒業してからも必要な、最低限のことだけを教えればいいという、養護学校の考え方である。

 障害児は障害児で、小さなころから言われたことは、とにかく服従しろということだったので、勉強の時間に聞き返すとか、ここがわからないから質問を先生にぶつけるとかが苦手だった。それは子ども同士の関係よりも子どもと大人の関係の時間の方が長かったからだと思う。

 養護学校と普通の学校の大きな違いは、放課後がないということと、授業中疲れて眠っても立たされないということと、落第がないということだ。

 私は五年生になってまもなく、転校した。学校のスクールバスに家のすぐ近くで乗れるから、というのがその一番の理由だった。転校先の学校はそれまでの所とは、いろいろなところで違っていた。

 五年生は二組まであって、私は最初一組の教室に通された。その日は私がどこまで他の人たちについていかれるかをテストするというので、すごく緊張していた。教室に入ると国語の時間で、「この人の次に読みなさい」と言われ、そのとき私はあわててしまった。というのは、小さな時から耳の聴力が弱かった上に、たまたま耳あかがつまっていたらしく、全然聴こえないことがわかったからだった。そのとき、先生に、耳が聴こえないということを私の方から言えなかったので、このできごと以来、私は二組で暮らすことになった。

 この学校では、二組というのは知恵遅れの児童が学んでいるところである。私は知恵遅れという児童とは一緒にいた経験がなかったので、いやではなかったけれども、どうやってつきあったらいいのかわからなかった。でも、別に気にしないでまじめに取り組んでいたら、ある日、

「今日からあなたは一組に行きなさい」

と先生に言われ、すぐに一組に変わった。

 七ヵ月ぐらい私は二組で学んだ。そのとき私の頭の中にはっきり見えたのは、自然に溶け込めたというのは、意識の中で情報とか予備知識がなかったからできたことだということである。

 そこで面白かったことは、「怒らせるとすぐに殴る友だちがいるので気をつけなさい」と言われたことや、「ことばがわからなくても最後までちゃんと聞くことを忘れないように」と言われたことだった。

 転校してわかったことは、その学校では、児童に責任感を植えつけようと考えていることが大きいことだと思った。学校によってずいぶん違うのだ。

養護学校の変化

 少し角度を変えよう。養護学校全体で考えてもいいと思うが、一九七〇年から七八年までぐらいの間は、東京都では、教師の他に介護員という人を雇っていた。やっぱり学生のアルバイトが多かったようだ。

 そこで私が覚えているのは、介護員という人は影のような存在で、話が盛り上がっていても、教室に教師が入ってくると、「時間だ」と言ってすぐに消えてしまっていることだった。

 七八年からは、東京都が福祉予算を削るとかで、教師が介護をするようにだんだん変わってきたことを覚えている。

中学と高校の頃

 私は、中学に上がると少し余裕が出てきて、教師という仕事をやっている人たちの考え方とか、しゃべり方を観察するようになった。

 私が特に覚えているのは、普通の学校から異動でやってきて社会科を教えていた教師のことだ。その教師は、初めての授業で私たちに向かって、何と歩ける自慢を二〇分くらい使って話したのだ。

 その教師は、突然、「君たち経験があるかな?」と言うのだ。ちょっと聞いていると、その教師が学生だったころ、家に戻る途中で、「空模様がおかしいので走っていると、後ろから雨が追いかけて来る」という話を元気一杯に楽しそうに話している。その教師は、こうやって話を盛り上げようとしたのだが、最後まで盛り上がらないで終わったのは当然である。

 また他の教師は、

「この学校では、落第っていうのがないみたいだけど、私が君たちに教えるようになって、もしテストの点が悪かったらどんどん落第させるから」

と声を高らかに叫んでいた。けれども、それがむなしい響きだったことは言うまでもない。

 私たち生徒の中には、口には出さなかったが卒業するよりも落第というものを望んでいた人が少なくなかっただろうと思う。それは、私たち生徒は卒業すると、二つの道しか開けていなかったからである。一つは、ずっーと在宅で過ごすことと、そしてもう一つは、ずっーと施設で暮らすこと。これを誰もがそのころから感じていたのだ。

 それはそうと、そのころ、一般的にかどうかは自信がないが、一六歳、一七歳、一八歳っていう歳は何か特別なことが起こって、見えなかったものがぱっと見えてくるんじゃないかという幻想があった。

 卒業が迫ってきてしまうので、あまり歳はとりたくなかったのだが、でも一七歳の目から見た社会というものがどんなふうに見えるのか、のぞいてみたいなあとも思っていた。

 しかし高校に上がると、私は愕然となった。「何でも一生懸命」という大きな太い文字に、向かって行っているだけという毎日だったからである。

 高校では、一般的に、卒業後は施設みたいなところに行って仕事をするんだということを圧力で感じることが多くなった。私もそのころは、私の家が工場を経営していたので、それで働くことイコールおとなの第一歩だと思っていた。だけど何かがおかしいなという気持ちが、ずっーと同じレールの上を走って、ぐるぐると回っていた。

 そして、これが青春というものなのかと思いながら、卒業した。

高校を卒業して授産所で働く

 高校を卒業すると、私はずっーと家の中にいるのがいやで、施設と作業所とが一緒になっているようなところで働いてみることにした。

 今から考えると、よく三年で退社できたなあと思うのだが、その授産所で暮らしながら、私は今まで何かがおかしいということについて、何がおかしいのか何がまちがっていたのかを見ることになっていった。

 私が思うには、たくさんあるが、学校時代以上にきびしく管理をされているということと、夢も希望もないということが、はじめに目立つことだった。

 私が見て驚いたことは、作業の途中で指導員が、女性の社員(社員というのは、そこで働いている障害者のこと)に、「トイレに入ってから出てくるまで時間が、あんたは人よりも遅い」と言って、早い人(この人は男性です)の方を指さして、「あの人みたいにならないと、だめじゃないか」と言っていたことである。相対的に見ていると、なるほど女性よりも男性の方がトイレから出てくる時間が早いというのは私でもわかるが、指導員の力は絶大だった。だから、なるべく指導員に目をつけられないようにしようということが、合言葉のようにになっていた。

 ちなみに仕事時間というのは、月曜日から土曜日で、土曜日というのは半ドンなのだが、午前九時からはじまって午後五時までというスケジュール。それだけ働いて、私の給料は五百円だった。給料袋は一人ずつ指導員が渡していくのだが、私の正面に座っていた男性は指導員に、

「七年間ずっーと働いていて、どうしてこんなに給料が少ないのですか」

と質問していたことがある。私が指導員が何ていうのかなあと聞いていたら、乱暴な口調で一言、

「これがてめえの実力なんだ」

と言っていた。

 私は残酷なことばだなあと思って聞いていた。私はそのころは、五百円でも自分の力で作れたことがいいことなんだと思っていたので、自分に対して一つ一つが考え直す対象だった。

作業場の中で女の人と友だちになる

 そういうところで暮らしていると、いろいろと面白いこともあった。われわれ社員の中に、なにやらスパイみたいな人がいて、規則をちょっとでも破ると告げ口をする人とかもいた。私は、ここで暮らすことが長いとだんだんそうなっていくのかなあと思ってその人を見ていた。

 施設もいろいろあるだろうが、私は施設について思ったことは、多かれ少なかれ施設というのは一つのところに収容すること以外の何ものでもないということである。と同時に、そこでなるべく楽しく過ごすためには、笑いをとれて人気者になることがいちばんいいなと悟っていた。

 そのために、私はどういうことをしたか紹介しよう。

 まず最初にしたことは、作業中は鼻唄も歌っちゃいけない決まりになっていて、しんみりと、ちょっと暗い雰囲気で作業をすることが多かったのだが、そういう雰囲気を打破するために、私はときどき作業のリーダー役みたいな人の名前を呼ぶとき、できるだけ大きな声を出してアクセントをつけて呼んだのである。

 それが意外にウケた。さらにそれが私の周りに女性の影が見え隠れすることつながるとは夢にも思わなかった。

 八ヵ月ぐらい過ぎて、作業にもそこの生活にも慣れてきたときだった。その施設では夕食が五時半からで、消灯時間までは結構時間があった。あるとき作業時間が終わると女性が近づいてきて、

「夕食の後に夜食を食べる会があるので来ませんか」

と言うのだ。

 私はそのときちょっと照れて、

「何も買ってないからどうしよう」

とその人に言いました。するとその人は、

「あなたの分まで買ってありますから、どうぞ」

と勧めてくれる。私は奇妙なこともあるもんだと思いつつ、小さくうなずいた。

 八時ごろに食堂に行ってみると、いつもは電気の消えている食堂に電気がついており、六人ぐらいのグループで即席ラーメンを作っていた。私がテーブルにつくと、その人が、

「まだ熱いからね」

と言いながら、ラーメンを作って持ってきてくれた。

 そういうことがきっかけになり、その人がいる部屋に遊びに行って、コーヒーをごちそうになったりするようになった。その人は私よりちょっと年上で、自由に歩けるのだが、片方の足には義足をつけていた。その人は、

「義足に慣れるまで、すごく痛かった」

と言っていた。

 それから、その人は私に思いがけないことを言ったのだ。それは、

「もしできないことがあったら、手伝ってあげるからね」

 実はそのとき私には、自分ではちょっと難しいことがあった。何かを拾うことと、電話をかける時にダイヤルを回すことの二つである。そのことをその人に言うと、

「わかった」

と言ってくれたのだ。

 それまで私が感じていたことは、施設の空気が、遠慮と我慢と怯えとが入り混じったような、ちょうど霧が包み込むような、そんな雰囲気だということだった。

 今から考えてみると、職員を通さないで色々とできるということは、すごく暮らしやすいことなのである。また、女性と友だちになれたことで、他の人たちとも緊張しないで話ができるようになった。

職員の価値観に染まるのはイヤ!

 少し話が前後するかもしれないが、作業中のことを書いておきたいと思う。

 この作業場では、三種類か四種類の物を組み立てることをしていた。入った当時、私はいろんな分野の仕事を言われるままにやっていたが、落ち着いたなと思ったときにはイヤホーンの耳の中に入れる部分の工程の一番最後の外見検査というところに座っていた。

 二年を過ぎたある日、事件が起こった。

 その日は、三週間前から、私が施設に入る前から外見検査という仕事をしていた人と一緒に、二種類のイヤホーンを別々のルートで検査していた。外見検査という仕事は、文字通り責任がちょっとかかってくる所である。その日もいつも通りにやっていると、急に作業指導員がいつもより硬い顔つきで入ってきて、

「納品先の会社からイヤホーンの不良品が大量に送り返されてくる」

と言いながら、ばたばたとしはじめた。その時点では、どちらのイヤホーンが送り返されてくるのか、わからなかったのだが、私は、

「これはまずいな」

と思った。送り返されてくるもののうち八〇%ぐらいは私が見ていたイヤホーンではないかと思ったからだ。

 しかし、少したって送り返されてきた箱の中にあったのは、もう一人の人が見ていたイヤホーンだった。そのとき、私には変な思いが沸き上がってきた。良かったという気持ちよりも、虚しいという感じのほうが大きかった。もう一人の人は何やらしょげていたのだが、私はごく普通に検査をしていただけで、周りの人、つまり施設にいた友だちが私に注目してしまうということ、その上、人間的な部分にまで踏み込むような感じが作られてしまうということが、とてもいやだと思ったのだ。

 作業をしていて、そのうちのたった一つが駄目だったということだけで、その人しかできないこと、その人がやりたいことも奪ってしまう、そういう考えが職員側にあり、また施設にいる障害者もそれに影響され、同じような考えになってしまうのだ。それがとてもいやだった。私は、障害者は普通の健全者の真似をするんではなくて、もっと個性的になってもいいんじゃないかなあと考えていた。

 二年を過ぎたときから、早く作業所をやめたいと思っていたのは、こうしたことがあったからだった。

 

第三章 新しい一歩

 さて、私はこれから、特に友だちっていう問題にポイントを置きたい。

 友だちのことを語る前に、まず、私が言いたい事は障害者の多くは本当に友だちを、作ろうとしても、作れないのか、それとも、友だちを作りたくないと思っているのかそういう、問題からはいっていこうと思う。

 私はその時はまだ、ある、グループに所属していて、その中でなんとなく出来た計画表どおりに、なんとなくやっていれば、そこはもう天国であり、そのレールに乗っかっていれば安全に先へ進む事が出来るシステムになっていた。

 私の目には何となくグループとか団体とかに重心を置く方向にどうしてもかたよってしまうことが多かった。

 私を含め障害者の人は、その中にどっぷり浸かっていると何も考えなくていいんだが、その代わりに一人ひとりの存在が見えなくなる危険性が高いと思う。

 私の場合、グループの会長という人に嫌な顔をされたけど、友だちをつくりたかったので、グループをやめることにしたのだ。そのきっかけはこんなことからだった。

 あるとき、私がいたグループのボランティアの一人が、

「今行っている大学で学園祭があるから来ないか」

と教えてもらっても、当初はそんなに乗る気ではなかったが、ぼんやりしていても はじまらないので、私はその年はグループで作ったものをそこで売るという目的もあって行く事にした。

 私は売るという行為自体にも疑問を感じていた。どうせ行くんだったら楽しむために行こうかなーと言う思いが、徐々に高まっていった。

 自信がないわけではないけど、障害者が作ったものと同じような物を、いろんな所でもっときれいに売っているのに、わざわざ障害者が売っている所に来て買う人の気持ちがわからなかった。

 もやもやした気持ちを、ふるい起こして行くことにした学園祭では、売る人が午前と午後に分かれていて、私は午前中にきまっていた。

 午後に一時間半の自由行動があった。そのとき、私を誘ってくれた人が、

「障害者に関するシンポジウムが開かれていて面白そうだから行ってみないか」

という事を思い出し、行ってみることにした。

 私はそのシンポジウムで何か少ししゃべったのだが、その時何を話したのかは、覚えていないが、もっとしゃべりたくなった事は覚えている。

 そして、その日の学園祭が終わってから一つのサークルでコンパをやると聞いたので、グループと帰らない事をきめた。でも、不安はあったが、それ以上に、お話しして見たいと言う気持ちの方が強かった。

 ちょっと小さな声で、

「私も行ってみたい」と言ったのであった。

差別について、ちょっと考える

 一歩踏み込んだことで、今まで気がつかなかった部分がはっきりとした部分へと変わっていく感じにワクワクすることがあった。

 気がつかない部分とはっきりした部分の二つの線は、私と一緒に同時進行をしていくのだが、良い意味での刺激が体中に押し寄せてくるのを感じるのは気持ちがいい。

 ちょっと話が横にそれるかもしれないと思うが、最初に私が大いに注目し、目を見張ったことがあった。

 それは、何と、テレビを見ているとき、前触れもなく突然起こり、疑問と怒りのようなものが交錯し合いながら、私の頭の表面をめぐっている感じだった。

 テレビの画面の中で見たものは、障害者が競技大会をしている風景で、私は、そういうかち、まけを決めるスポーツの風景にはあまり、興味ももっていなかった。

 そして、すごく気になったのは、熱い視線を送っていた普通の人たちが、

「あの選手はえらいねー」

と言ったことだった。

 私の考え方とすれば、選手の人たちに声援を送りたくなる気持ちはわからないではない。が、何気なく使った「えらいねー」という言葉に注目したいと思う。目立たない言葉ではあると思うが、重要なところなのだ。

 それは障害者たちが全力を出し切っているのに、なぜ、「おーすごい」と言わないか、逆にたとえばオリンピックという舞台では、「えらいねー」ではなく、「おーすごい」と言うのだろうかということだ。

 諸君はどう思うであろうか、私はこれは一つの差別ではないか、ということを感じてしまうのである。

 ちょうど、差別という言葉が出てきたので、ちょっと考えよう。

私が棒を持ってあばれた?

 私にはあるとき、笑い飛ばせるような出来事があった。場所は、ある街中にある、ごく普通の児童公園だ。その日はとても暖かく、青い空に少しほんわかしている雲がいくつもあり、雲も空でゆっくりのんびり、散歩をしているのかもしれないという日だった。

 前を注意しながら電動車イスで公園に行くと、あ、そうそう、普通、公園というのは、一人や二人の悪ガキが遊んでいるのが正しいありかただと言えると思っている。

 私がたまたま行った公園では、少しだけ違っていた。小学校の二、三年生だったろうか、その子が私に向かって、おどかすジェスチャーをたくさん披露してくるのだ。

 それだけだったら、どこの公園でも見ることができる風景だ。私がちょっとでも動くと、子どもたちはすばやく逃げてしまうと、まぁ、そういうことの繰り返しなのだ。

 不思議なことに、何回か続けていると、そういう事が面白くなるが、同時に、うるせえガキだと思いつつも面白がるという、二つの矛盾した気持ちがあるとわかって、笑ってしまっていた。

 そうこうしている間に、この公園に着いてから四〇分くらいたっただろうか。向こうの方から、私に向かって速い速度で近づいてくる人がいた。な、なんと、それは警官だった。

 平和なこの公園で何がどうなっているのか、聞こうと思っていた。

 近くにいた赤ちゃんを抱いたお母さんが小走りに近づいてきて、

「おまわりさん、どうしたのですか」

と先に言ってくれた。

 この公園には、他に五人くらい子ども連れのお母さんたちがいたが、そのお母さんたちもあっちこっちから集まってきてしまった。そのとき、私は思わず警官は、ちょっと的外れかもしれないが、でもある意味では本当に人気者なんだなぁと感心してしまった。

 さて、警官が何で公園にいるかなのだが、警官は、独特の特徴のある顔としぐさで、お母さんたちに向かってしゃべろうとしていた。

 私はすっかり野次馬に変身してしまっていた。近くに寄って行くと、誰かが

「子どもが通報したのー」

と、ちょっと甲高い声で言った。なおも聞いていると、驚くべきことがわかってしまった。

 な、なんと、その警官が言うには、私が、どうも棒のような物を持ってあばれているとのことなのである。お母さんたちが証言してくれたので、問題が拡大せずに終わったけれど、あきれて物も言えない。

 と、まぁ、そういう感じであるが、一つ一つ言っていくと、キリがないので、話題を変えて、話を元に戻そうと思う。

私の夢とは

 高校を卒業してから、さまざまな事がさまざまな形に変化し、そういう気持ちを引きずっている自分に気づき、今もなお、はっきりと言えないところがある。

 いっぱいあったことも事実だし、グループの枠の中にいたのでは、自分自身どっちに向いたらよいか、方向を見つけたいという気持ちが出てきたことも見逃せないだろうと思う。

 私にはそのころ、ひそかなる思いがあった。その思いとは、気の合いそうな友だちと一緒に、とりあえずどこかで住んでみようかなぁと、思う事だった

 なんて言ってもそのころはまだ、リアリティーが不足していて、どういったことが自立した生活に必要なのかも知らなかった。

 でも、でも、でも……、すなわち、出来るか出来ないかわからないがやってみよう、である。

 高い位置から見下ろすような感じで言うのは嫌いだから、あなたと同じ目線で言うので、よかったら聞いてちょうだい。

 私はこう思うのだ。ただの夢だったら、単なる夢だけれど、

「ただの夢では終わらない夢にしてみせるー」

と強く思っていた。ただ、こんな私でも、掛け声だけでは当然回転していかないことは知っていた。

 だいぶ先まで見ることができて、計算できれば一番いい。そういうことって、余裕があれば少しはできるのかもしれない。

 そのころ私には余裕という文字に縁がなく、目の前にころがっていることを片づけるのに夢中で、何も見えなかった。

友だちをつくる

 さて、一番最初に手をのばしたことは、友だちをたくさんつくることだった。話を元に戻そう。

 今、私がどこにいるかと言うと、ある大学の学園祭が終わった。

 一つのサークルのコンパに飛び入り参加をしてみたいと言ったら、いいよと言ってくれたという場面である。そして、そのサークルのメンバーの一人に声をかけたのだ。

 すると、今まで味わった事がなかったのだが、コンパにきてる人達は真剣に、私の話しを聞いてくれたと、言う事はこの、頭の中に入っていた。

 なのに私ときたら、あまりに緊張していたので、そのときのことはあまりよく覚えていない。私はその人に今でも悪いことをした、と嘆き悲しむことがある。

 少しオーバーかな……? 

 でも、声はかけたけれど、もしかすると意味不明なことを口走ったかもしれないと思うからだ。

 ここでまた横道に入る。人に話をするという事について、語っておきたいのだ。

 まず最初に、多くの障害者の人って、どうして他の人と話をするのがあまり上手ではないのだろう。

 ちゃんと調べたわけではないが、きっと小さなときの人見知りの状態をそのまま引きずってきているので、ウルトラマンでもいないと脱出できないのではないかなぁと思う。

 そこで問題なのはウルトラマンの存在である。実際はいないけれど、人間に置き換えて言うと、一番近いのは勇気である。

 勇気ってやつも曲者かもなぜなら、自分自身の中から出てくるものじゃナイトネェー……、とは言っても、私たち障害者は育つとき、家庭の中のカラーもスタイルも、そのまんま受け次ので、きびしい事は分かるのだが、でも、でも、でも、……。

サークルのコンパから

 また、新たなる展開を求めて話を戻すことにする。私がいる所は、学園祭が終わったあと。

 あるサークルのコンパに飛び入り参加が許されたことで、私の頭のなかの世界観が、かわった。

 その場所から事態は急変したのだが、七不思議の中の一つに入ってしまいそうになるほど、不思議な体験だ。

 私はコンパ会場で私個人の話しなんかすると、おこられるかも知れないと、思いすこし、ドキドキしつつ、崖から落ちそうな恐怖を味わったつもりになって、やってやるぞ、と、思った。

 コンパの席で相手が酔っぱらってしまう、危険性を秘めているので、その前に話をしてしまった。

 そしてコンパがそろそろ終わる時間が近づくと、それって言っていいのか、迷った末に、私は言ったのである。

「私はもっと話をしたいんだ」

 すると、よく覚えていないけれど、すぐに、大学の寮に泊まりに行くことにきまったのだ。

 私は胸の高まりを抑えながら自宅に電話をかけて高まっている気持ちを伝えた。

 ふと目を外に向けたら、あたり一面は夜の色に変わっていた。

 コンパ会場のお店へ行くときは、日暮れの町っていう感じだったのに、夕方から夜へ、時があたかも時計の針が昼間より五倍も速い速度で進んでいるような錯覚に落ちるのは、私だけでだったろうか。

 そんな事を考えていたら、空間にいるだけで、目がうるんでくるような感じがした。

 さて、九時三〇分くらいにコンパが終わった。

 私を含めて六人くらいは、電車に乗るために歩きはじめていた。

 夜の町は、少しひんやりと冷たい空気が、時速六キロのスピードが風となり、私の体全体を撫でるたびに独特の、夜の匂いとが絡み合って、過ぎていくのを感じていた。

 実はもう一つ目についた物があった。それは、ネオンの光がやけにいやらしく、限りなくあぶなく、あやしく見えた。

 そして、そんな光線が私にまとわりついたことだった。この一日は、今まで一度も味わえなかったことを、この一日で味わうことができた日でもあった。

サークルのコンパから

 そのころの私には、変な話だと思うが、余裕というものが不足し、どうすれば余裕という物が、自分の力を使って出せるのだろうと、そういう思いが長い間つづいた。

 私のそばを離れるどころか、しがみついてもきたので、可愛がるしかなかったのだった。

 その余裕というつかみどころのないものと、ちゃんと向き合うことで、それは絶対的脅威ではなくなった。でも、まだ、その段階ではないときには、けっこう大変だった。

 と言うのは、端的にまとめると、私の頭の中には、具体的に何を目指したいと思う事とか、これからどういうことをしたいのか、と言う事が何も入っていなかった。

 やっと、知り合った人と、話しが出来たとしても、一人の障害者としてだったら関わり合ってくれると私は本能的に思うけれど、相手から一人の障害者であるだけでなく、友だちとしてつきあうのはちょっとね、と思われると、ちょっとくやしいから、だからこそ私は、友だちという言葉にこだわるのだ。

 コンパに飛び入り参加をしてから、一ヵ月ぐらい過ぎたある日、私の頭のなかにひらめいたことがあった。

 そのひらめきとは、一週間のうちで、できるだけ、一日でも多く、友だちのところで泊まる事であった。

 そして、お互いに何でも言い合える関係をどう作れるかということも、何となく大事だということが、だんだんとわかってきたのだった。

 三ヵ月ぐらいたったある日、おもしろい出来事に遭遇した。私は友だちと二人で、町中をゆったりのんびりした気分で、まさに、ルンルン気分で歩いていた。

 そのときである、真面目そうなおばちゃんが近づいてきて、友だちに話しかけてきたのだ。

 私も一緒に聞いていると、思いもしないことを話してきた。

「施設の職員の方ですか、大変ですねー」

と、何とそのおばちゃんは言ってきたのだった。そのひと言で、私は変な気分になってしまった。

 おばちゃんは、私たちを施設の職員と生徒のような関係だと思ったらしい。

 私が目指しているものは、気軽に友だちとふたりで外出したり生活したりする事であった。

 でも、そのおばちゃんの一言で、日本の国と言うのはまだまだ、障害者に話し人は特殊な人だと、そう言うイメージが強くあるのだなーとおもった。

 それから、世間の目から見れば、車イスを初めてさわった、だけでも、専門家に変身してしまうケースが大半らしい。何と不思議なことだろう。

電車に乗る体験

 ある日、私は、タバコを吸う時に使うパイプを買うのに、ある駅まで行けばいろんな種類が売ってると言うが、と、友だちの中の一人に言ってしまっていた。

 私はそのとき、ちょっと欲張りかもしれないが、電車にも乗りたかったのだ。

友だちは、「じゃ行こうか」

と言ってくれた。しかし、その人は同時に、

「車イスを押して電車にまだ乗ったことはない」

とも言った。私はそのとき、

「やってみないと始まらないのでは」

と言い、その人を説得した。

 近くの駅から電車に乗るのだが、なにしろ駅という所は、予想以上に階段があるんだから、もうやんなっちゃう。なぜって、私が階段の前にくると、私は車イスに乗ったままで四人がかりで持ち上げるのだ。

 そのとき私は手に汗握るという言葉がぴったりくるようだった

 それでも足りなかったらスリリングなこと、と言ってもオーバーではないと思うような感じになるのだ。

 私だって全身に力が入ってしまって、もう大変、なのだ。

 やっとの思いで駅のホームに着くと、そこからまた問題が始まる。あなたも車イスに乗っかって、電車に乗ってみればよくわかる思う。

 電車がホームに着いてから、走りだすまでの時間が、驚くほど短いのである。車イスを押してくれている人は、私の説明でうなづいてくれているんだが、慌てずに乗ることができるか、ちょっと心配だ。

 けれど私も、わかりやすく説明していないと思うので、おあいこだよね。

 ほんとにいろいろ、あった。でも、電車に乗ることもできたし、買いたかったパイプを買うこともできた。そして、その人に、微笑みをあげた。

「不良障害者」の私

 その帰りの電車の中で、私はあることを考えていた。日本の象徴とされるお人が車イスででかけるとき、日本国の官僚たちがやっていたことを、私は電車に揺られながら思い出していた。

 そうそう、あのときは、車イスでも電車に乗りやすくするために、たしかすごく機敏な動きをした記憶がある。

 それは駅の中にスロープを作るといった技術があることを私は見てしまったのだ。

 要するに、結論としては、政府がやる気を出せば、簡単にできるんだなぁということなのだ。

 そんなことを考えながら、電車の窓を見上げると、青い空に大きな白い雲が、ポッカリ浮かんでいる。

 七月の、夏を思わせる明るい光で、人が影がクッキリと見えるような、そんなむし暑い午後だった。

 そのころの私は、毎日のように、そうだ、まさしく、そうなのだ! 

 雨の日も風の日も、何か、昔話の世界のようだけど、友だちと一緒に、とある大学まで通っていた。何の目的で、行っていたのか。目的は三つぐらいあった。

 一つは違う世界が見たかったことと、もう一つは友だちを作りたかったこと、あと一つがサークル活動をしてみたかったこと。

 そ、そうなんです。あのころは、私は七つぐらいサークルに入っていました。

 もう少し、付け加えることがあります。今では少しは言えるようになりましたが、そのときは、まだ私の頭の中に「遠慮」という二文字が支配していたのです。そこで、またまた、

 ちょっと、ズッコケる話ですが、耳の穴がつまっているので、耳そうじをしてー、と言えばよかったなぁーと思った。

 そのころ、私のことを周りの人がちょっとふざけて、不良障害者、と呼んでいました。私は面白い響きだなぁ、と感じました。その由来を聞いてみると、自宅にあんまり帰ってないことから、とか。私はそれを聞いてもっと笑ってしまった。

 少し戻るのですが、大学になぜ通うのかということだが、友だちを作りたい、それが、私が考えて、私が大切だと思っていたことだった。

 自分で考えて答えを出していくというのって、ちょっとせっぱつまっていて、気持ちがいいんだなぁーと、思ったのが、第一印象でした。

 私が友だちと一緒に、大学へでかける時間は、友だちの予定で少しは違っても、ほぼ九時か一〇時にはでかけていた。

ナンパに目覚める

 さて、私が考えている、友だちってどういう人なんだぁーと、自分で、自分に問いかけてみた。

 すると、ただの友だちとはレベルが違うんでぇー、とそういう答えが返ってきた。ということで、私が考えていることは、一味違う友だちを作りたい、そういうことを考えていた。

 友だちを作る方法は、いくつかあると思うが、私はまず一番大切なことは、お互いが通じ合えて、わかり合うこと、当時はあんまり難しいことはわからなかったので、それらを中心においてやっていくことが大切だと思っていた。

 とはいっても、私の体はいろんな場所が緊張して力が入っていて、しかも大学という所は、真面目な所でとっつきにくそうな人ばかりが目立つ人が多かった。

 のんびり休んでいる人は少なかった。私は大きな声が出しづらかったので、建物の中で話すほうが好きだった。

 もう少し、グチを言ってもいいかな、歩いている人は、もうちょっとゆっくり歩けば、話をすることができるのにねー。グチは、終わり。

 友だちと大学に行くことにしてから、四か月ぐらいたってから、面白いことがだんだん見えてきた。

 最初はわりと私を見る目が冷たい人が多かったのよねー、でも、徐々に変わってきて、え、どんなふうに変わったかと言うと、私の存在が気になりだしたらしいのだ。

 こいつは何だ、何者だ、とか、誰が連れてきたんだと、口々にそこにいた人達からそんな詞を、言っているのが聞こえてきた。

 そう言う事を続けているうちに、ついに周りにいる人たちの意識が、ここに居るのは当然なことなんだという雰囲気がただよってくるような、そんな感じに変わったのだ。友だちには、感謝の気持ちを捧げたい。

 さらにそれから一ヵ月ぐらいたったある日、いつものように、大学でいろいろと話をしていると、私の脳裏に稲妻のように、不思議な光が走った。

 その時奇妙な静けさを感じた。私は今まではあんまり考えたことがなかった事に、気づきいた。

 では何を考える事にしたのかと言うと、私という存在は、男なのだが、あぁー、とぉー、今まで私は話をしたいと思った人もやっぱり男なのだ。

 私は話しかける方なので、今まで気がつかなかったのだが、何にも構えていない人にとっては、知らない男から言い寄られる気持ちは、どうなのか真剣に悩む所だ。

 私だから許されるのでしょうか? もし話をしたい側の人が普通の人だったら……? あぁーんて、そんなことを考えていた。

 でも、考えていたのは一五分くらいで、私は、今までのことなんかすっかり忘れて、ヘーイそこの彼氏、私と一緒にお茶しない、と誘っていた。

 本当はこんな誘い方していないけど、あまり違わないとは思うのだ。それから少しは女の人にも話をしたくなってしまうかな? 私もまだまだかなぁー?

 でも、人に話しかけるときに、どっちかと言うとちょっと食事を取り入れるだけで、それが不思議と自然体になりやすいのだ。これは私のちょっとした理論かもしれない。

アパートに暮らし始める

 こうして私は夢だと思っていたアパート探しに着手した。まず山手線沿線がいいなあ、と思ったので、私は池袋を最初に選んだ。しかし、当時も今も、予想以上に障害者への差別観は厚く、不動産屋がなかなか首を縦に振ってくれない。二〇件くらい見て歩いて回っただろうか。ついに首を縦に振った不動産屋が現れました。店にいた人が、

「さっそくご案内しますので」

と言ってくれたので、わくわくした気持ちを抑えながらついて行ったものだ。

 そのアパートは交通の便がよく、静かな場所にあった。

 なかなかいい所だなぁーと、思って裏に回ってみると、先に自立生活をしていた障害者が住んでいた。

 私はそこが気にいったのだが、納めるお金がなかったので、いろいろ考えた末にとりあえず店の人に二千円を渡して帰ることにした。二、三日過ぎて、この間行ったアパートの隣に住んでいた人の部屋を訪れた。

 そこで、その人は一瞬、顔をこわばらせて私に言った。

「私が住んでいるそばに住むのはやめて」

と。私は、ガビーン、であった。でも気持ちは何となくわかった。

 つまり、障害者の命を支える介護者を取られるのでは、と思ったらしいのだ。

 思うことは自由なんだが……、まーねぇー、しかし、あの二千円のことを考えると、くやしいぜーって感じ。でもって、また、しばらくアパート探しで明け暮れたのであった。

 二度目に見つけたアパートと、やはり山手線沿線で、そこにやっと落ちつくことができ、私は友だちと一緒に歩いて見つけた。

 このアパートで友だちと一緒に暮らし始めていった。

 私は多くの友だちにめぐり合うことができた。上は五三歳くらいから、下は一二歳の若者まで、話しかけて友だちにすることができた。

 私は今まで、歳なんてあまり関係ないんだと思っていましたが、最近は私の方ではなく、向き合っている相手の方が、それも若者の方が、歳を意識することが多くなってきたので、私は頭が痛くなる。けれども、これからも、

 私は、生きるぞ!



 ひとまず、この文章はこれでおわりたいと思うのですが、このあと、かくどをかえて…… 完全に頭の中でうかんでいないのでなんとも言えませんが、書きたいなーと思っています。

 じつは私は、でんわで話すのもすきなので、よかったらお電話ください。TEL3618-6883。
(よしだ かずひこ)

おわり

PS 最近は電子メールも使えます。kazu007@terra.dti.ne.jp


この文章と「共生のイメージを探る」 斉藤龍一郎は一緒に読んでもらえるとうれしいです。