砂漠の中のダイアモンド 難民キャンプで暮らす西サハラの人々

                 by青柳 憲子(在オーストリア)

 以下の記事は「月刊 嘉麻の里」(福岡県飯塚市)の1999年4月号に掲載さ
れたものを、同誌のご好意により転載するものです。
 著者の青柳憲子さんはウィーン在住です。

 西サハラは旧スペイン領で、モロッコが武力占領しており、難民キャンプ
はアルジェリア領内にあります。
 詳細については下記をご参照下さい。 
  ARSO- Association de
 soutien a un referendum libre et regulier au Sahara Occidental WESTERN
 SAHARA SAHARA OCCIDENTAL

青柳さんからは写真も届いています。ご希望の方にはメールでお送りします
ので、下記までご連絡下さい。
E-mail:  野村民夫
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 ダイアモンドは岩石の一種ですが、極めて少ないため宝石として特に高く
評価されます。地球上に存在する様々な民族についても同様のことが言える
でしょう。多数派民族が普通の石であるのに対し、独自の伝統文化を担う少
数民族は希少価値であり、人間の中のダイアモンドにほかなりません。これ
は決して多数派民族に対する差別ではなく、少数民族の過大評価でもありま
せん。
 個々の人間が掛替えの無い存在であるように、いずれの民族も等しく貴重
な存在ですが、その違いは絵画における様々な色彩に喩えられるでしょう。
大量に登場する色彩は画面の基調となります。これが無ければ絵画は成り立
ちません。多数派民族の存在しない地球上には、少数民族も存続不可能に違
いありません。けれども画面のハイライトとして閃光のように出現する僅か
な色彩が無ければ、絵画は完成した芸術品にはなりません。地球上から少数
民族が消滅すれば、ハイライトとして輝くダイアモンドを失った人類は随分
貧しい存在となることでしょう。
 ところが不思議なことに、数少ない石であるダイアモンドは貴重品として
大切にされますが、大切な希少文化の担い手である少数民族は地球上の至る
ところで迫害されています。岩石などより命のほうが無限に尊いことを考え
れば、これは理解し難いことです。既に長らく人工ダイアは大量に利用され
ており、将来は天然ダイアに劣らない人工品が登場することも可能ですが、
少数民族の伝統文化は決して人工では作り出せないものです。この意味で少
数民族はダイアモンドのような人たちであると同時に、ダイアモンドより遥
かに貴重な掛け替えの無い存在と言わなければなりません。

<雲の民との出会い>
 偶然にも私にはダイアモンドの友達があります。 1993年、アラビア語を勉
強したいと考えていた私はオーストリア人の友達から、アラビア語を母国語
とする2人の留学生を紹介されました。それがモイナとファラで、彼女たちは、
開発援助プロジェクトの一環としてオーストリアの職業訓練機関が実施する
保母育成コースに通い、幼稚園で実習中でした。私は彼女たちからアラビア
語を教わり、彼女たちのドイツ語の勉強を手伝いました。2人は私にとって最
初のアラビア語の先生です。
 ネィティブスピーカーの友達は常に大きな支えですが、彼女たちは言葉の
勉強を越えて遥かに貴重な存在でした。彼女たちを通して西サハラの人たち
と知り合うことになったからです。彼女たちが去った翌年知り合ったのがガ
リアとシディアです。ガリアはスペイン語の先生でしたが、保母育成コース
に参加するためウィーンに来ました。シディアは奥さんと3人の子供があり数
学の先生でしたが、本格的な留学を夢見てウィーンへ来たところ、実際には
保育コース参加を強いられ、意に添わぬ留学生活を送ることになりました。
この事実を知ったのは実は3年後のことです。いずれにせよシディアはプロジェ
クト初の男性だったため別に宿舎を探す必要があり、私が隣室を提供するこ
とになりました。控え目な学者タイプのシディアは、まるで誰もいないよう
な静かな隣人で、毎週土曜日の午前中私にアラビア語の初級文法を教えてく
れました。この基礎知識のお陰で、その後繰り返し休止期間があったにも拘
らず今日に至るまで私のアラビア語学習が続いています。
 翌年、ガリアとシディアに替わってマフジュバとザハバが留学、私が毎週
彼女たちの宿舎へ通い、アラビア語とドイツ語の交換教授をしました。マフ
ジュバは毎回私の大好きな西サハラのお茶を入れてくれました。この間オー
ストリア各地に滞在するほかの留学生とも出会いましたが、彼女たちとは会
う機会も少なく、当然のことながらウィーン滞在の人たちと特に親しくなり
ました。その後 1995年にはシディアが3ヵ月、翌年はガリアとモイナが2人一
緒に3ヵ月私のところに滞在しました。もちろんアラビア語とドイツ語の助け
合いが続いたことは言うまでもありませんが、他方、彼女たちから聞いたり
自分で探し出した色々な文献を通して、次第に西サハラのことを詳しく知る
ようになりました。
 私の友達は皆大変控え目で慎ましく、まるで春の雲のように軽やかに現れ
て再び静かに去っていきました。皆が去るたびに、果たして再び会えるだろ
うかと思うのです。普通の友達はお互いに訪問したり電話を掛けたり手紙の
往復も簡単です。けれども私の友達は、アルジェリア南西端にある難民キャ
ンプに住んでいます。祖国であるべき西サハラが、もう 20年以上モロッコに
占領されているからです。彼らはサハラ砂漠西部の少数民族で、自らを「サ
ハラの民(サフラオイ)」あるいは「雲の民(アブナー・ル・グイユーム)」
と呼んでいます。かつて遊牧民であった彼らが、ラクダの舞い上げる砂煙と
ともに蜃気楼のように砂漠を移動する姿には、「雲の民」という名称が良く
似合います。

<アフリカの風>
 知り合った友達からは繰り返し「ぜひ私たちのところにも来てちょうだい」
と言われていました。私自身も彼らのため協力したいと思っていましたが、
現地へ到達する手順やルートについては、なかなか明確なイメージが浮かび
ませんでした。難民キャンプへ到達するには、モーリタニアとモロッコの国
境に近い小さなオアシスの町ティンドーフへ行き、そこから更に車で約1時間
半、砂漠の中へ入らなければなりません。
 漸く1997年になって、職業訓練プロジェクトの指導者に同行すれば、プロ
ジェクトを通して知り合った友達と容易に再会できるに違いないと考えるよ
うになりました。もちろん、いきなり真夏のサハラ砂漠へ行くのは、不可能
ではないまでも快適というわけには行きません。プロジェクトによる現地セ
ミナーも秋から春までの間に行われます。そこで私もセミナーを機会に難民
キャンプを訪問することにしました。プロジェクトの指導者である元保育専
門学校校長の女性をリーダーに、この時の同行者は幼稚園の保母さん1人、教
育学専攻の女子学生1人、私を加えて総勢4名でした。
 一行は11月マドリードから直接ティンドーフへ飛ぶ支援団体のチャーター
機に便乗する予定でしたが、チャーター機が取りやめになったため、出発は
12月に延期されました。アルジェリアの政情不安が始まって以来、殆どの航
空会社がアルジェ乗り入れ便を停止しています。このため、スペインからの
チャーター便を除き、ウィーンからティンドーフへはプラハ〜アルジェ経由
かマドリード〜アルジェ経由のルートしかありません。便数が少ないため、
私たちは1997年12月5日夕方ウィーンを発ちマドリードで一泊、6日の午後マ
ドリードを発って青い地中海を一跨ぎ、夕方アルジェに着陸。空港前のグリー
ンベルトに植え込まれた大きなシュロのシルエットが夕空に映え、ビロード
のように柔らかく軽やかな風が、アフリカの最初の挨拶でした。この風は、
多くのフランス人作家が記録している通り、深く心の奥に吹き込み訪れる人
々を虜にする不思議な力を持っています。ホテルへ向かう夜の市内には人通
りも多く、普通の大都市と変わりありませんでした。一夜空けて丘の上のホ
テルから見渡したアルジェの白い街並みは、青い地中海を背景に夢のような
美しさでした。 この日の飛行機は15時離陸予定でしたが、当然のことなが
ら乗客と荷物のコントロールが大変厳しく、実際に離陸したのは16時です。
乗客の大半は、ティンドーフの基地へ向かうアルジェリア軍の兵士と難民キ
ャンプへ向かう各国の支援グループで、一般乗客は少数派です。飛行機は少
し海岸に沿って飛んだ後、アトラスの山並みを越えてサハラ砂漠に入ります。
幸い天気が良く千変万化するサハラの表情を眺めて 2時間、18時にはティン
ドーフ上空に到達、着陸寸前に飛行機から見た難民キャンプのひとつは、ま
るで砂漠に浮かぶ雲のようでした。18時20分、前日同様再び夕暮れの中を着
陸、ここから訪問者は迎えの車で、先ずレセプション・キャンプ「ラボウニ」
へ向かいます。同時に到着した幾つかの支援グループが数台の車に分乗、私
はスペインの医療グループとともにトラックに乗りました。まるでメルヘン
の世界のように愛らしいオアシスの集落ティンドーフの町を通り抜けるまで
約45分、地平線を赤く染めていた残照も消え、夜の砂漠を走っていると、ま
るで大海原の直中を航行しているようです。星明かりの中を20時過ぎラボウ
ニ到着。訪問者のための食堂で夕食、私たちが使うドイツ語のほか、あちこ
ちからスペイン語、フランス語、イタリア語、英語が聞こえてきました。割
り当てのテントにはマットレスや毛布が沢山用意されて電灯もあります。22
時に消灯しましたが、もちろん興奮しているのですぐには眠れません。深夜
のレセプション・キャンプを散歩したりして漸く明け方になって少し眠りま
した。サハラ砂漠も冬は寒く、明け方には気温が5〜 0度近くまで下がり、日
中は15〜20度くらいまで上がります。

<難民キャンプへ>
 翌12月8日の昼食後、トラックでレセプション・キャンプを出発。舗装道路
はありますが、途中から道を離れて砂漠の中を進みます。相当の運転および
修理技術に加え地形を熟知している人でなければ、車の運転は不可能です。
砂漠の中を1時間、滞在先のテントに着きました。
 この頃から、職業訓練プロジェクト指導者の態度が異常なのに気付きまし
た。彼女は主観的には善意なのですが、かつての植民地主義者と同様、「貧
しい未開人」を「文明化」しなければならないという使命感に捕らわれてい
るようでした。用語上の違いは植民地時代の「文明化」に替わって「民主化」
という標語が使われる点だけです。また、植民地時代の宣教師は現地の言葉
を習得し「原住民」の社会に溶け込もうとしましたが、「開発援助」プロジェ
クト指導者は「非民主的な未開人を民主化するのだ」という固定観念に捕ら
われ、現地の言葉、社会構造、伝統などには全く無関心のようでした。彼女
の解釈では、スケジュールがスムーズに進まないのは「非民主的」なためな
のです。難民キャンプの極めて困難な条件から、予定時刻が守れなかったり
行き違いが生じるのはやむを得ないのですが、彼女は常に腹を立て毎日現地
の担当者に長々と文句を言っていました。もちろん、直接の被害者は現地の
通訳です。
 とりわけ現地の人たちのいないところでの、彼女の2つの発言は本質的な問
題を含んでいます。まず「彼らは、私たちの関心事を全く理解しない」とい
う発言です。これは援助を受ける側の発言としては納得出来ますが、援助す
る側の発言としては異常です。援助は、相手の必要に応じてすべきもので、
援助する側の好みを押し付けるのは善意の押し売りか偽善に過ぎません。ま
た彼女は他の 2人に「オーストリアは小国なので、我々のプロジェクトをエ
ジプトやアルジェリアのような大きな国で実施すれば、小さな地方都市で実
施するほかないが、西サハラは小さく、従って国全体に影響を与えられるた
め非常に面白い」と説明していました。この発想は本質的に植民地主義と変
わりありません。ひとつの民族や国家を外から「改造」しようとするのは極
めて危険です。破壊された建物を再建するのは簡単ですが、社会構造が外か
ら破壊された場合の長い後遺症は、旧植民地諸国に今も顕著です。加えて本
当の援助というものは、互いに尊重し学び合うという対等平等の原則に立脚
したものでなければならないはずです。これまで私は、傲慢で白痴的な植民
地主義は既に遠い過去の遺物と信じていたのですが、この経験から、いわゆ
る「開発援助」は容易に新植民地主義に陥る危険を有すること、援助プロジェ
クトにおいては受ける側だけでなく援助する側にも極めて高いモラルが必要
とされることを痛感しました。こうして難民キャンプ到着後11日間の滞在期
間中、私はプロジェクトから離れて別行動するようになりました。
 現在約 17万人が住む西サハラの難民キャンプは単なる避難所ではありませ
ん。ラボウニには、1976年2月 27日に独立宣言したサハラ・アラブ民主共和
国の亡命政府の施設があります。これを中心に4つの難民キャンプ「ウィラヤ」
があり、モロッコに占領されている故郷の都市に因んでエル・アイウン、ダ
クラ、スマラ、アウセルトと命名されています。州あるいは県に相当する各
ウィラヤには、幾つかの建物から成る行政センターと病院があり、知事が行
政責任を負っています。各ウィラヤは6〜7の「ダイラ」に区分され、各ダイ
ラにも診療室を備えた管理棟と幼稚園、小学校があります。各ダイラでは村
長が行政責任者です。更に各ダイラは、隣組とも言うべき幾つかの地域「ハ
イ」から構成されています。23年前モロッコの爆撃から逃れた西サハラの住
民が難民キャンプを築いた当初はテントだけだったそうですが、今では各家
庭にテントのほか日干し煉瓦による幾つかの建物があり、居住用の部屋、台
所、物置、トイレとなっています。また4つのウィラヤの中央には文字通り中
央病院、2つの中学校と女性のための職業学校があり、現在スペインと西サハ
ラの医療チームによる新たな病院プロジェクトも進められています。   

<難民キャンプの日々>
 日常生活も極めて良く運営管理されています。まず各家庭にブリキの大きな
水槽があるほか各ハイに共同の水槽があり、毎日1〜 2回給水車が回り水を補
給するので、砂漠の中にも拘らず水不足の心配はありません。様々な国際機関
・支援グループから送られる穀類、小麦粉、砂糖などの基本食糧や缶詰・保存
食品類は規則的に配給されます。生野菜や果物は灌漑による共同菜園で作られ、
これも定期的に配分されます。
 ラボウニでは井戸掘りに協力しているイタリア人技師に出会いました。各家
庭でヒツジや山羊が飼育されており、時々屠殺され新鮮な蛋白源となります。
時たまラクダも屠殺され、ハイで配分されます。家畜の飼料は人間の残飯、ぼ
ろ布、紙屑、ダンボールなどです。ネコも良く見掛けました。砂漠の中でも人
間の生活圏にはネズミが付き物なので、ネコは大切なペットのようでした。衣
類やその他の日用品も定期的に配分され、支援物資の中に特別の品物があった
場合は不公平の無いよう抽籤が行われます。
 各家庭に幾つかプロパンガスのボンベがあり、炊事と照明に使われます。殆
どの家庭に太陽電池がありますが、まだ性能が悪く点滅したり光度が弱いため、
プロパンランプの方が遥かに快適です。ラジオやカセットレコーダーはほぼ全
家庭にあり、アルジェリアの放送が受信できるほか、西サハラ独自の放送番組
もあります。ラボウニの亡命政府施設や専門学校にはコンピューターも多数置
かれているそうですが、ハイテク機器は砂などの埃に弱いので沢山カバーを掛
けたり色々苦労があるようです。
 物資の配給が良く管理されているため商店などの必要はありませんが、ラボ
ウニにスーヴェニールショップがあるほか、各ダイラの管理棟に売店があり、
また日干し煉瓦の物置を利用した小さなお店も私の住んだダイラの数カ所で見
ました。タバコ、ライター、ビスケット、トゥビットと呼ばれる頭に巻く布な
ど日用品小物を売っています。こうしたお店は漸く 2年ほど前から開かれるよ
うになったそうで、難民となる前に商人だった人たちが以前の稼業を再開した
もののようです。難民キャンプの人たちも時たま買い物の必要があるようです
が、常時キャンプを訪れる国際機関や支援組織の人たちにとってもタバコなど
買うのに便利です。
 訪問者のための食事は滞在先の家庭で作ってくれます。様々なスープ、スパ
ゲッティ、サラダ、色々な具を使ったリゾットなど変化に富み、各家庭で焼く
パンは常に新鮮で素晴らしい味でした。特別の機会には北アフリカで最もポピ
ュラーなクスクスが作られ、ラクダ肉のロースト、サラダのほか、ドーナツに
似たボール状の甘いお菓子も登場します。トイレも良く掃除され、大きなブリ
キの容器に水が溜められいて言わば手動の水洗式です。どの家庭でもトイレの
小屋は広く、ここにバケツでお湯や水を運び身体を洗うことが出来ます。空気
が乾燥していて砂埃以外には大気汚染も全くないので、風呂が無くても苦にな
りません。
 難民キャンプの実質的な担い手は女性です。 1991年以来国連決議に基づく
停戦協定が成立していますが、大半の男性は兵士で、交代でモロッコ占領地域
との境界にある前線へ待機しているからです。キャンプの大人たちは男女とも、
ラボウニや各ウィラヤ、ダイラの管理棟で働くか、キャンプ維持の日常作業に
従事しています。日干し煉瓦で家を建てたり修理したり、家畜の世話、配給物
資の運搬その他、仕事は沢山あります。
 子供たちは毎日幼稚園と小学校へ行きます。他のイスラム諸国同様木曜日が
半ドンで金曜は休日です。私の滞在したダイラには日干し煉瓦で新築された新
しい小学校がありました。難民キャンプでは初等教育が普及しており、様々な
統計資料でもアラブ諸国のトップに数えられます。中等教育までは既にキャン
プ内で可能となっていますが、更に専門的な高等教育を受けるためには外国へ
行かなければなりません。支援機関や各国政府の奨学金などで留学した人たち
が難民キャンプで医師、教師、技師など専門職を担当しています。西サハラの
人たちの言葉はアラビア語の方言のひとつハサーニアで、第一外語はスペイン
語、専門職の人たちが英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ロシア語な
ど夫々留学先の言葉を話します。私は日本語とドイツ語のほか英語、フランス
語、イタリア語、標準アラビア語を少し話すので、難民キャンプの人たちと直
接話すことが出来ました。
 私にとって難民キャンプ訪問の大きな目的のひとつは、ウィーンで知り合っ
た友達と再会することでした。ところが、現地へ行けばすぐ皆に会えると思っ
たのは大間違い、 4つのウィラヤは夫々車で 1時間かそれ以上離れており車の
台数も少ないため、他のウィラヤを訪問するのは簡単ではありません。シディ
アは現在イスラム諸国の赤十字に当たる「赤い三日月」で働いており、ラボウ
ニの訪問者名簿で私の名前を見つけ、しかも私が滞在したウィラヤ「アウセル
ト」内の隣りのダイラに住んでいるため、迎えに来てくれました。彼の家まで
は歩いて 30分ほどですが、よそ者には、どこをどう歩けば良いのか分かりま
せん。漸く彼の家族と知り合い、 2度目には親戚や友人たちも集まり一緒にク
スクスやラクダ肉の料理を食べました。この時初めてシディアから、ウィーン
では保母育成コースに参加するよう強制され大変不幸だったと打ち明けられま
した。彼は今も再留学を希望しているのですが、奨学金を得るのは大変難しい
ようです。ガリアは一番遠いウィラヤ「ダクラ」に住んでいますが、アウセル
トに親戚があり、ここに皆を招待してくれました。モイナ、マフジュバにも再
会しましたが、ゆっくり話しをする暇はありませんでした。
 滞在先の主婦ドワイダは7人の子持ち、ご主人は数ヶ月前から前線待機で留
守でしたが、親戚の人が入れ替わり訪問し、また年上の子供たちが家事を手伝
っていました。別の家庭では主婦のアフディドフムが私の指と手をヘンナで染
めてくれました。これは女性の来客に対する伝統的な接待で、色々な模様の染
め付けが数ヶ月残るため、連帯表明であり大変良い思い出となります。数年前
初めて知り合ったモイナとファラから試しに指を一本だけ染めてもらった経験
があるので、本格的なヘンナ染めは私にとって大きな喜びでしたが、プロジェ
クト参加のオーストリア人女性は手が汚れているように見えるからと断ってい
ました。私の場合ヘンナ染めに偏見や抵抗感が無いのは、あるいは日本にもア
イヌの刺青や古い時代のお歯黒の習慣があるためかも知れません。ヘンナ染め
が終わるまで少なくとも3時間ほど掛かるため、アフディドフムが香を焚いて
くれました。もちろん遊牧民のお茶を飲み、お喋りをしながら過ごすのです。
こうして過ごす間に、隣りの男の子フセインと親しくなりました。5才くらい
で、アフディドフムの話では人見知りが強く、私はフセインがなついた初めて
の外国人とのことでした。フセインの夢はパイロットになることです。
 ある日、ドワイダの家に近い幼稚園の日陰に座って日記を付けようとしてい
たところ子供たちが集まってきて、中のひとりが標準アラビア語で話し掛けて
きました。目のきらきらした可愛い少女でハキーマという名前でした(この名
前は賢者を意味するハキームの女性形です)。学校の国語で標準アラビア語を
習っていても日常生活ではハサーニアしか話さない子供が多いので、ハキーマ
のような子供は例外です。私はこの日初めてドワイダの家に近い「大通り」を
越え、隣りのハイにあるハキーマの家に行きました。ハキーマの両親は管理棟
に務めていて留守でしたが、ハキーマの兄や姉妹と祖母がいてお茶をご馳走に
なりました。翌日も又ハキーマと幼稚園前で待ち合わせ、この日はハキーマの
家で昼食をご馳走になりました。姉のマムニーアもはっきりした標準アラビア
語を話します。ハキーマの夢もパイロットになることで、マムニーアは専門学
校へ行ってエンジニアになりたいと言っていました。
 こうして難民キャンプの人たちと親しくなるにつれ、西サハラ少数民族の将
来を思って夜眠れなくなり、夜な夜な深夜の散歩をするようになりました。街
灯はありませんが空気が澄みきっているため月や星の光で夜も明るく、常に管
理棟の車がパトロールに回っているため、西サハラの難民キャンプは恐らく世
界で一番治安の良い場所に違いありません。2度ほど通り掛かりの人から不審
に思われ声を掛けられましたが、私の片言の説明で納得してくれたようでした。
難民キャンプでも結婚の祝宴があり、こうした散歩のおり何回か遠くから祝い
の歌が聞こえてきました。その調べは軽やかで屈託が無く、どこか日本の民謡
にも似ています。古い時代、アフリカの遊牧民族はラクダでサハラ砂漠を縦横
に移動しました。このため西サハラの少数民族はペルシャやインドの文化から
大きな影響を受けているとのことです。シルクロードの東端は日本ですが、あ
るいは西端は西サハラなのかも知れません。
 遊牧民族の伝統の中で最も魅力的なもののひとつは、テントでのティータイ
ムです。全てが最小限に集約されている遊牧生活から生れたティータイムは、
道具立ての多い日本の茶道のように堅苦しくなく、それでいて長い伝統が醸し
出す独特の雰囲気と美学があります。
 毎日、食事の後、仕事の合間、短い訪問や会合などに、繰り返しお茶が入れ
られます。言わば人々を引き付け結び合わせる魂の重心なのです。このお茶が
中国産であるところからも、隊商の手でシルクロードからアラビア半島を経て
サハラ砂漠へお茶のもたらされたことが想像されます。遊牧民のお茶は砂糖を
沢山入れた甘みの強いものですが、乾燥した砂漠の気候風土には最適です。お
茶を入れるのは家人だけでなく、親しい隣人であったり、尋ねてきた親戚であ
ったり、臨機応変で居合わせた誰かがお茶を入れます。飲みたければ一緒に続
けて飲んでも良く、要らなければ断っても良く、お喋りしたり、黙って皆の話
に耳を傾けたり、脇で昼寝をしたり、あるいは自分の日課に合わせてテントの
隅に行きメッカに向かってお祈りをしても構わないのです。 1回のティータイ
ムには小さなコップで順次3杯のお茶が飲まれます。1杯目は人生のように苦
く、2杯目は恋のように甘く、3杯目は死のように穏やかな味がすると言われ
ます。
 難民キャンプを去る前日、私は一日中アフディドフムのテントに座り全ての
ティータイムを楽しみました。次々と隣人や親戚が訪れては去っていきます。
私はお茶を飲みながら隣りの人と話しをしたりメモを付けたり人々の様子を眺
めて過ごしました。昼食後、テントの一隅でぐっすり昼寝をしていた人が目覚
め、隣りに座っていた人と挨拶を始めました。西サハラの伝統的な挨拶はとて
も丁寧で長く続きますが、この2人は特に丁寧で、挨拶の交換は30回続きまし
た。テントの入り口からは青空と砂と透明な大気のミクロコスモスが見えます。
穏やかな冬の午後、サハラ砂漠の風は優しく、外を行き来する人たちの衣装が
そよ風にゆれ、まるで陽炎のようです。フセインがボールで遊んでいます。と
ても難民キャンプとは思えない平和で静かな時が流れていきます。この日の夕
焼けは素晴らしく、ハキーマやフセインなど子供たちと散歩しながら私は去り
難い思いに捕らわれました。

<独立運動の歴史>
 西サハラの少数民族は、15世紀にアラビア半島南部からサハラ砂漠西部へ
移住してきたイスラム教徒とベルベル人の遊牧民が融合した部族の連合体で、
極めて独立性が強く、しかも早くから各部族の代表による「40人集会」の共
同統治が確立されていました。これは北アフリカのイスラム化以降今日に至
るまで様々な王朝が交代してきたモロッコや、最も強力な部族が支配権を握
ってきたモーリタニアとは明確に異なる西サハラの特徴です。
 18世紀後半、ヨーロッパ諸国によるアフリカの植民地化が進行する中で、
カナリア諸島に進出していたスペインが1884年、現在の西サハラに当たるリ
オ・デ・オロ(黄金海岸)領有を宣言。翌年、アフリカの植民地分割を確定
したベルリン軍縮会議で「スペイン領サハラ」が列強によって承認されまし
たが、実際には海岸に要塞を築いただけで、遊牧民の抵抗が強く、内陸に全
く進出できない形骸的な植民地支配に過ぎませんでした。この状態は今世紀
30年代まで続き、当時の模様はサンテグジュペリの「人間の土地」「リオ・
デ・オロ」にも描かれています。フランスの軍事的援助で遊牧民の抵抗を鎮
圧、スペインが実質的な植民地支配を確立したのは漸く1936年以降のことで
す。
 第二次大戦後の植民地独立時代、1965年にはスペイン領サハラも国連の
「独立化リスト」に加えられました。この時期には様々な独立運動のグルー
プが組織されましたが、スペインからの完全独立を求める大規模なデモが始
まったのは 1970年前後からです。これらの平和的デモがスペインによって武
力鎮圧されたため、1973年5月10日解放軍を有する独立運動の組織としてフレ
ンテ・ポリサリオ( Frente poplar para la liberacion de Saguia el
Hamra y Rio de Oro の略称)が結成されました。その結成メンバーの一人が
ルワリです。
 私が難民キャンプを訪問したもうひとつの大きな目的は、ルワリについて
詳しく知ることでした。1994年、私のところに滞在したシディアが持ってい
た1993年のカレンダーには西サハラの民族衣装を着けた女性が並び、その左
上に小さなポートレートがありました。誰か尋ねると、ポリサリオの創設者
で名はルワリ・ムスタファ・サイード、1976年に戦死したとのことでした。
その後詳しいことを知る機会が無いまま、常にチェ・ゲバラと比較しつつ想
像を巡らしていたのです。幸い難民キャンプにはルワリを直接知っている人
たちが大勢います。30代後半以上の男性の多くは当時兵士としてルワリの演
説を直接聞いたことがあり、私の滞在したダイラの村長はルワリと行動をと
もにした一人で、村長の計らいで、ルワリが戦死する前の10ヵ月彼の運転手
を務めたサレクからも当時の思い出を聞くことが出来ました。
 ポリサリオは、ルワリを始めモロッコのラバト大学で学んだ西サハラ出身
の大学生が中心となって従来の様々な独立運動グループを統合したもので、
このため西サハラ住民の圧倒的な支持を受け、結成後間もなく国連、アフリ
カ統一機構など国際機関からも西サハラ住民の代表組織として承認されまし
た。ポリサリオはルワリ一人の力で結成されたものではありませんが、それ
以前の様々な独立運動グループを結集するため彼が決定的な役割を果したこ
とは明らかです。
 エル=ワリ・ムスタファ・サイード(通称ルワリ)は 1948年の生まれで、
正しく全世界的な学園紛争世代の典型的な人物です。当然の帰結として彼は
徹底した進歩主義者でした。このことは、彼が手本とした人物がアルベルト
・アインシュタインとパトリス・ルムンバだったことからも明らかです。彼
はエジプト、シリアに滞在して両国の国家建設と近代化を研究、また西サハ
ラ独立への支持を得るためヨーロッパ諸国のほかベトナムなどアジア諸国を
も歴訪しています。難民キャンプで私がルワリのことを尋ねた人たちは皆ル
ワリを真の意味での民族主義者と呼んでいましたが、ルワリは民族自立を社
会進歩の一環と考えていたに違いありません。同時にルワリは敬虔なイスラ
ム教徒でした。このため伝統的あるいは宗教的立場から植民地支配に抵抗し
ていた言わば長老グループと左翼志向の学生グループを結び付ける役割を果
しました。この点でルワリはポストモダンの人間像とも言えます。進歩主義
者の多くは長らく、宗教を近代化の障害と見てきましたが、ルワリは信仰と
進歩主義が両立しうることを示しています。ルワリと行動をともにした人た
ちや彼と出会ったヨーロッパのジャーナリストがこぞって強調しているのは、
彼の極めて控え目で謙虚な態度と寝食を忘れた努力で、神出鬼没の東奔西走
ぶりから周囲の人々はルワリをタイール(鳥)と呼んでいたそうです。
 当時スペインは人口調査を行い、独立の意向を問う住民投票の準備を始め
ましたが、モロッコとモーリタニアが西サハラの領有を主張、 1975年11月に
は「グリーンマーチ」の名のもとにモロッコが35万人の非武装モロッコ人を
送り込み西サハラを占領しました。独裁者フランコの死など国内の混乱が続
くスペインはモロッコとモーリタニアに譲歩、南からはモーリタニア軍が西
サハラに侵入しました。戦闘の際ルワリは常に最前線で闘い、多くの人々は
これに反対しましたが、彼は「先頭に立って闘うのは指導者として当然の義
務であり、全ての母親同様、自分の母親も息子を誇りにしたいのだ」と説明
して譲りませんでした。こうして1976年6月、ルワリはモーリタニア軍との戦
いで戦死したのです。
 ルワリは弁舌爽やかで説得力があり、演説の聴衆にも会話の相手にも深い
印象を与えたということですが、記憶力にも優れた彼は常に下準備無しに演
説したので、残念なことに、演説原稿などは殆ど遺されていません。彼の生
涯や思想に関する纏まった記録も殆どありませんでした。彼から深い感銘を
受けたレバノンの女性ジャーナリストが伝記を書いているほか、 1997年には
スペインのサラマンカ大学から伝記が出版されています。ルワリは正しく西
サハラ少数民族の伝統と抵抗の歴史から生れた人物であり、今後更に研究さ
れ高く評価されるようになるでしょう。

<住民投票の行方>
 ポリサリオの解放軍は極めて不十分な装備と困難な条件にも拘らずモーリ
タニア軍を撃退、間もなくモーリタニアは領有権を撤回しましたが、国土の
約 70%は今日に至るまでモロッコに占領されています。既に1973年以降、ポ
リサリオ解放軍に対するスペイン軍の攻撃によって最初の難民がアルジェリ
アに逃れ、その後モロッコ軍の爆撃により大半の西サハラ住民が難民となり
ました。1976年の独立宣言以来1982年にはアフリカ統一機構にも加盟、既に
72カ国が独立を承認しています。80年代後半からは国連で繰り返し住民投票
実施が決議され1991年漸く停戦が成立、同時に住民投票実施を管理する国連
機関としてMINURSO(Mission des nations unies pour le referendum au
Sahara occidental)が活動を開始しました。
 当時の国連決議では1991年中に住民投票が実施される予定でしたが、モロッ
コは当初から国連の平和プランに反対で、住民投票は繰り返し延期されてき
ました。国連決議による住民投票では、1974年にスペインの行った住民調査
が投票資格の前提で、占領後送り込まれた大量のモロッコ人には投票資格を
認めていません。これに対するモロッコの主張は、西サハラは本来モロッコ
の一部であり、スペイン植民地時代モロッコに移住した元西サハラ住民をも
投票者名簿に加えるべきだと言うものです。しかしモロッコと西サハラは人
種や言語・伝統文化の面から明らかに異なっており、また植民地時代を通し
てモロッコは何ら西サハラ解放の努力をしていません。しかも武力で追い出
されたのではなく自らの意志で移住した移民についても、モロッコの主張す
るように出身国での投票権を認めるとすれば、大多数のアメリカ人はアメリ
カのみならずスペイン、イタリア、メキシコ、ロシアその他世界各国の選挙
権を有することになり、世界各国で暮らす日系二世三世など、選挙や住民投
票の折りには日本へ戻って来ることになります。
 モロッコが西サハラ領有権を主張するようになったのは、1963年西サハラ
のブークラーで有力な燐鉱脈が発見されてからです。また、カナリア諸島を
望む大西洋沿岸も極めて豊かな漁場で、日本の水産業界も既に漁場調査を行
っています。こうした経済的利害に加え、西サハラ占領政策はモロッコ国内
の政治問題を回避する役割も果しています。またモロッコは、ポリサリオを
アルジェリアの手先と主張しています。もちろん、植民地時代恣意的に引か
れた境界線を巡ってアルジェリアとモロッコの間には度々国境紛争がありま
したが、アルジェリアの意志や利害とは関係なく、西サハラの住民が独立を
望んでいることは確かです。過去数年、国連の平和プランは全く停止状態で
したが、1997年コフィー・アナン国連事務総長がアメリカのジェームス・ベー
カー元国務長官を国連特使に任命。ベーカー特使の仲介で、1998年12月7日を
投票日とする住民投票実施プランが作成され、ポリサリオもモロッコもこれ
を承認しました。けれども 1998年5月末の段階で再び暗礁に乗り上げ、秋に
コフィー・アナン自らモロッコ、モロッコ占領下の西サハラ、難民キャンプ
などを歴訪、住民投票は又しても1999年末に延期されました。私がこれまで
に読んだ英語、ドイツ語、フランス語の文献・資料や難民キャンプの人たち
から聞いたところから判断する限り、西サハラ住民の独立の要求は全く当然
で自然なものです。残念ながら国際政治では、正義や論理的根拠の正否では
なく、国際的利害や力関係による御都合主義が優先され勝ちです。西サハラ
の人たちが自らの独立国で平和に暮らせるようになるための唯一の道は、強
力な国際世論がモロッコを批判し、国連をバックアップして公正な住民投票
を実現することだけです。

<後記>
 私は1985年からウィーンに住み、翻訳のほか、オーストリアおよび中欧諸国
の文化に関する記事を書き、また和独辞典、和英辞典の編纂にも携わっていま
す。学生時代の専攻が西洋史だったため基礎知識はありましたが、ヨーロッパ
を知れば知るほど、アラブ世界との対立および交流の歴史抜きに今日のヨーロッ
パを深く理解することは出来ないと考えるようになりました。一見まるで違う
アラビア語の中にも実はヨーロッパ語と共通の単語が多いのです。
 アラブ人と接するようになってから、アラブ諸国では日本に対する期待が大
きいことを発見しました。アラブ諸国の人たちは口をそろえて「近代化ととも
に伝統を失ったアメリカやヨーロッパと違い、日本は伝統を守りながら近代化
を果した模範的な国だ」と言います。当初は、現実はそうではないと説明を試
みましたが、だんだん彼らの期待を即座に否定するのは申し訳ない気がして、
逆に何とか期待に応えられないものかと考えるようになりました。西サハラの
難民キャンプも例外ではありません。国際機関や支援グループのメンバーとし
て常時多くのヨーロッパ人が難民キャンプに来ていますが、植民地時代と変わ
らない傲慢なヨーロッパ人が多いため、難民キャンプの人たちは遥かな日本に
大きな期待を抱いています。帰路ティンドーフからアルジェへ向かう飛行機で
隣席に座ったアルジェリア人のMINURSO職員も、住民投票実施の国際監視に日
本が参加することを期待していました。難民キャンプ訪問から早くも1年、本
来なら既に住民投票が終わっているはずですが、まだ前途は多難です。植民地
時代末期スペインの杜撰な対応によって今日の事態を招いたことに対する責任
感から、スペインには西サハラ独立支援の民間組織が非常に多く、積極的な支
援活動が展開されていますが、スペイン政府はモロッコに対し断固たる態度を
取ることが出来ません。モロッコの地中海沿岸にはセウタ、メリリャなどスペ
インの飛び領地があり、モロッコによる併合を恐れるためです。
 今後の動向を左右するのは国際世論です。難民キャンプの人たちの期待に応
え、日本からも積極的な支援が寄せられることを祈ってやみません。(終)

 私は西サハラ支援の日本語ホームページを作りたいと考えていますが、既
にスペインを始め世界各国の支援団体によるインターネット・サイトがあり
ます。スペイン語を除き中心的なサイトはARSOです。フランス語を基礎とす
るホームページですが、英語、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語のペー
ジがあり、最近はウィークリーニュースにドイツ語とスウェーデン語が加え
られました。イギリス、アメリカを含む各国支援団体のサイトにもリンクで
きます。
ARSO Association de soutien a un referendum libre et regulier au
Sahara Occidental http://www.arso.org
e-mail: mailto:arso@arso.org.
Adress: cp2229, CH-2800 Delmont 2
Tel.&Fax: 0041-32-4228717

●砂漠の中のダイアモンド(特別編)
  「西サハラ・キャンペーン東京」紹介      by野村 民夫

 西サハラの人たち(サハラウィ)を支援している「西サハラ・キャンペー
ン東京」について紹介致します。

 旧スペイン領西サハラは、1975年にスペインが秘密協定によってモロッコ、
モーリタニアに分割譲渡して施政権を放棄したため、翌年、ポリサリオ戦線
がサハラ・アラブ民主共和国の独立を宣言し、現在に至るまで74カ国に承認
されました。
 しかし、南のモーリタニアとは和平協定を結び占領を終結させたものの、
北のモロッコに武力占領され現在に至っています。占領下での人権侵害は一
向に改善されていません。
 西サハラの帰属を決める国連監視下での住民投票が1992年に行われること
になっていたので、前年にポリサリオ戦線のアジア局長が来日したのを機会
に、現地に行った人や個人として支援活動をしていた人たちが集まって会を
発足させました。そして、学生ら約 10人が投票監視団として現地入りする予
定でしたが、投票は延期になってしまいました。
 1992年、「西サハラ女性連合」が多田謠子・反権力人権賞を受賞したので、
その賞金によって代表が来日し、大阪、香川、東京で講演しました。
 しかし、モロッコの妨害によって住民投票が何回も延期されるに伴って活
動は停滞し、その間に数人が現地入りしたに留まっています。
 現在は、会報を年 3回発行しています。

 地理的にも遠く、イスラム教であることもあって、日本では関心が薄く、
パリ・ダカール・ラリーの時しかニュースになりませんが、独立すれば、豊
富な水産資源を巡って日本との関係も深まるでしょう。
 モロッコでは本年 7月に38年間君臨してきたハッサン国王が死去したので
変化が表れるのではないかと言われています。四半世紀にわたるサハラウィ
の闘いが来年7月の住民投票によって今度こそ実を結ぶことを期待しています。
また、住民投票の結果が、東ティモールの様に踏みにじられないように、国
際的な圧力が是非とも必要です。
 どうか、アフリカ最後の植民地の行方に注目して下さい。

連絡先
〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1 立教大学法学部
        飯島みどり研究室内西サハラ・キャンペーン東京
Tel:03-3985-2608
Fax:03-3985-0279(飯島研究室宛と明記のこと)

○本の紹介
「蜃気楼の共和国? 西サハラ独立への歩み」
(新郷啓子著、現代企画室、1993年、2200円)
 著者本人に紹介文を書いてもらいました。

 パリで17年間、様々な形でサハラウィの支援活動をしてきました。日本で
1991年日本サハラウィ協会(現在の西サハラキャンペーン)が誕生したので、
その活動の役に立てれば、と思い書いたのがこの本です。
 本の中でも語っていますが、ヨーロッパの各国支援委員会は毎年、夏休み
になると難民キャンプの子供たちをそれぞれの国に迎えています。昔フラン
スに来たことのある女の子が、前回私がキャンプ訪問をした時はすっかり美
しい女性に変貌していました。
 年月の流れにつれ移り変わるものを知らされる一方、これほどの時を費や
しても今だ祖国に帰れない人々の道のりが、不条理に思えてなりません。国
際社会がこの人々に約束した来年の住民投票と帰還が、安全、自由そして公
正な条件の下で実現されるよう、ひとりでも多くの人にこの問題を見守り続
けていただきたいと思います。不正行為は、往々にして人の目の届かないと
ころで起きるものですから、こうした事態を未然に防げるかどうかは私達の
注目次第ともいえるでしょう。
*No11の「アフリカ関連WEBサイト」で紹介した『現代企画室のページ』
にも掲載されています。
http://www.shohyo.co.jp/gendai/africa.html<

○ホームページ紹介
 ポリサリオ戦線を支援するホームページは各国にありますが、中心となっ
ているのは次の通りです。毎週のニュースは、英語、フランス語、スペイン
語など数カ国語で書かれていますが、本文はメール(英語)で受け取ること
もできます。

ARSO - Association de soutien a un referendum libre et regulier au Sahara
Occidental
http://www.arso.org/index.htm

リンクされているページには、写真や音楽が豊富なところもあります。
日本語のホームページを開設したいので、ご協力をお願い致します。

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