<沖縄県第三準備書面> 第二 沖縄の苦難の歴史



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 一 戦前の沖縄
  1 琉球処分以前
    琉球処分以前沖縄県の前身である琉球の歴史は、五、六世紀以来中央政府の
   統一的支配の下にあった他府県の歴史とは異なり、本土社会とは別個の国家形
   成の途を歩み、琉球王国を作り出していた。
    一六〇九年三月四日、徳川家康から「琉球征伐」の許可を得た薩摩藩の島津
   氏は、加山久高を総大将に三〇〇〇余の兵と一〇〇隻以上の船をもって、鹿児
   島方、国文方、加治木方の三手にわかれ薩摩の山川港から出兵した。
    当時、奄美大島諸島は琉球王の統治下にあったので、薩摩軍はまず奄美大島
   を征服した。
    琉球王府は、奄美大島諸島が薩摩軍によって征服されたことを知り、和睦の
   使者を薩摩軍のもとへ送る計画を立てたが最早手遅れだった。薩摩軍は沖縄本
   島北部の今帰仁港に押し寄せていた。王府は今帰仁に和睦の使者を送ったので
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   あるが樺山久高はこれを拒否した。
    薩摩軍は三月二九日に今帰仁港を出発し、一隊は本島中部の大湾口に上陸し、
   他の軍は首里王府の攻略に向かった。
    琉球王府は、越来親方を大将として応戦したのであるが、薩摩軍の鉄砲の威
   力の前にはなす術もなく、琉球側の決定的な敗北に終わり、四月五日首里城明
   け渡しとなった。
    一九〇六年五月二九日、薩摩軍は琉球の尚寧王を捕虜として薩摩へ連行した。
    それ以降、琉球王国は、一八七九年の明治政府による「琉球処分」まで、薩
   摩への付庸と清国への朝貢という二元的な従属体制、いわゆる日清両属の政治
   形態を余儀なくさせられたのである。
    薩摩は、琉球王国を征服し、二五〇年余王府を中国貿易の手段として利用収
   奪していった。民衆は、王府と薩摩の二重の収奪による苦難の歴史を強いられ
   ていった。
    後に薩摩藩が明治維新の中心的勢力になりえたのは、琉球からの収奪による
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   財政力に大いにあずかっていると言われている。
  2 琉球処分
    徳川幕府は、西欧列強に開国を迫られ、国内の政治的経済的行き詰まりによっ
   て鎖国政策がつき崩され、徳川三〇〇年の幕府は崩壊し、一八六八年明治政府
   が成立した。
    一八七一年、廃藩置県が実行されたが、琉球はそれから除外され鹿児島(薩
   摩)の管轄に置かれた。
    ところが、一八七一年一二月、沖縄の宮古島の漁夫六九人が台湾に漂着し、
   その中の五四人が殺害されるという事件が発生した。この事件を契機にして、
   明治政府は、琉球の日清両属を清算し、琉球が日本のみに専属していることを
   公然化させるため、一八七二年、琉球を鹿児島県の管轄から外し、「琉球藩」
   とし、尚泰王を琉球藩主とした。
    その三年後、明治政府は「琉球藩」の処分政策を推進していった。
    琉球処分は、明治政府による近代国家における国家主権の排他的行使という
   前提に立ち、琉球の日本に対する忠誠関係を一元化し、清国の伝統的な臣従、
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   朝貢関係の断絶、破棄を迫るものであった。
    それゆえ、日清間の緊迫した外交問題となっていった。
    琉球の内部においては、士族支配層の一部が明治政府の琉球処分に執拗に抵
   抗し、それを阻止すべく救援を求めて清国へ渡り清国政府へ訴えた。これらの
   集団を脱清派と総称している。
    しかしながら、明治政府は、士族支配層の意思を抑圧し、内務大丞松田道之
   をして、一八七九年三月二七日、一六〇人の警官と四〇〇人の軍隊を琉球に派
   遣し「琉球処分」を断行していったのである。
    この琉球処分は、明治政府のもとで、琉球が日本の近代国家の中に強制的に
   統合されていく過程であった。しかし、その過程は、琉球側(支配者及び人民)
   の主体的な意思や働きによって導かれたものではなかった。むしろ琉球の支配
   階級(士族)の反対・抵抗を押さえて、明治政府の一方的な権力恣意の貫徹と
   して実現したものである(金城正篤著『琉球処分論』)。
    ところで、この琉球処分期に、憂国の自決を遂げた琉球士族の一人の人物が
   いた。林世功という志士的人物であった。同人は、琉球処分直前に清国へ脱出
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   亡命し、清国において琉球処分に反対する運動を展開し、清国の救援を求めて
   奔走した。ところが、一八八〇年、日清両国の間で、沖縄本島を日本の支配下
   に、離島の宮古、八重山二島を清国に割譲して琉球を分割統治する「分島改約」
   条約が締結されようとしていた。
    明治政府の提議によるこの条約案に対し、林世功は絶望し、最早一死をもっ
   て「憂国」の至情を貫徹する以外に道はないと決意し「辞世」を残し自決して
   いった。林世功の死は、まさに小国琉球廃藩の哀史の象徴であるとともに、明
   治政府の武断と強権、琉球の両断に対する抗議の自決であり、国家エゴイズム
   に対する一身をかけた行動として歴史の一ページに記されている。
  3 旧慣温存政策
    明治政府は、琉球処分によって琉球を強制的に日本の版図に組み込んでいっ
   たのであるが、支配階級を慰撫するために、他県ではすでに実施されていた国
   政参加、地租改正、法律の一元化等の近代国家としての制度改革を遅らせるい
   わゆる「旧慣温存政策」を採った。
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    これは、結果として沖縄が近代国家として発展しつつあった日本の中におい
   て政治、経済の面で大幅に遅れることになった。
    この遅れが沖縄県民に他府県人と平等に認められていないという、ある種の
   屈辱感と悲哀をもたらす大きな要因となり、できるだけ日本化しようとする為
   政者や教育界の動きとなっていった。また、昭和に入り、中央での国民精神総
   動員運動の流れに伴い、県内でも国民的同化・一体化が強くおしすすめられた。
  4 昭和の沖縄−昭和元年から沖縄戦まで
 (一) 苦難の連続
     一九二五年に始まり一九八九年まで、六四年に及ぶ「昭和」時代はここで
    あつかう沖縄戦までの二〇年と、それ以後の時代とに大別できる。
     「昭和」の前半二〇年間は、戦乱に満ちた暗い時代である。いわゆる「十
    五年戦争」とも言われるように、軍事力を背景にした日本の植民地支配に対
    して、中国をはじめとするアジア諸国が英米の支援を受けて抵抗し、泥沼の
    「戦乱の時代」となった時代である。
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     「万邦協和」・「八紘一宇」の名のもと日本軍は中国をはじめアジアの近
    隣諸国民に癒しがたい甚大な被害を与えた。国民は、「聖戦遂行」を至上命
    令とする国策によって、戦場と銃後の別なく塗炭の苦しみを強いられていた
    が、「治安維持法」下で、国民の自由な権利はことごとく剥奪され、国策に
    反抗したり、批判したりする者は「国賊」のレッテルをはられた。
     「一口に『昭和時代』といっても、その内実は、けっして単一なものでは
    ない。昭和改元から日本が戦争に負け無条件降伏を余儀なくされた一九四五
    (昭和二十)年八月までの二十年間とそれ以後の四十三年間とでは、一面で
    は別の時代といってもよいほど、その歴史的内実は、異なっていた。
     前半の『戦争時代』は、『大日本帝国憲法』に基づく『絶対主義的天皇制』
    下にあって、教育は皇国の道を中心にすえた教育勅語によってなされていた。
    それに対し、後半においては、日本国憲法に由来する主権在民の『象徴天王
    制』下で、教育も教育基本法に依拠して行われた。
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     とはいえ、実質的には必ずしもすべての面で根本的変容があったわけでも
    ない。断絶、もしくは非連続のものもあれば、戦前から現在に至るまで連続
    性を保ち連綿と生き残っているのもある。言い換えるなら昭和の歴史は、戦
    争の有無にかかわらず、断絶と連続の統一体として織り成されてきたともい
    える。
     沖縄にとっての『昭和』は、日本(本土)の場合とは、大いに趣を異にし
    ていた。沖縄の昭和史においては、本土で見られたように連続とか断絶=非
    連続といった変容はほとんど見られず、地元住民の受難との関連でいえば、
    苦難の『連続』性だけが目立ったといっても過言ではない」(大田昌秀『検
    証 昭和の沖縄』二〜三ページ)。
 (二) 差別的政策と思想弾圧
     昭和四〜五年の世界経済恐慌、大正一四年(一九二五)にすでに成立して
    いた「治安維持法」、昭和六年(一九三一)の満州事変に始まるいわゆる一
    五年戦争、これらのできごとはなにも沖縄だけ恐怖と犠牲を強いたわけでは
    なく、日本の全国民がその影響を受けた。しかし、沖縄の場合は、いわれの
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    ない差別的政策と偏見のため、他の日本のどの地域の人々にもまして痛まし
    い事態を強いられた事実がある。
 (1) ソテツ地獄と「沖縄県振興十五カ年計画」の挫折
     第一次世界大戦(一九一四年〜一八年)で大きな利益を得た日本だったが、
    大戦後の世界大恐慌の波は日本、沖縄へと押し寄せ、経済混乱、銀行の倒産、
    失業者増大、生活苦を強いられることになる。時期としては昭和四〜五年で、
    沖縄県は、大正九年頃からの慢性的財政難に喘いでいたため、県民の苦しみ
    を倍加せしめる結果となり、教員の給料遅配や欠配がおこって社会問題化し
    ていた。米はおろか、当時の常用食であったイモさえ食べることができず、
    野生のソテツで飢えをしのいだ。ソテツは処理方法を誤ると中毒死する危険
    な「食べ物」で、犠牲者もずいぶんでた(琉球新報編『昭和の沖縄』)。
     生活苦から、男の子は糸満の漁村に、女の子は辻の遊郭に売られる(人身
    売買)ことも多くなった。注目すべきことは、沖縄の貧困はこの昭和の恐慌
    に始まったことでなく、明治以来構造化していたということである。明治一
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    二年の廃藩置県後、旧慣温存の政策が取られ、明治三二年の土地整理事業に
    よって近代化へと大きく転換したものの、県経済の「後進、零細、低俗」の
    三つの特徴は、大正から昭和へと引き継がれていた(田港朝昭『沖縄県史』)。
     昭和恐慌、ソテツ地獄からの乗り切り策として、昭和八年に沖縄県は「沖
    縄振興一五カ年計画を策定した。大正四年に策定した「産業振興一〇年計画」
    に次ぐ県政史上二つめの長期計画で、県民からも期待されたが、時勢は、軍
    事体制下に入り、第二次世界大戦の拡大とともに、計画は戦禍で泡と消えて
    しまった(琉球新報社編『前掲書』)。
     生活苦から糸満や辻への人身売買、海外移民などは、経済政策の失敗のし
    わ寄せの典型的事例である。
 (2) 治安維持法下での運動
     経済的破錠と政治の混迷の中で、人々は自主的な解決へと立ち上がるがそ
    のほとんどは弾圧されるか、芽のうちに摘み取られてしまった。
     一九二八年、普通選挙法による最初の選挙が実施され、労働農民党から二
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    人の県出身者が立候補し、社会主義を目指す労働党の主張が県内都市部でか
    なり浸透していった。
     労働組合の結成や労働運動の組織化が進んだのもこの時期だが、激しい弾
    圧で、多くの犠牲者がでた(安仁屋政昭『沖縄の無産運動』)。
     沖縄初のメーデー(一九二一年)、那覇市荷馬車組合結成(一九二二年)、
    小学校教員の社会科学研究会組織(一九二七年)、那覇市立高等女学校増築
    工事現場争議(一九二八年)、土橋貝釦工場争議(一九二八年)など多くの
    例が上げられている。しかし、一九二五年に治安維持法が公布され、一九二
    八年には、労働党那覇支部や沖縄青年同盟に解散命令が出され、同年沖縄県
    に特別高等課(特高)が設置され、結社や言論、集会などにたいする締めつ
    けが強化された。
     一九三七年には日本教育労働者組合八重山支部(一九三〇年結成)が、特
    高によって壊滅させられる。このような中で大宜味村政革新運動は、青年層
    を中心にして特異な活動を展開した。疲弊した山村の政治を改革しようと五
    項目の綱領に基づいて「村政革新同盟」を結成し(一九三一年)、二四項目
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    からなる具体的要求を掲げていた。要求の中には減税を始め、村財政の経費
    節滅、政治的、経済的な民主化を求める項目などが盛り込まれていた。
 (三) アイデンティティの喪失─日本化
     昭和恐慌による経済的状況の悪化に伴い、社会不安も増大した。こうした
    なか、一九三一年満州事変(柳条溝事件)が勃発する。経済的にも政治的に
    も他府県以上に苦境に陥っていた沖縄県では、県民の不満も鬱積していた。
    「満州開拓民」が派遣されたり、「暴戻飽くなき支那匪」と戦う日本軍に対
    する感謝電報を関東軍司令部に送ったり、内部の不満の「はけ口」として利
    用された。一方、誇りある日本人となるために、精神構造、生活習慣、言語、
    芸能などあらゆる沖縄的なものが否定され、日本化が推進された。
 (1) 方言論争
     方言論争は、一九四〇年に日本民芸協会(柳宗悦)と沖縄県当局との間で
    展開された論争である。沖縄県以外の土地では起こっておらず、県当局者を
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    はじめ支配層の沖縄に対する差別と沖縄文化に対する蔑視が集約された事件
    だったと言える。柳宗悦は、一九三八年に一度沖縄を訪れ、通念に反して美
    の宝庫たる沖縄に魅了され、一九四〇年には民芸協会の同人二六人を伴って
    再度沖縄を訪問した。
     ところが、戦時体制の拡大に伴い時局が緊迫するにつれ、沖縄では「国民
    精神の注入」と称して「方言廃止、標準語励行」運動が、県学務部の主導で
    展開されていた。これは、前年から、「国民精神総動員運動」の一環として
    おし進められ、異常なまでにエスカレートした。これに対し柳宗悦らは、そ
    の行き過ぎを指摘して、地方文化の擁護を訴えたが、これが県当局ばかりか
    県民の批判の的となった。
     「この問題は、たんに言語問題を介して国策的施策と地方文化の要請とが
    衝突したということ以上に、文化の本質や沖縄県人の意識構造と深くかかわ
    る問題である。
     標準語の励行は、一八七九年の廃藩置県以来、県治当局者と地元の指導者
    が、沖縄県民を日本人へ同化させる一環として強力に推進してきたことであ
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    る。教育までが、たんに「国民精神の普及手段」としての効果しかもちえな
    かった状況下であっただけに、県当局が、方言を廃止し、標準語を励行する
    ことによって、県民に国民精神を注入しようとはかったのは、半ば必然的な
    コースであった。
     一九三三、三四年頃から県当局は、従来以上に標準語の奨励に力を入れた
    が、同十年代にはいって戦時色の濃化とともにその傾向はますます強まり、
    とくに一九三九年からは、国民精神総動員運動の一翼としてそれは一段と強
    化された。太平洋戦争間近になると、県知事が「国民的一致のためには、沖
    縄の地方的特色は、一切抹殺されねばならぬ」と公言するようになり、地元
    の指導者のほとんども、そうした見解を無条件に肯定する状態になった」
    (大田昌秀『近代沖縄の政治構造』)。
     標準語励行運動は、「方言ばかりでなく姓名の呼び方や、沖縄芝居、舞踊
    などにも制限を加えるようになり」(池宮城秀意『戦争と沖縄』)、一切の
    沖縄色の否定・排除へとエスカレートしていった。
     県当局者と指導者にとっては、沖縄出身者が東京や大阪等の出稼き先で言
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    語や風習の違いから差別されたり、自己の意志発表はおろか、儀礼さえわき
    まえぬ者が多い状態を改善し、今や「その精神的信念において昔日の比では
    なくなった。最大理由は、標準語普及によるものである、と断言してはばか
    らない」という認識に裏打ちされていたとは言え、民芸協会員らの次のよう
    な指摘もまた、当然のものであった。
     「言語は民族の精神、人情、習慣ひいては文学、音楽と密接な結縁をもつ
    もので、地方の文化性は、もっとも如実にその言語に表現される。地方語の
    微弱は、地方文化の微弱を意味するのだが、果たして県当局者は、沖縄語へ
    の敬念をいだいたり、地方語の価値を認識しているだろうか」
     「諸氏が他府県の学務部に転任するときはたして標準語奨励運動を起こす
    勇気があるか。沖縄県だけにその必要があって、他府県には必要がないとい
    うであろうか。私たちは諸氏の明答をえたい。なぜなら他府県においては、
    地方語はいぜんとして常用語となっているからである。
     だがそれらのいっさいの他府県の教室には「一家そろって標準語」という
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    貼紙をみない。なぜ日本の本土において自由に方言が用いられているのに、
    沖縄ばかりがひたむきになって標準語を奨励しなければならないのか。なぜ
    家庭においてその土地の母語を用いてはいけないのか」
     柳氏らが指摘しているとおり、ある地方の呼吸にも等しい方言の使用を禁
    止したり、撲滅しようとした例は沖縄以外では見られない。
 (2) 改姓改名運動
     戦時色が強まるにつれて、沖縄固有の伝統文化を否定し、日本本土の文化
    への同化が言語にかきらず日常生活のあらゆる分野に及んだ。それは、生活
    改善運動と称して行われたが、改姓改名運動もその一環として展開された。
    自分の姓名を自ら否定して変更するということは、自らがよって立つアイデ
    ンティティの喪失であり、これは沖縄文化に対する偏見、抑圧という歴史的
    背景を抜きにしては語れない。
 (四) 「南進」国策
     戦時体制の強化と関連して、国策として沖縄の古い歴史を讃え、沖縄県民
    の海洋民族としての特徴が喧伝された。こうして太平洋地域へ農民や漁民と
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    して大量の移民が送り出された。結果からみれば、日本の南進政策に利用さ
    れたものであった。
     国策としての南洋移民とならんで、昭和初期の沖縄をみるうえでは、関西
    を中心にした出稼ぎがある。出稼ぎの主体は若い女性で、ほとんどが紡績女
    工であった。沖縄から太平洋諸島(南洋)ヘ移民した男性や、本土へ出稼ぎ
    に出た女性たちは、その土地で日本人から差別されながら、現地の住民を逆
    差別するという二重の差別構造を経験した。
     沖縄の漁民の南方関心・南方進出について後藤乾一氏は、「彼ら自身の意
    図に関わりなく、絶えず国家の南方関心・南進政策に取り込まれていく過程」
    であったとしている。(『近代日本と東南アジアー南進の「衝撃」と「遺
    産」』)。

 二 沖 縄 戦
  1 沖縄守備軍の創設と臨戦態勢
    沖縄戦は、一九四一年一二月八日、日本軍の奇襲攻撃にはじまるアジア・太
   平洋戦争の帰結点となった日米両軍最後の地上戦闘であり、一九三一年の「満
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   州事変」を起点とした日本の一五年戦争の一環であった。当初、破竹の勢いで
   占領地を拡大していた日本軍も、一九四二年六月のミッドウェー海戦で米軍に
   敗北以後、戦況は悪化の一途をたどった。そして戦線は、日本本土へ北上して
   いき、一九四四年二月一七日〜一八日にかけて、突如アメリカ機動部隊は日本
   の絶対国防圏内(一九四三年九月一五日設定)であるマリアナ諸島のトラック
   島に、空襲と艦砲射撃を加え、艦船、航空機、施設などに甚大な損害を与えた。
   さらに、二月二三日、サイパン、テニアン島を空襲した。(三月には、パラオ
   島を空襲)。この米軍の攻撃は、大本営の予想時期をはるかに上回るものだっ
   たので、大変な衝撃をあたえた。それから二日後の二五日、政府は「決戦非常
   措置要綱」を発表したので、早速、高級娯楽が停止されたり、興行場も閉鎖さ
   れていった。こうして、本土決戦の間近いことが国民にも浸透していき、緊張
   の度が深まった。
    沖縄県内にあっては、他府県出身の県庁役人の家族が一斉に、本土の出身地
   へ引き揚げはじめていった。本土決戦のまえに沖縄が決戦場になるかも知れな
   いという情報が伝わっていたと思われる。なぜなら、佐世保鎮守府司令官が南
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   西諸島の防備態勢の強化を要請したのをうけた形で、三月二二日に大本営直轄
   の沖縄守備軍・第三二軍が創設されているからである。
    また、大本営は、フィリピン同様台湾及び南西諸島防衛のために、「第一〇
   号作戦準備」を下した。絶対国防圏の後方に位置する沖縄が「皇土防衛」の日
   本国内では最前線基地になることは、誰の目にも明らかであった。
  2 沖縄守備軍の動き
    第三二軍が創設されてまもない三月未には、一九四三年未から建設が始まっ
   ていた北(読谷)飛行場と伊江島飛行場の建設のため、全島的に労務徴用を本
   格化した。そして四月一日には、第三二軍は「第一〇号作戦準備」を開始した。
   沖縄の第三二軍は、四月上旬に軍司令部が沖縄現地に到着して、沖縄本島・宮
   古・八重山諸島には六月から九月にかけて第九師団・第二四師団・第六二師団・
   第二八師団の四個師団と独立混成四四旅団・独立混成第五九旅団・独立混成第
   六〇旅団・歩兵第六四旅団・独立混成第四五旅団の五個混成旅団の兵力を主軸
   として編成されていった。部隊編成としては、さらに、砲兵隊・海上挺身隊・
   秘密遊撃隊・船舶工兵隊が加わり、また海軍の沖縄方面根拠地隊も陸戦隊に編
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   入された。部隊編成の最中にも、大本営は同年七月下旬にフィリピン、台湾、
   南西諸島、日本本土、北方の各地域にわたって捷号作戦と称する決戦準備の命
   令を下した。
    米軍は、六月一五日沖縄県民多数が移住していたサイパン島に遂に上陸した。
   七月七日には日本軍は全滅した。同日、九州・台湾へ南西諸島の老幼婦女子一
   万人を疎開させることが閣議決定され、早速翌月実施された。しかし、開始早々
   の八月二二日、学童疎開船対馬丸が悪石島近海でアメリカの潜水艦攻撃をうけ
   て撃沈し、学童約七〇〇人を含む一五〇〇人が犠牲となった。
  3 一〇・一〇空襲の前後
    南西諸島への米軍機は、一九四四年九月頃から特に北谷上空では、空中撮影
   のために頻繁に侵入してきたことが、目撃されている。一〇月一〇日から一三
   日にかけて沖縄本島の那覇市を中心に大空襲が行われる以前に、九月未と一〇
   月初めに沖大東島への初空襲が、その大々的な空襲の前触れであった。アメリ
   カはこのような空襲の下調べをした後、一〇月三日沖縄攻略作戦・アイスバー
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   グ作戦を決定して、一〇月一〇日朝七時前から午後五時頃まで五波にわたり、
   沖縄の県都那覇市を中心に大空襲を実施した。一日で那覇市の九割が焼失し、
   市民約五万人が罹災して沖縄本島中北部へ避難した。焼失した戸数は約一万二
   千戸であった。この南西諸島への大空襲は、米軍が南方での作戦展開にあたっ
   て、「皇土防衛」の前進基地をたたいておくということがその狙いの一つであっ
   たと思われる。なぜなら、南西諸島空襲のため南北大東島沖合付近に停泊して
   いた米空母は、艦載機を積んで反転して、南下していったからである。日本軍
   の港湾施設を始め、各航空基地を攻撃されて日本軍はほとんど無抵抗のまま敵
   に蹂躪された。その後九州から日本軍機が追撃して、台湾沖航空戦を展開した。
   実際にはそれも日本軍の敗北に終わったが、大本営発表では日本軍が大戦果を
   あげたといい、那覇の仇討ちを果たしたと住民を驚喜させた。
    しかし、日本軍が敵に蹂躙される様子を冷静にみていた人達は、日本の敗戦
   を予想して暗澹たる思いに陥った。
    近衛文麿の側近だった細川護貞はその日記・一二月一六日に一〇・一〇空襲
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   後の状況について、日本軍と沖縄県民との関係を詳述している。「昨一五日、
   高村氏を内務省に訪問、沖縄視察の話を聞く。沖縄は全島午前七時より四時ま
   で連続空襲せられ、如何なる僻村も皆爆撃、機銃掃射を受けたり。皆民家の防
   空壕を占領し、為に島民は入るを得ず、又四時に那覇立退命令出で、二十五里
   先の山中に避難を命ぜられたるも、家は焼け食糧はなく、実に惨憺たる有様に
   て、今に到るまでそのままなりと。而して焼け残りたる家は軍で徴発し、島民
   と雑居し、物は勝手に使用し、婦女子は凌辱せるゝ等、恰も占領地に在るが如
   き振舞いにて、軍紀は全く乱れ居れり。我々(第三二軍事参謀長のこと)は作
   戦に従ひ戦をするも、島民は邪魔なるを以て、全部山岳地方に退去すべし、而
   して軍で面倒を見ること能はざるを以て、自活すべしと広言し、居る由。島は
   大半南に人口集まり居り、退去を命ぜられたる地方は未開の地にて自活不可能
   なりと。那覇にても敵に上陸を許し、然る後之を撃つ作戦にて、山に陣地あり、
   竹の戦車等作りありと」(『細川日記』(下)三三六頁 中央文庫)。
    この細川日記では、日本の上層部の中にも軍の方針を冷やかに分析していた
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   ひともいたことを示している。そして、当時ですら沖縄戦において、軍が戦闘
   の邪魔になる老幼婦女子を自活もできない北部山中に退去を命じたこと、また、
   日本軍が沖縄県民を占領地の住民視していたことや婦女子への凌辱など赤裸々
   に記述していることは注目すべきものである。それは、多くの県民の体験証言
   を裏付けるものともなっている。さて、現地自給の方針を持つ沖縄の日本軍は、
   その兵力不足を補充するために、まず、九月から一一月にかけて沖縄現地で現
   役兵を召集するとともに防衛召集を実施した。また、日本全体としても兵力不
   足のために、八月未に植民統治下の台湾に対しても日本の徴兵制を実施し、台
   湾人も皇軍の一員に加えていった。さらに、一〇月中旬に兵役法施行規則改正
   を公布し、満一七歳以上の男子を兵役に編入していった。
  4 戦場動員状況
    一九四四年二月、武部隊一個師団が台湾へ抽出された沖縄の日本軍は、作戦
   の変更をせざるをえなくなった。つまり、「一木一草戦力化すべし」という方
   針のもとに法的裏付けもなしに、足腰のたつ老若男女を戦場動員していくこと
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   になった。まず、一二月一日に沖縄各地に「緊急特設挺身隊」を結成させていっ
   たのもその一環であった。年明け早々、第三二軍は第二次防衛召集を実施して、
   満一七歳以上四五歳以下の男子のほとんどが召集されたが、さらに、三月上旬
   にも残る男子が召集されていった。また、二月には、県下中等学校男女生徒の
   学徒動員が強化され、通信・観測・看護などの特別訓練が授業は完全に停止し
   た状態で行われた。同時に県下市町村単位の国土防衛義勇隊編成を指示すると
   もに、中等学校単位での防衛隊組織も始められた。
    二月一五日に第三二軍は、「戦闘指針」を軍民に示達した。そして「一機一
   艦船 一艇一船 一人十殺一戦車」という標語のもとに「軍官民共生共死の一
   体化」の方針を徹底化していった。また、陣地構築のための徴用や食糧供出の
   強要も、軍刀を抜いて脅迫するなど地上戦闘を目前にして軍民の関係は緊迫度
   を増してきた。しかし、一方では米軍の上陸が必至という状況のなかで、三月
   一四日、日本軍は住民を総動員して心血を注いで建設させた伊江島飛行場を破
   壊するように命じた。また、三月に入るや県立第二高等中学校生の一部が本部
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   半島に展開していた宇土部隊に編入されたのを皮切りに、そして三月二三日、
   米軍の上陸前大空襲が開始され、艦砲射撃も加わった翌日、県立第二高等女学
   校生が従軍看護要員として、山部隊に配属され、兵隊とともに行動を共にする
   ことになった。二五日に、県立第一高等女学校生徒は、南風原陸軍病院に従軍
   看護要員として配属され、那覇市立商業学校生も鉄血勤皇隊・通信隊を編成し
   て各部隊に配属されていった。また、二六日は、県立二中・私立開南中学・県
   立三中・県立農林学校生徒らが鉄血勤皇隊・通信隊として各部隊へ配属された。
   第三高等女学校生徒も北部の各部隊に看護要員として加わった。二七日に、県
   立首里高等女学校生、二八日には私立昭和高等女学校生が看護要員として石部
   隊に、さらに同日県立第一中学校生徒が鉄血勤皇隊・通信隊として球部隊に配
   属されていった。二九日には、県立工業学校生徒が鉄血勤皇隊として球部隊に、
   女子師範学校生が看護要員として南風原陸軍病院に配属された。沖縄本島へ上
   陸した前日の三一日、私立積徳女学校生が看護要員として山部隊に、沖縄師範
   男子部生徒が鉄血勤皇隊として軍司令部直属として配置された。さらに、一五
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   歳以上の女子青年らが各部隊に女子救護班、女子炊事班、義勇隊の名目で弾薬
   運搬要員として恣意的に動員されていった。
  5 戦時行政から戦場行政へ
    一九四四年五年一月一八日、最高戦争指導会議は、「本土決戦」を含めた国
   民への戦争指導大綱を決定した。そして、政府は「沖縄県防衛強化実施要綱」
   を決めて、その具体的実施を進めていった。沖縄の日本軍長参謀長は足腰の立
   つ男女はすべて戦場動員の方針を発表した。そのうえ「戦場に不要な人間は居
   てはゐかぬ」と県外への疎開ができなかった住民を沖縄本島北部に疎開させる
   ことを指示した。米軍がフィリピンのマニラ市内まで進撃して、日本軍の敗北
   が時間の問題という状況が差し迫った二月七日、沖縄県は「平時行政」から
   「戦時行政」に切り換えることになった。それから三日後の一〇日に沖縄本島
   中南部住民の北部方面への疎開が決定された。中南部の各部落ごとに北部の各
   部落に疎開先の割当てを行っていた。そして、疎開先の部落では山中に「避難
   小屋」を建設して受入れ体制作りをきちんと実施した地域もあったが、その多
   くは十分な食糧もないまま、山中に放棄された形になっていった。
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    ところで、これまで老幼婦女子の北部地域への移動を疎開と記述してきたが、
   前記『細川日記』で述べられているとおり、これは自活不可能地域への軍の住
   民に対する「退去命令」であった。その結果、米軍上陸後は日本軍の敗残兵と
   雑居する形になり、住民はなけなしの食糧を敗残兵に強奪されたり、食糧強奪
   の目的でかれらに殺害されたりした。また、餓死者が多数輩出し、さらに戦争
   マラリアなどによって相当な戦病死者がでた。
    三月上旬には、沖縄本島からの老幼婦女子の県外疎開は打ち切られることに
   なった。しかし、米軍が上陸しなかった八重山諸島では沖縄本島で熾烈な地上
   戦闘が展開している最中の四月から六月にかけても日本軍の作戦によって、離
   島間や台湾に向けて住民は空襲の合間をぬって移動した。
    三月一四日に文部省が「決戦教育措置」発表し、四月一日から一ヵ年間全国
   の学校修行を停止することを決定した。だが、地上戦闘下の沖縄にあっても、
   空襲の合間をぬって八重山諸島の国民学校では入学式なども挙行されたし、与
   那国島では四月下旬に家庭訪問までも実施された。
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    米軍の沖縄本島上陸前日、日本軍は上陸後の敵軍の進撃を寸断するために中
   部地帯の橋を自ら破壊して、中南部在の老幼婦女子にたいする北部疎開の停止
   命令を発した。こうして非戦闘員が戦闘に巻き込まれていくことが決定的になっ
   た。
    三月二五日に沖縄県当局は、首里城地下壕へ移動して戦場行政を開始した。
   そして激戦下の四月二七日には、米軍が占領していない地域の南部市町村長と
   警察署長会議が、繁多川県庁壕内で緊急に開かれた。そこでは、軍への作戦協
   力・食糧増産を指導することを決定した。それに基づいて、県庁は「沖縄県後
   方指導挺身隊」を編成して、各地域ごとに活動を展開することになった。空爆
   撃の合間をぬって住民避難壕を尋ねまわり、壕堀りの指導、戦況報告をして戦
   意高揚などにつとめたが、住民らは戦闘が激化したなかではひたすら逃げ回る
   ことしかできなかった。
  6 国体護持と沖縄戦への突入
    一九四五年二月、米軍はフィリピンの日本軍の戦力をほぼ壊滅状態にしていっ
   た。次は台湾・南西諸島への作戦に転じるのは目前に迫っていた。そのころ天
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   皇の側近である近衛文麿元首相は、敗戦必至の状況を天皇に上奏した。「戦局
   の見透しにつき考ふるに、最悪なる事態は遺憾ながら最早必至なりと存ぜらる。
   以下前提の下に申上ぐ。最悪なる事態に立至ることは我国体の一大瑕瑾たるべ
   きも、英米の輿論は今日迄の所未だ国体の変更と迄は進み居らず。随って 最
   悪なる事態丈なれば国体上はさまで憂ふる要なしと存ず。国体護持の立場より
   最も憂ふべきは、最悪なる事態よりも之に伴ふて起ることあるべき共産革命な
   り。」「最悪の事態必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込みなき戦争終結の
   方途を構ずべきものなりと確信す」と早期の戦争終結を進言している。しかし、
   それに対して天皇は、「もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しいと
   思ふ」と応え、それに対して近衛は、「そう云う戦果が挙がれば誠に結構と思
   われますが、そう云う時期が御座いませうか」(木戸日記研究会編『木戸幸一
   関係文書』一九四五年二月十四日近衛公爵天機奉伺の際時局に関し奉上の要
   旨」)と述べている。
    結局この天皇の方針をうけた形で、三月二〇日に、大本営が「当面の作戦計
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   画大綱」発令し、沖縄作戦に重点をおくことを決定し、沖縄戦に突入していっ
   たのである。
  7 米軍の上陸と日米最期の決戦
    米軍は、三月二三日に上陸前空襲を開始して、翌日から艦砲射撃も加え、二
   六日についに慶良間諸島へ上陸を敢行した。そして、大艦隊の停泊地を確保し
   たうえで、四月一日には沖縄本島中部西海岸(渡具知・北谷砂辺方面)に艦船
   約一四〇〇隻、一八万三千人の兵員でもって攻略作戦を展開したのである。し
   かも、補給部隊は約五四万人という大部隊であった。それを迎え撃つ日本軍は、
   一三歳の中学生徒から七〇代の年配者まで戦場動員まで含めて、約一二万人の
   戦力だった。
  8 米軍の沖縄本島上陸直前の状況
    そして、那覇の西方海上に浮かぶ慶良間諸島には、二六日ついに米軍が上陸
   を敢行した。米軍は、艦船約八〇、上陸用舟艇二二隻と空母、駆逐艦を護衛に
   つけて上陸作戦を展開したのである。阿嘉・慶留間・座間味島へ空・海から砲
   爆撃を加えつつ上陸し、二七日には渡嘉敷島へ同様に上陸を強行した。米軍と
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   しては、沖縄本島上陸に備えて、長距離砲で本島砲撃と艦隊の投錨地を確保す
   ることにあった。ところで、日本軍も敵軍の背後から攻撃する作戦のために慶
   良間諸島に海上挺進隊が展開していた。レと称していた特攻艇約三〇〇隻・兵
   員約三〇〇人を主体に約六〇〇人の特設水上勤務隊(朝鮮人軍夫)を含む日本
   軍は、地元の防衛隊・義勇隊も召集してあった。しかし、米軍が上陸にあたっ
   ても、特攻艇は一隻も出撃せずに自ら爆破して、山中にこもって持久作戦を展
   開することにした。しかし、座間味、慶留間、渡嘉敷住民の間では、米軍の上
   陸作戦が展開するやすでに日本軍によって準備されていたとおりに、肉親・友
   人・知人同士で殺し合ういわゆる「集団自決」が発生した。すなわち、日本軍
   は住民にたいして、敵軍が上陸したら自ら死ぬことを強要していたのである。
    沖縄戦の惨劇のひとつが沖縄本島上陸以前に起きていたのである。そして、
   また、米軍に保護された住民は、いちはやく収容所内での「戦後生活」が開始
   された。
    アメリカ側の戦史、『日米最後の戦闘』(「OKINAWA THELAS
   T BATTLE」・米国陸軍省編/外間正四郎訳・サイマル出版会)による
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   と、米軍の沖縄本島上陸は一九四五年四月一日であり、中部西海岸の渡具知海
   岸に午前八時三〇分を期して一斉に上陸を敢行した。総攻撃の後に進撃した米
   軍は「沖縄上陸がまったく信じられないほどの容易さで行われた」とか、まる
   でピクニック気分だったと記録されるほど、あっけないものだった。ノルマン
   ディー上陸作戦時などの激戦を予想していたので、日本軍のほとんど無抵抗に
   近い対応に拍子抜けしたようである。上陸部隊は、まず嘉手納、読谷飛行場の
   占拠が当面の目標だった。上陸した海岸から約一・六キロメートルの距離にあ
   り、嘉手納飛行場は放棄されていることを知り、午前十時半には部隊の先頭部
   分が飛行場を横断して、午前一一時半までには、別の部隊が読谷飛行場も占領
   した。そして、次々兵員が上陸し、上陸した当日の日暮れまでには、米軍機の
   不時着用としては使用できるよう整備した。
  9 沖縄本島中部・首里戦線
    日本軍は、一九四四年一一月に武部隊一個師団を台湾へ転出させても、その
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   補給をできなかった。沖縄本島中部一帯にも敵軍上陸に備えて陣地構築をして
   あったが、上陸時点には布陣せず、第三二軍・日本軍司令部は、首里城地下に
   設置してあったので、中部に上陸した敵軍が南下してくる場合に備えて、牧港−
   嘉数−南上原−和宇慶の線に前哨拠点を設けた。特に嘉数高地には、洞窟・ト
   ンネル・トーチカを連結した、強固な防衛陣地を張りめぐらしていた。そのた
   め、四月五日にそのラインに達した米軍は、六日目からそのライン前面で日本
   軍の本格的な反撃にあって、部隊によっては二〇〇メートルしか進出できない
   ほど進撃速度が落ちた。四月八日からそのラインで一進一退の死力を尽くした
   攻防戦が開始された。そのラインを突破されたら、日本軍の司令部が設置され
   ている首里に南進部隊が肉薄してくるのは時間の問題となるので、日本軍も肉
   弾戦法を交えた熾烈な戦闘を展開して、猛反撃を開始した。米軍戦史に「日本
   軍は太平洋戦域ではじめての大規模な火力を使用して、全線にわたり恐るべき
   弾幕をはりめぐらしている」と記録されているように、米軍にも相当な出血を
   強いたのである。したがって、上勢頭住民が島袋収容所で「戦後生活」を開始
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   しているとき、トラックに米兵の戦死体を満載して輸送してくるのを目撃した
   し、また、戦死者の埋葬作業に従事させられ、その戦死体のあまりの多さに日
   本軍が勝ち戦をしていると誤解したのもこの時期あたりからのことである。
    四月九日、嘉数高地の北側正面を攻撃した米軍は、日本軍の機関銃・臼砲な
   どの猛攻で死傷・行方不明者三二六人をだしたと記録している。
    こうして四月一〇日前後から中部戦線は膠着状態になったので、業を煮やし
   た米軍は、中城湾に艦艇を入れて、和宇慶方面に頑強に抵抗している日本軍に
   猛烈な艦砲射撃を加えた。だが、米軍としては局面の打開にいたらなかった。
   そしてついに十九日、「太平洋戦争でかつてみたことのない、沖縄作戦上最大」
   規模の一大集中砲撃を艦砲射撃以外にもロケット弾、ナパーム弾、機銃掃射を
   行い、「巨木はさけ、岩はくだけ山容は改まった」という。そして嘉数高地に
   対して、米軍は我如古から中央突破をはかるために、戦車三〇輌をくりだした
   が、二二輌を失い、「沖縄の一戦闘での損害としては最大のものであった」と
   米軍を嘆かすほど、日本軍の反撃は熾烈だった。それは、急造爆雷を抱えて戦
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   車に体当たり戦法をとるなど、米兵の中には戦闘疲労者(精神病患者)も続出
   するような戦闘の常識を超えた日本軍の戦術によるものといえる。しかし、圧
   倒的な物量にまさる米軍の猛攻の前に、日本軍の防衛線が各所で崩壊していっ
   た。そして嘉数高地もついに四月二四日には、米軍の手に落ちた。日本軍は、
   前衛拠点の各陣地を放棄して、首里第二防衛線に後退せざるを得なくなった。
    和宇慶高地を占領した米軍は、四月二三日までに中城から西原丘陵へ進出し、
   棚原から幸地、運玉森方面にかけて攻撃を開始した。
 10 首里戦線
    伊祖−仲間−浦添ユードレー前田−幸地−運玉森を結ぶラインが、その前衛
   を突破された後の防衛ラインだった。四月二六日から息つくまもなく首里第二
   防衛ラインの一角の前田で両軍の死闘が展開した。隣接する仲間高台からは、
   すでに米軍の陣地化した嘉数に決死の斬り込み隊が、夜襲をかけたりした。伊
   祖丘陵でも日本軍が斬り込みで屍の山を築いていた。大平方面で米軍に保護さ
   れた住民が、牧港方面に移送される時、夜襲で戦死した日本兵の死体の上をト
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   ラックが踏みつぶしながら、伊祖を越えて行ったと証言している。
    日本軍にとって前田陣地の崩壊は、ただちに首里防衛の主陣地崩壊に連鎖す
   るので、日本軍は前田陣地の死守を決意して、猛攻を続ける米軍に総反撃を加
   えた。米軍でさえバンザイ突撃を加えたといわれるほどの両軍の間で肉弾戦が
   果てしなく続いた。一回の戦闘が三六時間も続いたこともあり、圧倒的に優勢
   な米軍でも八〇〇人で攻めたてた一部隊が五月七日に、丘を下りたとき、三二
   四人に滅っていたという。結局、この前田の戦闘も米軍にも多大な損害を与え
   たが日本軍の敗北に終わった。
    このような戦闘が、浦添の港川・城間・伊祖・仲間台上で続いたが、米軍の
   猛攻の前に日本兵の屍が累々と横たわるという惨状だった。五月二日頃には、
   西海岸沿いに南下してきた米軍は、仲西から小湾方面まで進出して、首里軍司
   令部を西方から攻撃する位置まで来た。そして、浦添全村が日本軍の堅固な陣
   地と化して、両軍の死闘が各部落を拠点にして展開していた。そして五月一〇
   日には、首里北方の大名町に隣接した浦添南外れの沢岻丘陵に米軍が到達した。
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   その部落西方には、六四旅団本部が設置されており、首里軍司令部の北方最大
   の防衛陣地の大名丘陵とともに激戦場となった。日本軍の防御陣地化している
   沢岻部落内では、五月一〇〜一三日にかけて両軍が手投弾を投げ合うほどの熾
   烈な白兵戦を展開した。日本軍から入手した作戦地図を用いて沢岻全域を占拠
   した米軍は、一四日から戦車・自走砲、ダイナマイト、火炎放射機、ナパーム
   弾、白燐手投弾など各種の砲火器を用いて、大名丘陵陣地攻略に移った。日本
   軍は大名に密集している亀甲墓や岩穴などを堅固な陣地として利用して、対戦
   車、機関銃、臼砲、急造爆雷などをもって防戦につとめた。熾烈な攻防戦が展
   開したので、五月二一日ごろに米軍が大名丘陵を攻略したときには、約一〇〇
   〇人以上の死傷者、行方不明者を出したという。
    いっぽう、この大名と安里(旧真和志村)を結ぶ線の東側に米軍がシュガー・
   ローフと名付けた高地があった。ここは首里軍司令部の西方地域における重要
   な防衛陣地だった。日本軍は周辺に迫撃砲陣地などを擁して、徹底抗戦の構え
   をみせていた。五月一二日、米軍は戦車をくりだして攻撃を開始した。しかし、
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   日本軍の猛攻にあって、大きな被害を出して撤退した。その後、日米両軍が高
   地山頂を奪ったり、奪われたりといった争奪戦を数回もくりかえすという大激
   戦場となった。一八日には首里軍司令部西の要衝地点も米軍の手におちた。わ
   ずか六日間の戦闘だったが、日米双方に多大な死傷者が続出した。
    首里東方戦線は、運玉森、弁が岳と連なる虎頭山丘陵が自然要塞として米軍
   の進撃を阻んでいた。その防衛陣地が崩壊したら一気に首里軍司令部に攻め込
   まれる恐れがあったので、そこでの戦闘は、一進一退の激烈な攻防戦を展開し
   た。物量を誇る米軍にも相当な被害が出ている。そこで五月一三日以降、米軍
   は中城湾の艦船から「百万ドルの山」と形容したほど、艦砲射撃の猛攻を加え、
   戦車隊などをくりだして攻め込んだ。米軍の一小隊が全滅状態になるほど、日
   本軍は臼砲などで猛烈に反撃していたが、二〇日には、手投弾戦などの肉弾戦
   などを展開するまでに肉薄し、二一日ついに運玉森東斜面を完全に制圧して、
   いよいよ首里決戦は時間の問題となった。五月二二日、第三二軍首脳陣は首里
   決戦を避け、南部南端の摩文仁丘陵に軍司令部を移動させることにした。沖縄
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   の日本軍は「国体護持」のため、出血持久作戦をとったからである。そこで終
   戦工作を有利にするために、米軍にも出血を強いるため時間稼ぎをする必要が
   あった。それは、文字通り沖縄を捨て石にした作戦であり、住民を楯にして、
   米軍にとっての掃討戦を長引かせることにあった。というのは、首里以南は、
   自然洞窟、墓、人工壕を利用して住民の一大避難地帯になっており、そこへ残
   存兵力がなだれ込んできたからである。そして、日本軍は、住民に対して壕追
   い出し、食料強奪、陣地漏洩防止のために幼児を毒殺・絞殺・刺殺といった行
   為、スパイ視殺害行為、友人・知人・肉親同士の殺し合いであるいわゆる「集
   団自決」の強要などが相次いで発生した。
    日本軍は、五月二五日から南部への撤退を開始して、二七日に牛島満軍司令
   官も堅固な首里司令部壕から摩文仁丘陵へ撤退した。それまでは、戦死者の多
   くは戦闘員であったが、それ以後一般住民の戦死者の数が増大して、沖縄戦で
   は戦闘員よりも非戦闘員の戦死者の数が多いという悲劇が生じたのである。
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 11 離島戦線
    沖縄周辺離島や先島諸島も当然沖縄戦の影響下にあった。沖縄周辺離島は津
   堅島、伊江島が激戦場となった。伊平屋島、久高島などにも米軍は上陸したが、
   日本軍が布陣していなかったので、そこでは戦闘が展開していない。また、宮
   古諸島や八重山諸島には日本軍が本格的に布陣していたが、連合軍は空襲や艦
   砲射撃などを加えたのみで、上陸作戦を展開していない。しかし、先島諸島で
   は戦争マラリアが猛威を振るったので、住民や兵士の間に、激戦場同様な戦没
   者がでた。
    特に伊江島には、極東一を誇る飛行場を日本軍は建設していた。食糧・人出
   不足のなかで住民を最大動員して構築したその飛行場を米軍が上陸必至という
   情勢の一九四五年三月、その稼働・維持が困難と判断するや自ら破壊してしまっ
   た。島には、沖縄本島北部地域に展開していた第三二軍国頭支隊の分遣隊を中
   心にした伊江島地区隊、飛行場大隊、防衛隊の特設警備工兵隊など約二七〇〇
   人が守備隊として城山(伊江島タッチュウー)の岩山に地下陣地を構築してい
   た。その上に住民約三〇〇〇人が島の防衛にかりだされ、武器も持たされて米
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   軍の攻撃に備えた。沖縄本島中部一帯を制圧して北部もほぼ手中におさめた米
   軍は、四月一六日ついに伊江島に猛攻を加え、伊江島飛行場占領作戦を展開し
   た。中飛行場はすでに日本本土攻撃基地として使用していた時期でもあり、伊
   江島飛行場も本土攻撃基地として使用することを企図していた。
    城山陣地を中心とした日米の戦闘は熾烈をきわめ、二一日までの六日間も白
   兵戦をまじえた激戦がつづいた。住民は防衛隊以外にも女子救護班など、女性
   までも斬り込み隊に加えられ、多大な犠牲者がでた。また、投降を許さない日
   本軍の宣伝教育をうけていたので、洞窟内で住民同士の殺し合いであるいわゆ
   る「集団自決」によって死に追い込まれていった例もある。この伊江島の戦闘
   では、有名なアメリカの従軍記者アーニーパイルが、戦死したことも戦史に記
   録されている。
 12 南部戦線
    小禄村(現那覇市)、豊見城村両村にまたがって海軍部隊が布陣していた。
   第三二軍司令部の南部撤退とともに五月二六日、海軍も南部へ撤退を開始した。
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   しかし、二八日には元の陣地に引き返した。海軍部隊は武器を扱ったことのな
   いような四五歳までの男性をはじめ一五、六歳の少女まで義勇隊として召集し
   た根こそぎ動員部隊であり、兵力は約一万人ということだったが、正規兵はそ
   の三分の一といわれていた。しかも、機関銃隊一五人に機関銃一丁しかないと
   いう火器不足だった。それで、竹の筒に火薬を詰めたこけおどしの手製爆弾や
   線路を溶かして、戦国時代同様の槍を巌部隊は何本も準備して、近代兵器に立
   ち向かおうとしていた。
    日本軍司令部が摩文仁に移動した後、六月に入ると豪雨つづきだった雨期も
   あがった。米軍としては掃討戦の形で日本軍の残存兵力を怒濤の勢いで壊滅さ
   せていった。あらゆる武器を動員して掃討戦を展開していき、とくに日本兵と
   洞窟内で雑居していた住民は、馬乗り攻撃にあって、火炎放射器、爆雷、手榴
   弾などで多くの犠牲者がでた。また、避難壕を追われた住民は、喜屋武半島方
   面においつめられていき、ひしめき合うように彷徨を続けている最中に米軍の
   猛攻撃をうけ、死体がいたるところに累々と横たわり、子牛ほどにふくれあがっ
   た腐乱死体から死臭があたり一面に漂うという血なまぐさい地獄絵図そのもの
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   だったという。
    六月四日、米軍は小禄海軍飛行場の北側からも上陸を開始して、国場川を越
   えてきた部隊と連動して全面的な攻撃を開始した。偽装した大型の戦車が攻め
   込んでくる時、劣弱な武器しか見たことのない住民にはまるで山が動いてくる
   ようにしかうつらなかった。五日に牛島三二軍司令官は、太田海軍司令官に南
   部撤退の命令を下した。しかし、太田司令官は、その命令を拒否した。首里攻
   防戦で火器のほとんどを使い果たしていた海軍部隊は、少女にまで急造爆雷を
   抱えて敵戦車に向かわせるなど、無謀な斬り込みなどを試みたあげく、一三日
   には太田司令官以下幕僚は壕内で自決を遂げたが、その他の海軍壕内でも敵軍
   の攻撃にあっても、もはや反撃できない状況に陥った。そこで残存兵士は、女
   子義勇隊員や朝鮮人軍夫、住民なども巻き込んで爆雷による自決を遂げていっ
   た。
    南部戦線といっても、沖縄南部の知念半島に日本軍は布陣していなかったの
   で、戦闘中に米軍に保護された一般住民の収容所地帯と化していた。おおかま
   にいえば具志頭村港川を境に「三途の川を渡る」と住民は後で気がついて、そ
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   のように表現している。つまり、その西側の摩文仁から喜屋武半島方面は、住
   民と日本軍将兵の屠殺場といった様相を呈していたが、港川から東側で戦闘は
   ほとんど展開していなかった。
    南進をつづける米軍が南部戦線で日本軍の激しい抵抗をうけたのが、八重瀬
   岳と与座岳であった。八重瀬−与座岳ラインは、摩文仁岳の三二軍司令部にとっ
   て最大の防御陣地であった。米軍は、その後方の具志頭村玻名城一帯に猛攻撃
   を加えて、八重瀬−与座ラインの補給路を絶つ作戦をたてたうえに、火炎放射
   戦車、自走砲、無反動砲、戦車など近代兵器を駆使して、六月九日から最大級
   の攻撃を開始した。日本軍は夜間斬り込みなどで反撃したが、一四日から一六
   日に撃破され、日本軍最後の最強陣地は崩壊したのである。
    南部戦線最大の防衛ラインを突破した米軍は、摩文仁丘陵攻略のために東側
   から攻め入るために、一七日までに具志頭村仲座から摩文仁丘陵三キロメート
   ルまで進撃した。
    いっぽう、摩文仁の三二軍司令部を西側から防衛するために喜屋武半島にも
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   敗走してきた日本軍が布陣していた。それで米軍は、小禄・豊見城を突破して
   糸満方面にも進撃した。六月八日には、糸満−富里−具志頭の線からさらに南
   下する態勢を整えて、一二日には早くも国吉部落に進出し、一八日には糸洲方
   面で進出した。しかし、一八日午後、前線視察中の米軍司令官バックナー中将
   が真栄里部落西側の壕内に残存していた日本兵の狙撃にあって戦死するという
   事態が発生した。米軍司令官は、日本軍を圧倒しながらも敗走軍の司令官より
   も先に戦死したのである。それまで非戦闘員にたいして国際法に則った扱いを
   してきた米軍は、この国吉・真栄里周辺に対して戦闘員・非戦闘員の別なく猛
   攻撃を加え、報復のため「捕虜」となった住民に対して、男性は子供でも虐殺
   するという無差別殺戮を実行した。それ以後の南部戦線において、米兵の住民
   への対応が狂暴化して、老婆にたいしても強姦するという状況もみられるよう
   になった。六月一八日、喜屋武に布陣していた六二師団本部は、小隊を残して
   軍司令部のある摩文仁へ移動して司令部防御に就いた。喜屋武半島の最南端は
   喜屋武岬から荒崎海岸にいたる断崖絶壁が自然防壁となっており、米軍の侵攻
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   をさまたげていた。したがって、逃げ場を失った将兵、住民が自然にそこへな
   だれ込んできていた。海岸線の岩穴や防潮林のアダンの陰、洞窟、石垣の物陰
   などに将兵と住民が混在して、ひしめいていた。猛暑の中で飲料水や食料も枯
   渇して、多かれ少なかれ負傷したうえ、疲労困憊の状態であった。絶望のあま
   り、住民同様敵軍への投降を許されない兵士が自決したり、食料強奪のために、
   将兵同士でも手榴弾を投げ込んで殺害したり、投降しようとするものを背後か
   ら撃つなど日本軍の将兵、住民が修羅場となった。そのうえ、二〇日から二一
   日にかけて米軍は艦船からも陸では火炎放射戦車を先頭に総攻撃をかけてきた。
   それまでにも昼夜をおかず空爆や艦砲射撃が一帯には撃ち込まれ、焼死体や腐
   乱死体が累々と横たわっており、米軍による一方的な大量殺戮の場となってい
   た。そこを彷徨っている住民は、ほとんど意識朦朧(もうろう)としたような
   状態だった。第三二軍・牛島軍司令官は、六月二三日(二二日の説あり)未明、
   自決を遂げたが、一九日には「最後まで敢闘して、天皇のために死ぬように」
   という内容の命令を発していた。それで、七月二日に米軍が作戦終了宣言を出
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   すまでの間だけでも、約一万人近い住民と将兵が戦死した。こうして、「国体
   護持」のため終戦工作を有利に導くために、首里決戦を避けて、摩文仁南端へ
   司令部を移動した出血持久作戦は、避難住民を巻き添えにした米軍の掃討戦を
   長引かす捨て石作戦でもあり、その結果、戦闘員よりも一般住民の犠牲者がよ
   り多く出たのである。
    このように、沖縄戦は、「鉄の暴風」となって荒れ狂い、山野の地形まで変
   えてしまい、それにもまして甚大な人的、物的犠牲をもたらした。
    県民は、五〇年過ぎた今なお、戦争の傷跡を負っているのである。
 三 戦後の沖縄
  1 沖縄の戦後史は、一九七二年五月の沖縄返還の前後に大きく二分することが
   できる。そしてさらに、一九七二年五月以前の二七年の軍事支配の期間は、暫
   定的軍事占領の時期と、対日平和条約第三条に基づく支配の時期に大別するこ
   とができる。
  2 第二次世界大戦末期、日本における唯一の地上戦闘としての沖縄戦(一九四
   五年三月〜六月)の結果、沖縄は二七年にわたって日本木土から分離され、米
   軍支配下の下に置かれることになった。
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    沖縄戦の段階から、米軍部は、共通の敵であるナチス・ドイツと日本の敗北
   後、同盟国であるソ連を中心とする社会主義国との対抗関係が生ずることを想
   定し、太平洋の要石ともいうべき沖縄を、アメリカが排他的に支配すべきこと
   を主張してきた。そうした考えは、最近明らかにされた米軍司令官バックナー
   中将の沖縄上陸直後の日記にも記されている。
    占領政策のうえで、沖縄を日本本上から分離することを量初に明らかにした
   のは、一九四六年一月二九日のGHQ覚書「若干の外郭地域を政治上行政上日
   本から分離することに関する覚書」であった。この覚書自体は、占領行政遂行
   上の実務的取扱いを決めた暫定的性格のもので、沖縄の最終的地位決定に何ら
   かの意味ももつものではなかったが、沖縄戦の終了によってすでに米軍の実質
   的占領下に入っていた旧沖縄県ばかりではなく、鹿児島県大島郡をこの段階で
   改めて日本から分離したこと、すなわち、一六〇九年の島津の琉球王国侵略以
   前の琉球王国の版図を日本から分離したところに大きな意味があった。アメリ
   カ保護下の琉球独立をも選択肢として含む沖縄の恒久的分離へ向けての既成事
   実づくりが始まっていたのである。
    この覚書が出されたのは、タス通信がヤルタ協定(対日参戦の条件としてソ
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   連に千島を引き渡す〉の存在を明らかにし(一月二七日)マッカーサーが自ら
   のスタッフに日本国憲法草案の起草を指示した(二月三日)時期であった。
    マッカーサーが、日本国憲法(平和憲法)と沖縄の分離軍事支配の結びつき
   を明碓に述べるのは、一九四七年六月のことである。このときマッカーサーは、
   アメリカ人記者団に対し、「沖縄人は日本人ではないからアメリカの沖縄保持
   に対し日本人が反対することはない」、「沖縄を米空軍基地とすることは日本
   の安全を保障する」、「ソ連の千島占領によって対日要求が満足されているの
   で、アメリカ側の構想に反対しないだろう」と述べている。つまりマッカーサー
   にとって、沖縄の分離軍事支配と日本国憲法九条による軍備放棄は一体不可分
   の関係にあり、ヤルタ協定による千島諸鳥の地位を迫認することとひきかえに、
   沖縄をアメリカが保有することは当然であるとしていた。(この点については、
   とくに新崎盛暉「沖縄から見た日本国憲法」『脱北入南の思想を』「沖縄同時
   代史第五巻」、凱風社、一九九三年)
    一九四八年から四九年にかけて、アメリカ国家安全保障会議は、沖縄を軍事
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   要塞として排他的に支配するという軍部の考え方を迫認し、米議会は、一九四
   九年七月一日に始まる一九五〇会計年度の予算に本格的な沖縄基地建設予算を
   計上した。翌五〇年六月朝鮮戦争が勃発し、その影響下で、アメリカの対日講
   和構想(対日講和七原則)が具体化する。
    敗戦直後の沖縄では、占領米軍を解放軍とみなす戦前の社会主義者たちによ
   る独立論、支配者の意向に迎合する事大主義的独立論、教職員など知識層に根
   強く残る日本復帰思想などが混在していたが、多くの民衆は、戦争による徹底
   的な破壊と荒廃の中で、その日暮らしの生活に追われていた。
    しかし、占領軍が新しい支配者としての姿を明瞭にし、基地建設が始まるな
   かで明らかにされた対日講和構想によって、日本が独立した後も、沖縄が米軍
   支配下にとり残されることがはっきりすると、民衆の政治的動向は急速に日本
   復帰の方向に集約されていった。「平和憲法下への復帰」を求める日本復帰運
   動の始まりである。
    一九五一年九月の対日講和会議に向けて、圧倒的多数の沖縄民衆は、議会決
   議や署名運動によって、日本復帰の明確な意思を日米両政府に伝えた。しかし、
   こうした住民の意向は、一顧だにされることなく、対日平和条約が締結され、
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   その三条によって沖縄は日本から半永久的に分離されることになった。
  3 対日平和条約三条は、次のような文言で、アメリカによる沖縄の半永久的支
   配を規定している。
    「日本国は、北緯二九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)、
   孀婦岩の南の南方諸島(小笠原諸島、西之鳥及び火山列島を含む。)並びに沖
   の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこ
   ととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提
   案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸鳥の領域及
   び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利
   を有するものとする。」
    対日平和条約が締結された日、同じサンフランシスコで日米安保条約が締結
   され、この二条約は翌五二年四月二八日、同時に発効した。その結果アメリカ
   は、日本の独立後も、日本全土に軍事基地を維持し続けることが可能になった。
   日本の非武装化を前提にして沖縄の分離軍事支配が考えられていた段階とは、
   明らかに状況が異っていた。
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    対日平和条約三条下の在沖米軍基地は、日米安保条約下の在日米軍基地とは、
   明確に異なった役判を担わされていた。それは、核兵器の持ち込みや戦闘作戦
   行動の自由を保障し、日本、韓国、フイリピン、台湾等の米軍基地の一体化し
   た機能を確保するという役割であった。
    沖縄では、すべてに軍事政策が優先した。そして軍事優先政策は、当然なが
   ら民衆の言動活動や日常生活を著しく制約した。由美子ちやん事件(米兵によ
   る六歳の幼女暴行惨殺事件)に象徴されるような米兵犯罪が頻発し、「銃剣と
   ブルドーザーによる土地接収」が行われた。一九五〇年代中頃のほぽ同じ時期
   に起きた東京都砂川町の立用基地拡張問題と沖縄の伊江島・伊佐浜の土地取り
   上げを対比させるとき、対日平和条約三条下の沖縄と日米安保条約下の日本本
   土との差異がはっきりとする。こうして、米軍と住民の矛盾対立の焦点は軍用
   地問題を中心とする基地問題となり、現在にいたっている。
    軍用地問題に対する住民側の不満・抵抗に直面した米議会は、住民側の要求
   に応えるかたちで、現地調査団を派遣した。この調査団が一九五六年六月、議
   会に提出した報告害(プライス勧告)は、一方的に沖縄基地の重要性を強調す
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   るばかりで、住民側の不満にはほとんど何の考慮もはらわなかった。
    プライス勧告の内容が伝えられると同時に、沖縄は、プライス勧告粉砕の声
   で沸き返った。島ぐるみ闘争の爆発である。米軍に任命された行政主席も、立
   法院議員も総辞職の意思を表明し、米軍政に対する住民側の抵抗組織の形成さ
   え意図された。一九九五年九月以降の沖縄の動きを島ぐるみ闘争と呼ぶのは、
   四〇年前のこの闘争との類似性においてである。
    結局、島ぐるみ闘争は、アメリカが、一括払い、すなわち、地価相当額の土
   地使用料を一度に支払って永代借地権もしくは限定付土地保有権を獲得すると
   いう政策を撤回し、軍用地使用料を大幅に引き上げることによって一応の終止
   符を打った。
    しかし、島ぐるみ闘争によって沖縄の民衆は、自らの力に対してある程度の
   自信を持った。
    また、島ぐるみ闘争は、日本国民にも一定の共感をよびおこし、これ以後沖
   縄問題は、日本における政治的争点として存在し続けることになった。
    軍用地問題のとりあえずの解決(島ぐるみ闘争の一応の終結)は、一時的、
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   表面的には沖縄の政治状況を安定させたかにみえたが、軍事支配下での限本的
   矛盾は何ら解決されていなかったため、六〇年代に入ると、沖縄の政治状況は、
   自治権拡大問題を中心にふたたび流動化し始める。
    沖縄における政治状況の流動化を一挙に押しすすめたのは、ベトナム戦争の
   全面的拡大である。べトナム内戦へのアメリカの全面介入は、アメリカ本国を
   含む全世界にべトナム反戦運動を惹き起こしたが、べトナム戦争の最大拠点と
   された沖縄もまた例外ではなかった。大衆運動は軍事基地にその矛先を向ける
   ようになった。
    やがて、日本政府は、いわゆる沖縄返還交渉に乗り出す。沖縄返還交渉の本
   質は、一九六〇年代後半、相対的な力関係が変化しつつあった日米両国が、そ
   の軍事的、政治的、経済的役割分担を、日本の役割を増大させるかたちで再調
   整するための話し合いであった。日米両政府は、一九六九年一一月の日米首脳
   会談で、沖縄の七二年返還に合意した。
    沖縄返還は、核つきでもなく、自由使用を保障するという条件付きでもなく、
   「本土並み」返還であることが強調された。
    しかし、「核抜き」については、一九九四年五月、沖縄返還交渉に佐藤首相
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   の密使として活躍した若泉敬氏が、著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文
   芸春秋)のなかで、核密約について触れており(この点について特に『NHK
   スペシャル 戦後五〇年その時日本は 第七回沖縄返還日米の密約』一九九五
   年一〇月七日放送、など参照。米軍占領下の沖縄戦後史全般については、中野
   好夫・新崎盛暉『沖縄戦後史』岩波新書、一九七六年など参照)、県民に大き
   な不安を与えている。
  4 日本復帰(沖縄返還)によって、沖縄にも日米安保条約、地位協定及びその
   実施に伴う特別法が適用されることになったが、それは決して、沖縄が「本土
   並み」になったことを意味しなかった。
    沖縄の民衆の求めたものは、米軍基地が「本土並み」に縮小されることであ
   り、「平和憲法下への復帰」であったのに対し、現実の七二年沖縄返還は、米
   国にそのままの状態で沖縄の基地使用を許したものであった。
    日本政府は、復帰を境に米軍用地使用料を協力謝礼金含めて平均約六・五倍
   に引上げ、米軍用地提供の賃貸借契約を奨励すると同時に、いわゆる公用地法、
   すなわち「沖縄における公用地等の暫定使用に関する法律」を復帰に際しての
   法律の一つとして制定し、米軍用地の強制使用を行った。公用地法は、強制使
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   用対象の土地を明示することもなく一括強制使用しようとするもので、強制使
   用に反対する地主から強い反発をかった。
    一方、米軍用地の強制使用と並行しながら日本政府は、米軍基地(施設及び
   区域)については、日米合同委員会において、復帰前と変わらない管理・運用
   を、いわゆる五・一五メモとして認めた。
    沖縄における広大な米軍基地の存在は沖縄返還の決定後今日に至るまで沖縄
   の振興開発を著しく阻害している。しかも、その整理縮小は、復帰後二〇余年
   にいたる現在も遅々としてすすんでいない。一方、一九六九年の佐藤・ニクソ
   ン会談における七二年沖縄返還の合意と共に、日本本土の米軍基地の返還が急
   速にすすみ、沖縄の復帰と共にこの傾向には拍車がかかった。
    復帰以降を比較しても、沖縄の米軍基地返還がわずか一五%だったのに対し、
   本土の米軍基地はその約六〇%が、しかも、一九七〇年代中ごろまでに返還さ
   れている。つまり、沖縄返還によって、沖縄を含む日本全休の米軍基地の整理・
   統合・縮小は、沖縄にその多くをシワ寄せするかたちですすめられたといえる。
   全国の〇・六%の県土面積に、七五%の米軍基地(専用施設)という状態はこ
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   うして確立されたのである。
    要するに、復帰後の沖縄における米軍基地問題の核心は、日米安保条約、地
   位協定、その実施に伴う特別措置法等の規制を一切受けることなく事実上の軍
   事占領下でつくりあげられてきた米軍基地とその機能を、日米安保条約、地位
   協定、その実施に伴う特別措置法等の下で、保護したという点にある。
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