公告縦覧訴訟 被告第一準備書面
平成八年(行ケ)第一号
職務執行命令裁判請求事件
原 告 内閣総理大臣
橋 本 龍太郎
被 告 沖縄県知事
大 田 昌 秀
被告第一準備書面
一九九六年七月二九日
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右被告訴訟代理人
弁護士 中 野 清 光
同 池宮城 紀 夫
同 新 垣 勉
同 大 城 純 市
同 加 藤 裕
同 金 城 睦
同 島 袋 秀 勝
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同 仲 山 忠 克
同 前 田 朝 福
同 松 永 和 宏
同 宮 國 英 男
同 榎 本 信 行
同 鎌 形 寛 之
同 佐 井 孝 和
同 中 野 新
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同 宮 里 邦 雄
右被告指定代理人
同 又 吉 辰 雄
同 粟 国 正 昭
同 宮 城 悦二郎
同 大 浜 高 伸
同 垣 花 忠 芳
同 山 田 義 人
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同 比 嘉 博
同 兼 島 規
同 比 嘉 靖
同 謝 花 喜一郎
福岡高等裁判所那覇支部 御中
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目 次
第一 はじめに ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一
第二 沖縄の苦難の歴史 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・五
一 戦前の沖縄 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・五
1 琉球処分以前 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・五
2 琉球処分 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・七
3 旧慣温存政策 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一〇
4 昭和の沖縄――昭和元年から沖縄戦まで ・・・・・・・・・・・・・一〇
二 沖縄戦 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・二二
1 沖縄守備軍の創設と臨戦態勢 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・二二
2 沖縄守備軍の動き ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・二四
3 一〇・一〇空襲の前後 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・二五
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4 戦場動員状況 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・二八
5 戦時行政から戦場行政へ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三一
6 国体護持と沖縄戦への突入 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三三
7 米軍の上陸と日米最期の決戦 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・三五
8 米軍の沖縄本島上陸直前の状況 ・・・・・・・・・・・・・・・・・三五
9 沖縄本島中部・首里戦線 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三七
10 首里戦線 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・四〇
11 離島戦線 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・四五
12 南部戦線 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・四六
三 戦後の沖縄 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・五二
第三 沖縄における基地形成史 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・六四
一 米軍の沖縄占領から対日平和条約発効前の土地接収の実態 ・・・・・・六四
1 土地の囲い込み ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・六四
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2 米国の沖縄占領政策の変化 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・六八
3 開放地の再接収 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・七〇
4 対日平和条約前の接収の違法性 ・・・・・・・・・・・・・・・・・七二
二 対日平和条約の発効から沖縄返還までの基地形成 ・・・・・・・・・・七四
1 対日平和条約発効 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・七四
2 低廉な地料による長期貸賃借契約の失敗 ・・・・・・・・・・・・・七六
3 銃剣とブルドーザーによる土地強奪 ・・・・・・・・・・・・・・・七八
4 島ぐるみ闘争 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・九〇
5 布令二〇号以後の軍用地問題 ・・・・・・・・・・・・・・・・・一〇四
6 対日平和条約後の土地接収の違法性 ・・・・・・・・・・・・・・一一一
三 沖縄返還協定と軍事基地 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一一四
四 沖縄返還後の強制収用 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一一六
1 「公用地法」の制定 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一一六
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2 「地籍明確化法」の制定 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一二二
3 「駐留軍用地特措法」の発動 ・・・・・・・・・・・・・・・・・一二四
第四 米軍基地の実態と被害 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一二六
一 米軍基地の概況 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一二六
1 在沖米軍施設の全国比率 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一二七
2 所有形態 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一二八
3 用途別使用状況 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一二九
4 米軍訓練水域及び空域 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一三一
5 軍別状況 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一三二
二 米軍の演習・訓練及び事件・事故の状況 ・・・・・・・・・・・・・一三五
1 演習・訓練の概要 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一三五
2 県道一〇四号線越え実弾砲撃演習実施状況 ・・・・・・・・・・・一三五
3 パラシュート降下訓練実施状況 ・・・・・・・・・・・・・・・・一三六
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4 原子力軍艦寄港状況 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一三七
5 事件・事故 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一三七
三 環境破壊 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一四二
1 自然環境の破壊 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一四二
2 騒音公害等 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一四五
四 米軍基地に起因する女性に対する人権侵害 ・・・・・・・・・・・・一四七
五 基地に侵害される子供の権利 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・一五二
六 振興開発の阻害 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一六〇
1 振興開発と米軍基地 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一六〇
2 読谷村の振興開発の阻害 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一六一
七 行政事務の過重負担 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一六四
1 沖縄県の場合 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一六四
2 市町村の場合 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一六五
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第五 米軍基地、代理署名訴訟判決等に対する県民及び国民の世論 ・・・・一六八
一 はじめに ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一六八
二 政治意識調査 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一六九
1 日米安保条約の有用性について ・・・・・・・・・・・・・・・・一六九
2 米軍基地に対する不安感について ・・・・・・・・・・・・・・・一七三
3 米軍基地に対する態度について ・・・・・・・・・・・・・・・・一八一
4 米軍基地の現状と将来について ・・・・・・・・・・・・・・・・一八三
5 政府の対応、沖縄県知事の姿勢について ・・・・・・・・・・・・一八六
6 高裁判決について ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一八七
7 沖縄県知事の最高裁上告について ・・・・・・・・・・・・・・・一九一
8 高裁判決後の政府の対応について ・・・・・・・・・・・・・・・一九五
三 まとめ ・・・・・・・・・・・・・・。・・・・・・・・・・・・・一九七
第六 米軍基地問題に対する県の対応と二一世紀への展望 ・・・・・・・・一九九
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一 日米両国政府等に対する基地整理・縮小等の要請 ・・・・・・・・・一九九
二 二一世紀への展望と行動――国際都市を目指して ・・・・・・・・・二〇八
1 国際環境変化の中の沖縄の位置と期待される役割 ・・・・・・・・二〇八
2 国際都市形成整備構想 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・二一〇
三 国際都市形成へ向けた基地返還アクションプログラム ・・・・・・・二一七
1 国際都市形成と米軍基地 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・二一七
2 基地返還アクションプログラム ・・・・・・・・・・・・・・・・二一九
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第一 はじめに
一 本件訴訟の狙いは、福岡高等裁判所那覇支部平成七年(行ケ)第三号職務執行
命令裁判請求事件(以下「代理署名訴訟」という)同様に地主と沖縄県民の意思
に反する土地の強制使用である。本件訴訟は外形的には駐留軍用地特措法・土地
収用法・地方自治法に基づいて、本件土地の裁決申請に係わる公告縦覧の代行手
続きを求めるものである。
しかし、被告(沖縄県知事)が右代行手続きに応ずることは、国による土地の
強制使用手続きに加担し、米軍基地の存続・固定化に全面的に協力する姿勢を示
すことになる。よって米軍基地の整理縮小を県政の大きな柱にしている被告にとっ
て、本件公告縦覧の代行手続きに応ずることは耐えがたいことであり、到底容認
できない。
これに対し、日米安保条約の義務履行を盾に本件公告縦覧代行を求めているの
が本件訴えである。
二 沖縄の米軍基地は広大かつ過密であり、構造的な欠陥を有しているのに加えて、
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水域や空域にも多くの制限区域が設定されている。
これらの米軍基地から派生する爆音、山林火災等による環境破壊、米軍人・軍
属による種々の事故等、県民生活の被害は甚大であり深刻である。また、米軍基
地は沖縄県の振興開発の大きな阻害要因になっているだけでなく、各市町村の都
市計画にも悪影響を及ぼしている。
米軍基地は沖縄における諸悪の根源であると言われる所以である。
三 これに対し沖縄県及び県議会はこれまでに幾度となく米軍基地から派生する、
さまざまな被害の根絶と基地の整理・縮小について日米両国政府に強く要請して
きた。しかし原告は沖縄県民の過重な基地負担を十分に知りながら一向に対策を
講ずることなく、今回また裁判に訴えてまで土地の強制使用をしようとするので
ある。
特に本件裁決申請に係る公告縦覧の代行の対象たる知花昌一所有の土地は現在、
国によって不法に占拠されており、当該土地を強制使用するために裁判所に救済
を求めることは到底許されない。
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四 知事は、代理署名訴訟事件の第一回口頭弁論期日において「裁判所が憲法、地
方自治法の趣旨を踏まえ、司法の独立の原則の上に立ち、歴史の審判に耐えうる
判決をお願いします」と強く要請した。しかし裁判所の審理は原告に加担した訴
訟指揮に終始し、訴訟進行を急ぐあまり、必要とされる実質審理を避け、極めて
杜撰な判決を言い渡した。この判決に対する県民の怒りは強いものがあり、マス
コミも「世論に背を向けた判決」であると厳しく断罪した。
五 原告は、平成七年被告に対し職務執行命令訴訟を提起した後沖縄の米軍基地問
題に対し関心を示すようになり、日米両国政府で普天間飛行場の移転を決定した。
しかし、提示された施設のほとんどが県内の既存の施設・区域への移転を前提
としていることに、県内自治体等から強い反発があり、県民が十分に納得できる
内容になっていない。
このように沖縄の米軍基地を取り巻く状況は、県民の強い要望にも拘らず一向
に進展していない。よって本件公告縦覧の代行がたとえ機関委任事務だとしても、
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知事が、これを拒否することこそが、県民の総意に基づき、かつ地方自治の本旨
に沿い、憲法原理と真の公益を実現するものであり、正当で正義に適うものであ
る。
福岡高裁那覇支部におかれては、十分な審理を尽くし、沖縄県民の意思を充分
汲み取られ歴史の審判に耐えうる判決を下さるよう強く望むものである。
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第二 沖縄の苦難の歴史
一 戦前の沖縄
1 琉球処分以前
琉球処分以前の沖縄県の前身である琉球の歴史は、五、六世紀以来中央政府
の統一的支配の下にあった他府県の歴史とは異なり、本土社会とは別個の国家
形成の途を歩み、琉球王国を作り出していた。
一六〇九年三月四日、徳川家康から「琉球征伐」の許可を得た薩摩藩の島津
氏は、樺山久高を総大将に三〇〇〇余の兵と一〇〇隻以上の船をもって、鹿児
島方、国文方、和治木方の三手にわかれ薩摩の山川港から出兵した。
当時、奄美大島諸島は琉球王の統治下にあったので、薩摩軍はまず奄美大鳥
を征服した。
琉球王府は、奄美大島諸島が薩摩軍によって征服されたことを知り、和睦の
使者を薩摩軍のもとへ送る計画を立てたが最早手遅れだった。薩摩軍は沖縄本
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島北部の今帰仁港に押し寄せていた。王府は今帰仁に和睦の使者を送ったので
あるが樺山久高はこれを拒否した。
薩摩軍は三月二九日に今帰仁港を出発し、一隊は本島中部の大湾港に上陸し、
他の軍は首里正府の攻略に向かった。
琉球王府は、越来親方を大将として応戦したのであるが、薩摩軍の鉄砲の威
力の前にはなす術もなく、琉球側の決定的な敗北に終わり、四月五日首里城明
け渡しとなった。
一六〇九年五月二九日、薩摩軍は琉球の尚寧王を捕虜として薩摩へ連行した。
それ以降、琉球王国は、一八七九年の明治政府による「琉球処分」まで、薩
摩への付庸と清国への朝貢という二元的な従属体制、いわゆる日清両属の政治
形態を余儀なくさせられたのである。
薩摩は、琉球王国を征服し、二五〇年余王府を中国貿易の手段として利用収
奪していった。民衆は、王府と薩摩の二重の収奪による苦難の歴史を強いられ
ていった。
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後に薩摩藩が明治維新の中心的勢力になりえたのは、琉球からの収奪による
ものと言われている。
2 琉球処分
徳川幕府は、西欧列強に開国を追られ、国内の政治的経済的行き詰まりによっ
て鎖国政策がつき崩され、徳川三〇〇年の幕府は崩壊し、一八六八年明治政府
が成立した。
一八七一年、廃藩置県が実行されたが、琉球はそれから除外され、鹿児島県
の管轄に置かれた。
ところが、一八七一年一二月、沖縄の宮古島の漁夫六九人が台湾に漂着し、
その中の五四人が殺害されるという事件が発生した。この事件を契機にして、
明治政府は、琉球の日清両属を清算し、琉球が日本のみに専属していることを
公然化させるため、一八七二年、琉球を鹿児島県の管轄から外し、「琉球藩」
とし、尚泰王を琉球藩主とした。
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その三年後、明治政府は「琉球藩」の処分政策を推進していった。
琉球処分は、明治政府による近代国家における国家主権の排他的行使という
前提に立ち、琉球の日本に対する忠誠関係を一元化し、清国への伝統的な臣従、
朝貢関係の断絶、破棄を迫るものであった。
それゆえ、日清間の緊迫した外交問題となっていった。
琉球の内部においては、士族支配層の一部が明治政府の琉球処分に執拗に抵
抗し、それを阻止すべく救援を求めて清国へ渡り清国政府へ訴えた。これらの
集団を脱清派と総称している。
しかしながら、明治政府は、士族支配層の意思を抑圧し、内務大丞松田道之
をして、一八七九年三月二七日、一六〇人の警官と四〇〇人の軍隊を琉球に派
遣し「琉球処分」を断行していったのである。
この琉球処分は、明治政府のもとで、琉球が日本の近代国家の中に強制的に
統合されていく過程であった。しかし、その過程は、琉球側(支配者及び人民)
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の主体的な意思や働きによって導かれたものではなかった。むしろ琉球の支配
階級(士族)の反対・抵抗を押さえて、明治政府の一方的な権力恣意の貫徹と
して実現したものである(金城正篤著『琉球処分論』)。
ところで、この琉球処分期に、憂国の自決を遂げた琉球士族の一人の人物が
いた。林世功という志士的人物であった。同人は、琉球処分直前に清国へ脱出
亡命し、清国において琉球処分に反対する運動を展開し、清国の救援を求めて
奔走した。ところが、一八八〇年、日清両国の間で、沖縄本島を日本の支配下
に、離島の宮古、八重山二島を清国に割譲して琉球を分割統治する「分島改約」
条約が締結されようとしていた。
明治政府の提議によるこの条約案に対し、林世功は絶望し、最早一死をもっ
て「憂国」の至情を貫徹する以外に道はないと決意し「辞世」を残し自決して
いった。林世功の死は、まさに小国琉球廃藩の哀史の象徴であるとともに、明
治政府の武断と強権、琉球の両断に対する抗議の自決であり、国家エゴイズム
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に対する一身をかけた行動として歴史の一ページに記されている。
3 旧慣温存政策
明治政府は、琉球処分によって琉球を強制的に日本の版図に組み込んでいっ
たのであるが、支配階級を慰撫するために、他県ではすでに実施されていた国
政参加、地租改正、法律の一元化等の近代国家としての制度改革を遅らせるい
わゆる「旧慣温存政策」を採った。
これは、結果として沖縄が近代国家として発展しつつあった日本の中におい
て政治、経済の面で大幅に遅れる原因になった。
この遅れが沖縄県民に他府県人と平等に認められていないという、ある種の
屈辱感と悲哀をもたらす大きな要因となり、できるだけ日本化しようとする為
政者や教育界の動きとなっていった。また、昭和に入り、中央での国民精神総
動員運動の流れに伴い、県内でも国民的同化・一体化が強く押し進められた。
4 昭和の沖縄―昭和元年から沖縄戦まで
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(一) 苦難の連続
一九二五年に始まり一九八九年まで、六四年に及ぶ「昭和」時代はここで
あつかう沖縄戦までの二〇年と、それ以後の時代とに大別できる。
「昭和」の前半二〇年間は、戦乱に満ちた暗い時代である。いわゆる「十
五年戦争」とも言われるように、軍事力を背景にした日本の植民地支配に対
して、中国をはじめとするアジア諸国が英米の支援を受けて抵抗し、泥沼の
「戦乱の時代」となった時代である。
「万邦協和」・「八紘一字」の名のもと日本軍は中国をはじめアジアの近
隣諸国民に癒しがたい甚大な被害を与えた。国民は、「聖戦遂行」を至上命
令とする国策によって、戦場と銃後の別なく塗炭の苦しみを強いられていた
が、「治安維持法」下で、国民の自由な権利はことごとく剥奪され、国策に
反抗したり、批判したりする者は「国賊」のレッテルをはられた。
「一口に『昭和時代』といっても、その内実は、けっして単一なものでは
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ない。昭和改元から日本が戦争に負け無条件降伏を余儀なくされた一九四五
(昭和二十)年八月までの二十年間とそれ以後の四十三年間とでは、一面で
は別の時代といってもよいほど、その歴史的内実は、異なっていた。前半の
『戦争時代』は、『大日本帝国憲法』に基づく『絶対主義的天皇制』下にあっ
て、教育は皇国の道を中心にすえた教育勅語によってなされていた。それに
対し、後半においては、日本国憲法に由来する主権在民の『象徴天皇制』下
で、教育も教育基本法に依拠して行われた。とはいえ、実質的には必ずしも
すべての面で根本的変容があったわけでもない。断絶、もしくは非連続のも
のもあれば、戦前から現在に至るまで連続性を保ち連綿と生き残っているの
もある。言い換えるなら昭和の歴史は、戦争の有無にかかわらず、断絶と連
続の統一体として織り成されてきたともいえる。沖縄にとっての『昭和』は、
日本(本土)の場合とは、大いに趣を異にしていた。沖縄の昭和史において
は、本土で見られたように連続とか断絶=非連続といった変容はほとんど見
られず、地元住民の受難との関連でいえば、苦難の『連続』性だけが目立っ
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たといっても過言ではない」
(大田昌秀『検証 昭和の沖縄』二〜三ページ)。
二 差別的政策と思想弾圧
昭和四〜五年の世界経済恐慌、大正一四年(一九二五)にすでに成立して
いた「治安維持法」、昭和六年(一九三一)の満州事変に始まるいわゆる一
五年戦争、これらのできごとはなにも沖縄だけ恐怖と犠牲を強いたわけでは
なく、日本の全国民がその影響を受けた。しかし、沖縄の場合は、いわれの
ない差別的政策と偏見のため、他の日本のどの地域の人々にもまして痛まし
い事態を強いられた事実がある。
(1) ソテツ地獄と「沖縄県振興十五カ年計画」の挫折
第一次世界大戦(一九一四年〜一八年)で大きな利益を得た日本だったが、
大戦後の世界大恐慌の波は日本、沖縄へと押し奇せ、経済混乱、銀行の倒
産、失業者増大、生活苦を強いられることになる。時期としては昭和四〜
五年で、沖縄県は、大正九年頃からの慢性的財政難に喘いでいたため、県
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民の苦しみを倍加せしめる結果となり、教員の給料遅配や欠配がおこって
社会問題化していた。米はおろか、当時の常用食であったイモさえ食べる
ことができず、野生のソテツで飢えをしのいだ。ソテツは処理方法を誤る
と中毒死する危険な「食べ物」で、犠牲者もずいぶん出た(琉球新報編
『昭和の沖縄』)。
生活苦から、男の子は糸満の漁村に、女の子は辻の遊郭に売られる(人
身売買)ことも多くなった。注目すべきことは、沖縄の貧困はこの昭和の
恐慌に始まったことでなく、明治以来構造化していたということである。
明治一二年の廃藩置県後、旧慣温存の政策が採られ、明治三二年の土地整
理事業によって近代化へと大きく転換したものの、県経済の「後進、零細、
低俗」の三つの特徴は、大正から昭和へと引き継がれていた(田港朝昭
『沖縄県史』)。
昭和恐慌、ソテツ地獄からの乗り切り策として、昭和八年に沖縄県は
「沖縄振興一五カ年計画を策定した。大正四年に策定した「産業振興一〇
年計画」に次ぐ県政史上二つめの長期計画で、県民からも期待されたが、
時勢は、軍事体制下に入り、第二次世界大戦の拡大とともに、計画は戦禍
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で泡と消えてしまった(琉球新報社編『前掲書』)。
生活苦から糸満や辻への人身売買、海外移民などは、経済政策の失敗の
しわ寄せの典型的事例である。
(2) 治安維持法下での運動
経済的破錠と政治の混迷の中で、人々は自主的な解決へと立ち上がるが
そのほとんどは弾圧されるか、芽のうちに摘み取られてしまった。
一九二八年、普通選挙法による最初の選挙が実施され、労働農民党から
二人の県出身者が立候補し、社会主義を目指す労働党の主張が県内都市部
でかなり浸透していった。
労働組合の結成や労働運動の組織化が進んだのもこの時期だが、激しい
弾圧で、多くの犠牲者が出た(安仁屋政昭『沖縄の無産運動』)。
沖縄初のメーデー(一九二一年)、那覇市荷馬車組合結成(一九二二
年)、小学校教員の社会科学研究会組織(一九二七年)、那覇市立高等女
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学校増築工事現場争議(一九二八年)、土橋貝釦工場争議(一九二八年)
など多くの例が上げられている。しかし、一九二五年に治安維持法が公布
され、一九二八年には、労働党那覇支部や沖縄青年同盟に解散命令が出さ
れ、同年沖縄県に特別高等課(特高)が設置され、結社や言論、集会など
に対する締めつけが強化された。
一九三七年には日本教育労働者組合八重山支部(一九三〇年結成)が、
特高によって壊滅させられる。このような中で大宜味村政革新運動は、青
年層を中心にして特異な活動を展開した。疲弊した山村の政治を改革しよ
うと五項目の綱領に基づいて「村政革新同盟」を結成し(一九三一年)、
二四項目からなる具体的要求を掲げていた。要求の中には減税を始め、村
財政の経費節減、政治的、経済的な民主化を求める項目などが盛り込まれ
ていた。
(三) アイデンティティの喪失―日本化
昭和恐慌による経済的状況の悪化に伴い、社会不安も増大した。こうした
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中、一九三一年満州事変(柳条湖事件)が勃発する。経済的にも政治的にも
他府県以上に苦境に陥っていた沖縄県では、県民の不満も鬱積していた。
「満州開拓民」が派遣されたり、「暴戻飽くなき支那匪」と戦う日本軍に対
する感謝電報を関東軍司令部に送ったり、内部の不満の「はけ口」として利
用された。一方、誇りある日本人となるために、精神構造、生活習慣、言語、
芸能などあらゆる沖縄的なものが否定され、日本化が推進された。
(1) 方言論争
方言論争は、一九四〇年に日本民芸協会(柳宗悦)と沖縄県当局との間
で展開された論争である。沖縄県以外の土地では起こっておらず、県当局
者をはじめ支配層の沖縄に対する差別と沖縄文化に対する蔑視が集約され
た事件だったと言える。柳宗悦は、一九三八年に一度沖縄を訪れ、通念に
反して美の宝庫たる沖縄に魅了され、一九四〇年には民芸協会の同人二六
人を伴って再度沖縄を訪問した。
ところが、戦時体制の拡大に伴い時局が緊迫するにつれ、沖縄では「国
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民精神の注入」と称して「方言廃止、標準語励行」運動が、県学務部の主
導で展開されていた。これは、前年から、「国民精神総動員運動」の一環
としておし進められ、異常なまでにエスカレートした。これに対し柳宗悦
らは、その行き過ぎを指摘して、地方文化の擁護を訴えたが、これが県当
局ばかりか県民の批判の的となった。
「この問題は、たんに言語問題を介して国策的施策と地方文化の要請と
が衝突したということ以上に、文化の本質や沖縄県人の意識構造と深くか
かわる問題である。
標準語の励行は、明治十二年(一八七九)の廃藩置県以来、県当局と地
元の指導者が、沖縄県民を日本人へ同化させる一環として強力に推進して
きたことである。教育までが、単に「国民精神の普及手段」としての効果
しかもちえなかった状況下であっただけに、県当局が、方言を廃止し、標
準語を励行することによって、県民に国民精神を注入しようと図ったのは、
半ば必然的なコースであった。
昭和八年、九年頃から県当局は、従来以上に標準語の奨励に力を入れた
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が、同十年代にはいって戦時色の濃化とともにその傾向はますます強まり、
とくに昭和十四年からは、国民精神総動員運動の一翼としてそれは一段と
強化された。太平洋戦争間近になると、県知事が「国民的一致のためには、
沖縄の地方的特色は、一切抹殺されねばならぬ」と公言するようになり、
地元の指導者のほとんども、そうした見解を無条件に肯定する状態になっ
た」(大田昌秀『近代沖縄の政治構造』)。
標準語励行運動は、「方言ばかりでなく姓名の呼び方や、沖縄芝居、舞
踊などにも制限を加えるようになり」(池宮城秀意『戦争と沖縄』)、一
切の沖縄色の否定・排除へとエスカレートしていった。
県当局者と指導者にとっては、沖縄出身者が東京や大阪等の出稼ぎ先で
言語や風習の違いから差別されたり、自己の意志発表はおろか、礼儀さえ
わきまえぬ者が多い状態を改善し、今や「その精神的信念において昔日の
比ではなくなった。最大理由は、標準語普及によるものである、と断言し
てはばからない」という認識に裏打ちされていたとは言え、民芸協会員ら
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の次のような指摘もまた、当然のものであった。
「言語は民族の精神、人情、習慣ひいては文学、音楽と密接な結縁をも
つもので、地方の文化性は、もっとも如実にその言語に表現される。地方
語の微弱は、地方的文化の微弱を意味するのだが、果たして県当局者は、
沖縄語への敬念をいだいたり、地方語の価値を認識しているだろうか」
「諸氏が他府県の学務部に転任するときはたして標準語奨励運動を起こ
す勇気があるか。沖縄県だけにその必要があって、他府県には必要がない
というであろうか。私たちは諸氏の明答を得たい。なぜなら他府県におい
ては、地方語はいぜんとして常用語となっているからである。だがそれら
のいっさいの他府県の教室には「一家そろって標準語」という貼紙をみな
い。なぜ日本の本土において自由に方言が用いられているのに、沖縄ばか
りがひたむきになって標準語を奨励しなければならないのか。なぜ家庭に
おいてその土地の母語を用いてはいけないのか」
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柳氏らが指摘しているとおり、ある地方の呼吸にも等しい方言の使用を
禁止したり、撲滅しようとした例は沖縄以外では見られない。
(2) 改姓改名運動
戦時色が強まるにつれて、沖縄固有の伝統文化を否定し、日本本土の文
化への同化が言語にかぎらず日常生活のあらゆる分野に及んだ。それは、
生活改善運動と称して行われたが、改姓改名運動もその一環として展開さ
れた。自分の姓名を自ら否定して変更するということは、自らがよって立
つアイデンティティの喪失であり、これは沖縄文化に対する偏見、抑圧と
いう歴史的背景を抜きにしては語れない。
(四) 「南進」国策
戦時体制の強化と関連して、国策として沖縄の古い歴史を讃え、沖縄県民
の海洋民族としての特徴が喧伝された。こうして太平洋地域へ農民や漁民と
して大量の移民が送り出された。結果からみれば、日本の南進政策に利用さ
れたものであった。
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沖縄の漁民の南方関心・南方進出について後藤乾一氏は、「彼ら自身の意
図に関わりなく、絶えず国家の南方関心・南進政策に取り込まれていく過程」
であったとしている。(『近代日本と東南アジア―南進の「衝撃」と「遺
産」』)。
二 沖縄戦
1 沖縄守備軍の創設と臨戦態勢
沖縄戦は、一九四一年一二月八日、日本軍の奇襲攻撃にはじまるアジア・太
平洋戦争の帰結点となった日米両軍最後の地上戦闘であり、一九三一年の「満
州事変」を起点とした日本の一五年戦争の一環であった。当初、破竹の勢いで
占領地を拡大していた日本軍も、一九四二年六月のミッドウェー海戦で米軍に
敗北以後、戦況は悪化の一途をたどった。そして戦線は、日本本土へ北上して
いき、一九四四年二月一七日〜一八日にかけて、突如アメリカ機動部隊は日本
の絶対国防圏内(一九四三年九月一五日設定)であるマリアナ諸島のトラック
島に、空襲と艦砲射撃を加え、艦船、航空機、施設などに甚大な損害を与えた。
さらに、二月二三日、サイパン、テニアン島を空襲した。(三月には、パラオ
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島を空襲)。この米軍の攻撃は、大本営の予想時期をはるかに上回るものだっ
たので、大変な衝撃をあたえた。それから二日後の二五日、政府は「決戦非常
措置要綱」を発表したので、早速、高級娯楽が停止されたり、興行場も閉鎖さ
れていった。こうして、本土決戦の間近いことが国民にも浸透していき、緊張
の度が深まった。
沖縄県内にあっては、他府県出身の県庁役人の家族が一斉に、本土の出身地
へ引き揚げはじめていった。本土決戦のまえに沖縄が決戦場になるかも知れな
いという情報が伝わっていたと思われる。なぜなら、佐世保鎮守府司令宮が南
西諸島の防備態勢の強化を要請したのをうけた形で、三月二二日に大本営直轄
の沖縄守備軍・第三二軍が創設されているからである。また、大本営は、フィ
リピン同様台湾及び南西諸島防衛のために、「第一〇号作戦準備」を下した。
絶対国防圏の後方に位置する沖縄が「皇土防衛」の日本国内では最前線基地に
なることは、誰の目にも明らかであった。
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2 沖縄守備軍の動き
第三二軍が創設されてまもない三月末には、一九四三年末から建設が始って
いた北(読谷)飛行場と伊江島飛行場の建設のため、全島的に労務徴用を本格
化した。そして四月一日には、第三二軍は「第一〇号作戦準備」を開始した。
沖縄の第三二軍は、四月上旬に軍司令部が沖縄現地に到着して、沖縄本島・宮
古・八重山諸島には六月から九月にかけて第九師団・第二四師団・第六二師団・
第二八師団の四個師団と独立混成四四旅団・独立混成五九旅団・独立混成六〇
旅団・歩兵第六四旅団・独立混成第四五旅団の五個混成旅団の兵力を主軸とし
て編成されていった。部隊編成としては、さらに、砲兵隊・海上挺身隊・秘密
遊撃隊・船舶工兵隊が加わり、また海軍の沖縄方面根拠地隊も陸戦隊に編入さ
れた。部隊編成の最中にも、大本営は、同年七月下旬にフィリピン、台湾、南
西諸島、日本本土、北方の各地域にわたって捷号作戦と称する決戦準備の命令
を下した。
米軍は、六月一五日沖縄県民多数が移住していたサイパン島に遂に上陸した。
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七月七日には日本軍は全滅した。同日、九州・台湾へ南西諸島の老幼婦女子一
万人を疎開させることが閣議決定され、早速翌月実施された。しかし、開始早々
の八月二二日、学童疎開船対馬丸が悪石島近海でアメリカの潜水艦攻撃をうけ
て撃沈し、学童約七〇〇人を含む一五〇〇人余が犠牲となった。
3 一〇・一〇空襲の前後
南西諸島への米軍機は、一九四四年九月頃から特に北谷上空では、空中撮影
のために頻繁に侵入してきたことが、目撃されている。一〇月一〇日から一三
日にかけて沖縄本島の那覇市を中心に大空襲が行われる以前に、九月末と一〇
月初めに沖大東島への初空襲が、その大々的な空襲の前触れであった。アメリ
カはこのような空襲の下調べをした後、一〇月三日沖縄攻略作戦・アイスバー
グ作戦を決定して、一〇月一〇日朝七時前から午後五時頃まで五波にわたり、
沖縄の県都那覇市を中心に大空襲を実施した。一日で那覇市の九割が焼失し、
市民約五万人が罹災して沖縄本島中北部へ避難した。焼失した戸数は約一万二
千戸であった。この南西諸島への大空襲は、米軍が南方での作戦展開にあたっ
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て、「皇土防衛」の前進基地をたたいておくということがその狙いの一つであっ
たと思われる。日本軍の港湾施設を始め、各航空基地を攻撃されて日本軍はほ
とんど無抵抗のまま敵に蹂躙された。その後、九州から日本軍機が追撃して、
台湾沖航空戦を展開した。実際にはそれも日本軍の敗北に終わったが、大本営
発表では日本軍が大戦果をあげたといい、那覇の仇討ちを果たしたと住民を驚
喜させた。
しかし、日本軍が敵に蹂躙される様子を冷静にみていた人達は、日本の敗戦
を予想して暗澹たる思いに陥った。
近衛文麿の側近だった細川護貞はその日記・一二月一六日に一〇・一〇空襲
後の状況について、日本軍と沖縄県民との関係を詳述している。「昨一五日、
高村氏を内務省に訪問、沖縄視察の話を聞く。沖縄は全島午前七時より午後四
時まで連続空襲せられ、如何なる僻村も皆爆撃、機銃掃射を受けたり。皆民家
の防空壕を占領し、為に島民は入るを得ず、又四時に那覇立退命令出で、二十
五里先の山中に避難を命ぜられたるも、家は焼け食糧はなく、実に惨憺たる有
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様にて、今に到るまでそのままなりと。而して焼け残りたる家は軍で徴発し、
島民と雑居し、物は勝手に使用し、婦女子は凌辱せるゝ等、恰も占領地に在る
が如き振舞いにて、軍紀は全く乱れ居れり。我々(第三二軍事参謀長のこと)
は作戦に従ひ戦をするも、島民は邪魔なるを以て、全部山岳地方に退去すべし、
而して軍で面倒を見ること能はざるを以て、自活すべしと広言し、居る由。島
は大半南に人口集まり居り、退去を命ぜられたる地方は未開の地にて自活不可
能なりと。那覇にても敵に上陸を許し、然る後之を撃つ作戦にて、山に陣地あ
り、竹の戦車等作りありと」(『細川日記』(下)三三六頁中央文庫)。
この細川日記では、日本の上層部の中にも軍の方針を冷やかに分析していた
者もいたことを示している。そして、当時ですら沖縄戦において、軍が戦闘の
邪魔になる老幼婦女子を自活もできない北部山中に退去を命じたこと、また、
日本軍が沖縄県民を占領地の住民視していたことや婦女子への凌辱など赤裸々
に記述していることは注目すべきものである。それは、多くの県民の体験証言
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を裏付けるものともなっている。
また、現地自給の方針を持つ沖縄の日本軍は、その兵力不足を補充するため
に、まず、九月から一一月にかけて沖縄現地で現役兵を召集するとともに防衛
召集を実施した。さらに、日本全体としても兵力不足のために、八月末に植民
統治下の台湾に対しても日本の徴兵制を実施し、台湾人も皇軍の一員に加えて
いった。そして、一〇月中旬には兵役法施行規則を改正し、満一七歳以上の男
子を兵役に編入していった。
4 戦場動員状況
一九四四年一一月、武部隊一個師団が台湾へ抽出された沖縄の日本軍は、作
戦の変更をせざるを得なくなった。つまり、「一木一草戦力化すべし」という
方針のもとに法的裏付けもなしに、足腰のたつ老若男女を戦場動員していくこ
とになった。まず、一二月一日に沖縄各地に「緊急特設挺身隊」を結成させて
いったのもその一環であった。年明け早々、第三二軍は第二次防衛召集を実施
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して、満一七歳以上四五歳以下の男子のほとんどが召集されたが、さらに、三
月上旬にも残る男子が召集されていった。また、二月には、県下中等学校男女
生徒の学徒動員が強化され、通信・観測・看護などの特別訓練が授業を完全に
停止した状態で行われた。同時に県下市町村単位の国土防衛義勇隊編成を指示
するとともに、中等学校単位での防衛隊が組織された。
二月一五日に第三二軍は、「戦闘指針」を軍民に示達した。そして「一機一
艦船一挺一船 一人十殺一戦車」という標語のもとに「軍官民共生共死の一体
化」の方針を徹底化していった。また、陣地構築のための徴用や食糧供出の強
要も、軍刀を抜いて脅迫するなど地上戦闘を目前にして軍民の関係は緊迫度を
増してきた。しかし、一方では米軍の上陸が必至という状況のなかで、三月一
四日、日本軍は住民を総動員して心血を注いで建設させた伊江島飛行場を破壊
するように命じた。また、三月に入るや県立第二高等中学校生の一部が本部半
島に展開していた宇土部隊に編入されたのを皮切りに、そして三月二三日、米
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軍の上陸前大空襲が開始され、艦砲射撃も加わった翌日、県立第二高等女学校
生が従軍看護要員として、山部隊に配属され、兵隊とともに行動を共にするこ
とになった。二五日に、県立第一高等女学校生徒は、南風原陸軍病院に従軍看
護要員として配属され、那覇市立商業学校生も鉄血勤皇隊・通信隊を編成して
各部隊に配属されていった。また、二六日は、県立二中・私立開南中学・県立
三中・県立農林学校生徒らが鉄血勤皇隊・通信隊として各部隊へ配属された。
第三高等女学校生徒も北部の各部隊に看護要員として加わった。二七日に、県
立首里高等女学校生、二八日には私立昭和高等女学校生が看護要員として石部
隊に、さらに同日県立第一中学校生徒が鉄血勤皇隊・通信隊として球部隊に配
属されていった。二九日には、県立工業学校生徒が鉄血勤皇隊として球部隊に、
女子師範学校生が看護要員として南風原陸軍病院に配属された。米軍が沖縄本
島へ上陸した日の前日の三一日、私立積徳女学校生が看護要員として山部隊に、
沖縄師範男子部生徒が鉄血勤皇隊として軍司令部直属として配置された。さら
に、一五歳以上の女子青年らが各部隊に女子救護班、女子炊事班、義勇隊の名
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目で弾薬運搬要員として恣意的に動員されていった。
5 戦時行政から戦場行政へ
一九四五年一月一八日、最高戦争指導会議は、「本土決戦」を含めた国民へ
の戦争指導大綱を決定した。そして、政府は「沖縄県防衛強化実施要網」を決
めて、その具体的実施を進めていった。沖縄の日本軍長参謀長は足腰の立つ男
女はすべて戦場動員の方針を発表した。そのうえ「戦場に不要な人間は居ては
ゐかぬ」と県外への疎開ができなかった住民を沖縄本島北部に疎開させること
を指示した。米軍がフィリピンのマニラ市内まで進撃して、日本軍の敗北が時
間の問題という状況が差し迫った二月七日、沖縄県は「平時行政」から「戦時
行政」に切り換えることになった。それから三日後の一〇日に沖縄本島中南部
住民の北部方面への疎開が決定された。中南部の各部落ごとに北部の各部落に
疎開先の割当てを行っていた。疎開先の部落では山中に「避難小屋」を建設し
て受入れ体制作りをきちんと実施した地域もあったが、住民の多くは十分な食
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糧もないまま、山中に放棄された形になっていった。
ところで、これまで老幼婦女子の北部地域への移動を疎開と記述してきたが、
前記『細川日記』で述べられているとおり、これは自活不可能地域への軍の住
民に対する「退去命令」であった。その結果、米軍上陸後は日本軍の敗残兵と
雑居する形になり、住民はなけなしの食糧を敗残兵に強奪されたり、食糧強奪
の目的でかれらに殺害されたりした。また、餓死者が多数輩出し、さらにマラ
リアなどによって相当な戦病死者がでた。
三月上旬には、沖縄本島からの老幼婦女子の県外疎開は打ち切られることに
なった。しかし、米軍が上陸しなかった八重山諸島では沖縄本島で熾烈な地上
戦闘が展開している最中の四月から六月にかけても日本軍の作戦によって、離
島間や台湾に向けて住民は空襲の合間をぬって移動した。
米軍の沖縄本島上陸前日、日本軍は上陸後の敵軍の進撃を寸断するために中
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部地帯の橋を自ら破壊して、中南部在の老幼婦女子に対する北部疎開の停止命
令を発した。こうして非戦闘員が戦闘に巻き込まれていくことが決定的になっ
た。
三月二五日に沖縄県当局は、首里城地下壕へ移動して戦場行政を開始した。
そして激戦下の四月二七日には、米軍が占領していない地域の南部市町村長と
警察署長会議が、繁多川県庁壕内で緊急に開かれた。そこでは、軍への作戦協
力・食糧増産を指導することを決定した。それに基づいて、県庁は「沖縄県後
方指導挺身隊」を編成して、各地域ごとに活動を展開することになった。空爆
撃の合間をぬって住民避難壕を尋ねまわり、壕堀りの指導、戦況報告をして戦
意高揚などに努めたが、住民らは戦闘が激化した中ではひたすら逃げ回ること
しかできなかった。
6 国体護持と沖縄戦への突入
一九四五年二月、米軍はフィリピンの日本軍の戦力をほぼ壊滅状態にしていっ
た。次は台湾・南西諸島への作戦に転じるのは目前に追っていた。そのころ天
皇の側近である近衛文磨元首相は、敗戦必至の状況を天皇に上奏した。「戦局
の見透しにつき考ふるに、最悪なる事態は遺憾ながら最早必至なりと存ぜらる。
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以下前提の下に申上ぐ。最悪なる事態に立至ることは我国体の一大瑕瑾たるべ
きも、英米の輿論は今日迄の所未だ国体の変更と迄は進み居らず。随って、最
悪なる事態丈なれば国体上はさまで憂ふる要なしと存ず。国体護持の立場より
最も憂ふべきは、最悪なる事態よりも之に伴ふて起ることあるべき共産革命な
り。」「最悪の事態必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込みなき戦争終結の
方途を構ずべきものなりと確信す」と早期の戦争終結を進言している。しかし、
それに対して天皇は、「もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しいと
思ふ」と応え、それに対して近衛は、「そう云う戦果が挙がれば誠に結構と思
われますが、そう云う時期が御座いませうか」(木戸日記研究会編『木戸幸一
関係文書』一九四五年二月十四日近衛公爵天機奉伺の際時局に関し奏上の要旨)
と述べている。
結局この天皇の方針をうけた形で、三月二〇日に、大本営が「当面の作戦計
画大綱」発令し、沖縄作戦に重点をおくことを決定し、沖縄戦に突入していっ
たのである。
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7 米軍の上陸と日米最期の決戦
米軍は、三月二三日に上陸前空襲を開始して、翌日から艦砲射撃も加え、二
六日についに慶良間諸島へ上陸を敢行した。そして、大艦隊の停泊地を確保し
たうえで、四月一日には沖縄本島中部西海岸(渡具知・北谷砂辺方面)に艦船
約一四〇〇隻、一八万三千人の兵員でもって攻略作戦を展開したのである。し
かも、補給部隊は約五四万人という大部隊であった。それを迎え撃つ日本軍は、
一三歳の中学生徒から七〇代の年配者まで戦場動員まで含めて、約一二万人の
戦力だった。
8 米軍の沖縄本島上陸直前の状況
そして、那覇の西方海上に浮かぶ慶良間諸島には、二六日ついに米軍が上陸
を敢行した。米軍は、艦船約八〇、上陸用舟艇二二隻と空母、駆逐艦を護衛に
つけて上陸作戦を展開したのである。阿嘉・慶留間・座間味島へ空・海から砲
爆撃を加えつつ上陸し、二七日には渡嘉敷島へ同様に上陸を強行した。米軍と
しては、沖縄本島上陸に備えて、長距離砲で本島砲撃と艦隊の投錨地を確保す
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ることにあった。ところで、日本軍も敵軍の背後から攻撃する作戦のために慶
良間諸島に海上挺進隊が展開していた。レと称していた特攻艇約三〇〇隻・兵
員約三〇〇人を主体に約六〇〇人の特設水上勤務隊(朝鮮人軍夫)を含む日本
軍は、地元の防衛隊・義勇隊も召集してあった。しかし、米軍の上陸にあたっ
ても、特攻艇は一隻も出撃せずに自ら爆破して、山中にこもって持久作戦を展
開することにした。しかし、座間味、慶留間、渡嘉敷住民の間では、米軍の上
陸作戦が展開するやすでに日本軍によって準備されていたとおりに、肉親・友
人・知人同土で殺し合ういわゆる「集団自決」が発生した。すなわち、日本軍
は住民にたいして、敵軍が上陸したら自ら死ぬことを強要していたのである。
沖縄戦の惨劇のひとつが沖縄本島上陸以前に起きていたのである。
アメリカ側の戦史、『日米最後の戦闘』(「OKINAWA THE LA
ST BATTLE」・米国陸軍省編/外間正四郎訳・サイマル出版会)によ
ると、米軍の沖縄本島上陸は一九四五年四月一日であり、中部西海岸の渡具知
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海岸に午前八時三〇分を期して一斉に上陸を敢行した。総攻撃の後に進撃した
米軍は「沖縄上陸がまったく信じられないほどの容易さで行われた」とか、ま
るでピクニック気分だったと記録されるほど、あっけないものだった。ノルマ
ンディー上陸作戦時などの激戦を予想していたので、日本軍のほとんど無抵抗
に近い対応に拍子抜けしたようである。上陸部隊は、まず嘉手納、読谷飛行場
の占拠が当面の目標だった。上陸した海岸から約一・六キロメートルの距離に
ある嘉手納飛行場は放棄されていることを知り、午前十時半には部隊の先頭部
分が同飛行場を横断し、午前一一時半までには、別の部隊が読谷飛行場も占領
した。そして、次々兵員が上陸し、上陸した当日の日暮れまでには、米軍機の
不時着用として使用できるよう整備した。
9 沖縄本島中部・首里戦線
日本軍は、一九四四年一一月に武部隊一個師団を台湾へ転出させても、その
補給をできなかった。沖縄本島中部一帯にも敵軍上陸に備えて陣地構築をして
あったが、上陸時点には布陣せず、第三二軍・日本軍司令部は、首里城地下に
設置してあった
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ので、中部に上陸した敵軍が南下してくる場合に備えて、牧港―嘉数―雨上原
―和宇慶の線に前哨拠点を設けた。特に嘉数高地には、洞窟・トンネル・トー
チカを連結した、強固な防衛陣地を張りめぐらしていた。そのため、四月五日
にそのラインに達した米軍は、六日目からそのライン前面で日本軍の本格的な
反撃にあって、部隊によっては二〇〇メートルしか進出できないほど進撃速度
が落ちた。四月八日からそのラインで一進一退の死力を尽くした攻防戦が開始
された。そのラインを突破されたら、日本軍の司令部が設置されている首里に
南進部隊が肉薄してくるのは時間の問題となるので、日本軍も肉弾戦法を交え
た熾烈な戦闘を展開して、猛反撃を開始した。米軍戦史に「日本軍は太平洋戦
域ではじめての大規模な火力を使用して、全線にわたり恐るべき弾幕をはりめ
ぐらしている」と記録されているように、米軍にも相当な出血を強いたのであ
る。したがって、上勢頭住民が島袋収容所で「戦後生活」を開始しているとき、
トラックに米兵の戦死体を満載して輸送してくるのを目撃したし、また、戦死
者の埋葬作業に従事させられ、その戦死体のあまりの多さに日本軍が勝ち戦を
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していると誤解したのもこの時期あたりからのことである。
四月九日、嘉数高地の北側正面を攻撃した米軍は、日本軍の機関銃・臼砲な
どの猛攻で死傷・行方不明者三二六人をだしたと記録している。
こうして四月一〇日前後から中部戦線は膠着状態になったので、業を煮やし
た米軍は、中城湾に艦艇を入れて、和宇慶方面で頑強に抵抗している日本軍に
猛烈な艦砲射撃を加えた。だが、米軍としては局面の打開にいたらなかった。
そしてついに十九日、「太平洋戦争でかつてみたことのない沖縄作戦上最大」
規模の一大集中砲撃を艦砲射撃以外にもロケット弾、ナパーム弾、機銃掃射を
行い、「巨木はさけ、岩はくだけ、山容は改まった」という。そして嘉数高地
に対して、米軍は我如古から中央突破を図るために、戦車三〇輌をくりだした
が、二二輌を失い、「沖縄の一戦闘での損害としては最大のものであった」と
米軍を嘆かすほど、日本軍の反撃は熾烈だった。それは、急造爆雷を抱えて戦
車に体当たり戦法をとるなど、米兵の中には戦闘疲労者(精神病患者)も続出
するような戦闘の常識を超えた日本軍の戦術によるものといえる。しかし、圧
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倒的な物量にまさる米軍の猛攻の前に、日本軍の防衛線が各所で崩壊していっ
た。そして嘉数高地もついに四月二四日には、米軍の手に落ちた。日本軍は、
前衛拠点の各陣地を放棄して、首里第二防衛線に後退せざるを得なくなった。
和宇慶高地を占領した米軍は、四月二三日までに中城から西原丘陵へ進出し、
棚原から幸地、運玉森方面にかけて攻撃を開始した。
10 首里戦線
伊祖―仲間―浦添ユードレ―前田―幸地―運玉森を結ぶラインが、その前衛
を突破された後の防衛ラインだった。四月二六日から息つくまもなく首里第二
防衛ラインの一角の前田で両軍の死闘が展開された。隣接する仲間高台からは、
すでに米軍の陣地化した嘉数に決死の斬り込み隊が、夜襲をかけたりした。伊
祖丘陵でも日本軍が斬り込みで屍の山を築いていた。大平方面で米軍に保護さ
れた住民が、牧港方面に移送される時、夜襲で戦死した日本兵の死体の上をト
ラックが踏みつぶしながら、伊祖を越えて行ったと証言している。
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日本軍にとって前田陣地の崩壊は、ただちに首里防衛の主陣地崩壊に連鎖す
るので、日本軍は前田陣地の死守を決意して、猛攻を続ける米軍に総反撃を加
えた。米軍でさえバンザイ突撃を加えたといわれるほどの両軍の間で肉弾戦が
果てしなく続いた。一回の戦闘が三六時間も続いたこともあり、圧倒的に優勢
な米軍でも八〇〇人で攻めたてた一部隊が五月七日に、丘を下りたとき、三二
四人に滅っていたという。結局、この前田の戦闘も米軍にも多大な損害を与え
たが日本軍の敗北に終わった。
このような戦闘が、浦添の港川・城間・伊祖・仲間台上で続いたが、米軍の
猛攻の前に日本兵の屍が累々と横たわるという惨状だった。五月二日頃には、
西海岸沿いに南下してきた米軍は、仲西から小湾方面まで進出して、首里軍司
令部を西方から攻撃する位置まで来た。そして、浦添全村が日本軍の堅固な陣
地と化して、両軍の死闘が各部落を拠点にして展開していた。そして五月一〇
日には、首里北方の大名町に隣接した浦添南外れの沢岻丘陵に米軍が到達した。
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その部落西方には、六四旅団本部が設置されており、首里軍司令部の北方最大
の防衛陣地の大名丘陵とともに激戦場となった。日本軍の防御陣地化している
沢岻部落内では、五月一〇〜一三日にかけて両軍が手投弾を投げ合うほどの熾
烈な白兵戦を展開した。日本軍から入手した作戦地図を用いて沢岻全域を占拠
した米軍は、一四日から戦車・自走砲、ダイナマイト、火炎放射機、ナパーム
弾、白燐手投弾など各種の砲火器を用いて、大名丘陵陣地攻略に移った。日本
軍は大名に密集している亀甲墓や岩穴などを堅固な陣地として利用して、対戦
車、機関銃、臼砲、急造爆雷などをもって防戦につとめた。熾烈な攻防戦が展
開したので、五月二一日ごろに米軍が大名丘陵を攻略したときには、約一〇〇
〇人以上の死傷者、行方不明者を出したという。
一方、この大名と安里(旧真和志村)を結ぶ線の東側に米軍がシュガー・
ローフと名付けた高地があった。ここは首里軍司令部の西方地域における重要
な防衛陣地だった。日本軍は周辺に迫撃砲陣地などを擁して、徹底抗戦の構え
をみせていた。
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五月一二日、米軍は戦車をくりだして攻撃を開始した。しかし、
日本軍の猛攻にあって、大きな被害を出して撤退した。その後、日米両軍が高
地山頂を奪ったり、奪われたりといった争奪戦を数回もくりかえすという大激
戦場となった。一八日には首里軍司令部西の要衝地点も米軍の手におちた。わ
ずか六日間の戦闘だったが、日米双方に多大な死傷者が続出した。
首里東方戦線は、運玉森、弁が岳と連なる虎頭山丘陵が自然要塞として米軍
の進撃を阻んでいた。その防衛陣地が崩壊したら一気に首里軍司令部に攻め込
まれる恐れがあったので、そこでの戦闘は、一進一退の激烈な攻防戦を展開し
た。物量を誇る米軍にも相当な被害が出ている。そこで五月一三日以降、米軍
は中城湾の艦船から「百万ドルの山」と形容したほど、艦砲射撃の猛攻を加え、
戦車隊などをくりだして攻め込んだ。米軍の一小隊が全滅状態になるほど、日
本軍は臼砲などで猛烈に反撃していたが、二〇日には、手投弾戦などの肉弾戦
などを展開するまでに肉薄し、二一日ついに運玉森東斜面を完全に制圧して、
いよいよ首里決戦は時間の問題となった。五月二二日、第三二軍首脳陣は首里
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決戦を避け、南部南端の摩文仁丘陵に軍司令部を移動させることにした。沖縄
の日本軍は「国体護持」のため、出血持久作戦をとったからである。そこで終
戦工作を有利にするために、米軍にも出血を強いるため時間稼ぎをする必要が
あった。それは、文字通り沖縄を捨て石にした作戦であり、住民を楯にして、
米軍にとっての掃討戦を長引かせることにあった。というのは、首里以南は、
自然洞窟、墓、人工壕を利用して住民の一大避難地帯になっており、そこへ残
存兵力がなだれ込んできたからである。そして、日本軍は、住民に対して壕か
らの追い出し、食料強奪、陣地漏洩防止のために幼児を毒殺・絞殺・刺殺といっ
た行為、スパイ視殺害行為、友人・知人・肉親同士の殺し合いであるいわゆる
「集団自決」の強要などが相次いで発生した。
日本軍は、五月二五日から南部への撤退を開始して、二七日に牛島満軍司令
官も堅固な首里司令部壕から摩文仁丘陵へ撤退した。それまでは、戦死者の多
くは戦闘員であったが、それ以後一般住民の戦死者の数が増大して、沖縄戦で
は戦闘員よりも非戦闘員の戦死者の数が多いという悲劇が生じたのである。
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11 離島戦線
沖縄周辺離島や先島諸島も当然沖縄戦の影響下にあった。沖縄周辺離島は津
堅島、伊江島が激戦場となった。伊平屋島、久高島などにも米軍は上陸したが、
日本軍が布陣していなかったので、そこでは戦闘が展開していない。また、宮
古諸島や八重山諸島には日本軍が本格的に布陣していたが、連合軍は空襲や艦
砲射撃などを加えたのみで、上陸作戦を展開していない。しかし、先島諸島で
はマラリアが猛威を振るい、住民や兵士の間に、激戦場同様多数の死者がでた。
特に伊江島には、極東一を誇る飛行場を日本軍は建設していた。食糧・人出
不足のなかで住民を最大動員して構築したその飛行場を米軍が上陸必至という
情勢の一九四五年三月、その稼働・維持が困難と判断するや自ら破壊してしまっ
た。島には、沖縄本島北部地域に展開していた第三二軍国頭支隊の分遣隊を中
心にした伊江島地区隊、飛行場大隊、防衛隊の特設警備工兵隊など約二七〇〇
人が守備隊として城山(伊江島タッチュウー)の岩山に地下陣地を構築してい
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た。また、住民約三〇〇〇人が島の防衛にかりだされ、武器も持たされて米
軍の攻撃に備えた。沖縄本島中部一帯を制圧して北部もほぼ手中におさめた米
軍は、四月一六日ついに伊江島に猛攻を加え、伊江島飛行場占領作戦を展開し
た。中飛行場はすでに日本本土攻撃基地として使用していた時期でもあり、伊
江島飛行場も本土攻撃基地として使用することを企図していた。
城山陣地を中心とした日米の戦闘は熾烈をきわめ、二一日までの六日間も白
兵戦をまじえた激戦が続いた。住民は防衛隊以外にも女子救護班など、女性
までも斬り込み隊に加えられ、多大な犠牲者がでた。また、投降を許さない日
本軍の宣伝教育をうけていたので、洞窟内で住民同士の殺し合いであるいわゆ
る「集団自決」によって死に追い込まれていった例もある。この伊江島の戦闘
では、有名なアメリカの従軍記者アーニーパイルが、戦死したことも戦史に記
録されている。
12 南部戦線
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小禄村(現那覇市)、豊見城村両村にまたがって海軍部隊が布陣していた。
第三二軍司令部の南部撤退とともに五月二六日、海軍も南部へ撤退を開始した。
しかし、二八日には元の陣地に引き返した。海軍部隊は武器を扱ったことのな
いような四五歳までの男性をはじめ一五・六歳の少女まで義勇隊として召集し
た根こそぎ動員部隊であり、兵力は約一万人ということだったが、正規兵はそ
の三分の一といわれていた。しかも、機関銃隊一五人に機関銃一丁しかないと
いう火器不足だった。それで、竹の筒に火薬を詰めたこけおどしの手製爆弾や
線路を溶かして作った戦国時代同様の槍を巌部隊は何本も準備して、近代兵器
に立ち向かおうとしていた。
日本軍司令部が摩文仁に移動した後、六月に入ると豪雨つづきだった雨期も
あがった。米軍としては掃討戦の形で日本軍の残存兵力を怒濤の勢いで壊滅さ
せていった。あらゆる武器を動員して掃討戦を展開していき、とくに日本兵と
洞窟内で雑居していた住民は、馬乗り攻撃にあって、火炎放射器、爆雷、手榴
弾などで多くの犠牲者がでた。また、避難壕を追われた住民は、喜屋武半島方
面においつめられていき、ひしめき合うように彷徨を続けている最中に米軍の
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猛攻撃をうけ、死体がいたるところに累々と横たわり、子牛ほどにふくれあがっ
た腐乱死体から死臭があたり一面に漂うという血なまぐさい地獄絵図そのもの
だったという。
六月四日、米軍は小禄海軍飛行場の北側からも上陸を開始して、国場川を越
えてきた部隊と連動して全面的な攻撃を開始した。武装した大型の戦車が攻め
込んでくる時、劣弱な武器しか見たことのない住民にはまるで山が動いてくる
ようにしかうつらなかった。五日に牛島三二軍司令官は、太田海軍司令官に南
部撤退の命令を下した。しかし、太田司令官は、その命令を拒否した。首里攻
防戦で火器のほとんどを使い果たしていた海軍部隊は、少女にまで急造爆雷を
抱えて敵戦車に向かわせるなど、無謀な斬り込みなどを試みたあげく、一三日
には太田司令官以下幕僚は壕内で自決を遂げたが、その他の海軍壕内でも敵軍
の攻撃にあっても、もはや反撃できない状況に陥った。そこで残存兵士は、女
子義勇隊員や朝鮮人軍夫、住民なども巻き込んで爆雷による自決を遂げていっ
た。
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南部戦線といっても、沖縄南部の知念半島に日本軍は布陣していなかったの
で、戦闘中に米軍に保護された一般住民の収容所地帯と化していた。おおかま
にいえば具志頭村港川を境に「三途の川を渡る」と住民は後で気がついて、そ
のように表現している。つまり、その西側の摩文仁から喜屋武半島方面は、住
民と日本軍将兵の屠殺場といった様相を呈していたが、港川から東側で戦闘は
ほとんど展開していなかった。
南進をつづける米軍が南部戦線で日本軍の激しい抵抗をうけたのが、八重瀬
岳と与座岳であった。八重瀬―与座岳ラインは、摩文仁岳の三二軍司令部にとっ
て最大の防御陣地であった。米軍は、その後方の具志頭村玻名城一帯に猛攻撃
を加えて、八重瀬―与座ラインの補給路を絶つ作戦をたてたうえに、火炎放射
戦車、自走砲、無反動砲、戦車など近代兵器を駆使して、六月九日から最大級
の攻撃を開始した。日本軍は夜間斬り込みなどで反撃したが、一四日から一六
日に撃破され、日本軍最後の最強陣地は崩壊したのである。
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南部戦線最大の防衛ラインを突破した米軍は、摩文仁丘陵攻略のために東側
から攻め入るために、一七日までに具志頭村仲座から摩文仁丘陵三キロメート
ルまで進撃した。
いっぽう、摩文仁の三二軍司令部を西側から防衛するために喜屋武半島にも
敗走してきた日本軍が布陣していた。それで米軍は、小禄・豊見城を突破して
糸満方面にも進撃した。六月八日には、糸満―富里―具志頭の線からさらに南
下する態勢を整えて、一二日には早くも国吉部落に進出し、一八日には糸洲方
面で進出した。しかし、一八日午後、前線視察中の米軍司令官バックナー中将
が真栄里部落西側の壕内に残存していた日本兵の狙撃にあって戦死するという
事態が発生した。米軍司令官は、日本軍を圧倒しながらも敗走軍の司令官より
も先に戦死したのである。それまで非戦闘員にたいして国際法に則った扱いを
してきた米軍は、この国吉・真栄里周辺に対して戦闘員・非戦闘員の別なく猛
攻撃を加え、報復のため「捕虜」となった住民に対して、男性は子供でも虐殺
するという無差別殺戮を実行した。それ以後の南部戦線において、米兵の住民
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への対応が狂暴化して、老婆にたいしても強姦するという状況もみられるよう
になった。六月一八日、喜屋武に布陣していた六二師団本部は、小隊を残して
軍司令部のある摩文仁へ移動して司令部防御に就いた。喜屋武半島の最南端は
喜屋武岬から新崎海岸にいたる断崖絶壁が自然防壁となっており、米軍の侵攻
をさまたげていた。したがって、逃げ場を失った将兵、住民が自然にそこへな
だれ込んできていた。海岸線の岩穴や防潮林のアダンの陰、洞窟、石垣の物陰
などに将兵と住民が混在して、ひしめいていた。猛暑の中で飲料水や食料も枯
渇して、多かれ少なかれ負傷したうえ、疲労困憊の状態であった。絶望のあま
り、住民同様敵軍への投降を許されない兵士が自決したり、食料強奪のために、
将兵同士でも手榴弾を投げ込んで殺害したり、投降しようとするものを背後か
ら撃つなど日本軍の将兵、住民の修羅場となった。そのうえ、二〇日から二一
日にかけて米軍は艦船からも陸では火炎放射戦車を先頭に総攻撃をかけてきた。
それまでにも昼夜をおかず空爆や艦砲射撃が一帯には撃ち込まれ、焼死体や腐
乱死体が累々と横たわっており、米軍による一方的な大量殺戮の場となってい
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た。そこを彷徨っている住民は、ほとんど意識朦朧(もうろう)としたような
状態だった。第三二軍・牛島軍司令官は、六月二三日(二二日の説あり)未明、
自決を遂げたが、一九日には「最後まで敢闘して、天皇のために死ぬように」
という内容の命令を発していた。それで、七月二日に米軍が作戦終了宣言を出
すまでの間だけでも、約一万人近い住民と将兵が戦死した。こうして、「国体
護持」のため終戦工作を有利に導くために、首里決戦を避けて、摩文仁南端へ
司令部を移動した出血持久作戦は、避難住民を巻き添えにした米軍の掃討戦を
長引かす捨て石作戦でもあり、その結果、戦闘員よりも一般住民の犠牲者がよ
り多く出たのである。
このように、沖縄戦は、「鉄の暴風」となって荒れ狂い、山野の地形まで変
えてしまい、それにもまして甚大な人的、物的犠牲をもたらした。
県民は、五〇年過ぎた今なお、戦争の傷跡を負っているのである。
三 戦後の沖縄
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1 沖縄の戦後史は、一九七二年五月の沖縄返還の前後に大きく二分することが
できる。そしてさらに、一九七二年五月以前の二七年の軍事支配の期間は、暫
定的軍事占領の時期と、対日平和条約第三条に基づく支配の時期に大別するこ
とができる。
2 第二次世界大戦末期、日本における唯一の一般住民を巻き込んだ地上戦闘と
しての沖縄戦(一九四五年三月〜六月)の結果、沖縄は二七年にわたって日本
木土から分離され、米軍支配下に置かれることになった。
沖縄戦の段階から、米軍部は、共通の敵であるナチス・ドイツと日本の敗北
後、同盟国であるソ連を中心とする社会主義圏との対抗関係が生ずることを想
定し、太平洋の要石ともいうべき沖縄を、アメリカが排他的に支配すべきこと
を主張してきた。そうした考えは、最近明らかにされた米軍司令官バックナー
中将の沖縄上陸直後の日記にも記されている。
占領政策のうえで、沖縄を日本本上から分離することを量初に明らかにした
のは、一九四六年一月二九日のGHQ覚書「若干の外郭地域を政治上行政上日
本から分離することに関する覚書」であった。この覚書自体は、占領行政遂行
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上の実務的取扱いを決めた暫定的性格のもので、沖縄の最終的地位決定に何ら
かの意味ももつものではなかったが、沖縄戦の終了によってすでに米軍の実質
的占領下に入っていた旧沖縄県ばかりではなく、鹿児島県大島郡をこの段階で
改めて日本から分離したこと、すなわち、一六〇九年の島津の琉球王国侵略以
前の琉球王国の版図を日本から分離したところに大きな意味があった。アメリ
カ保護下の琉球独立をも選択肢として含む沖縄の恒久的分離へ向けての既成事
実づくりが始まっていたのである。
この覚書が出されたのは、タス通信がヤルタ協定(対日参戦の条件としてソ
連に千島を引き渡す)の存在を明らかにし(一月二七日)、マッカーサーが自
らのスタッフに日本国憲法草案の起草を指示した(二月三日)時期であった。
マッカーサーが、日本国憲法(平和憲法)と沖縄の分離軍事支配の結びつき
を明碓に述べるのは、一九四七年六月のことである。このときマッカーサーは、
アメリカ人記者団に対し、「沖縄人は日本人ではないからアメリカの沖縄保持
に対し日本人が反対することはない」、「沖縄を米空軍基地とすることは日本
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の安全を保障する」、「ソ連の千島占領によって対日要求が満足されているの
で、アメリカ側の構想に反対しないだろう」と述べている。つまりマッカーサー
にとって、沖縄の分離軍事支配と日本国憲法九条による軍備放棄は一体不可分
の関係にあり、ヤルタ協定による千島諸島の地位を迫認することとひきかえに、
沖縄をアメリカが保有することは当然であるとしていた。(この点については、
とくに新崎盛暉「沖縄から見た日本国憲法」『脱北入南の思想を』「沖縄同時
代史第五巻」、凱風社、一九九三年)
一九四八年から四九年にかけて、アメリカ国家安全保障会議は、沖縄を軍事
要塞として排他的に支配するという軍部の考え方を迫認し、米議会は、一九四
九年七月一日に始まる一九五〇会計年度の予算に本格的な沖縄基地建設予算を
計上した。翌五〇年六月朝鮮戦争が勃発し、その影響下で、アメリカの対日講
和構想(対日講和七原則)が具体化する。
敗戦直後の沖縄では、占領米軍を解放軍とみなす戦前の社会主義者たちによ
る独立論、支配者の意向に迎合する事大主義的独立論、教職員など知識層に根
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強く残る日本復帰思想などが混在していたが、多くの民衆は、戦争による徹底
的な破壊と荒廃の中で、その日暮らしの生活に追われていた。
しかし、占領軍が新しい支配者としての姿を明瞭にし、基地建設が始まるな
かで明らかにされた対日講和構想によって、日本が独立した後も、沖縄が米軍
支配下にとり残されることがはっきりすると、民衆の政治的動向は急速に日本
復帰の方向に集約されていった。「平和憲法下への復帰」を求める日本復帰運
動の始まりである。
一九五一年九月の対日講和会議に向けて、圧倒的多数の沖縄民衆は、議会決
議や署名運動によって、日本復帰の明確な意思を日米両政府に伝えた。しかし、
こうした住民の意向は、一顧だにされることなく、対日平和条約が締結され、
その三条によって沖縄は日本から半永久的に分離されることになった。
3 対日平和条約三条は、次のような文言で、アメリカによる沖縄の半永久的支
配を規定している。
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「日本国は、北緯二九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)、
孀婦岩の南の南方諸島(小笠原諸島、西之鳥及び火山列島を含む。)並びに沖
の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこ
ととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提
案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸鳥の領域及
び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利
を有するものとする。」
対日平和条約が締結された日、同じサンフランシスコで日米安保条約が締結
され、この二条約は翌五二年四月二八日、同時に発効した。その結果アメリカ
は、日本の独立後も、日本全土に軍事基地を維持し続けることが可能になった。
日本の非武装化を前提にして沖縄の分離軍事支配が考えられていた段階とは、
明らかに状況が異っていた。
対日平和条約三条下の在沖米軍基地は、日米安保条約下の在日米軍基地とは、
明確に異なった役割を担わされていた。それは、核兵器の持ち込みや戦闘作戦
行動の自由を保障し、日本、韓国、フイリピン、台湾等の米軍基地の一体化し
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た機能を確保するという役割であった。
沖縄では、すべてに軍事政策が優先した。そして軍事優先政策は、当然なが
ら民衆の言動活動や日常生活を著しく制約した。由美子ちやん事件(米兵によ
る六歳の幼女暴行惨殺事件)に象徴されるような米兵犯罪が頻発し、「銃剣と
ブルドーザーによる土地接収」が行われた。一九五〇年代中頃のほぽ同じ時期
に起きた東京都砂川町の立川基地拡張問題と沖縄の伊江島・伊佐浜の土地取り
上げを対比させるとき、対日平和条約三条下の沖縄と日米安保条約下の日本本
土との差異がはっきりとする。こうして、米軍と住民の矛盾対立の焦点は軍用
地問題を中心とする基地問題となり、現在にいたっている。
軍用地問題に対する住民側の不満・抵抗に直面した米議会は、住民側の要求
に応えるかたちで、現地調査団を派遣した。この調査団が一九五六年六月、議
会に提出した報告害(プライス勧告)は、一方的に沖縄基地の重要性を強調す
るばかりで、住民側の不満にはほとんど何の考慮もはらわなかった。
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プライス勧告の内容が伝えられると同時に、沖縄は、プライス勧告粉砕の声
で沸き返った。島ぐるみ闘争の爆発である。米軍に任命された行政主席も、立
法院議員も総辞職の意思を表明し、米軍政に対する住民側の抵抗組織の形成さ
え意図された。一九九五年九月以降の沖縄の動きを島ぐるみ闘争と呼ぶのは、
四〇年前のこの闘争との類似性においてである。
結局、島ぐるみ闘争は、アメリカが、一括払い、すなわち、地価相当額の土
地使用料を一度に支払って永代借地権もしくは限定付土地保有権を獲得すると
いう政策を撤回し、軍用地使用料を大幅に引き上げることによって一応の終止
符を打った。
そして、島ぐるみ闘争によって沖縄の民衆は、自らの力に対してある程度の
自信を持った。
また、島ぐるみ闘争は、日本国民にも一定の共感をよびおこし、これ以後沖
縄問題は、日本における政治的争点として存在し続けることになった。
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軍用地問題のとりあえずの解決(島ぐるみ闘争の一応の終結)は、一時的、
表面的には沖縄の政治状況を安定させたかにみえたが、軍事支配下での限本的
矛盾は何ら解決されていなかったため、六〇年代に入ると、沖縄の政治状況は、
自治権拡大問題を中心にふたたび流動化し始める。
沖縄における政治状況の流動化を一挙に押しすすめたのは、ベトナム戦争の
全面的拡大である。べトナム内戦へのアメリカの全面介入は、アメリカ本国を
含む全世界にべトナム反戦運動を惹き起こしたが、べトナム戦争の最大拠点と
された沖縄もまた例外ではなかった。大衆運動は軍事基地にその矛先を向ける
ようになった。
やがて、日本政府は、いわゆる沖縄返還交渉に乗り出す。沖縄返還交渉の本
質は、一九六〇年代後半、相対的な力関係が変化しつつあった日米両国が、そ
の軍事的、政治的、経済的役割分担を、日本の役割を増大させるかたちで再調
整するための話し合いであった。日米両政府は、一九六九年一一月の日米首脳
会談で、沖縄の七二年返還に合意した。
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沖縄返還は、核つきでもなく、米軍の自由使用を保障するという条件付きで
もなく、「本土並み」返還であることが強調された。
しかし、「核抜き」については、一九九四年五月、沖縄返還交渉に佐藤首相
の密使として活躍した若泉敬氏が、著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文
芸春秋)のなかで、核密約について触れており(この点については、特に『N
HKスペシャル 戦後五〇年その時日本は 第七回沖縄返還日米の密約』一九
九五年一〇月七日放送、など参照。米軍占領下の沖縄戦後史全般については、
中野好夫・新崎盛暉『沖縄戦後史』岩波新書、一九七六年など参照)、県民に
大きな不安を与えている。
4 日本復帰(沖縄返還)によって、沖縄にも日米安保条約、地位協定及びその
実施に伴う特別法が適用されることになったが、それは決して、沖縄が「本土
並み」になったことを意味しなかった。
沖縄の民衆の求めたものは、米軍基地が「本土並み」に縮小されることであ
り、「平和憲法下への復帰」であったのに対し、現実の七二年沖縄返還は、米
国にそのままの状態で沖縄の基地使用を許したものであった。
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日本政府は、復帰を境に米軍用地使用料を協力謝礼金含めて平均約六・五倍
に引上げ、米軍用地提供の賃貸借契約を奨励すると同時に、いわゆる公用地法、
すなわち「沖縄における公用地等の暫定使用に関する法律」を復帰に際しての
法律の一つとして制定し、米軍用地の強制使用を行った。公用地法は、強制使
用対象の土地を明示することもなく一括強制使用しようとするもので、強制使
用に反対する地主から強い反発をかった。
一方、米軍用地の強制使用と並行しながら日本政府は、米軍基地(施設及び
区域)については、日米合同委員会において、復帰前と変わらない管理・運用
を、いわゆる五・一五メモとして認めた。
沖縄における広大な米軍基地の存在は沖縄返還の決定後今日に至るまで沖縄
の振興開発を著しく阻害している。しかも、その整理縮小は、復帰後二〇余年
にいたる現在も遅々として進んでいない。一方、一九六九年の佐藤・ニクソ
ン会談における七二年沖縄返還の合意と共に、日本本土の米軍基地の返還が急
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速にすすみ、沖縄の復帰と共にこの傾向には拍車がかかった。
復帰以降を比較しても、沖縄の米軍基地返還がわずか一五%だったのに対し、
本土の米軍基地はその約六〇%が、しかも、一九七〇年代中ごろまでに返還さ
れている。つまり、沖縄返還によって、沖縄を含む日本全休の米軍基地の整理・
統合・縮小は、沖縄にその多くをシワ寄せするかたちですすめられたといえる。
全国の〇・六%の県土面積に、七五%の米軍基地(専用施設)という状態はこ
うして確立されたのである。
要するに、復帰後の沖縄における米軍基地問題の核心は、日米安保条約、地
位協定、その実施に伴う特別措置法等の規制を一切受けることなく事実上の軍
事占領下でつくりあげられてきた米軍基地とその機能を、日米安保条約、地位
協定、その実施に伴う特別措置法等の下で、保護したという点にある。
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第三 沖縄における基地形成史
一 米軍の沖縄占領から対日平和条約発効前の土地接収の実態
1 土地の囲い込み
沖縄における広大な米軍基地は、その大半が、米軍の沖縄占領後に米軍の一
方的な軍事力によって接収されたものである。
米軍は、沖縄上陸(一九四五年三月二六日慶良間列島上陸、同年四月一日沖
縄本島上陸)と同時に「米国軍占領下ノ南西諸島及其近海居住民ニ告グ」と題
する布告第一号(布告を発したニミッツ元帥の名をとりニミッツ布告と呼ばれ
る。)を発して南西諸島の軍政施行を宣言した。
本布告は、一条で「南西諸島及その近海並に其居住民に関する総ての政治及
管轄権並に最高行政責任は占領軍指令長官兼政府総長、米国海軍元帥たる本官
の権能に帰属し本官の監督の下に部下指揮官により行使さる」とし、二条は
「日本帝国政府の総ての行政権の行使を停止する。」と規定し、五条は「爾来、
総ての日本の裁判所の司法権を停止す」としていた。ここに、日本の統治権は
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すべて壊滅し、米国軍司令官の一身に掌握され、軍政府は確固たる地位を築き
あげた。そして、翌四六年一月、連合国軍最高司令官マッカッサー元帥は、日
本政府に覚書を手交し、奄美、沖縄、宮古、八重山の四群島を正式に日本政府
から分離した。
さて、一九四五年四月に沖縄本島に上陸した米軍は、直ちに住民の収容所へ
の収容を開始した。日本軍の組織的戦闘が終了した一九四五年六月二三日頃に
は、難民収容所は全島各地に十数個設けられていた。戦闘が終了した後も、米
軍は治安の維持と称して住民の収容を継続し、その間に米軍は沖縄全島のうち
から基地として必要な土地を好きなだけ囲い込み、基地建設を進めていった。
米軍は、必要な土地を確保した後に不要な土地を住民に返還することになっ
たが、開放にあたって、まず移住許可地域を指定して移動計画を立て、一九四
五年一〇月三一日に各収容所からの移住を開始させた。しかし、すでに故郷が
軍用地として囲いこまれていた土地の住民は、米軍が指定した地域に移動して、
割り当てられた土地で生活しなければならず、故郷へ帰ることは許されなかっ
---------- 改ページ--------66
たのである。
故郷が軍用地として奪われた一例として、北谷村をとりあげてみよう。一九
四五年一〇月末頃から、他の地区の住民が続々と収容所から旧居住地へ移動し
ていく中、唯一北谷村の村民だけは許可がおりなかったが、これは村の大部分
が基地として確保され、その工事の真っ最中だからであった。そして、一九四
七年二月、初めて羽地、久志方面から、第一次の村民移動が開始されたが、村
民の居住を許された地域は、謝刈、桃原の丘陵地帯の辺鄙なところに限られ、
戦前僅かに、七〇〜八〇戸しか住めなかった所に一万人の村民が密集したため、
この時既に、村復興の前途に多くの困難と隘路が胚胎していた。しかし当時は、
いずれ不要地は開放されて、自分の集落若しくはその近くに移り住んで落ち着
く事もできるだろうと一縷の望みをかけて、不自由な生活を耐え忍んできたの
であるが、それもはかない夢に終わった。前面にライカム、西方海岸一帯の、
戦前豊沃で有名だった北谷ターブックワ(田圃)から桑江一帯にかけての北谷
桑江の前とその周辺の沃野は跡形もなく消えて、アメリカの近代都市を思わせ
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るような軍事施設が立ちならんでいたのである。さらに、一九四八年九月に嘉
手納飛行場への立入が禁止されたため、北谷村桃原にある村役場から嘉手納区
へ行く道が遮断され、嘉手納村と北谷村に分離することになった。故郷が基地
のために切り裂かれたのである。
このようにして、米軍が戦時中に軍用地として囲い込んだ土地は、一九四五
年段階で約一八二平方キロメートルと言われ、米軍が不要とした約二〇平方キ
ロメートルはその後住民に開放されたものの、一九五五年段階でも約一六二平
方キロメートルは接収されたままだったのである。この軍用地として接収され
た土地は、沖縄本島、とりわけ中部に集中していたが、その大部分は、農民の
耕作地や宅地であり、耕地面積は激減した。具体的な数字をみてみると、北谷、
嘉手納村では、戦前一戸あたり六・三反の耕地面積が〇・九反に、読谷村では
六・五反が一・九反に、越来村では六・七反が一・二反に、宜野湾村では四・
七反が一・八反に、それぞれ激減し、農民の生活は潰滅的な打撃を受けたので
ある。
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2 米国の沖縄占領政策の変化
第二次大戦中からすでに萌芽を示しつつあった西側陣営と共産圏との間の確
執は、一九四七年頃より表面化し、米国は、一九四七年のトルーマン・ドクト
リン、一九四八年のヴァンデンバーグ決議、一九四九年の北大西洋条約機構の
設立と、一連の共産圏封じ込め政策を実施していった。
そして、一九四九年に中華人民共和国が成立し、日本は中国に代わって米国
の極東戦力の拠点と目されるようになり、一九五〇年六月に勃発した朝鮮戦争
は、沖縄の軍事的価値についての確信を一層強めることとなった。朝鮮戦争の
ため、在日・在沖米軍基地を出撃基地とする極東空軍が朝鮮へ出動した回数は
七二万九八〇回、海兵隊所属戦闘機一〇万七三〇三回、空母発進の海軍機一六
万七五五二回、ナパーム弾・ロケット弾の投下は、海軍が四七万六〇〇〇トン、
海兵隊と海軍機で一二万トンに達したと言われている。
米国は一九五〇年の会計予算に沖縄軍事施設建設費五〇〇〇万ドルを計上し、
一九五〇年一〇月に米国外務省は沖縄の占領継続を発表し、翌年一月には、ア
---------- 改ページ--------69
チソン国務長官が、アメリカのアジア政策に関する演説で「琉球諸島は太平洋
防衛線の一部であり、これを保持しなければならない」と述べた。
そして、沖縄の軍事拠点の重要性が高まるのにつれて、米国は、従来の場当
たり的統治を改めていった。中華人民共和国成立と同時に着任した軍政長官ジョ
ゼフ・R・シーツ少将は、経済復興計画と民主化政策を推進し、住民の不満を
緩和する方策をとった。そして、一九五〇年一二月五日、米極東軍総司令官は、
在琉球米軍司令官に対して、「琉球列島米国民政府に関する指令」(いわゆる
スキャップ指令)を発し、それまでの軍政府を廃し、新たに「琉球列島米国民
政府」を設立する方針を明示した。このスキャップ指令によって、「軍政府」
は「民政府」に、「軍司令官」は「民政副長官」にそれぞれ改称され、さらに
「軍事占領に支障を来さない限り」という制限はあるが、いちおう「言論、集
会等を含む民主主義国家における基本的自由を保障する」との規定が設けられ
た。これは、住民の不満を緩和し、沖縄基地の安定化と恒久化を図ろうとした
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ものにほかならなかった。
3 開放地の再接収
この米国の沖縄占領政策の変化に伴い、沖縄における強大な基地建設が進め
られていくこととなった。そのため、農地の開墾(復旧)も一通り終わって生
産意欲も高まってきた農民から、一片の立退通告で土地を取り上げることにな
り、農民の生活は再び破壊され、塗炭の苦しみをあじわうこととなった。これ
を年代順に略記すれば次のとおりである。
一九四九年一二月二五日 北谷村北谷区移動完了
一九五〇年 五月一八日 浦添村一部農耕禁止
同 年 六月二〇日 真和志村天久、上之屋 立退勧告
同 年 九月一八日 越来村山村の立退
一九五一年 二月一四日 読谷村ボーロ飛行場拡張、立退勧告
同 年 六月 一日 北中城村喜舎場、読谷村楚辺立退勧告
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同 年 一〇月 国頭村ラジオ・ビーコン工事開始
同 年 一二月 具志川村昆布立退勧告
右のように、新規の接収によって沖縄の基地は拡張の一途をたどっていき、
これを軍用地総面積の推移で見ると、一九五一年には約一二四平方キロメート
ルだったのが、一九五三年には約一七一平方キロメートルと、実に約三七%も
増加しているのである。
この土地接収が住民の生活を圧迫していったことは言うまでもない。既に基
地に膨大な面積を奪われていた沖縄では、土地を接収された住民が他に生活、
生産の拠点となる土地を求めることは困難であった。仮に移住地があったとし
ても、立退に対する補償は微々たるものに過ぎず、到底生活を維持していける
ものではなかった。真和志村を例にとると、家屋の立退料が一万B円(B円一
円が日本円の三円にあたる。)、運搬費が二五〇〇B円程度、墓について立退
料が一〇〇〇ないし二〇〇〇B円、運搬費二七〇〇ないし五〇〇〇B円が支払
われるだけで、要するに、移動そのものが補償されたにすぎなかったのである。
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立退がいかに住民の生活を疲弊させたか、その実態を、読谷村楚辺部落を例
にとって述べてみよう。同集落は、接収、移動によって、耕地面積が激減して
農業就業者は働く場所を失い、農業所得は移動前の二〇%弱にまで減少したの
である。この楚辺集落の状態について、琉球政府経済企画室の報告には、
「(同集落は)移動前に比較して収入は減退し、極端なる生活の切り詰めをし
てもなお赤字を生む状態であり、当集落の今後が憂慮され、土地の接収は之等
農民にとって致命的な問題である」と記されている。
米軍は住民から単に土地をとりあげたのではない。人間らしい生活そのもの
を奪いとったのである。
4 対日平和条約前の接収の違法性
米国はこれらの土地接収の法的根拠として「陸戦ノ法規ノ慣例ニ関スル条約」
(いわゆるヘーグ陸戦法規)三節五二条を挙げていた(後で詳述する布令二〇
号に明記されている。第三、二、7)。
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ヘーグ陸戦法規五二条は、「現品徴発・・・ハ占領軍ノ需要ノ為ニスルニ非
サレハ・・・住民ニ対シテ之ヲ要求スルコトヲ得ス・・・徴発ハ・・・地方ノ
資力に相応シ(タ)・・・モノタルコトヲ要求ス」、「現品ノ供給ニ対シテハ
成ルヘク即金ニテ支払ヒ然ラサレハ領収証ヲ以テ之ヲ証明スヘク且成ルへク速
ニ之ニ対スル金額ノ支払ヲ履行スヘキモノトス」と定めている。しかし、右条
項は、動産の徴発を許したものにすぎず、この条項によって土地を徴発するこ
とは許されていない。「現品」という言葉の文理解釈だけからそうなるのでは
なく、「占領軍の必要のため」という要件からも明らかである。すなわち、現
品の徴発は、占領軍の必要のためであることが第一の要件であるが、これは占
領軍が日常生活維持のために絶対に必要とする品物と原料、例えば食糧、衣服、
靴、医療品、馬糧などに限られるのである。すなわち土地の占拠、接収は、占
領軍の日常生活の維持にとって絶対必要なものではなく、したがって徴発する
ことはできないのである。
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さらに、現品の徴発といえども、占領の目的を越えてなすことは国際法上許
されていない。へーグ陸戦法規二三条は、「特ニ禁止スルモノ」として、「戦
争ノ必要上万己ムヲ得サル場合ヲ除クノ外敵ノ財産ヲ破壊シ又ハ押収スルコト」
をあげている。米軍の沖縄占領は、対日戦争のためであったことは明白である
が、米軍による土地の占拠、接収は、戦争が事実上終了し、沖縄本島全域を制
圧したのちに行われたものであるがこれは明らに戦争の必要性、占領の目的お
よび占領の一時性・暫定性をはるかに越えるものであり、ヘーグ陸戦法規に明
白に反するものである。
このように、対日平和条約発効前の米軍の軍用地取得には何ら法的根拠はな
かったのである。
二 対日平和条約の発効から沖縄返還までの基地形成
1 対日平和条約発効
冷戦が激化していくなか、米国は日本に対して、米軍基地の維持強化と日本
の再軍備を要求するようになり、朝鮮戦争を契機に対日講和会議が日程にのぼ
るようになった。これは、占領を終結させ、日本を米国の極東戦略を積極的に
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支持できるような独立国にするためであった。
ところが、沖縄については、一九五〇年一一月二四日に米国国務省が発効し
た「対日講和七原則」のなかで、「合衆国を施政者とする琉球諸島および小笠
原諸島の国際連合信託統治に同意」するとして、沖縄を日本本土から切り離す
方針を打ち出した。これは、朝鮮戦争において、その軍事的価値を実証した沖
縄を、今後も米軍が自由に使用するためであった。
対日講和七原則が発表されると、沖縄県民は即座に反発しはじめた。
一九五一年四月に日本復帰期成会が結成され、僅か三カ月の間に全有権者の
七二・一%にあたる一九万九〇〇〇人の即時復帰の署名をあつめた。また、沖
縄群島議会では日本復帰の要請を決議し、サンフランシスコ講和会議の直前に
吉田茂全権に日本復帰要請の電報を打った。しかし、一九五一年九月八日、サ
ンフランシスコにおいて「日本国との平和条約」(対日平和条約)が締結され、
同条約三条によって、沖縄は日本から分断され、米国の施政下におかれた。日
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米両政府は、日本復帰を願う沖縄の民衆の意思を踏みにじり、沖縄を切り捨て
たのである。対日平和条約の発効した日、四月二八日は、以後沖縄では「屈辱
の日」と呼ばれるようになった。
2 低廉な地料による長期賃貸借契約の失敗
米軍は、講和前の基地使用について、「ヘーグ陸戦法規」を口実にしていた
が、対日平和条約発効と同時に占領状態は終了するため、その後の米軍の基地
使用の口実がなくなることとなった。そのため、米軍は、講和条約三条によっ
て米国に与えられた沖縄に対する「施政権」に基づき、土地収用、使用に関す
る布告、布令を発することによって、既接収の土地の利用権の確保及び新規土
地接収を正当化し、実力による土地の利用を継続し、かつ新規の土地の強制接
収を行っていった。
まず対日平和条約発効直後の一九五二年四月三〇日、極東軍事総司令部は
「指令」を発し、米民政副長官は米軍の必要とする財産を「できるだけ談合の
うえ」購入することが望ましいとしながら、もしこれができないときは「収用
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手続をとること」ができ、場合によっては、購入をなすまでの間これを「強制
的に徴発したり、借用することができる」とし、土地の有償取得の方針を明ら
かにした。しかし、同年五月一五日に米国民政府が明らかにした賃貸借契約書
の内容は、賃貸借期間が二〇年間もの長期にわたり、軍用地料も、坪あたり一
円八銭(B円)という低額であったため、軍用地主は失望落胆し、一般住民も
強いショックを受けた。ちなみに、当時の清涼飲料水(コーラ・ジュースなど)
一本の値段が一〇円(B円)であり、軍用地料は実に「コーラ五分の一」に過
ぎなかったのである。
米国民政府は、住民の反対にもかかわらず、既定方針を押し通す形で、同年
一一月一日、布令九一号「契約権」を公布した。同布令は、行政主席が土地賃
貸借を締結する権限と職務を有し、土地所有者と右行政主席が土地賃貸借契約
を締結すれば、自動的に米国政府に転貸されるというものであった。しかし、
この布令の公布は、住民の怒りを一層増大させる結果となり、結局、契約がで
きたのは、僅か二パーセント程度であり、契約による軍用地の取得は失敗に終
わった。
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3 銃剣とブルドーザーによる土地強奪
(一) 布令一〇九号「土地収用権」の公布
布令九一号による契約に失敗した米軍は、次に布令一〇九号「土地収用令」
を公布し、収用告知後三〇日以内に、土地所有者は米軍に譲渡するか否かを
決断しなければ、使用料に関する訴願をした場合を除き、収用告知後三〇日
の経過により収用宣言が発せられ、土地に関する権利は米国に帰属するとし
た。そして右期間中であっても必要があれば直ちに立ち退き命令を発するこ
とができるとした。
この布令一〇九号に基づく土地接収は、米軍の武装兵を動員し、住民を強
制的に排除していくという講和前にも例がないものであった。以下、米軍に
よる土地収用がどれほど暴力的な酷いものであったか、各地の事例を具体的
に見ていくこととする。
(二) 真和志村の例
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一九五二年一〇月一六日、真和志村(現那覇市)の銘苅、安謝、平野、岡
野の四集落に対し、米民政府は、同年一二月一〇日までに明け渡せ、という
収用通告を発した。土地の収用通告を受けたこれら四集落は極めて深刻な事
態となり、地域の代表五人が立法院に対し窮状を訴えた。また、銘苅集落は
二一名の連署で立法院に「祖先伝来の現在地を永遠の安住地としたい。やむ
なく立ち退くなら、生活の根拠たる耕作地を他に求める経費を償い、かつ、
生活に不安なからしめるよう温かい措置をとられることを悲願する。」と陳
情した。
立法院では、この収用通告は、講和後初めてのケースであったことから、
このような強制収用権はないと主張し、当時の琉球政府の法務局長も「この
通告は別に強制的なものではない」という見解を明らかにしていた。
ところが米国民政府は、一九五三年四月三日突如として布令一〇九号を発
し、四月一〇日これに基づいて右土地に対し収用通告を出した。この通告が
同日村当局に到達しただけで、未だ土地所有者には到達していない翌一一日
の早朝、米軍武装兵に守られたブルドーザーがやってきて、収用予定地内の
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農地を次々と破壊していった。
立法院では同年四月二〇日、関係者を集めて事情聴取を行い、同年五月五
日には、「アメリカ民政府の不当なる土地買い上げの措置は、世界人権宣言
及び国連憲章に明記された基本的人権を擁護すべしとの趣旨にもとるので、
1布令九一号、一〇五号、一〇九号、一一〇号を廃止すること 2住民の
意思に反する土地取り上げの強権発動をしないこと 3速やかに適正妥当な
賠償をすることを院の決議により要請する。」として、全会一致でその要請
決議文を採択し、民政副長官に手渡した。
しかし、米軍の暴力的土地接収は、その後も次々と強行しされ、一九五五
年の伊佐浜、伊江村の土地強奪へと続いていった。
(三) 宜野湾市伊佐浜集落の例
一九五四年七月八日、宜野湾村伊佐浜集落の水田に対して、米軍から農耕
禁止の通告がなされた。この農耕禁止通告の理由は、水田に蚊が発生し脳炎
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を媒介するおそれがあるというものであった。しかし、単に蚊が発生すると
いうだけで農耕禁止とすることには疑問が残ったことから、立法院が米国民
政府に真意を打診したところ、米国民政府はこれに対し、「土地収用計画は
ない。衛生的理由のみであるから、水田を埋めて畑にすれば農耕を許可して
もよい。」と言明した。住民は、極力蚊の発生の防除に努めるから植え付け
禁止を解除してほしい旨陳情し、また琉球政府も行政指導に努める旨の意見
書を提出していた。
ところが、米国民政府は右の言明にかかわらず、しばらく後に立退通告の
書簡を送ってきた。米民政府の立退勧告の理由は、伊佐浜集落地域はマスター
プラン地域であり米軍の基地建設にとって必要であるというものであった。
この「マスタープラン地域」とは、米軍が基地建設を計画して軍用地として
留保している地域のことらしく、外観上は何ら他の私有地と異ならないが、
実際には農民に土地を返還したわけではなく、単に農民の耕作を黙認してい
るにすぎないということのようである。しかし、このマスタープラン地域と
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称するものは、その場所も範囲も予め住民に公表されておらず、米軍がある
地域から立ち退きを要求するに当たって、一方的に宣言しているものにすぎ
なかった。これは、反対の多い布令一〇九条の適用を避け、しかも容易に土
地を接収するための口実にすぎなかった。住民および立法院は米民政府に対
し陳情運動を続けたが、米民政府は右理由を楯にまったく聞き入れなかった。
住民らの陳情運動が続けられているうちに、米軍の示した立退期間が経過
した。そしてその九月九日朝、米軍地区工兵隊のブルドーザーが接収予定地
に現れ、いきなり地均しを開始した。驚いた住民が工事を中止させたが、こ
のため区長がMP(憲兵隊)に逮捕されるという事態が発生した。
その後、土地収用を巡り軍民が対峠した中で、一九五五年三月一一日伊
佐浜の一部地域について武力による強制接収が執行され、これを停止しよう
と農地に座り込んだ農民が武装したMPによって排除されるという衝突があっ
た。折しもこの日は、伊江島においても接収予定地に杭打ちが始まっており、
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これらの米軍の武力による接収に対して、全島各地で抗議集会が開かれ、米
軍の赤裸々な暴力に激しい非難が浴びせられたのであった。
同年七月一一日、期限を同月一八日までとする立退の最後通告がなされた。
集落農民は右通告には応じないという方針を再確認し、その日を迎えた。
この日は、早朝から強制収用を憂慮した者が各地から集まり、数百名に達し
た。これらの人々は、伊佐浜の農民を中心に大会を開き、「土地を守る会」
を結成し、支援態勢を強化することを申し合わせたのである。
強制接収が予定された同月一八日には、伊佐浜に朝早くから幾百、幾千と
いう人々が沖縄中から駆けつけ、昼すぎには、万をもって数える人々が集ま
り、米軍はついに姿を見せなかった。ところが、強制収用は、支援の人々が
家に帰って、地元の農民のほかは、二、三〇〇人しか泊り込んでいない深夜
に始まった。深夜の間に、武装兵を満載したトラックとブルドーザーがライ
トを消して、徐行しながら集まり、空が白みかけるころには、一三万坪の田
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園地帯は米軍の武装兵で包囲されていたのである。武装兵は、付近の交通を
遮断し、厳戒態勢のうちに伊佐浜集落の建物の取り壊しを開始した。こうし
て、何の法的根拠も収用手続もないまま、伊佐浜の集落と農地は敷きならさ
れたのであった。
家を取り壊されて強制立ち退きをさせられた農民は、しばらくは近くの小
学校の校舎に収容されていたが、その後間もなく、十数キロ離れた土地に移
住したが、そこは立退前の六万三〇三七平方メートルに対して二万三四六七
平方メートルと面積が激減していたのみならず、農業もできない荒蕪地だっ
たのである。そして、二年後には、多くの農民が生計を立てる道を失い、南
米へと移住していった。
(四) 伊江村の例
一九五三年七月一五日、伊江村に米民政府土地係が訪れ、同村真謝、西崎
の土地に半径三、〇〇〇フィートの地上標的を作るから農地を明け渡せと通
告した。この接収にかかる面積は二四万七〇〇〇平方メートル、両集落の農
地が含まれていた。
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村長は、この通告を受け、接収の中止を陳情するために那覇へ出掛けていっ
た。その留守中に、米軍は右土地の物件をことごとく調べ上げ、「調査が完
了したという証拠を上官に提出するため」と称して農民に署名を求めた。と
ころが、この書類が実は「立退同意書」だったのである。
一九五四年六月二〇日、米軍は工事に着手し、圏内の四戸を立ち退かせた。
この射撃場の工事が終わると、早速空軍の爆撃演習が始まり林野に火災が発
生したり、農作物が被害を受けることが多くなり、農民は食糧難に苦しめら
れることとなった。ところが更に同年八月二七日には米軍係官数名が村役場
を訪れ、射撃場の拡張を通告してきた。この拡張予定地には真謝区七八戸、
西崎区七四戸が含まれていた。農民は、先の四戸の立ち退きで、いかに農民
の生活が破壊されるかを目の当たりにしていたことから、立ち退きには絶対
反対の態度を示した。米軍は、補償等の種々の問題は、立ち退き後に解決す
る、まず立ち退いてくれ、というばかりであり、軍民間の折衝は行き詰まっ
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たのである。
一九五五年三月一〇日、米軍から最後通告がなされ、翌一一日、米軍の工
兵隊が伊江島に上陸し、演習予定地に強行に杭を打ち始めた。農民は中止を
嘆願したが、米兵によって一人一人隔離され、身動きもできず、この中で、
米兵に対し身振り手振りで嘆願した老農夫が逮捕され、軍事裁判にかけるた
め連れ去られるという異常な事態であった。
それから二日後の早朝、米軍の工兵隊は武装した憲兵隊に守られて真謝集
落に到着し、同集落の一三戸に対して取り壊し作業を開始し、ブルトーザー
で家屋や飲料水用貯水タンクを次々と破壊していったのである。土地を奪わ
れた同集落の農民に対して、琉球政府は生活保護の支給をしたが、「軍用地
内の農耕を許されているから」という理由で、同年五月一日以降の支給を打
ち切った。しかし、その農耕許可というのは、週二日、土曜日の半日と日曜
日についてしか与えられておらず、しかも実際には土曜、日曜も演習があっ
てほとんど農耕はできなかったのである。
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こうして、少ないながらも支給されていた生活保護が打ち切られた農民は、
生きるために、立ち入り禁止区域に入り、爆撃演習下での農耕を開始した。
これに対して米軍は、同年六月一三日、立入耕作者八〇数名を逮捕し、その
中から三六名に弁護人なしで即決軍事裁判を行い、懲役三か月執行猶予一年
の判決を言渡し、その後の逮捕者には実刑も言渡した。
自分の田畑から閉めだされた農民は、仕方なく有毒である野生のソテツの
澱粉を主食に、芋かす、澱粉粥などで命をつないでいたが、とうとう栄養失
調で二人の主婦が死亡した。同年六月二〇日、夫の釈放陳情から帰ってきた
直後、妊娠八か月の三〇才の主婦が、四人の子どもを残して死亡し、その六
か月後の一二月一五日には、四三才の主婦が六人の子どもを残して死亡した
が、死因はいずれも栄養失調と過労であった。同年六月二五日に名護保健所
の所長が派遣されて住民を診断した結果、真謝区民の八〇%が栄養失調、皮
膚病その他の異常ありと診断されている。
---------- 改ページ--------88
多くの逮捕者を出しても耕作をやめようとしない農民に対し、米軍は監視
を強化し、演習場付近に現れる農民に片端から威嚇射撃を行い、さらには、
同年七月一二日から三日間、米軍は耕作をやめさせるため、真謝区民の土地
三五万坪にガソリンをまいて、農作物、樹木を焼き尽くした。
那覇市の行政府ビル前で陳情を行っていた陳情者は、生きるため、また世
間に実情を訴えるため、全島行脚を計画し、地元に次の連絡書簡を送った。
「『われわれは、生きるための方法について慎重に協議を重ねました。
イ 自分の畑を強行に耕作すれば殺される。
ロ 泥棒、これは容易なことだが、学生や子供は刑務所に収容してくれない
となれば、これも不可能なことである。泥棒しては、全家族が生きられる
道ではない。
ハ 乞食(乞食托鉢)、これも自分らの恥であり、全住民の恥だ。しかし、
自分らの恥より、われわれの家を焼き土地を取り上げ、生活補償をなさず、
---------- 改ページ--------89
失業させ、飢えさせ、ついに死ぬに死ねず乞食にまで陥れた国や非人間的
行為こそ大きい恥だという結論に至りました。乞食になったのではなく、
武力によって乞食を強いられているのであります。
全住民の皆様。われわれは生きるため、今では最善の道であることを信じ
て取った道であります。これを諒とされ御寛容下されんことをお願い申し上
げます。
一九五五年七月二〇日 伊江島真謝地区地主』」
そして、これを受け取った地元では、翌日に真謝区民大会を開き、全員が
一体となって、乞食姿で全島行脚をすることを決定した。伊江村内はもとよ
り、南は糸満、北は国頭村の各字まで沖縄本島を縦断する乞食行進が開始さ
れ、翌一九五六年二月ごろまで続けられた。
その後、島へ帰った農民は、演習場内へ立ち入っての耕作を続けたが、米
軍は、一九五七年七月にガソリンを散布して演習場内の耕地、林野を徹底し
て焼き払い、その後も一年置きに徹底した焼き払いを行った。耕作地を焼き
---------- 改ページ--------90
払われた農民は、今度は弾丸拾いのために演習場に立ち入ったが、一九五九
年九月には二人の青年が爆死し、一九六六年二月には、演習場外で一人の青
年が射殺された。
(五) 以上のように、現在の在沖米軍基地の基礎となる軍用地は、武装した兵隊
によって反対する住民・農民を実力で排除し、強引にブルトーザーによって
家屋・耕作地をおしつぶすことによって、強奪されていったものなのである。
そして、この武力による土地強奪に対する怒りが、島ぐるみ闘争への導火線
となっていったのである。
4 島ぐるみ闘争
(一) 一九五三年一二月五日、米国民政府は布告二六号「軍用地域内における不
動産の使用に対する補償」を公布した。この布告は、使用している軍用地の
保有を「黙契」によって合法化することを狙いとしたものであった。すなわ
ち、先に述べたように、米軍は布令九一号「契約権」による地主との賃貸借
に失敗し、布令一〇九号「土地収用令」も新規接収にのみ適用され、したがっ
---------- 改ページ--------91
て、新規接収前の軍用地は、何らの法的根拠もなく不法使用されていたので
ある。この布告の内容は、要旨次のとおりである。米国は、当該土地が収用
された一九五〇年七月一日及び翌日から、「黙契」により借地権を取得した。
この米国の土地を保有する権利は、何ものによっても永久に害されない。米
国は自らこの権利を登記する権限を与えられる。土地所有者は、賃借料に不
服があれば琉球列島米国土地収用委員会に訴願できる。同委員会の裁定は最
終的であり、永久に双方を拘束する。
この布告が土地所有者と米国との間で土地の使用について「黙契」ができ
たという一九五〇年七月一日は、沖縄の軍用地使用料の算定の始期と一致す
る。つまり、土地所有者は過去の軍用地使用料を受領したから、「黙契」に
より土地賃貸借契約が成立したという論理である。この論理についての批判
は後で述べるが、この布告によって、米軍は講和後の土地使用の法的根拠を
作り上げようとしたのである。
---------- 改ページ--------92
住民側の闘争手段は、低廉な地料の引上げだけが残されたものとなり、同
布告に基づく訴願は、地主の九八パーセントに達した。
(二) 軍用地主が訴願手続きを進めているなか、一九五四年三月、毎年、賃借料
を支払う代わりに、土地代金に相当する額を一括して支払う方が得策である
との観点から、オグデン民政府副長官は、軍用地料の「一括払い計画」を発
表した。当時、米軍は一年間の借地料として、地価見積価格の六%を支払っ
ていたので、一括払いというのは、地価相当額を支払い、永代借地権を取得
しようというのが米軍の意図であった。また、五か年以上の長期にわたって
使用が見込まれる土地は、全て一括払いを適用し、土地を失った地主は八重
山群島に入植させようという構想であった。当時、住民が要求していた軍用
地料の総額は、八二三万三一七八ドルであったが、米国側が提示した一括支
払額は一七〇〇万ドルであり、住民の要求額の二年分で永久使用権を取得し
ようとするものであった。
このような米国側の軍用地料一括支払という方法による土地取り上げ計画
は、軍用地主だけでなく、沖縄社会全体に大きな衝撃を与えた。
---------- 改ページ--------93
問題を重視した立法院は、翌四月「軍用地処理に関する請願」を全会一致
で決議したが、その中には、やがて「土地を守る四原則」と呼ばれるように
なる「一括払反対、適正補償、損害賠償、新規接収反対」という考え方が示
されていた。
立法院が採択した四原則の本文は次のとおりである。
1 アメリカ合衆国政府による土地の買上げまたは永久使用、地料の一括払
いは絶対に行わないこと。
2 現在使用中の土地については、適正にして完全な補償がなされること。
使用料の決定は住民の合理的算定に基づく要求額に基づいてなされ、かつ、
評価および支払いは、一年毎にされなければならないこと。
3 アメリカ合衆国軍隊が加えた一切の損害については、住民の要求する適
正賠償額をすみやかに支払うこと。
4 現在アメリカ合衆国軍隊の占有する土地で不要な土地は、早急に開放し、
かつ新たな土地の接収は絶対に避けること。
---------- 改ページ--------94
この四原則は、当事者である軍用地主をこえた沖縄側の統一要求となった。
四原則決議と同時に、行政府(琉球政府)、立法院、市町村長会及び市町村
土地特別委員会連合会(土地連)の四者は、四者協議会を結成(同年六月に
市町村議会議長会が加入して五者協議会となる。)し、現地米軍と折衝をか
さね、一括払計画の中止を訴え続けた。
このような沖縄側の動きに対して、米軍は、統治権を行使する間、公共の
ために必要とされるならば、いかなる私有地をも取得するのが米国の基本方
針であり、この方針の変更は、現地米軍の権限の範囲外であるとした。この
ため、琉球政府は、住民代表をワシントンに派遣して根本的な土地問題解決
の要請をさせてもらいたい、と米民政府に要望していたが、一九五五年五月、
その要請が認められ、米国政府から招請状が届いた。
同月二六日、六名からなる住民代表団が渡米し、六月八日、米下院軍事委
員会で意見を述べ、審議の結果、「1買い上げ一括払い中止、従来通りの支
---------- 改ページ--------95
払継続 2土地問題につき調査と勧告をすべく今秋に議会より調査団を派遣
する 3海兵隊の必要とする土地は無理のない程度に取りあえず確保する」
という三事項が決定され、一括払い政策は一応その決定を延期されるに至っ
た。
これに基づき、米下院軍事委員会は、沖縄に調査団を派遣し、沖縄の軍用
地問題について全般的な検討を始めることになった。
ところで、当時の沖縄における対米関係は、新規接収問題でひどく悪化し
ていた。同年、前述の伊江村、伊佐浜の強制収用がなされ、さらに、同年七
月二二日、国頭、東、久志、宜野座等八か村の村長が米民政府に呼ばれ、海
兵隊用地として国頭一帯の山林を接収するとの通知が申し渡されたのを始め、
各地に接収または測量調査通知が相次いでなされた。同年八月一八日には、
布令一〇九号「土地収用令」の一部が改正されて「強制測量」の条項が加え
られ、土地接収に利用された。
---------- 改ページ--------96
次々に強行される土地接収に怒った住民は、同年九月一〇日、那覇高校校
庭で二万人が参加した住民大会を開き、新規接収反対を強く訴えた。
同年一〇月二三日、メルヴィン・プライス議員を団長とする調査団(プラ
イス調査団)が沖縄に到着し、三日間の調査を行い、翌一九五六年六月、同
調査の結果をまとめた、いわゆる「プライス勧告」が発表された。同勧告は、
沖縄の自由使用がいかに米国にとってこのうえなく便利であるかを説き
(「ここでは、わが国の原子兵器(核兵器)の貯蔵または使用権限に対し外
国政府による制限はない」)、前進基地、補給基地としての沖縄の重要性を
強調して、沖縄の長期保有の必要性を再確認したうえで、沖縄統治について
軍事優先政策がとられることはやむを得ないとの前提に立ち、その中で、一
括払い問題については「無期限に使用する必要のある土地については永代借
地権を取得すること。これに対する補償は一括が望ましい」とし、また新規
接収については、「米軍による追加的土地接収は必要最小限にとどめること」
と勧告している。要するに同勧告は、多少の譲歩は認めたけれども、他方一
---------- 改ページ--------97
括払いの妥当性を確認するとともに、新規土地接収の必要性を肯定したもの
で、住民の要求を踏みにじる内容のものであった。
プライス勧告が発表されるや全島住民は激怒し、同日夕方には、真喜屋実
男法務局長が「米国に信用がおけなくなった。軍用地主管局長としてこれ以
上責任を負えない。」と辞表を提出した。
同月一五日、四者協議会(立法院、行政府、市町村長会、土地連)は、勧
告阻止を出来なかった場合には総辞職することを表明し、同月一八日には次
の基本方針を決定した。
1 我らは組織的団結をもって秩序ある行動をするとともに、落伍者の汚名
を着るものの絶無を期す。
2 我らは個々の利害を超越し民族的意識にたって土地を守り、領土権を守
るという正義にたつこの確信をもって、何ものもおそれず勇敢に進む。
3 民族を守る堅い決意で世界の人が是認するであろう正義を武器とし、一
切の暴力的武器をとることを否定する。米国が万一、実力を行使すること
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があっても無抵抗の抵抗をもって力に抵抗する。
4 米国の方針と闘っているのであって、在留する米人と闘っているのでは
ない。個人としての米人の人格人権はこれを充分に尊重しなければならな
い。
5 自主的に治安を維持し、いささかも社会を不安に陥れることをしてはな
らず、一切の犯罪をなくすことに努める。
6 上司たる責任者が欠けても自治行政の機能は停止することなく、必要に
応じて行政運営の妙を発揮し、住民の自治能力を示す。
7 四原則貫徹のために困難が伴うことを覚悟するとともに、住民とともに
住民の運命をひらくときが近づいたことを確信し、当面の困難を克服して
いく。
同日午後には、市町村長会、土地連、教職員会等一七団体が参加して、土
地問題に関する各種団体の連絡協議会も開かれ、「プライス勧告反対の住民
大会を各市町村単位で来る二〇日開催し、これを契機として、さらに地区大
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会、中央大会に盛りあげていく。」という方針を決定した。翌一九日には、
琉大学生会、中労委、傷痍軍人会もそれぞれの大会をもってプライス勧告反
対を表明した。
六月二〇日、第一回住民大会が予定通り各市町村単位で行われ、三〇万人
余の住民が参加して、住民無視の土地政策だと怒りを爆発させ、その熱気の
中で四原則を決議、団結を誓いあった。同月二五日には、中央の住民大会が
那覇高校とコザ諸見小学校で開催され、那覇には一〇万人余、コザには五万
人余の参加者が集まった。こうして全島各地の「島ぐるみ闘争」が展開され
ていき、七月二八日、「四原則貫徹県民総決起大会」が那覇高校校庭で開か
れ、一五万人もの大衆で会場が埋め尽くされたのである。
住民の「島ぐるみ闘争」に対し、米国民政府は弾圧策を強行してきた。ま
ず、同年六月二八日に「琉球政府当局が総辞職すれば、米国民政府による直
接統治も辞さず」と警告を発した。同年八月六日には、中部地区一帯へのオ
フリミッツ(米軍人・軍属の民間地域への立入禁止)を三軍共同の声明とし
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て発表、外国人相手の営業の多い中部地区住民を不安に陥れ、「島ぐるみ闘
争」に大きな影響をあたえた。さらに、同月九日には、琉球大学に援助を打
ち切ると通告してきたが、その理由として、反米デモに参加した学生が「ヤ
ンキー・ゴー・ホーム」と叫んだこと、及び共産主義者を本土に派遣するた
めに資金カンパを行ったことなどを挙げていた。しかし、学生らは、あらか
じめ学校当局から許可を得てデモに参加したもので、学則上の問題はなかっ
た。ところが、琉大は学生六人を退学処分にし、米国民政府に陳謝するとい
う形で事態を収拾し、学外にも大きな反響を呼んだ。
こうして、米国政府は、一括払いを強行する方針を変えず、ついに一九五
七年二月二三日布令一六四号を公布して、「限定付土地保有権」なる「権利」
を設定して「地価相当額」の賃料の一括払いを実施した。同布告によって、
同年五月四日那覇軍港一帯の二五万坪の土地、一九五八年一月二四日嘉手納
空軍基地一帯の二〇〇万坪の土地、一月二九日読谷、恩納、金武、具志川、
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石川、勝連、与那城、宜野湾、知念、玉城、佐敷、三和、東風平、具志頭の、
一四ヶ町村のナイキ基地地域の各土地にそれぞれ「限定付土地保有」の収用
宣言が発せられた。こうして、布令一六四号が公布されてから一九五八年三
月末日までの約一年間で、一〇一五万平方メートルが新規に接収されていっ
た。
この布令で、軍用地を確保した米軍当局にとっての次ぎの課題は、これか
らの基地建設の大工事を如何に支障なく進めるかであった。一九五八年四月
の立法院本会議に臨んだムーアー高等弁務官は、「土地接収計画については
現在ワシントン政府当局で再検討されている」旨のメッセージを発表し、つ
づいて同日、立法院議長室で琉球政府首脳に対し、「軍地区工兵隊に対し、
一括払い中止を指令した」旨の説明を行い、米国側は態度を豹変させた。こ
のような情勢のなかで、立法院では代表を米本国に派遣して米国政府と直接
折衝すべきであるとの意見が支配的となって、同年五月八日住民代表の渡米
を決定した。
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代表団は六月二五日ワシントンに到着、翌二六日から米政府との予備折衝
を始め、七月一日から七日間にわたる正式会談に入った。右折衝の結果、最
終的には「現地において高等弁務官と沖縄側との折衝で解決する」との結論
に達し、その旨共同声明が発表された。現地折衝は同年八月一一日から一一
月三日までの間にわたって行われた。この折衝は「琉米合同土地問題現地折
衝正式会議」とよばれ、三つの分科委員会と一つの特別分科委員会に分かれ
て折衝が行われた。
その結果、双方の間におよそ次の主な事項が決定された。
イ 合衆国が取得する権利は、賃借権に限る。賃借権の種類は、五年賃借権
と不定期賃借権とする。
ロ この二種類の賃借権は琉球政府が地主と折衝して取得し、これを米合衆
国に転貸する。
ハ これまで米合衆国が保有してきた既得権は、この二種類の賃借権のいず
れかにすべて切替え、布令一六四号に基づく限定付土地保有権は廃止する。
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ニ 米合衆国が必要とする土地に対し、琉球政府が地主と折衝契約できない
場合には、米合衆国は同土地を強制収用により取得できる。
ホ 年間賃借料は、市町村別に地目など等級毎に、原則として田三等級の生
産高を基準として算出することにし、年間賃借料の再評価は、五年毎に行
う。
ヘ 土地の現状回復またはこれに代わる損害賠償については、米合衆国が賃
借権を終了させるときに、米合衆国、琉球政府、土地所有者の間で公平か
つ適正な方法により解決する。
ト 土地貸賃の安定性をはかるため、琉球政府によって適当な立法を制定す
る。
チ 軍用地料の長期前払希望者に対する措置として、前払期間の最高を一〇
年に限定し、琉球政府が立法を制定し、一定の条件のもとに長期に前払い
を実施する。
リ 軍用地に関して起こりうる諸問題を調査検討し、高等弁務官に勧告する
ための恒久的委員会を設置する。
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ヌ 土地問題現地折衝会議において妥協をみた新土地政策は一九五八年七月
一日から実施する。
右妥結事項は、一括払いを阻止し、地代増額の基礎を築いた点では県民に
とって一応の前進であった。しかし従来米国が「黙認」とか「収用による限
定付保有権の取得」とかの苦しい理論構成によって糊塗してきた不法占有状
態を免罪し、更に将来の土地接収についても住民の同意を得たとする口実を
米国側に与えるものであり、これについて住民の間から四原則決議に反する
ものであるとの批判が強まった。しかしこの妥結事項により沖縄の軍用地問
題は一つの時期を画するようになった。
5 布令二〇号以後の軍用地問題
(一) 一九五七年、ソ連がICBM(大陸間弾道弾)の実験に成功し、大量報復
力はアメリカの独占ではなくなった。それにより、米国は、大量報復戦略は
修正を迫られることになり、局地戦争へ戦術核兵器を配備することになった。
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沖縄はインドシナ、台湾海峡の紛争に対応した常時即応能力を備えた中枢基
地として部隊の配備、基地の強化が行われ、一九五七年には、第三海兵師団
が移駐し、五九年には米空軍のF一〇二戦闘機も配備され、米国の沖縄基地
長期保有政策は一層強固なものとなっていった。
(二) 一九五九年二月一二日、布令二〇号「賃借権の取得について」が公布され
た。布令二〇号は、布令九一号、布令一〇九号、布令一六四号という一連の
収用法令の流れを受けて発布された法令である。これは、右に挙げた法令に
対する県民の抵抗を柔らげるため、琉米代表による現地折衝という手続を経
て制定された法令であり、布令一六四号で定められていた「一括払い」「限
定付土地保有権の取得」という点を補正して「不定期賃借権」と規定してい
るが、内容は前記の布告、布令を集大成したものにほかならない。例えば、
琉球政府が土地所有者と賃貸借契約を結び、琉球政府はアメリカ合衆国に対
して転貸する、という点は、布令九一号に定められていたし、この契約が成
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立しなかったときは、米国は「収用宣言書」を発することができ、必要によっ
ては宣言書を発する以前に直ちに明渡しを命ずることができるというのは、
布令一〇九号、布令一六四号に定められていたものである。
(三) 布令二〇号に基づく「新土地計画」の実施は、当初一九五九年四月からと
いう予定であったが、それが遅れた。米国は、この実施準備が整うまで軍事
上どうしても待てないとして、名護、恩納、宜野座などにある山林原野約一
四万坪をナイキ基地建設のために、賃借料を記入しない告知書を発送すると
いう形で臨時措置をとり、土地を収用した。
ナイキ基地建設のための新規土地接収と共に、伊江島においては黙認耕作
地の取り上げが強行された。一九六一年五月二三日、米軍は伊江村キジャカ
に対して黙認耕作地内における新築禁止、電気、ラジオの取扱い、二メート
ル以上の立木や草の切除を通告し、村をあげての、反対運動や琉球政府の折
衝にもかかわらず、ついに一九六三年に全員退去させられた。
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一九五七年から一九六〇年にかけて米国が新規に接収した土地は、ナイキ
基地となり、沖縄基地に対する戦術核兵器の設置が完了した。
(四) その後、ベトナム戦争の激化に伴い、沖縄の米軍基地は一層重要性を強め
ていった。一九六五年七月二七日、台風避難を理由にグアム島のB―五二戦
略爆撃機が嘉手納基地に飛来、そこから直接ベトナム渡洋爆撃を行い、いっ
たんは引きあげたが、一九六八年二月五日、再び飛来し、その後は常駐体制
をとって連日ベトナム爆撃を繰り返した。
米軍が自由使用できる沖縄の米軍基地は、米国によるベトナム戦争に欠く
ことのできないものとなっていた。沖縄の軍事基地としての重要性は、米軍
が何ら規制を受けることなく自由に行動できるという点に存したのである。
このことは、一九六五年に米国民政府広報室が公式発表した米国の沖縄管理
についての質問(「米国は琉球に基地を置き、それを維持するためになぜ琉
球を統治する必要があるのか。米国は琉球を日本に統治させ、日本で行われ
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ているように、琉球でもなぜ基地を維持しないのか」)に対する回答の中で
も、左記のように明確に述べられている。
「 (1) 米国は日本、韓国、台湾、フィリッピンおよびいくつかの東南アジ
アとの間に相互安全保障条約を締結している。これらの条約は、米国に
対して他からの侵略や行動からこれらの国を防衛することを委任してい
る。
(2) 侵略行動や脅迫が発生したとき、米国は、その義務に照らして速や
かに効果的な行動をとらなければならない。
(3) もし、米国が自由を守るために効果的にかつ速やかに行動するため
には、そうするための基地を持っていなければならない。これらの基準
に合致するように基地としての絶対的な要求がある。即ち、必要な状況
に応じて遅れることなしに軍隊やあらゆる種類の兵器を、自由に基地に
運べること、緊急時に必要なあらゆる種類の兵器や補給品が自由にかつ
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制限なしに貯蓄できること、米国が、条約に定められた責任に基づいて、
その責任を遂行するために必要なあらゆる地域に対し、自由にしかも遅
れることなしに兵力、兵器、補給品、航空機、船舶などを送れること、
条約に従って行動することを要求された場合に、米軍に対する戦闘的協
力が自由に準備されること、軍事施設を守るために必要な安全措置をと
る能力があること。
(4) a、米国によって統治されている限り、沖縄はこれらの条件に合致
する。もし、日本が統治するならば、一九六〇年に締結された日米
安全保障条約に基づいて起こってくるあらゆる問題について協議が
必要となってくる。
b、日本は、日本を除く他の多くの国と米国との間で締結されている
安全保障条約の下で発生している多くの問題に、巻き込まれること
を欲していないだろう。米国は日本が参加していない条約に従って、
米国がとる行動の経過について日本と協議を行うことはできない。
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さらに、条約に従ってとられる行動は、協議する時間も許されない
ほど迅速を要する場合もある。
(5) 日本の国内にある米国基地と琉球にある基地との間には大きな相違
があることを知るべきである。日本にある米軍は、当初一九五二年に締
結され、一九六〇年に改定された日米安全保障条約に基づいて、日本の
みの防衛について助力する責任があるだけである。他方、琉球にある米
軍は、韓国、台湾、フィリッピン、いくつかの東南アジア諸国それに日
本と米国との間で締結された安全保障条約に基づいてほとんど西太平洋
全域にわたって防衛について援助する責任を持っている。
(6) 米軍が他の国との間で締結している条約に基づいて行われることと
一致するような方法で、事前協議なしに米国が沖縄を自由に使うことが
許されることを条件として、日本に沖縄の施政権を返還するような特別
協定に調印するかも知れないということが示唆されている。しかしなが
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ら、これまで行われているような線に沿っての提案は現実的でないし行
うことは困難である。」
米軍が自由に使用できる唯一の海外基地である在沖米軍基地は、兵站補給
基地、発進作戦基地、輸送、発進の中継基地、訓練基地として位置付けられ、
「不沈艦空母オキナワ」の異名で呼ばれるようになっていき、その反面、沖
縄の住民は、爆音、米兵の犯罪等基地に起因するあらゆる人権侵害を強いら
れた。
このベトナム戦争の激化とともに、米軍は、那覇、ホワイト・ビーチ各軍
港の拡張、嘉手納基地の拡大、ワトソン高等弁務官による「新軍港計画の声
明」、道路の補強、嘉手納、読谷等における黙認耕作地の取り上げ、さらに
は、具志川市昆布、糸満市喜屋武、知念村志喜屋、山里における土地の新規
接収等を行っていった。
6 対日平和条約後の土地接収の違法性
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(一) 布令一〇九号では、米軍の収用告知があった場合、土地所有者は告知後三
〇日以内に、収用を受諾するか否かを回答しなければならず、拒否する場合
には訴願が許されるが、訴願に対しては、価格及び適正補償に関する点だけ
が審理決定されるのみである。収用告知後三〇日を経過したときは収用宣告
がなされ、土地に関する権利は米国に帰属する。ただし、前記三〇日の期間
中であっても米国が緊急に占有し、かつ使用する必要があれば、直ちに明渡
しを命ずることができる旨規定されている。
ところでこの布令では、米軍がどのような場合に土地を収用することがで
きるのか、換言すれば、権利取得のための目的、要件について何ら規定する
ところがない。この立法の上からは、米軍が必要だということが至上命令で
あって、これに制限を加えるものは何もない。その意味ではこの土地収用令
は、米軍の土地接収に形だけの法的根拠を与えることのみが目的とされ、適
正な手続により土地所有者の権利を保護しつつ、公共と私益との調和を図る
という側面が全く無視されている。この布令には、収用の手続はあっても、
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何らの適正性はなく、従って、これは「適正手続を規定した法令」というよ
り、単なる米軍の内部用の手続規定にすぎないというべきである。このこと
は、収用の違法性について争う方法がないこと、訴願はあっても、それは価
格及び補償に関してのみであること、また、たとえ訴願があっても収用宣告
を発する妨げにはならないことなどが規定されていることによってなおさら
明らかであろう。
とくに問題なのは、収用告知後三〇日を経過しなくても、米軍が緊急に占
有しかつ使用する必要がある場合は、直ちに明渡しを命ずることができると
いう規定である。三〇日という期間が立退準備に必要な期間としてはいかに
も短く、極めて冷酷な規定であるのに、この三〇日の期間すら守らなくてよ
いということになると、米軍はいつでも好きなときに一方的に強制収用する
ことが出来るということであって、このことは収用告知書が土地所有者に到
達する前に武力接収した安謝、銘苅の例で経験ずみのことである。かかる住
民の権利を不当に侵害する布令による接収は、国際法及び当時潜在主権を有
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していた日本の憲法の許容しえない無効なものであったといわなければなら
ない。
(二) 布告二六号は、地主が対日平和条約前の土地使用料を受領したことにより、
地主と米軍との間で、米軍の土地使用に対する暗黙の合意「黙契」が成立し、
米国は賃借権を取得したことになるというのである。しかし、米軍と地主の
間に当初から賃貸借契約が締結されていないのであるから、地主の受領した
金員は過去の土地不法占拠に対する賠償金にすぎず、賠償金を受領したから、
遡って契約が成立するなどということは法的に有り得ない。しかも、前述の
とおり、地主は米軍との土地賃貸借契約に対しては、明確に拒絶の意思を示
しているのであるから、土地賃貸借契約の暗黙の合意などあり得る筈がない。
「黙契論」は、到底、土地使用の法的根拠として通用するものではなく、同
布告を根拠とする土地接収、使用が違法であることは明白である。
三 沖縄返還協定と軍事基地
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一九六九年一一月二二日の佐藤・ニクソン共同声明によって、沖縄の「七二年
復帰」が決まった。共同声明の内容は、米国の極東防衛義務の肯定、米軍の抑止
力の維持強化、韓国及び台湾の安全と日本の安全との不可分性、日米安保条約の
緊密な維持、復帰後の沖縄防衛の日本自体の負担等であり、日本を含む極東の安
全をそこなうことなく、沖縄の早期復帰を達成するため両政府が協議に入るとい
うものであった。これにより、沖縄基地の重要性とその機能維持が強調され、復
帰後も沖縄の軍事基地が不変であるとの約束がなされた。
このような復帰の内容が明らかにされるにつれて、「県民が叫び続けてきた核
も基地もない形での真の復帰に逆行するものである」との指摘がなされ、共同声
明に沿った復帰を不満とする抗議と完全本土並みを要求する運動が大きな盛り上
がりとなってあらわれた。
当然のことながら、沖縄返還協定は、この共同声明を具体化した形で一九七一
年六月一七日に他のいくつかの関連取決めとともに調印された。膨大な沖縄基地
は、この返還協定により安保条約とその関連取決めに従って、米軍基地として引
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継がれることになった。
なお、沖縄の返還後における日本側の防衛について、一九七一年六月二九日に
「沖縄の直接防衛責任の日本国による引受けに関する取決め」(久保―カーチス
協定)が締結され、地上防衛、防空、海上防衛、哨戒戒および捜索、救難を自衛
隊が引受けることが約束された。その時期は返還後早い日とし、一九七三年七月
一日までに完了するものとし、返還後六か月以内に自衛隊を三三〇〇人配備し、
追加分としてナイキ部隊、ホーク部隊の地対空ミサイルによる防空の遂行のため
支配部隊を配置すること。施設としては、那覇空港、那覇ホイール、ホワイト・
ビーチ及び各地のナイキ、ホーク基地の引継ぎをなすこと等が取決められた。
四 沖縄返還後の強制収用
1 「公用地法」の制定
一九七一年六月一日の沖縄返還協定調印により、一九七二年五月一五日、沖
縄の施政権は、米国から日本政府に返還された。
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これまで述べてきたように、沖縄の米軍基地は、何ら法的根拠がないまま終
戦直後に囲い込まれたり、違法な布告、布令をたてに銃剣とブルドーザーで強
奪されたものの集積からなっており、沖縄返還の時点で、日本政府は国民であ
る沖縄県民に土地を返還し、違法状態を解消し、沖縄県民の人権を回復すべき
であった。
しかし、沖縄返還協定では、二条で日米安保条約、日米地位協定等の沖縄へ
の適用を認め、三条で沖縄返還後もなお沖縄の米軍基地を継続使用することを
認めていた。そして、改めて米軍に提供されることになった基地についての米
軍の使用に空白を生じることがないようにし、また米軍から肩代わり的に自衛
隊が基地を使用できるにようにするため、「沖縄における公用地等の暫定使用
に関する法律」(公用地法)が制定されたのである。
これに対し、当時の琉球政府(屋良朝苗首席)は、一九七一年一二月、「公
用地暫定使用法に対する意見書」を日本政府に提出し、公用地法の違憲性、違
法性を訴えた。意見書の内容は次ぎのようなものであった。
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「 (1) 問題点
イ この法律は、国の一方的、強制的な土地または工作物の使用権取得が不
可能であり、強力な強制収用法である。
ロ 土地収用法および地位協定の実施の伴う土地等の使用に関する特別措置
法の六か月の暫定使用期間と均衡を失し、沖縄県民を本土国民と差別する
ものである。
ハ 国が土地または工作物について権原を取得するためには、土地の特定
(土地の所在、地番、地目などの表示)を要するが、沖縄の地籍整備が五
年以内に完了しない場合は、期間延長が考えられる。
ニ 沖縄返還協定によって、施設および区域として提供されるもの以外の施
設および区域(たとえば伊波城観光ホテルなど)も、第二条一項に含まれ
る可能性があり、適用範囲が不明確である。
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ホ 自衛隊は、自衛隊法第百三条により、防衛出動以外は土地等の使用が制
限されており、現に、沖縄に配備されているアメリカ合衆国軍隊と同列に
取り扱うことは問題である。
ヘ 本土では、水道公社や電力会社のための土地の強制収用は、土地収用法
三条一七号及び一八号によって行われており、水道や電力などの公共の利
益となる事業に関しては、土地収用法の一般原則に委ねることで十分であ
る。
ト 土地又は工作物の暫定使用にあたって、所有者ごとに土地の所在、種類
及び数量などを通知することは、権利取得のための最低限度の法律的要求
であり、単に、「当該土地の区域」のみを通知することおよび通知すべき
事項の公示のみで処理することは問題である。
チ 土地または工作物を使用するものは、その所有者および関係人の請求が
あるときは、自己の見積もった損失の補償額を払い渡さねばならないが、
---------- 改ページ--------120
予算の制限などにより、所有者や関係人の意志に反する補償額が支払われ
るおそれがある。
(2) 憲法及び法律上の問題点
イ 暫定使用期間が五年の長期にわたるということ。
a 同法は、五年の長期にわたって実質的に土地などの使用制限を行う私権
に対する重大な制限であり、憲法二九条で保障された財産権を侵すもので
ある。
b 地位協定の実施に伴う土地などの使用等に関する特別措置法で強制使用
できる期間は、最大限六か月であり、他人の土地等を強制使用するために
は、土地収用法およびこれに準ずる手続きがとられているが、沖縄では、
五年にわたって正当な法の手続きもとらず、強制収用することは、沖縄県
民に差別を強いるものであり、法の下の平等を制定した憲法一四条に違反
するものである。
---------- 改ページ--------121
ロ 自衛隊が土地などを強制収用すること。
a 自衛隊の配備は、憲法二九条でいう公共の用に供する場合に該当せず、
土地収用法で規定する公共の利益となる事業にも該当しないから、自衛隊
配備のために土地などを強制収用することは、憲法二九条に違反し、土地
収用法にも違反する。
b 自衛隊が他人の土地などを強制収用できるのは、自衛隊法百三条の防衛
出動だけである。
自衛隊配備のための強制収用をしようとする暫定措置法の制定には問題
がある。
c 自衛隊が他人の土地を強制使用できるのは、所有者等の任意による使用
についての合意がある場合に限られ、自衛隊の配備のために土地を強制収
用するのは問題がある。」
しかし、日本政府は、公用地法を見直すどころか、期限内に契約締結を
---------- 改ページ--------122
完了してしまおうとし、防衛施設局による、あらゆる手段を使った反戦地
主の切り崩しが始まった。
2 「地籍明確化法」の制定
「公用地法」が期限切れとなる五年後の一九七七年五月一五日に至っても、
防衛施設局の圧力に屈せず、契約を拒否し続けた反戦地主らが残った。そこで
政府は、強制使用を継続するために、「沖縄県の区域内における位置境界不明
地域内の各筆の土地の位置境界の明確化等に関する特別措置法」の立法化を図っ
た。
該法律案は、沖縄戦で公簿公図が消滅し、地形が一変して土地の位置境界が
不明確な地域が多く、それを国の特別措置で解決するというのが法の趣旨と説
明された。ところが、法案の附則に、前記「公用地法」を五年間延長すること
が盛り込まれていた。社会党ほかすべての野党が憲法違反の法律だとして反対
し、全国的な反対運動が盛り上がった。
沖縄県は、地籍明確化法に反対する立場から、「沖縄における公用地等の暫
---------- 改ページ--------123
定使用に関する法律の失効に伴う特別措置法の立法化に対する意見書」を政府
に提出した。意見書は、同法の問題点として、「1地籍の明確が実現するまで、
正常な手続きで使用できないから、新法によって強制収用される。その場合、
契約拒否地主の土地は地籍不明のまま残り、無期限にこの法律により強制収用
されることになり、憲法二九条の私有財産に対する重大な侵害である。 2同
法では、一応使用手続きを定めているが、本来、駐留軍用地特措法または、土
地収用法により強制すべきであり、この法案の