付録B

クリスチャンもカルトにいる人に
カウンセリングするのだろうか

 非クリスチャンである精神衛生の専門家に答える

 心理学または行動論的な見識に立って宗教カルトを研究している人は(特に非クリスチャンの場合)、遅かれ早かれ次のような疑問にぶち当たる。「クリスチャンもカルトにいる人にカウンセリングしているのだろうか。クリスチャンだって、人々にマインドコントロールを使っているんじゃないのか」。ファンダメンタリストや福音派の教会を批判する人は、彼らを指して、聖書は迫害コンプレックスを助長しているとか、罪と罰に異常にこだわっているとか、厳格な規律を課しているとか、自尊心を下げすみ、個人的な怠慢の念を作っていると言っている。

 信者を獲得したり、カウンセリングをするためにマインドコントロール技法を弄してはいないと、たいていのクリスチャンは言うけれども、次のような反論もしている……「建設的なマインドコントロールをしています。神からのものです」。この答えで安心するクリスチャンも少しはいるだろうが、教会の外にいるたくさんの人にはたぶん納得できかねるだろう。罪と恐怖を強調している狂信的な教会はほかにももっとあるとたいていのファンダメンタリストの教派は反論する。心理学的なマイナスを止めてしまうと、信者はその宗教組織から「脱皮できなくなる」と答える。

 

見方を変えると

 キリスト教と接している精神衛生の専門家がふつうどんな考え方を持っているかをまず考えてみよう。クリスチャンのほかに、クリスチャンでない人にもある、伝統的な道徳的価値感を見直してみよう。

 社会学の学者や心理学の学者は、社会的に許容できる行為や信仰の面で、どれほど「基準」から逸脱しているかによって宗教を評価している場合が多い。現代の社会にある道徳的な傾向から見て疑わしいか、それに反対している教会や組織はすかさず、逸脱しているか、破壊的であると見なされる。堕胎手術をする医療機関を封鎖したり、映画をボイコットしたり、福音主義的なキャンペーンをしたり、学校内での祈りを許容するキャンペーンをしたり、創造論を選択課程に取り入させようといった動きは大半の専門家からもっとも過激な行動と考えられている。

 カルトのマインドコントロールと社会的な実践主義の違いを見落とすと、たいていある種の偏見が顔を出す。それは宗教を持つ人々と思い出したくもない経験をしたせいかもしれない。さらに伝統的な道徳からの束縛に強く反対していて、宗教が重要な目的になっている人たちもいる。

 心理学者にとって懐疑主義が有効であるのにはわけがある。偽祈祷師、非常に極端な空想家、カリスマ的指導者、あるいは宣伝主義者はほかの宗教にもいるし、キリスト教の教会にもいる。信者に必要以上に影響を及ぼす(罪を説き、罪の宣告をして)リーダーが居るためにカルトのボーダーラインに位置するクリスチャン教会もある。誰と話をしたらいいか、デートする相手、結婚する相手といったことに手取り足取り、生け贄のルールを課すやり方を遵守させる「羊飼い」がいる。指名されたその「羊飼い」に従順になるよう奨励している弟子訓練運動がある。それは長年たくさんの教会や教派で支配的になっている。

 専門家の世界では、そうした価値観に反対していると思われるかもしれない。しかしたいていの心理学者の態度が変わってきていることにたいていの人は気がついていない。宗教を持たない人、あるいは無神論者も含め、最近、学者のある一派は伝統的なフロイト学派の心理療法に異を唱えてきた。ウィリアム・グラサーやガース・ウッドといった研究家は行動療法で大きな成功を納めた。彼らは、古めかしいフロイト理論よりも、性道徳や正直さ、自己犠牲を含めた比較的伝統的な価値観をたいそう尊重している。その研究によると、クライアントがクライアント自身の道徳的な価値観に従うとき比較的強い自尊心が達成されるとする、実証的な結果を発表した。

 

開かれたアジェンドか、
        秘められたアジェンドか

 聖書は、明確に福音主義を奨励している。態度や行動が世間一般からかけはなれているし、不変の道徳規準を持つ社会であり、道徳的に正しいものに依っている。「時代が変わっても変わらない」ためにクリスチャンが迫害されるときもある。価値体系に執着している一面がある。他人に価値観を押しつけるクリスチャンを非クリスチャンが批判するときもある。

 本当のところ、たいていの場合、私たちには商売気がある。自分の生き方を示し、その成果や態度、信仰を見せて、他人に売りつけようとしている。宣伝活動やマーケッテング活動であれ、政治運動、宗教勧誘であれ、生活のどんな局面においても「商売っ気」が求められている。私たちがしていることは最も優れていて、他人を納得させるのは悪いことではないと、たいていの人は信じている。それにはその原因、あるいはアジェンダ(予定されたテーマ)がある。それは他人に影響を及ぼす。クリスチャンであろうとなかろうと、価値観の体系は自然のうちに他人に対するカウンセリングに影響を及ぼす。

 「カウンセラーのアジェンダ(宗教的な勧誘を含め)には望ましくないマインドコントロールの形をしていないだろうか」といった疑問がわいてくる。

 真実性は大事だと誰もが賛成するけれども、自分をどの程度相手に知らせるか、他人に自分の価値観を知らせるか、その必要の程度によって態度は大きく変わってくる。今いくらの金銭を持っているか、配偶者はどこで何時間働いているか、自分の子供の名前はなんというのか、ドアをノックした人が尋ねてきたとしたら、嘘をついたり、話しかけられた内容を否定することもある。積極的に本当のことを言わないで自分の考えに変えてしまおうとするときには特にそうだが、どんな態度を取るかは一定していない。「秘められたアジェンダ」を使っているからだ。

 カルトはそれを使うのが非常にうまい。自分の組織の歴史にさえ嘘をつく。預言の失敗、リーダーの生活面の道徳、一度は強烈に耳に響いたと思えるようなたくさんの教義。嘘をついたり、非常な大事な情報を見せないといったやり方を使ってカルトは情報を操作している。望ましい方向に行動をさせようと、信者をあやつるためには、恐怖も、罪も、用いる。そして信者の感情をあやつろうとする。

 精神衛生の専門家はクライアントに自分の価値観を知らせる義務があると、アレン・バージンは論じている。しかしクリスチャンはどうなのか。カウンセルする相手に自分の価値体系を知らせるべきか。ほかのクリスチャンからはずれていたならどうなのか。クリスチャンの生き方をおおっぴらに非難と検証の的にしていいのか。クリスチャンがほかの人をカウンセリングするときマインドコントロールを使っていないか。

 クリスチャンが他の人をカウンセリングするとき、倫理からはずれ得る局面が二つある。疑う余地がなく受け入れられていて、罪と恐怖で補強されているからと、キリスト教を「真理」として教えるとき。次に聖書では曖昧に扱われているのに絶対的な真理として知らせるとき。

 

キリスト教はどのように見えるか

 わたし(イエス)は道であり、真理であり、命である。わたし(イエス)を通らなければ、誰も父の元に行くことができない(ヨハネ14:6)と、クリスチャンは信じている。もし本当にそれを信じるなら、クリスチャンはそれを恥と思ってはならない。迷いはふつうは社会的なプレッシャーが原因の迷いや説得され易さのしるしである。クリスチャンが、空威張りや脅しによる手段に依存するのは善いしるしではない。まともな理論で心からの賛意を得るのではなく、人々に服従のプレッシャーをかけようとしている。新しい信者を得るために操りをする技巧が用いられないのには、いくつかの理由がある。

・神は自由意志で決断するよう、私たちに望んでいる。その決断は教育された選択であるはずだから、自分の信仰する理由を他の人に説明できる。

・真理全体を伝えなかったり、隠されたアジェンダのために何か決定的な隠しごとをすると相手は信じなくなる。あなたも、キリスト教も、信用されなくなるだろう(1ペテロ3:16,17)。

・空威張りと欺瞞に依存するクリスチャンは教会を全く邪悪なものに見せてしまう。教会の外部にいる人は、正直と不正直をたやすく区別できないからだ(ローマ2:23,24)。

・騙しと操りを用いると、信者の生き方に真理の効力が及んでなく、信仰に力強さがない証明となる。神を偽りの神に見せてしまう。

 

成熟さに導く

 

 自分の動機に正直になるのは成熟したクリスチャンのしるしである。そうしてそうした成熟さを他の人に渡そうとする真摯な望みがある。自由な意志を持ち、教育された決断に従うよう、神がなさったのだと分かるとマインドコントロール技法は嫌悪される。そうした価値観が知らされると、価値観に従ってほかの人を感化することにためらう必要はない。脱会カウンセラーとしては、クライアントの心がさらに混乱しないように、また心が賢明な状態であるならふつうならしないような決断を下す影響され易さが悪化しないよう、用心する必要がある。そうした技巧は、天に唾する事になる。後になってクリスチャンを賢いご都合主義者と見なし、一種のマインドコントロールの形態として見るだろう。

 まとめるとクリスチャンは善良なカウンセラーとなる可能性がある。聖書が何を言っているか教えるためには、正直になる必要がある。個人的な意見で読んではならない。議論するときには空威張りをしてはならない。生き方を見ればクリスチャンの信仰が見えてくる。

 


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