第8章
脱出……なぜそれがそれほど難しいのか
あなたはその宗教からさよならできなくなるばかりか、なぜ、二度と戻れなくなるのだろう。、あなたにはもう何もとりついていないというのに。
以前カルト教団、あるいはひとを操る教会から離れようと格闘している人に、話しをしたことがあるだろうか。もしそうなら、カルトがその信者に対し、感情的に、心理的にあやつる技術を間違いなく認識している。彼らが離脱することがなぜそれほど、難しいのか。彼らは宗教についての重大な間違いを分かっているのに、なぜそうなるのか。たとえひとたび彼らが離ても、「まとも」になって、他の誰だってしてるのに、教会に行くことが、どうして難しいのか。
雑誌「長寿」の1991年6月号は、非常に信心深い母親に育てられた若者の宗教上の証しを書いていた。母親は息子に、生涯誇りにできる唯一の道は、決してセックスをしないで、カソリック聖職者になることであると、幼い頃から言い聞かせてきた。
ヨシュア・バトラーは、世俗の道にひきずり込む恐れのある友人たちから離れて学校では孤立させられていた。その母親は、毎日5時間も祈り、夜毎、ヨシュアとその父親にロザリオの祈りを朗読させた(客の前でさえ)。ヨシュアが8歳の時、暮らしの中では映画とテレビは全て禁止された。彼は語っている。「母は『正装で簡素な連盟』の創設者であり、唯一の成員であった。父と私が毎日ミサ
に行くよう無理強いしていた」。
9歳までにヨシュアは、厳しい生活のしつけと格闘し、その苦しみを父親と共有した。二人はある計画をひねり出した。「母が、毎週土曜に公園に行きプラネタリウムを訪ねることを許したとき、父と一緒にポピュラー・ミュージックを聞いたり、映画を見に行こうとした。しばしの間、母が二人に課した生活を完璧に忘れ去っていた。ヨシュアとその父親は、外界の世界の現実性の感覚と健全性を維持するためのコピー機を見つけ出そうとした。「映画は私の魂の救いだった。人生はストーリーであり、興味をそそるものであり、複雑で意義深いストーリーだと語っていた。私はそれが私の生活にも当てはまることが分かった」。
ヨシュアが11歳のとき、父子は母親の宗教に不信感を持ったため、母親と対決した。彼女は別居し、後に宗教上の熱狂を共有した16歳も年下の男と結婚した。「まもなく、彼女は私が地獄に行くだろうとほのめかす手紙やテープを私に送ってきた。祝日が近くなると、訪ねてくるが伝道するだけで、何も変わっていないかのように二言、三言しゃべるだけだった。」
ヨシュア(現在17歳)と父親は、カルトの犠牲者の一人だった。ひとを操る道具は、神への恐れ、罪、そして、家庭の平和を守る必要性であった。ヨシュアが自分の生活に現実的で、健全に発達した感性を持たないようにするため、社会的な隔離が用いられた。ヨシュアが当たり前の欲求を楽しむことに罪を感じさせようと、純粋性の要求と告白の道具が用いられた。
かつて律法主義的教会やカルトに関係を持たなかった人々は、さよならする人を繋ぎ止める強力な要素を評価できない。健全に発達した現実感覚を持ち、さらにわずかな自信を持つ者にとっては、人々がカルト集団の犠牲者になるとは、信じられないらしい。最近の「サリー・ジェッシィ・ラファエル・ショー」(6月5日)は、かつてカルトの罠に陥った後、デプロミングされた3人の若者にインタビューし、さらに子供を取り戻すために苦労した母親たちにインタビューした。関係を持った宗教の中では、彼らは総体的に異なった人となり、強力な教会指導者によるマインドコントロールの犠牲者になったと、これら3人の若者は一致して同意した。若者たちは親の敵になることさえ、命令された。
ものみの塔を去るということは……
もし、あなたが「ベテル・ミニストリー・ニュースレター」、あるいは「フリーマインド・ジャーナル」の読者からの手紙を読んだなら、あなたはものみの塔組織で多くの年月を過ごした人たちからの似たようなストーリーを耳にするだろう。何人かは最終的に脱出するまで、長い時間がかかった。そのわけは、恐怖と罪と不安である。‥‥‥神を拒否したのだから、神から罰せられるのではないかという恐怖心(組織を去ることは神を去るに等しいとみなされる)。脱会を思う罪。「母なる」組織から離れての生活に対する不安。エホバの証人はものみの塔が唯一の真の宗教であり、悪魔はそこから抜けださせ誤導しようと狙っていると教えられ、最初から隔離されている。エホバの証人は、他の宗派の文献や聖書の見解を読むことは許されず、とにかく、ものみの塔に批判的なものを読むことは許されていない。隔絶されると、かつて保有していた現実のはっきりした感覚には効果的に、予防線を張れる。「我々と彼ら」の世界があり、そこではエホバの証人は考え方の唯一の安全地帯を提供し、他人は、すべて潜在的な脅威と思われている。なぜエホバの証人が組織を急いで去らないのか、これでお分かりだろう。
ものみの塔にいる家族も強力な要素である。多くの証人にとって、王国会館にいる家族と友人だけが交わりである。もしある人が宗教を離れると、ふつうなら、家族の者も同じように避ける。両親と兄弟姉妹、その子供たちを愛する私たちにとって、去った者と再会したり、二度と語りあったりできなくなると考えると、とても痛ましくなる。しかし、これはものみの塔を去るエホバの証人が直面する避けて通れない事件だ。
あなたにはどんな援助ができるか
三位一体、地獄といった教えを信じていると主張して、そうした教義を無理強いしてはならない。彼らがそれほど警戒していないときにその論点に取り組むのが次善の策だ。
教会に出るように強制してはならない。教会は悪魔の安全地帯であり、偽りの教義の避難所だと信じるように教えられているからだ。彼らにわずかな空間を与えなさい。そうすれば、彼らは元気になる。
彼らの心のトラウマを過少評価してはならない。ものみの塔を去る証人にとっては、恐怖と危険に至る、完璧な世界の崩壊に思える。もし、あなたがそれに鈍感なら、彼らはあなたを信頼しない。
休暇を取ったり、映画を見に行くような、当たり前の「楽しみ」を楽しむよう、彼らを励ましなさい。非カルトな行為がが多くなればなるほど、彼らはまともになってくる。
彼らが直面しているのと同様の試練を経験してきた他のカルトの元信者のビデオを見せなさい。これはすばらしく役に立つ。そうしたテープの情報が豊富な「フリーマインド」を求めなさい。あるいは対話のために他のカルトの元信員に会わせなさい。
彼らがどう行動しようがかかわりなく、愛されている人だとか、受け入れていられている人だと思わせなさい。あなたの態度と行動から神の愛を示しなさい。
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排斥された人はなぜ頻繁にものみの塔を弁護するのだろう 排斥されてももはやエホバの証人と交わりがないのに、その信仰とその行動を弁護する者が見つかるのには驚きを覚える。 罪 ものみの塔を離れる者はたいてい罪を犯している。聖書に明らかにされる罪、あるいはおそらくは、ものみの塔が決めた罪だ。 (喫煙や祝日の祝いような)。犠牲者の良心は痛み、常に悪行を思い出させている。そうしてものみの塔への反対尋問(その歴史や教義への)を妨げている。「異教徒の文書」や変更された教義を調べようとする試みは、いっそう罪が重くして、自分の罪を正当化する試みだと考えてしまう。 恐怖 排斥された証人は悪魔がつまずきとなり惑わせられたのだと確信を持つから、今や恐怖が支配する(特に組織についての嘘を認めるのだから)。神からの罰が下る恐怖は、ものみの塔を離れた後も長く犠牲者にまとわり続ける。 愛情の事情 これは証人が持っている組織への愛情と関係がある。証人が排斥されても、それで縁が切れると考えてよいのだろうか。犠牲者はものみの塔の同志の感覚、ものみの塔協会の「一致」と予言者能力を今も恋いこがれている。彼はすべてに組織に依存してきたのだから、「愛する者」を取り戻す希望を持ちながら、誘惑する愛人の役を演じるだろう。「いなければいないで、恋しくなる」のだから、小さな痛みや苦悶でもすべて、彼にとっては「母」の組織を思い出させるものになる。
あなたにできること 上に書いた闘いをする犠牲者を正そうとする者は即座にはねつけられる目に遭う。加入したとき組織から植え付けられた強力な衝撃があるからこそ立っていられる。聖書を用いる人と議論するのではなく、ほかのカルトの元信者の証を聞いて、その人たちが恐怖や、罪、組織との「愛の関係」とどう格闘してきたか、話を聞くように取極めを結ぶほうが効果的だ。ほかの人がどれほど同じような痛い目に遭ったか、それこそ脱会者の心を開かせるに必要な話題だ。 |