第4章
ものみの塔のフォビアを理解する
[フォビア]名詞。特定の事柄や特定の状況への継続する恐怖。
不合理で過分な恐怖(ウェブスター・新ユニバーサル要約辞典)
フォビアを闘ってきた人たちにとって、そうしたフォビアが論理的な分析にどれほどなじまないものか分かっている。おぞましいモンスターから逃げ出す夢の思い出に似ている。そのモンスターが存在しないなどとは、どうあってもその人には思いこませられないといった思いがする。
夜に見る悪夢は束の間の出来事であり、たいていは朝になると忘れられるのであるが、目覚めたときにもその人の意識の中に横たわっている(まさにそれが強力なときがある)。高所恐怖、犬に対する恐怖、閉所恐怖などは、人の生き方に影響を及ぼし、規則正しく、きちんきちんと人々の心を傷つける。
しかし、それらに比べると、宗教に基づく恐怖にはほとんど注意が払われていない。恐怖や罪や自責の念、そしてヒステリーの感覚を作り出すために、人を操ろうとする心から聖書を歪められることが、現在はっきりしている。ジム・ジョーンズの信者たちがそれを証言している。驚くべきことに、その犠牲者たちがその偏執的な病気にはしばしば気がついていても、それがいかに破壊的であるか分かっていても、それを克服する力がいかに足りないかを感じている。
これは、特にエホバの証人に言える。聖書だけでは飽き足りず、ものみの塔は、規律の「タルムード」をそれに含ませ、喫煙や祝日などの禁令を付け加えて、聖書に多くの講釈を付け加えてきた。それがあるから不従順への不要な恐怖を作り出し、ついには罪になる。
その信者のほとんどすべての行為を注意深く解釈しているなどと、なぜものみの塔が主張しているのか。さらに、その規律が神から出ているなどとは嘘だとは分かっていたとしても、なぜに証人たちはすべての規律に賛成しているのか。
まず第一の疑問に答えるには、ものみの塔の動機を理解しなければならない。ものみの塔は信者に悪意を持っていないつもりでも、ものみの塔は証人のために最善の利益を追い求めていると信じている。明白に定義された行為の規格に囲まれた400万以上の証人の生活に注文を付ければ、その規格は神に喜ばれ、神は永遠の生命を賜ると信じている。
律法主義を身に着けているから、フォビアは一つの形をした巧みな操作のになる。ベットでお漏らしをする子供の身の上に起きる恐い話をして、おねしょをする子供を恐がらせる親と似ている。信者に愛と恵みを話すのではなく、むしろフォビアの教え込みを手段とする宗教団体がある。フォビアの教え込みが用いられる理由は、主として他者の行動と態度を統制しようとするからだと説明されるけれども、犠牲者の病状を理解するのはいっそう複雑になる。
律法主義的な宗教カルトを求める人たちは、たいていは、ずっと前に心の中に植え込まれたフォビアの犠牲になっていることがしばしばである。両親から人生やまわりの人たち、結婚や出世といったものに恐れを持つように教えられる子供たちは、この世の終わりの日を伝道し、信者に迫害のコンプレックスを生じさせる宗教に慰めを見い出す。アルコール中毒を慰めあう仲間に似ている。その子は邪悪な生き方から逃れるのに必要なものを求めるのではなく、身に付いた心地良さを求める。信じられないだろうけれど、長い間慣れ親しんでいるために、フォビアとマインドコントロールの常習者にはそれが心地良く感じられる。フォビアはうまく治癒されるかもしれないが、その犠牲者にはフォビアが認められるはずだ。ほとんどの場合、犠牲者にはカウンセリングが必要だ。
ものみの塔フォビア
疑いへの恐怖
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組織を離れる恐怖
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「世」の人々に対する恐怖
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「出世」に対する恐怖
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「学ぶこと」に対するの恐怖
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悪魔に対する恐怖
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親密な友情についての恐怖
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「背教者」に対するの恐怖
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注記:次のフォビアは、あなたの健康にとって、危険性が高い
あなたがかつて会ったことのないもっとも親切な人々と会うとき、かつて会ったことのある人々のうちで、もっとも愛がある集団として紹介する。そして指導者がもっとも霊的で、よく世話をし、もっとも情け深く、会った人々をもっともよく理解している者として認める。集団に着いていくことは、達成される可能性があり、あなたが決して思ってもみなかったことであることを学ぶ。そのすべては真相として、とても善良に聞こえる。自分の教育をあきらめてはならない。虹に続く希望と大きな望みを持て。
ジーン・ミル。(人民寺院の元成員)
神への恐れ
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ハルマゲドンの恐怖
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ほかの宗派に対する怯え |
よくあるものみの塔の「罪」への旅立ち
ある人々は、献身を目指して進歩した時期があったものの、その後は尻込みしているように見えるもしれません。心の中にある神への愛が、神に無条件の献身をするようほどに強くないとしたら、それでも自分は祈りのすばらしい特権を持っているかどうか、自問してみるべきです。おそらくその特権はないでしょう。神へ近づく者たちは、神と義と柔和を真剣に求めていかなければならないからです(ゼバニア2:3)。本当にエホバを恐れる人は皆、神へ献身し、その象徴としてバブテスマを受けた信者です(使徒8:13、18:8)。また祈りによってとこしえの王に近づく無制限の特権を得ているのは、バブテスマを受けた信者だけです。‥‥‥「ものみの塔」1990/5/15 P.12