第3章
ものみの塔の反対者はどう見られているか
あなたは、まさしく、こう言うだろう。「ものみの塔は一見、神を愛すると思えるような不完全な男で作られている。しかし彼らは間違いを犯している。どうしてその間違いに悩まされるようになったのか。少なくとも、ものみの塔は間違いを認めているのに」。
それに変わるシナリオを差し上げよう。私、ランドル・ワターにこう言わせてもらいたい。「神は直接、私に『真理』を明らかにする。現在あるキリスト教会への神の唯一の伝達経路である。真理の中にいるのだから、あなたは私が文書に書うたものはなんであれ、受け入れ、信じなければならない。さらに、私は霊感を受けた者ではないのだから、ときには間違いをすることを分かっていなければならない。私の教えや私の預言に真理がなくとも、私と仲違いしたり、私を偽預言呼ばわりしてはならない。神の選ばれた真理の伝達経路を困らせてはならない。モーゼに反抗したときにコラの民の身に降りかかった災いを見なさい」。
上に書いたシナリオによれば、一人の友人として私を信じた者が私の身辺にいるであろう。その人は上に書いた私の批判を「それは不公正だ」と見なす。彼らは私を善良な動機を持つ「りっぱな人」だとは、考える。しかしその人は客観的な見方(起きている現実の真相が見られるような見方)を怠っている。
一方、優しくて、賢明な人たちは、私の主張にぞっとさせられるだろう。カルトの指導者だ、偽預言者だと、社会から非難を受けるだろう。幾度もこの世の終わりを予告してきたブルックリンの組織がある。何度も、何度も、成就されない出来事の日付を設定してきた。何度も、何度も、頻繁にその教義を変えてきた。それでも自分たちは「神の選ばれた伝達経路」だと主張する。その伝達経路は霊感を与えられていなくとも、「神秘的な霊」が伝達経路の出版物のために直接、真理を伝達するのだから、伝達経路の言うことはことごとく、受け入れなければならない。
エホバの証人の統治体は誠実である、神の命令を持っていないけれども誤導したのは信者のためを思って善意でしたのだと言う人がまさしくいる。ある程度までそれは真実を突いている。私が塔本部にいたとき、統治体は政治ゲームを演じている、基本的には、正直な男たちだということが分かった。
しかし、私たちの調査で浮かび上がってきたものといえば、塔の指導者たちは首尾一貫して過去を覆い隠すことにやっきになっていて、指導者の権威を疑う者の間に恐怖を生み出そうとしていたことだ。表面では、ものみの塔はどうぞ試してみてくださいとさえ言って、その教義や過去の歴史についても公平であるかのような印象を与えている。しかし雑誌「ものみの塔」の預言や特定の見解に疑いを言い始めると、「りっぱな」仮面は取り外される。思い切ってものみの塔の権威を疑おうとする者は誰であれ、その動機には攻撃を加えられ、底意地の悪い精神が暴露される。
エホバの民の隊伍の中から、初めのころのサタンのように、独立的な態度や粗捜しをするような態度を取る人々が時折でました。彼らは世界中の規模の兄弟とのきずなを保ちつつ「肩を並べて」奉仕したいという気持ちを持っていません。むしろ、エホバの言葉に対して「かたくなな肩」をそびやかします。( ゼカリア7:11、12、新)それらの傲慢な人々は、エホバが過去1世紀にわたってご自分の民に非常にやさしく、親切に教えてこられた「清い言語」の型をばとうし、イエスが地上に集めてこられた一つの国際的な「群れ」から「羊」を連れ去ろうとします。(ヨハネ10:7−10、16)。彼らは疑いをまいて、それを疑わない人々を、エホバの証人の王国会館で出される霊的食物の豊かな「食卓」から、本当に「何も乏しいものはない」ところから引き離そうとします。(詩23:1−6、新)一人であるいは小さなグループに分かれて家庭で聖書だけを呼んでいれば十分だ、と彼らは言います。ところが不思議なことに、彼らはそのような”聖書朗読”を通してキリスト教世界の僧職者が著わした100年前の聖書注釈書に教えられている背教した教理に逆戻りし、‥‥‥。「ものみの塔」1981/12/15 25頁。
いかなる意義申し立ても許されなかった。疑う者の動機がどうであれ、それは悪魔の動機を持つ罪人と認められた。
今日の神の民を誤導するために用いられている別の「曲がった事柄」をいくつか考えてみましょう。反対者たちは、エホバの民が共通に奉じるいろいろな考えに疑問をはさむ場合もあります。1世紀の場合と同じように、それはしばしば言葉をめぐる論争となります(1テモテ6:3、4)。神の民の考えて導くための組織の必要性についても疑問をさしはさむかもしれません。指示を与える中央の組織体がなくとも、神の霊が各個人を導くというのがその人たちの見方です。人にとって必要なのは聖書を読むだけだと、その人は断言するでしょう。(ものみの塔1983/6/1 25頁)
塔の外で導きを調べると、毒を食らうことになる。
主には唯一の彫り板があることを思い出すのは良いことだ。最上の食物の十分な供給は、そこで備えられ供せられる。こうした霊を知っているのに、主の備えるさときしもべに反対する者はだれか。彫り板にかじりついているのはなぜか。彼らの食物は神権的に試練を受けていないから、霊的な毒をもられるかもしれない。主の家で消化するものが豊富にあるとき、神の忠実な家の者以外の貧弱な皿に盛られた食事にありつこうとするのはなぜか。外にいる者は「ものみの塔協会」とは協力しないし、あなた方に手をさしのべられない。彼らは主の恵みを有しないのであるから食事を供する者、すなわち神の名誉をけがしている。Watchtower 1950/8/1 P.231
組織の中ではなぜものごとが決められた方法で行れるのか疑いを持つ者でさえ、誇り高い者という理由で非難を受ける。
主の霊的な食物の備えよりも価値あるものであるかのように、私たちに嫌な考えを初めに記述し、私たちへの非難と意見をこじつけたり、口外するよりもむしろ、私たちは、主の神権組織とおとなしくともに進み、浄化を待たねばならない。神権的な人々は、主の目に見える組織を評価し、エホバの経路に対し人間的な論理と感傷と個人的な感情を対抗するような愚かなまねはしない。Watchtower 1952/2/1 P.80
聖書を研究し、わたしたちはエホバが常にご自分の僕たちを組織的な方法で導いてこられたことを学びます。そして西暦一世紀に真のキリスト教の組織が一つしかなかったように、今日でもエホバは一つの組織だけを用いておられます(エフェソ4:4、5、マタイ24:45−47)。それでも一部の人々はこの組織がこれまでいくつかの調整を行なってきたことを指摘し、「この点からすると、わたしたちは何を信じるべきかについて自分で決定しなければならない」と論じます。これは独立的な考えです。この考え方が非常に危険なのはなぜですか。
この考えは誇りの証拠です。そして聖書はこう述べています。「誇りは崩壊に先立ち、ごう慢な霊はつまずきに先立つ」。(箴言16:18)自分は組織よりもよく知っていると考え始める人は、こう自問してみるべきです。「自分は最初に真理をどこで学んだだろうか。組織の導きがなかったとしたら自分は真理の道へ行けただろうか。実際に神の組織の指導なくしてやっていけるだろうか」。確かにやってゆけません。(「ものみの塔」1983/6/1 25頁)
次に示した一連の言葉によれば、既定の輸血や排斥の処置の立場に反対する者は、ただちに怠惰と神への不忠実のかどで沈黙させられる。
それだけにとどまらず、エホバの証人の統治体や他の責任を持つ兄弟たちは、良心の自由と、聖書を解釈する個人の「権利」を侵害していると主張する人もいるかもしれません。しかし、「解き明かしは神によるのではありませんか」というヨセフの謙遜な言葉を思い起こしてください。(創世記40:8)
また、イエスは、この末の日に、時に応じて霊的な食物を与える仕事が、油そそがれた者たちからなる一つの組織、つまり「忠実で思慮深い奴隷」にゆだねられる、と予告しておられたのではないでしょか。(マタイ24:45−47)自分自分の反対意見を押し出そうとする人には用心しなければなりません。
‥‥‥
血を食べることを非とする聖書の禁令は本当に輸血に当てはまるだろうか、という疑問をある人が口にするのをたまに聞くことがあるかもしれません。しかし、その考え方の背後には何がありますか。それは恐れ、現在の自分の命や愛する家族の命を失うのではないかという恐れでしょうか。復活の希望が薄らいでいるのでしょうか。忠実なクリスチャンは神の律法に関して妥協したり、水で薄める方法を探し求めたりはしません。‥‥‥
批判的な態度を取る人の中には、排斥された人たちとの社交的な接触を断つことについて、エホバの組織は厳しい見方をしすぎると主張する人がいます。(2ヨハネ10、11)ではそれらの批判をする者たちはなぜそのように考えるのでしょいうか。密接な家族のきずなや友に対する誤った忠節心があり、エホバとその基準やご要求に対する忠節よりも、それを優先しているのでしょうか。‥‥‥‥
最後の点として、年代について協会がこれまで公にしてきた事柄を考えることができるでしょう。エホバの証人は偽預言者だと主張する反対者たちもいます。それらの反対者たちは、日付が定められていたものの、何も起きなかったと言います。その点について私たちは、それらの批判をする者の動機は何かと尋ねます。彼らは目ざめているよう神の民を励ましているでしょうか。それとも、再び眠気を催して無活動の状態に陥ってしまった自分たちを正当化しようとしているのでしょうか。(「ものみの塔」1986/3/15 19頁)
この章に引用したように、ものみの塔の教義に対する疑いには滅多に答えようとはしない。証人は将来の浄化を待たずに、受け入れるべきだ。組織はあとになって浄めるかもしれない。確かなことは一つ。ものみの塔の教義はいつも変わるものであり、ものみの塔への批判は信用されない。ことごとく、否定される。