第11章 統一と適合‥‥‥
なぜカルトだけがそれを達成できるのか。
エホバの証人、モルモン教、世界的教会、国際的道、キリストのボストン教会、統一教会、これらすべての宗教に共通しているものは何か。立派な教会でさえできなかったのに、こうした組織が提供できる新しい宗教はあるのか。そして、こうした組織を脱会し、クリスチャンの教会への出席を始めることを難しくさせているものは何か。その主なものは「統一」である。
私はここでコリント第一1:10の中の使徒パウロが語ったある種の統一について語っているのではない。
さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス。・キリストの名によってあなたがたに勧告します。みな、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結びあいなさい。
この一節は、しばしばカルトが自分こそは真のクリスチャン会衆であると他者に証明するために用いられる。神が特定の組織に超自然的に恵みを与えていると、おそらくは誇示している組織の間には、統一性という、ある際立ったしるしがあると、新しい弟子たちに示す。他の多くの宗教組織(即ちカルト)が自分たちだけが真の教会であると証明するためにまったく同じ論議を用いることには新しい弟子たちは、もちろん気付いていない。
カルトには教会の中では手に入らないある種の統一性がある。どうしてその統一性が達せられるのか、それは望まれるものであるか、それが問題だ。パルロの語るある種の統一と同じなのか。指導者の地位にある牧師やクリスチャンは短い期間に多くのことを遂行する能力と統一のためにカルトを補強したと聞くと、驚きを覚える。大勢の牧師たちは自分たちの教会の中で同じ結果を出すための計画を始めてさえいる。本当のところは、カルトと同じ技法を用いると、主流派の教会の教会員にもカルトがその弟子にしているのと同じ効果が及んでしまう。
パウロが本当のところ、何を語っているか
コリント人パウロがコリント第一1:10では、信仰は完璧に一致していたとか、神とパウロの兄弟姉妹の関係に関する考え方の一致を常に完全に達成できていたと語っている証拠はない。だれもが考えるように、パウロは兄弟たち全員に同じ考えをさせようとしていたのでもなかった。そうするためには、パウロは行動律のような教会の系統的理論を発展させなければなかった。その代わり、パウロは、お互いに愛と忍耐の基盤に立って統一性を忠告する。彼は教義の問題よりも、むしろ霊的未熟さとしてのコリント人の問題を見分けていた(1コリ3:1−9)。
初めの3世紀間におけるクリスチャンの研究・調査から、クリスチャンたちは些細な事柄には多様な見解を持っていたこと、聖霊と神との関係のほかに、父とキリストの関係につき、彼らの見解が揺れ動いていた段階にあったことが明らかになっている。西暦1世紀のころに、キリスト教界の代表として、アジアにある7つの教会(黙示録1−3章にイエスから名指しされている)を考えるなら、実際には、教会はそれぞれの文化に従って、不滅、えこひいき、偽りの教義と世俗さに屈している、変化に富んだ段階にあった。本当のところ、パウロは神父となった教会に絶え間なく忠告しなければならなかった。親が子供たちを見守るようなものである。しかしパウロは規則(着衣の規律など)を確立しなかった。人間の本性は変わらず、2000年後の教会でも、アジアの7つの教会のような論議に直面している。体の中にはいつも争いや、不滅や偽りの教義などがあろう。これは、カルトが組織を作ることによって、そして自分たちを外部から離れさせて、変化を求めるていることとぴったり符号する。
気高い出発、悲しい結末
聖書を基盤にする多数のカルトの起源は、「一致」とキリスト教の真の崇拝に戻るため、神の選ばれた代弁者を自負する理想主義のリーダーたちである。そうした近代的なメシアに従ったパターンは、予報が容易である。一般的に次のやり方に従っている。
(1)現状の教会に対する幻滅。
(2)どのようにして再び地上で真の崇拝を活発にできるか。そのために「神の啓示」を受ける。そうすると、神は神の民をもう一度、受け入れ、「真」 の信者の中で働き始めるだろう。
(3)指導者の考えを受け入れるに必要なほど従順な味方から成る、忠実な小集団を組織する。そしてその集団は、運動の指導者たちとなる。世界への伝道使節といった大げさな重要性を帯びている感覚と不適切な動機を補給され、権力とエリートの意識を植え付けられる。
(4)聖書の新しい啓示と解釈は、神が地上の忠実な残りの者の間に定めている「計画」の一部となる。懐疑論者や未信者から成る外部の世界にはそれは「つつましい」側面を保っているためにおそらくは、見分けがつかないだろうが、これらの書き物や教えは、実際的には聖書そのものとなる。「選ばれた者」にとって、それは「法」である。
(5)規則で固められた福音主義は、神に「忠実」であるしるしとして定められる。ふつう、新しい信者は、疑問を持つテーマをきっかけに組織に加わる(キリストの十字架(1コリ1:17、18)に訴えるのではなく、新しい世界や、他の者よりも強い権力や権威へ訴える。あるいは不安を軽減することだけを訴える)。おもしろいことに、ふつう一般大衆にとっては受け入れが難しそうな奇妙な教義がある(血を避ける、医療行為をしない、世界の終わりの日付など)。カルトの中では、カルトの教義と実践の真実性が真理であると常に、何度も断言するために、それを常に更新する流れが必要である(この本の「預言が失敗する時」を見よ)。
(6)指導者は、今やその教えや実践に反対する者を「迫害」と解釈する。カルトのリーダーとその集団への正当な批判を実際、拒否している。その根拠は、「正当な」根拠があるから、神はすべての反対者に対して精神的な戦いの旗しるしを運んでいると思われている。カルト指導者のエゴが全開しており、エゴ的な傾向が容易に観測できる段階である。リフトンのマインド・コントロールの8つの要素(付録を見よ)が今や明瞭となる(集団で発達した特別な用語、告白や追放の使用。情報の流れや環境の統制など)。反対者は今や存在する価値がないと見なされ、遠ざけられ、肉体的虐待を受ける。
カルトの統一性
全体主義的な機構の中で統一性を達成することは、比較的容易である。権威は完全であるとし、批判を超えて確立される。反対する者は誰であれ、背教者や異端者のレッテルを貼られる。反対者はただちに追放されるから、組織はいつも言葉の上で教義に賛成する者からだけしか構成されないだろう。だから、まったく、統一性があるカルトが姿を見せる。それは強制されて一致である。疑ったり、批判したり、自分の意見を声にすることは、「神に対する戦い」である。この一致をカルトは次のようにして達成する。
・中央集権化された絶対的に従うべき真理の源泉(選ばれた指導者あるいは統治体)
・集会や研究資料による信者への継続的な教え込み。
・組織を疑うことへの恐怖、これは神の「激怒」を招くからだ。
・生活上のささいな事柄の処理についても統制している規律や規則に従うこと。
・疑問を持つ者や意義を唱える者をたれこむスパイや秘匿された情報網の発達とその脅し。
・上記の技巧から、カルトの考え(神から選ばれた者)にあるエリート的意識があるからほかには見られない友情感覚が作り出される。この友情の感覚はそれ自体、「ハイ」だ。そして組織を離れることとキリスト教教会に入ることは、独特の「ハイな」感覚の喪失を意味する。もし、教会が全体主義組織あるいはカルト的な機構となるのであれば、教会はその熱中した行動はおろか、この種の一致を達成できる。
ものみの塔は一致を主張する
「あなたはエホバの地上の組織を評価しますか」という見出しの下に「ものみの塔」誌は次のことばを述べている(1991/11/1 )。
「同じ思いでしっかりと結ばれていなさい」ダイヤモンドの際立った特徴の一つは、固く協力に結合した原子の結晶構造です。おなじように、エホバの地上の組織は比較できないほどの一致を、教理と兄弟関係において表わしています。(30、31頁)
証人たちは、しばしばすべての世界の出来事をすべて同じように信じたり、証人の大会は良い行いの模範であると、人々に伝えたがる。口に出さないことと言えば、もし誰かが公然とものみの塔に疑問を持つなら、ただちに投げ出されるということだ。望ましい一致とはとうてい言えない。良い行為は、恐怖と脅しによって搾り出される。エホバの証人は善い行いをする者であり、全員、指導者のコピーであることに疑問の余地はあるだろうか。
「カルトと宗教のコンサイス辞典」から選ばれた意見と調査を次に示す。
実際的にエホバの証人が統一性と定義していることは、実際、硬直した組織構造と政策である。聖書の伝える一致は、イエス・キリストの主権の下での霊と人間性の単一性である(ローマ12:15−16、14:19、15:1−7、1ペテロ3:8)。
ものみの塔は年ごとに多くの分裂した集団を有してきた。そのいくつかは。
聖書研究生の仲間(サン・ディエゴ、カルフォルニア州)
聖書の道出版(フォート・ロウダデール、フロリダ州)
B.S.C(英国)
シカゴ聖書研究生(シカゴ)
クリスチャン千年王国の仲間(ハートフォード)
クリスチャンの更生教会(サラトガ、カルフォルニア州)
(以下、省略)
加えて、上の集団のいくつかはそれ自体、分裂した集団を有している。例えばシカゴ聖書研究生は国の中に次の支部と分離した集団を有している。
フォートワース聖書研究生(フォートワース)
フェニックスビル聖書研究生
フォートランド聖書研究生
シアトル聖書研究生
ワラン聖書研究生
今までに明らかにしたように、あなたに信じ込ませているほどものみの塔は組織的な展望から見て、「純粋」ではない。分離の主要な原因は、指導性の強い権威の姿勢と、自分たち自身とは異なる聖書の解釈や見解を考えることを怠ってきたからだ(多くの分離集団は、教義や政策が変更された後に組織された)。これが今日までの状況だ。
出典:「カルトと宗教のコンサイス辞典」ムーディ聖書協会1991年。
結びに
証人と語る時には、一致がいつも良いものであるかどうか、直接、証人に考えさせるべきだ。聖書時代でさえ教会の分裂と相違がはっきりしていたのだから、教会の状態を弁解する必要はない。むしろ、一致に関するものみの塔の主張に焦点を当てなさい。我こそは唯一の真の教会であるとそれぞれが主張してはいないのだから、教会の弁解しなくともよい。マインド・コントロールのしるしを指摘したり、絶対的な一致や調和が考えているほど望ましいものではない、と指摘するまたとない機会を用意するだろう。
霊的な転向の需要
「あなたが人の財産を奪ってもその人はそれを取り戻す。しかしあなたが信仰を奪うなら、あなたは必ずや彼を殺してしまう」
上の文句には、カルトの犠牲者に働きかける人すべてが知っておかなければならない真実が含まれている。
人々がカルトに入る理由はたくさんある――孤独感、力強さ、現実からの逃避がある。好奇心が強いだけなのに、たちまち催眠術の患者のように他人のコントロールに入ってしまう人たちもいる。
しかし、カルトに入ってしまう人には別な種族もいる。もっと高い理想の渇望が動機になっている人もいる。持っている理想よりも高い理想を誰かに与えている者がいるためだ。神を求めるためにすべてを犠牲にする者、人生のなんたるかを知ろうと一生を賭ける者もいる。たいていそうした人たちは身体的な痛みや精神的な痛みが動機になっている。
なぜカルトはこうした種類の人たちを獲得しているかのように見えるのだろうか。山ほどある伝統的な教会さえ提供しなかったものでカルトが提供できるものとは何だろう。
その答えは、多くのカルトがはじめになぜ始まってしまったか、分かってしまえばはっきりする。カルトの動機は、すべてが邪悪なのではない。ジム・ジョーンズと人民寺院の例のように、たいてい運動を動かしている道徳的な原因がある。人民寺院とジョーンズタウンの事件では、それは人種的な頑固さや偏見に対する反応だった。たくさんの理想主義の若者は新鮮な兄弟意識と自由の雰囲気に引きつけられた。彼らが見そこなったのは、闘い取った利益よりも道徳的に邪悪なことを引き起こして、ジョーンズは安定さを欠き、腐敗してしまったことだ。善良な理想を完璧に植え付けられた信者たちはジョーンズの本当の性格を見分けられなかったし、それを喜ばなかった。それはデビット・リードが次のように描写するどこかのエホバの証人のようだ。「ボーイフレンドのどんな言葉にも耳を傾ける、彼に首ったけの十代の少女のように、組織に感情的な充足感を見出した証人にとっては、カルトが言っている言葉はどんなものであれ、それを賞賛する幸がある」(『愛する人をものみの塔から救出する方法』P.137)
ある時は国際聖書研究生という名で知られたエホバの証人は、たくさんの人がキリストの再臨を望んでいたときに誕生した。周りの多くの教会とは異なり、聖書研究生はキリストを愛すると主張する謙遜な人々であり、宗教運動に高い理想を見出した。逆にたいていの教会は冷めていて、世俗とその政策にひどく染まっていた。そうした高い理想に加わっている歓喜の念は、ラッセルがおもしろ半分でやっていた数字合わせの学問やピラミッドの学問を見る目を暗くした。ラッセルは、常に、隠された神の予表を決めようとしていた。ラッセルはカリスマ的な指導者だったから、ジム・ジョーンズの信者と同じようにラッセルの追従者たちは実際にラッセルを崇拝した。
ラッセルが教えた教義はことごとく、受け入れられた。その追従者たちは教義のために働いたのではなく、ラッセルに奉仕したのだ。
今日のエホバの証人は同じく集団的な「忠実でさとき僕」に使えている。教義に仕えてはいない。証人の常に変わる教義によってそれが示される。ブルックリンから届く新しい真理はなんであれ、喜んで教える。エホバに仕えると主張しているがエホバは組織を介してしか知ることはできない。キリストはジム・ジョーンズを介してしか、知ることはできないのと全くよく似ている(少なくとも人民寺院に依れば)。
そうは言っても、こうした証人の大部分はまじめで、ほとんどが本当に神を求めている。もし証人が自分の感覚を取り戻すなら、彼らに何を提供できるだろうか。
高い理想に一生を捧げた人を捜す必要はない。自分を犠牲にした。まともな生活、充実した生活をするため他人の助けを必要としている。彼らの喜びや強靱さ、生きる張り合いは、高い理想という秘められた源泉から発しているようだ。
神に奉仕するため生きている友人を求めている元カルトの信者はたくさんいる。彼らは励ましと再生の希望を必要としている。そして彼らは人間の作った宗教で得られた恵みよりももっと大きな恵みを受けられる。