エホバの証人に聖句から聖句に答える
 新約篇

マルコの福音書
マルコ 1:8

「その方はあなたがたに水でバブテスマを授けましたが, その方は, あなたがたに聖霊のバブテスマを お授けになります。」

 マタイ 3:11の同一の引用の項を見なさい。

マルコ 6:21-25

「ヘロデが
, その誕生日に, ‥‥祝宴を設けたとき, ‥‥。少女はすぐに, 大急ぎで王の前に 行き, こう言って頼んだ。『今すぐに, バブテスマのヨハネの首を盆に載せていただきとう ございます。』」

 誕生日の祝いに反論するためにエホバの証人が用いる三つの文章のうちの一つ。 創世記 40:20-22の項を見なさい。

マルコ 12:29

「イエスは答えられた。『一番たいせつなのはこれです。【イスラエルよ。聞け。 
われらの神である主は, 唯一の主*である。】』」

 エホバの証人が, 三位一体の教義に反する事例を示そうとして引用する文章である。エホバの証人は, 神が「唯一」であるとの記述に注目する。しかし, それが複合された唯一だと新約聖書が示している のに, 彼らは理解しようとはしない。 [*訳者註:Amplifired Textでは, ‥‥grouping of one Jehovahと訳出(申命記 6:4]

 クリスチャンとなる前のユダヤ人たちが, なぜ神の複合された唯一を把握しなかったか。 そのよい理由がある。それは, まだ示されていなかったからである。エホバの証人の場合は, 聖書の明らかにした真理が指導者によって証人の目から隠されてきた。

 「神」が唯一の「神」であることに同意すると証人に知らせましょう。 三つ組みの神々を信じていないことを, エホバの証人に知らせなさい。そしてエホバの証人の 推論を刺激するために少し質問をしなさい。‥‥「真の神」は, 同時に異なる場所で祈りを している人々に耳を傾けられるだろうか。神がそう望むなら, 神は同時に複数の人々に語りかける ことができただろうか。神は, 同時に, 複数の空間で, 実行できるだろうか。あなたは,
 仮定の質問 をしてみたいと証人に伝えなさい。 「仮に, 神ご自身が, 自ら地球に滞在されると決められたならば, そうするためには, 天を離れなけれ ばならないでしょう。或いは, 宇宙を支配するために, まだ天にとどまっているときに, 地上に, 滞在できるでしょうか」。(エホバの証人は答えようとしないだろう)。 続けて, 「私は『神』がそんなことをしなかったと同意させるために聞いているのではない。しかし, 神が望むなら, それができたと考えますか」。三位一体の正確な説明や定義をしようとしないで, 「神」の単一性は複合されたものかもしれないと, エホバの証人の心を開くように手を差し 伸べなさい。
 エホバの証人と次の文章を調べて読むよう
, 続けなさい。創世記 18:1-2, コリント第一 6:19, コロサイ 2:9, 黙示録 1:7-8。これらの項を見なさい。

ルカの福音書
ルカ 3:16

「ヨハネはみなに答えて言った。『私は水であなたがたにバブテスマを授けています。‥‥

その方は, あなたがたに聖霊と火とのバブテスマをお授けになります。』」
 マタイ
3:11の項を見なさい。

ルカ 16:22-24, 27-28

「さて
, やがてこじきは死に, み使いたちによってアブラハムの懐[の位置]に運ばれました。 また, 富んだ人も死んで葬られました。そして, ハデスの中で目を上げると, 自分は責め苦の うちにありましたが, はるか離れた所にアブラハムがおり, ラザロがその懐[の位置]にいるのが 見えました。それで, 彼は呼びかけて言いました。『父, アブラハムよ, わたしに憐れみをおかけ になり, ラザロを遣わして, その指の先を水に浸してわたしの舌を浸すようにさせてください。 わたしはこの燃えさかる火の中で苦もんしているからです。‥‥彼をわたしの父の家に遣わして ください。わたしには五人の兄弟がいますから。こうして彼が徹底的な証をし, 彼らもこの責め苦 の場所に入ることが, ないようにするのです』‥‥」。(新世界訳)。

 エホバの証人は, ハデスが墓に過ぎず, きたるべき復活に至る死の状態では, 無意識の状態にあると する組織の教えを信じている。しかし, 上述の聖句にあるイエスのことばは, そうした意識のある状態 を語るのであるから, ものみの塔協会はこうしたことばを否定する働きをしてきた。その箇所は, 譬え話, 或いは例示であると指摘し, この話の全てに純粋に象徴的な意味を当てはめる。

 ものみの塔の解釈によると, ラザロをイエスの弟子として, 富んだ人をユダヤ人の宗教指導者として, アブラハムを「エホバ神」として描く。各人の死は, 地上にいる間のそれぞれの集団の状態の変化を 表わす。富んだ人の責め苦を, 使徒の伝道によるユダヤ人宗教指導者の公の暴露として描く。 ものみの塔協会によると, イエスは本当の所, 16章の中で死の状態について語っていなかったことになる。

 通常, クリスチャンもまた, 富んだ人の話やラザロの話は, イエスの数多くの譬えの一つで あることに同意するだろう。しかし, その他の「主」の譬えを試みると, その全てが, 現実の生活の 情況に基づいた譬えであったことが明らかになる。例えば, 放蕩息子は, 金銭を浪費した後に家に 戻った。畑に埋められた宝を発見した人は, 再びそれを隠し畑を買う為に, 持ち物全てを売った。 息子の婚礼の宴に服を着せた王。外国に旅行し僕のところへ戻った僕の主人。葡萄園を作って他人 にそれを貸したが, 回収が困難であった人等。

 若者は, 実際に家を出て, 相続財産を浪費した。イエスは, 神の国に関係した事柄を描く為に聴衆が その環境に精通していることを利用した。実際, 人々は, 埋められた宝を見つけ出し, 婚礼の宴の服を 着たし, 外国に旅行する時には, 僕に預けて出かけた。葡萄園を貸したりした。
だからイエスは, 霊的な事柄を描写するために聞き手が, こうした状況に精通していることを利用された。 だから, もし富んだ人とラザロの話がその他のイエスの譬えに似たものであるのなら, 譬えは霊的な 事柄を描くために現実の状況を用いるはずである。人々は, 本当のところ, 死後, 意識のある状態 であるはずで, 実際に過去の人生を深く悔いて「責め苦のうち」にある人も居るはずである。 譬えが何を描写しているかに関係なく, イエスの語ったその他の話のように基本的な話は, 現実の生活から選ばれた筈である。

 聖書がイエスの慈悲と哀れみと愛について明らかにしているものを思い出して, 「神」が責め苦に ある人々を喜ぶ, 無慈悲で感情の無い怪物ではないことが分かる。もし, 本当に神を知れば, 私達は, 神が私達よりも心優しく愛が深いと悟らされる。死の状態に関するイエスの教えと神の優しさを 一致させられないのなら, 問題は神にあるのではなく, 寧ろ, 狭い理解力しか持たない私達の側にある。 「神」がソドムとゴモラに火と硫黄を降らそうと聞いた時, アブラハムも同じ問題に 直面した。アブラハムは「全世界をさばくお方は, 公義を行うべきではありませんか」 (創世記 18:25)と, 神に尋ねた。イエスの教えに狼狽させられた者は, 祈って神の 御旨を選び, 十分に神を信仰する助けを求めてアブラハムの模範に従うべきである。 (人間の理解を超える問題であっても)。

 しかし

, 聖書が平易に伸べていることを否定することが 解決にはならない。イエス・キリストは, かつて地上を歩まれた最も愛の深い人で, 憐れみ深い人 であるが, 死後の人々が直面する不快さについて, 甚だしく, 多くを語っていた。

「人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは, つまずきを与える者や不法を行なう者 たちをみな, 御国から取り集めて, 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて 歯ぎしりするのです。」(マタイ 13:41-42)。
 「だが, 主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を 行なう者たち。みな出て行きなさい』。神の国にアブラハムやイサクやヤコブや, すべての 預言者たちがはいっているのに, あなたがたは外に投げ出されることになったとき, そこで 泣き叫んだり, 歯ぎしりしたりするのです。」(ルカ 13:27-28)。

 「この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て, 正しい者の中から悪い者を えり分け, 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」 (マタイ 13:49-50)。

 「そこで, 王はしもべたちに, 『あれの手足を縛って, 外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて 歯ぎしりするのだ。』と言った。」(マタイ 22:13)。「そのしもべの主人は, 思いがけない 日の思わぬ時間に帰って来ます。そして, 彼をきびしく罰して, その報いを偽善者たちと同じ にするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」(マタイ 24:50-51)。

 「しもべの主人は, 思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして, 彼をきびしく罰して, 不忠実な者どもと同じめに会わせるに違いありません。主人の心を知りながら, その思いどうりに 用意もせず, 働きもしなかったしもべは, ひどくむち打たれます。しかし, 知らずにいたために, むち打たれるようなことをしたしもべは, 打たれても, 少しで済みます。すべて, 多く与えられた 者は多く求められ, 多く任された者は, 多く要求されます。」(ルカ 12:46-48)。

 「それで, この何の役にも立たない奴隷を外の闇に放り出しなさい。そこで[彼は]泣き悲しんで 歯ぎしりしたりするであろう。」(マタイ 25:30, 新世界訳)。「‥‥しかし, 人の子を裏切るような 人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうが, よかったのです。」(マタイ 26:24)。

「あなたにとっては, 片目で神の王国に入るほうが, 二つの目をつけてゲヘナに投げ込まれるよりは 良いのです。そこでは, うじは死なず, 火は消されないのです」。(マルコ 9:47-48, 新世界訳)。   

 「その日には歓び躍りなさい。ご覧なさい, 天においてあなた方の報いは大きいからです。 ‥‥しかし, あなた方, 富んだ人たちは災いです!あなた方は自分の慰めをすべて得ているからです。 いま満たされているあなた方は災いです!あなた方は飢えるようになるからです。 災いです!いま笑っているあなた方は。あなた方は嘆き, かつ泣き悲しむようになるからです。」 (ルカ 6:23-25, 新世界訳)。

 「さらに, わたしの友であるあなた方に言いますが, 体を殺しても, その後もう何もできない者たちを恐れてはなりません。しかし, だれを恐れるべきかをあなた方に 示しましょう。殺した後にゲヘナに投げ込む権威のある方を恐れなさい。そうです。あなた方に 言いますが, この方をこそ恐れなさい。」(ルカ 12:4-5, 新世界訳)。

 そして, イエスが年老いた使徒ヨハネに与えた黙示録では, 「主」の天使が語っている。
「野獣と
その像を崇拝して, 自分の額または手に印を受ける者がいれば, その者は, 憤りの杯に薄めずに 注がれた神の怒りのぶどう酒を飲むことになり, 聖なるみ使いたちの見るところで, また子羊の 見るところで, 火と硫黄による責め苦に遭わされるであろう。そして, 彼らの責め苦の煙は限りなく 永久に上り, 彼ら, すなわち, 野獣とその像を崇拝する者, まただれでもその名の印を受ける者には, 昼も夜も休みがない。」(啓示 14:9-11, 新世界訳)。
 エホバの証人にこう尋ねて終わりにしなさい。「もし, だれかがものみの塔の出版物を全く 読まないで, イエスのことばだけを読むなら, この問題では何を信じるだろうか。ものみの塔の 創立者ラッセル‘牧師’が19世紀の後半に現われ, 地獄のない教義を教える迄は, 聖書読者は何世紀 にも渉り何を信じていたのだろう」。

 「主」は隠喩を用いられた。暗闇, , 責め苦, 放り出し‥‥。しかし, 論点は明解である。不従順な 人類は死後, 幾つかの不快に直面することと, その運命から私達を救う為にイエスが「救い主」として 来ると, イエスは教えられた。

ルカ 22:19

 「また
, [イエス]はパンを取り, 感謝をささげてそれを裂き, それを彼らに与えて, こう言われた。 『これは, あなた方のために与えられるわたしの体を表わしています。わたしの記念としてこれを行ない つづけなさい』」。(新世界訳)。

 ものみの塔協会は, 1935年以降の新しい改宗者は, クリスチャン会衆(キリストの体)の一部には, 成らないし, その者は集会の中では「象徴物にあずかりません」と教えている。(『とこしえの命 に導く真理』80頁)。「これを行ないつづけなさい」と, ものみの塔の聖書自体が語っていても, 圧倒的大多数のエホバの証人は, それを行なわない。
 より詳しくは
, マタイ 26:27, 黙示録 7:9の項を 見なさい。

ルカ 23:43

 「イエスは彼に言われた。『まことに, あなたに告げます。あなたはきょう, わたしととも にパラダイスにいます。』」(Truly, I say to you, today you will be with me in Paradise.)。(邦訳:新改訳)

 上の聖句が, エホバの証人の『新世界訳聖書』の中で, どの様に訳されているか, 比べて 見なさい。「すると[イエス]は彼に言われた。『今日あなたに真実に言いますが, あなた はわたしと共にパラダイスにいるでしょう』」。(Truly I tell you today, you will be with me in Paradise.)。

 その違いに気が付きましたか。ちょっとした変更に過ぎないが, 非常に意味は, 深い。 ものみの塔の翻訳者はカンマを, 「今日」の前から「今日」の後に動かした。副詞「今日」 を文の後半部から前半部に移動している。十字架上の悔い改めた悪人が, ‘主’と共に 「楽園」にいるであろう時点を示している「今日」に代えて, 文章はただ単にイエスが, 語っている時点を示す為に「今日」を表わすように変えられている。

 エホバの証人の指導者が, 自分たちの教義に合わせる為に, 聖書を書き替えた例は他にもある。 十字架の上で「主」に向かい「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには, 私を思い出してください」(42節)と言った男はその日, キリストと共に楽園に行かなかった と教える。寧ろ, その男は死に際して滅ぼされ, 二千年の間, 全くどこにも存在せず, ついには 将来の千年王国の間のいずれかの時に「主」と共に楽園にいるであろうと主張する。死にかかって いる者に語ったイエスのことばを考えると, その教えをエホバの証人に教えるのは難しい。組織が 自分たちの聖書を作る時に, イエスのことばを変えた。 (少なくとも句読点を変えた)。そのことばは, 意味を変える。

 もし, あなたがこの点を証人に挑むなら, 証人は『新世界訳聖書−参照資料付き』1985年版)にある 43節の注釈を読んで, その変更を弁護しようとするだろう。「WHはギリシャ語本文の中で『今日』 に相当する前にカンマを打ち, 『今日』が『わたしと共にパラダイスにいる』 にかかるようにしているが, ギリシャ語大文字版写本の中でカンマは用いられていなかった。 この翻訳では, 文脈にそって, 『今日』に当たる単語の前のカンマを省いた訳し方をしている」。 しかし, エホバの証人の翻訳者が実際に言うべきことは, 「彼らの教義に沿って」であり, カンマを移動した。

 しかし, 彼らは文脈に注目するから, ルカの福音の残りの部分や他の三福音書に注目することは‥‥ 有益である。イエスは色んな場合に, 「真実に言う」や「真実にあなた方に言う」の表現を用いた (同一のギリシャ語は, tell」や「say」の両方に訳せる)。 そのギリシャ語が出現する別な箇所では, どの様にして新世界訳聖書翻訳委員会は, 同一の表現 に句読点を打ったのだろうか。全てのカンマは, どこに行ったのだろうか。

 それを発見する為には

, きわめて簡単な方法がある。新世界訳の為に1973年に出版された, ものみの塔協会の 『新世界訳聖書 総合語句索引』を示して語ってよいか, エホバの証人に尋ねなさい。『新世界訳聖書 総合語句索引』はアルファベット順に並んで いるから, 証人に「真実に」の語句に注目させなさい。「主」が四福音書で用いた「真実に」を 含む71の全ての文は勿論のこと, ルカの福音で「主」が同じ表現をした六つの聖句の便利な リストを見い出すだろう。章と節の番号に加えて, 語句辞典は各々の文にある「真実に」の すぐ後と前の語句を示している。そのリストにちょっと目を通してみる。ルカ23:43を除いて カンマが全て並べられている。この聖句は, 文章の前半に時間の要素を含ませる為に, 彼らが 他と異なる句読点を打った唯一の聖句である。‥‥ものみの塔の翻訳者が教団の教義に合わせる 為に聖句を変更した明白な証拠である。

 人が死んだ時に起こる事柄に関する詳しい議論は, 詩篇 146:3-4とルカ 16:22-28の項を見なさい。
 新世界訳の歪曲の更なる例は
, ローマ 14:7-9とヘブル 1:6は勿論のこと, 2, 「エホバの証人の 用いる聖書」を見なさい。 [翻訳者註:あるエホバの証人は, 『洞察』第一巻779-780, 『洞察』第二巻563-4, 676-677, 『聖書から論じる』426-427頁等からものみの塔と同様に訳出しているドイツ語のラムサ訳や5世紀の クレトニヤ写本やロザハム訳の話を持ち出すだろう。しかし, エホバの証人に問うていただきたい。 「イエスが, 言われたパラダイスは地上の楽園だったのですか。ヘブル1116節ではアブラハムは 【天の故郷にあこがれていた】と述べている」]

ルカ 24:36-39

 「彼らがこうした事について話していたところ, [イエス]ご自身が彼らの真ん中にお立ちになり, ‥‥しかし彼らはおびえ, また恐れ驚いていたので, 自分たちは霊を眺めているのだろうと思っ ていた。それで[イエス]は彼らに言われた。『なぜあなた方は騒ぐのですか。あなた方の心に疑い が起きるのはどうしてですか。わたしの手と足を見なさい。これはわたしです。わたしに触り, また見なさい。霊には, あなた方がわたしに見るような肉や骨はないのです。』」(新世界訳)。

 彼ら自身の聖書にあることばとは対照的に, ものみの塔の指導者は, 復活したイエスが霊者であり, 「イエス・キリストが, あがないの犠牲として永久にささげられた。肉の人間のからだは, 神に力に よって取り去られました。しかしそのことは, エルサレムの宮の祭壇の火によって行なわれたのでは ありません。犠牲にささげられたものの肉のからだは常に処理され, 取り除かれて腐敗を免れます」 と言う。(『神が偽ることのできない事柄』1966年出版。358頁)。 また, こうも言う。「復活の後, イエスはいつでも肉の体で現れたわけではありません。 (それは恐らく, ご自分が今では霊者となっていることを弟子たちの思いにはっきり悟らせるため であったのでしょう。)」。(『聖書から論じる』1985年出版。382頁)。

 明らかにエホバの証人の組織は, この件に関し聖書が教える逆のことを我々に信じさせた。キリスト の体は復活せず, 取り去られて霊者になったと組織は主張する。それが真実なら, ルカ 24:36-39 あるイエスのことばは嘘になる。イエスの手と足に釘の傷跡を見せることも, 肉と骨を感じるよう求めることも, 弟子たちを騙す為の巧妙な策略になるだろう。 上の議論に加えて, イエスの体に起こるであろうことをイエスが初めに予告した聖句を読むように, エホバの証人に頼みなさい。「イエスは答えて彼らに言われた。『この神殿を壊してみなさい。 そうしたら, わたしは三日でそれを立てます』。それで, ユダヤ人たちは言った。『この神殿は46 もかけて建てられたのに, それを三日で立てるというのか』。しかし, [イエス]はご自分の体の 神殿について語っておられたのであった」。(ヨハネ 2:19-21, 新世界訳)。

 エホバの証人に話す

べき選択がある。イエスが自分の体の復活について語ったことを信じるのか。ものみの塔が言って いることを信じるのか。

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