エホバの証人に聖句から聖句に答える
 新約篇

ローマ 8:8-9

 「肉にある者は神を喜ばせることができません。けれども, もし神の御霊があなたがたのうちに 住んでおられるなら, あなたがたは肉の中にではなく, 御霊の中にいるのです。キリストの御霊 を持たない人は, キリストのものではありません。」
 「神」の子として新たに生まれる必要があるとエホバの証人に示すには, この箇所は非常に役に 立つ。彼らは, 忙しく働くことによって「神」に喜ばれる希望を持つ。しかし, どんなに多くの よい働きをするかに関係なく, エホバの証人は, まだ肉の内にあり, 「神を喜ばせる」ことは できない。
 エホバの証人と一緒に1節の始めから8章全部を読みなさい。17節以前の箇所が 特によい。その際に, 役に立つから, ヨハネ 3:3の項目を見なさい。

ローマ 8:26-27

 「御霊も同じようにして, 弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどのように祈ったら よいかをわからないのですが, 御霊ご自身が, 言いようもない深いうめきによって, 私たちの ためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は, 御霊の思いが何かをよく知って おられます。なぜなら, 御霊は, 神のみこころに従って, 聖徒のためにとりなしをしてくださる からです。」

 エホバの証人の指導者は, この箇所をすっとばしたり, 無視したりするのがよいと思うから, エホバの証人は組織された「聖書研究」では稀にしかこの箇所に触れない。‘それ’(人格を 持たない活動する力)としての「聖霊」の概念とは全く一致しない。
 この箇所を一緒に読むよう, エホバの証人を誘い, 鋭い質問をしなさい。‘力’(活動する力) に私達の仲裁が出来るのか。‘力’(活動する力)が心を持っているのか。エホバの証人の 新世界訳は, 「聖霊」が「わたしたちのために願いでてくれる」(26節)と言っている。 人格を持たない力が, 人々の為に願い出られるのか。
 証人が「聖霊」の人格と神性をもっと論じる手助けと成る為に, ヨハネ 16:13, 使徒 5:3-4, コリント第一 6:19も見るように 誘いなさい(これらの項を見なさい)。

ローマ 14:7-9

 「私たちの中でだれひとりとして, 自分のために生きている者はなく, また自分のために死ぬ者 もありません。もし生きるなら, 主のために生き, もし死ぬなら, 主のために死ぬのです。 ですから, 生きるにしても, 死ぬにしても, 私たちは主のものです。キリストは, 死んだ人に とっても, 生きている人にとっても, その主となるために, 死んで, また生きられたのです。」
 新世界訳は, ものみの塔の教義に, 合わせる為に書き替えられた数多くの聖句を, 含んでいる歪 曲された翻訳であることを説明するとき, 証拠に上げる素晴らしい見本である。
 上述の版やその他の事実上, あらゆる翻訳を読むと, この箇所は生と死の両方におけるキリストとの関係を示す。 9節は先行する7節と8節と論理的な関係にある。 今, ここでどの様にして, ものみの塔の翻訳者が彼らの聖書の中で, この聖句を, どの様に変更した か注意しなさい。
 「事実, わたしたちはだれ一人, ただ自分に関してのみ生きるのではありません。また, だれ一人, ただ自分に関してのみ死ぬのでもありません。わたしたちは, 生きるならエホバに対して生き, 死ぬならエホバに対して死ぬからです。それゆえ, 生きるにしても死ぬにしても, わたしたちは エホバのものです。死んだ者にも生きている者にも主となること, このためにキリストは死に, そして生き返ったからです。」(ローマ 14:7-9, 新世界訳)。
 同じ, ギリシャ語であるキュリオスを7節と8節では「エホバ」と翻訳し, 9節では「主」と翻訳 することによって, ものみの塔は論理的に不合理な推論を造り出した。もはや9節は先行する考え を論理的に引き継がない。エホバの証人の指導者が「エホバ」は「父なる神」だけの名であり, イエス・キリストは被造物(天使)にすぎないと教えていることを思い出せば, 私達は彼らが 全体的に, この箇所の考え方を変更したことが分かる。彼らの翻訳では, あなたが8節から9節 まで読んだように議論の目的が, 「神」から創造物の一人に変えられている。その為に9節は, もはや先行する文に論理的に, つながって来ない。ものみの塔協会のこの箇所の翻訳のどこが 間違っているかを知ろうとして, あなたがギリシャ語の学者になる必要はない。

 エホバの証人の聖書のローマ 14:7-9では, 二つの異なる人格が語られていることが明らかになる。 ものみの塔の『王国行間逐語訳聖書』を一目見れば, キュリオス(「主」)が三つの聖句すべてに 出現することが示されている。一致させる為に, 英語訳は, ここの論議の隅から 隅まで「主」を用いてそれを反映させるべきである。

 しかし, 何故, ものみの塔の翻訳者は, 三つの聖句全てに於いて, キュリオスを「エホバ」と訳さなかった のだろう。それはこうなるからだ。「事実, わたしたちはだれ一人, ただ自分に関してのみ生きる のではありません。また, だれ一人, ただ自分に関してのみ死ぬのでもありません。わたしたちは, 生きるならエホバに対して生き, 死ぬならエホバに対して死ぬからです。それゆえ, 生きるにして も死ぬにしても, わたしたちはエホバのものです。死んだ者にも生きている者にもエホバとなること, このためにキリストは死に, そして生き返ったからです」。‥‥ものみの塔の神学からは全面的 に受け入れられない考えである。

 他の多くの場合にも, 新世界訳は組織の教義に合わせる為に聖句を歪曲する。ものみの塔版の聖書 と呼ばれるのではなく, それは曲解版聖書と呼ばれるべきである。
 「エホバの証人の用いる聖書」も見なさい。


 

コリント第一 1:10

 「さて, 兄弟たち。私は, 私たちの主イエス・キリストの御名によって, あなたがたにお願いします。 どうか, みなが一致して, 仲間割れすることなく, 同じ心, 同じ判断を完全に保ってください。」
 ものみの塔協会は, この節を外部の人にとっては信じられないくらい, 信者にがんじがらめの服従を 押しつける為に使う。組織外の下にある摩擦よりも, 寧ろ, 唯一のクリスチャンである証拠として, 実際に組織への全体的な服従を, 証人は自慢する。というのは, 彼らのみが「すべての語るところは 一致して」, 「同じ思い, 同じ考え方でしっかりと固く結ばれて(いる)」(コリント第一 1:10, 新世界訳)からである。

 彼らは「人々が出会う宗教的な文書を」(「Watchtower」1984年5月1日号31頁英文 )を受け取ったり 読んだりしてはならない, 「エホバの組織に対する厳しい批判」(『ものみの塔』 1984年10月1日号28頁)に耳を傾けない, 「任命された長老たちの物事の扱い方を批判したりする ようなこと」(『ものみの塔』1984年4月15日号16頁)をしないよう, はっきりと指示されている。 証人は, 「独立的な考え方を避けなさい‥‥目に見える神の組織が与える助言を疑問視する ことです」, 「独立的な考え方との闘い」をも教えられている(『ものみの塔』1983年 4月15日号22, 27頁 )。

 しかし, コリント人への手紙の中で, 使徒パウロは分裂した見方に 終始するだけではなく, 服従を疑わずに(人間味のないロボットの様に)完全に何人かの人間の 指導者に服従しなければならないと言ったのだろうか。しかも苦しみながら。パウロのローマ人 への手紙では, 初代教会には個人の自由の為の沢山の空間があったことを明示している。

 「何でも食べてよいと信じている人もいますが, 弱い人は野菜よりほかには食べません。食べる人 は食べない人を侮ってはいけないし, 食べない人も食べる人をさばいてはなりません。神がその人 をも受け入れてくださったからです。‥‥ある日を, 他の日に比べて, 大事だと考える人もいます が, どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。」 (ローマ 14:2-5)。
 クリスチャンとして, 私達は, 確かに信仰を基盤にして結び合っているべきである。私達は, 全て「主」なるキリストに従い, 救い主なるキリストによりて, 共に結ばれている。しかし, 多様性の余地もある。別な意見を持つ者とは別個の集会を必要とするかの問題では一致しない かもしれない。例えば, 肉食派と菜食主義者にとっては, 一緒に宴会を催すことは困難だろう。 特別の「祝日」を守らない者は, その祝日の祝いを催す他人の礼拝に正式に出席しないだろう。 しかし, そうした違いがキリストの内に兄弟, 姉妹として結びつける愛の絆を壊すことは許される はずがない。たとえ, もし兄弟がそうした事柄に違和感を感じても, 私達は「信仰の弱い人を 受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません」(ローマ 14:1)。それががんじがらめの 服従による一致ではなく, 愛であり, 「結合の完全なきずな」(コロサイ 3:14, 新世界訳) であることを, エホバの証人に指摘しなさい。

 証人とこの問題を一緒に議論する上で, クリスチャンは, 教会を悩ませる分裂を残念と思うと自分流 に認めても良い。その幾つかの理由は, 地理的な隔絶と言語的な障壁の為, 異なる地域性の中で, 過去何世紀にも渉り発達した伝統の故である。その他, 等しく聖書を尊重し, キリストが「主」であることを受け入れるが, 聖書が僅かにしか語っていない, 或いは, 全く語って いない分野で, 異なる結論に達した者同士には偽りのない意見の相違がある為である。しかし, その解決は, 世界に向かって立ち上がって大声で叫んでいる一つの組織の指導者によるのではない。 「誰もが私たちに賛成するべきである。そうすれば真のクリスチャンとして『ひとつの心』 にまとまるだろう」。何度もこのやりかたが試みられたが, 更に深刻な分裂に導いただけである。 事実, 「唯一の真のクリスチャン」(大勢のなかで唯一のものであるものみの塔協会)と主張する 無数の排他的な宗教集団がある。あなた方に賛成する者を探し出して, この世界の残りの者を 排斥することは, 真のクリスチャンの絆への道筋ではない。

 エホバの証人は, ものみの塔協会が, 取り分け聖書の警告に違反している問題に注目するよう, 問うべきである。 祝日, 祭日の件である。前に記したように, ローマ 14:5-6は, 個々のクリスチャンに対し, 他のクリスチャンが守らないように選んでもよい特別な日を守る許しを与えている。敢えて, クリスマスやイースター祭や感謝祭(母の日さえも)を祝うエホバの証人は, すぐに審理委員会 の審問にかけられ排斥される。友人や家族から全面的に遮断される。

 エホバの証人が持つものみの塔からの指示への一致に関してより深く議論するには, マタイ 24:45, 黙示録 19:1を 見なさい。

コリント第一 6:19

 「あなた方の体が, あなた方の内にある聖霊の神殿であることを知らないとでもいうのですか。 その[聖霊]はあなた方が神から受けているものです。」(新世界訳)。

 この箇所は, 「聖霊」の神性を示すときにエホバの証人を相手にして働く為の論拠となる一節である。

 聖書は, 古代エルサレムの真の神の神殿の他にも数多くの神殿を記している。例えば, ダゴンの神殿(サムエル記第一 5:2), ゼウスの神殿(使徒 14:13), アルテミスの神殿 (使徒 19:35)など。それぞれの神殿は, だれの神殿であったのか。真の神のものか, 偽りの神 のものか。しかし, 聖書は, それぞれのクリスチャンの肉の体が神殿になるとも記している。 誰の神殿だろう。「聖霊」の神殿(コリント第一 6:19)である。

 「聖霊」を人格(文字通り「神」自身)として認めないで, ものみの塔の追随者は, この聖書の 教え(「神」は個人的にそれぞれの信徒の内に示すようになる)を, 把握できないことを知って いる。彼ら自身の『王国行間逐語訳聖書』の行間でさえ, コリント第一 6:19で「あなたの体, あなたの中に神の住まい, 聖霊がおられます」と言及している。 明らかに, これらの言葉は, 聖霊が神性を持ち, クリスチャンの内に宿ると示している。この
 「神」との素晴らしく, 親密な関係の約束は, こう言ったときにイエスによって与えられた。 「わたしは父にお願いします。そうすれば, 父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えに なります。その助け主がいつまでもあなたがたと, ともにおられる ためです。その方は, 真理の御霊です。‥‥しかし, あなたがたはその方を知っています。 その方はあなたがたとともに住み, あなたがたのうちにおられるからです」。(ヨハネ 14:16, 17)。 この個人的な方法でエホバの証人が「神」を知るに至ることができるように祈りなさい。
 ヨハネ 16:13, 使徒 5:3-4も見なさい。

コリント第一 8:6 

 「私たちには, 父なる唯一の神がおられるだけで, すべてのものはこの神から出ており, 私たちも この神のために存在しているのです。また, 唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで, すべてのものはこの主によって存在し, 私たちもこの主によって存在するのです。」
 「唯一の神がいる」‥‥このことばを当てはめて, エホバの証人は語る。「そしてその人は 誰ですか。『御父』です。ですから, イエスは『神』ではないのです」。しかし, その理屈には 欠陥がある。ここで彼を止めさせてはならない。同じ理屈を残りの節にも当てはめさせなさい。 エホバの証人はこう言わざるを得ない。「唯一の『主』がいる。誰でしょう。イエス・キリスト です。ですから, 『御父』は『主』ではありません」。勿論, エホバの証人はその結論に, 辿り着こうとしない。何故なら, 彼はいつもエホバを「主」として語るのだから。エホバの証人に, 他の箇所では, 支持できないことを指摘しなさい。後半部で「御父」が「主」であることを 除外せずに, 前半部でイエスが「神」であることを, 除外することはできない。

 聖書は, 実質的に互換性がある言葉として「神」と「主」を用いていることは事実である。 様々の偽りの神たちは, 「神々」とも, 「主(lords )」とも呼ばれる。「御父」は 「神」とも, 「主」とも呼ばれている。「御子」もその両方のことばで呼ばれる。 使徒トマスは, イエスを「私の主。私の神」(ヨハネ 20:28)と呼んだ。ものみの塔の 指導者は, コリント第一 8:6に於いて, 組織の弟子たちにありえない全く対照的なことを 教えた。
 イザヤ 9:6, ヨハネ 1:1, ヨハネ 20:28, コロサイ 2:9, 黙示録 1:7-8の項も見なさい。

コリント第一 11:3

 「あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらはキリストであり, 女のかしらは男であり, キリストのかしらは神です」。  エホバの証人はこの聖句をも, キリストの神性を否定しようとして用いる。しかし, この箇所は, キリストは, 「神」が創造された天使であったとするものみの塔の教義を支持してはいない。 頭の地位のあてはめの原則を示しているだけである。

 家庭の中では, 女のかしらは男である‥‥, 女は男よりも生活面で劣った形態であると意味しているのか。女はどこか男より 下等なのか。そんなことは全くない。誰かがかしらとして働くとする「神」のとりきめにすぎない。「神」はその役目を男に定めた。 「神の性質」の範囲内で, 「御父」は「御子」の完全な神性を貶めることなく, 頭として働く。
 イザヤ 9:6, ヨハネ 1:1, ヨハネ 20:28, コロサイ 2:9, 黙示録 1:7-8の項も見なさい。

コロサイ 1:15

 「御子は, 見えない神のかたちであり, 造られたすべてのものより先に生まれた方です。」 (新改訳)。
 イエス・キリストは「神」ではなく, 寧ろ, 「神」が創造した最初の天使である「証拠」として エホバの証人は, この聖句を引用する。しかし, 聖書の中では, 「先に生まれた方」という ことばは, 最初に生まれたり, 最初に創造された者を必然的に意味しているのだろうか。 全く違う。聖書ではそのことばは, 実際に生まれた順序ではなく, 寧ろ重要性や階級の順位を表わす ことばとして, 度々用いられる。

 例えば, 詩篇 89:27に目を向けるよう, 証人に頼んでみなさい。この聖句はダビデ王について語って おり, 彼はエッサイの末子, 最後に生まれた息子であった。文字通り最初に生まれた子供であろう 筈はない。しかし, 詩篇の中で「神」が, ダビデについて語っている事柄に注意しなさい。 「そして, わたし自身が彼を初子として置き‥‥」。(新世界訳)。 明らかに, 「神」は, ダビデの誕生の順番を逆転させなかった。「神」は生まれた順番について 語ってはいなかった。詩篇の意味するところは, ダビデ王はほかの者より高い地位に, 高められた のである。

 コロサイ 1:15でキリストについて語るとき, そのことばがそうした意味で使われていることを示す 為に, 文脈に注目するよう証人に頼みなさい。特に18節を指摘しなさい。そこではキリストを 「かしら」, 「初子」として認識しており, 「造られたすべてのものより先に生まれた方」 であると述べている。

 コロサイ書のそこの箇所はあなたが正しいけれども, 2:9を読んでキリスト の神性に関する論点に決着を付けなさい。「キリストのうちにこそ, 神の満ち満ちたご性質が形を とって宿っています」。
 イザヤ 9:6, ダニエル 10:13, 21; 12:1, ヨハネ 1:1, ヨハネ 20:28, 黙示録 1:7-8, その他索引に挙げた他の聖句の項も見なさい。

コロサイ 2:9

 「キリストのうちにこそ, 神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」
 イエス・キリストが「神」である豊富な聖書の根拠をエホバの証人に与えるときには, この文をはっきり と含ませるべきである。他の数多くの翻訳で読むことは, 十分な助けとなるだろう。「キリストの内 にこそ神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています」。(新改訳)。

 新世界訳は, 次のように訳してこの聖句の使信を希釈しようとする。「というのは, [キリスト]の 中にこそ, 神の特質の満ち満ちたさまが形を取って余すところなく宿っているからです」。しかし, 『新世界訳聖書−参照資料付き』(脚注)と『王国行間逐語訳聖書』の両方とも, そのギリシャ語を 「神の性質」(文字通り「神性」を意味する)と訳して, 認めている。
 イザヤ 9:6, ヨハネ 1:1, ヨハネ 20:28, コロサイ 2:9, 黙示録 1:7-8, その他索引に上げた他の聖句の項も見なさい。

テモテ第二 3:16-17

 「聖書全体は神の霊感を受けたもので, 教え, 戒め, 物事を正し, 義にそって訓育するのに有益です。 それは, 神の人が十分な能力を備え, あらゆる良い業に対して全く整えられた者となるためです。」 (新世界訳)。
 エホバの証人は, この文章に, 全面的に同意するだろう。事実, 彼らは, 極めて頻繁にこの聖句を 引用する。しかし, 実践において彼らはその後半部を実際には信じていない。神の人が組織の書籍と 雑誌を持たない限り, 十分な能力を備え, 全く整えられた者になるとは信じていない。聖書だけでは 不十分なのである。

 私達クリスチャンもクリスチャンの雑誌や書籍, 語句辞典, 聖書辞典などを持っ ている。その文書が有力であり, 有益であると知っている。 しかし, 福音のたよりを理解したり, 神の恩恵に与ったり, そして永遠の命を得るためにそうした備えが必要だとは, 思っていない。 実際に, 聖書通読だけを通して人達が, イエス・キリストとの救いの関係に入ってくる証しが. しばしば語られる。

 一方, エホバの証人は救われる為には, 組織の文献を持たなければならないと 信じている。組織の『聖書研究シリーズ』を評して『ものみの塔』1910年9月15日号298頁英文は こう述べている。

 「人々は聖書だけで, 聖書を研究して神の計画を知ることができないことが 分かっただけではない。脇に『聖書研究』を置くなら, ‥‥そして聖書に一人で向かい,   彼は十年間聖書を理解していたとしても, 我々の経験では, 2年以内に彼は暗闇に落ちる。一方, もし彼が関係として『聖書研究』を読むだけで, そして聖書の1ページさえ, 読まなくとも, 彼は2年後には光の中にいるだろう。」
 組織の創設者, C・T・ラッセルが, 1910年の昔に, 言葉で表わしている考えを今日のエホバの証人は 捨て去っているだろうか。『ものみの塔』1982年3月1日号27頁にある最近の記述の引用と比較しなさい。  
 「しかし, エホバ神は, あらゆる国にいるクリスチャンが聖書を理解し, それを自分たちの生活に 正しく適応するための助けとして, 霊によって油そそがれた人々から成るご自分の見える組織, つまりご自分の「忠実で思慮深い奴隷」を備えてくださいました。神が用いておられるこの伝達の 経路と連絡を保たなければ, どれほど多く聖書を読むとしても, わたしたちは命に至る道を進むこと はできません。」
 考え方は同じである。エホバの証人の目には, 霊感を受けた聖書だけでは「十分な能力を備え, 全く 整えられた者」(テモテ第二 3:16-17)には, 成れない。

 もし, エホバの証人が, ものみの塔協会の 雑誌や書籍を持たずに一人で聖書を読むなら, どうなるか。元信者について次の記述をしたとき, 組織はこの件に関し驚くべき告白をした。 

 「一人であるいは小さなグループに分かれて家庭で聖書だけを読んでいれば十分だ, と彼らは言います。 ところが不思議なことに, 彼らはそのような‘聖書朗読’を通してキリスト教世界の憎職者の著わした 百年の聖書注釈書に教えられている背教した教理に逆戻りし‥‥」。『ものみの塔』1981年12月15日 号24頁。
 そして, ものみの塔協会自体, エホバの証人が一人で聖書を読み始めると, ものみの塔の 教理信仰を止めてクリスチャンの教会で教える教義に戻るのだと, 認めている。誰の教義だろう。 真に聖書に基づく人の教義だろうか。組織自体の自白によって明らかになる。

ヘブル 1:6

 「しかし, その初子を人の住む地に再び導き入れる際にはこう言われるのです。『そして神のみ使い たちはみな彼に礼拝をささげよ』」。 (新世界訳英語版, 1950,1951,1961,1963,1970年版)。 [訳者注:1973年以前の『新世界訳聖書』邦訳版は, 存在しない。英文からの私訳]
 上述したものみ塔の聖書が印刷されたとき, イエス・キリストの礼拝についての言及は, どうにかして監察官の外科手術 を逃れた。イエスを崇拝するその他の記述は, 残されたこの箇所を除いて新世界訳から取り除かれた。 しかしそんなに, 昔ではない, 1971年版を皮切りに, その後の版は「そして神のみ使いたちは, みな彼に敬意をささげよ」と読み替えられた。

 この聖句の文脈は, もっとも重要である。 ヘブル1章全体は, 天使のような創造物に勝るイエス・キリストの卓越性を示して, 天使と イエス・キリストを対比させる為に費や されている。しかし, ものみの塔協会は, イエス・キリストが御使いであると教えている。 イエスを礼拝するという考えを取り去る為に, ものみの塔協会が6節を変更したことは疑問の 余地がない。

 ここのギリシャ語の原語はプロスクネォーである。それは文脈, 或いは, (この場合には) 翻訳者の偏見によって, 適当に「崇拝」或いは「敬意」のどちらかに訳される。 『王国行間逐語訳』の啓示 22:8-9に目を向けるようにエホバの証人を誘いなさい。そこでは 同じプロスクネォーが原文に, 用いられている。そこでは使徒ヨハネが語っている。「私は ‥‥天使の足下にひれ伏して崇拝(プロスクネォー)しようとした。‥‥しかし, 彼は私に言う, 『気をつけなさい。そうしてはなりません』。‥‥「神」を崇拝(プロスクネォー)しなさい」。 天使が受け入れを拒否した崇拝(worship )も, ヨハネに神に捧げるように教えた崇拝(worship ) も, ヘブル 1:6で「神」が「神の子」であるイエスに捧げるように命じた同一のプロスクネォー であることをエホバの証人に指摘しなさい。故に, 御子は確かに天使ではない。

 「御父」に捧げられる崇拝と同じ崇拝の栄誉を, 御子にも与えることは相応しいことか。その質問 に対してヨハネ 5:23に答えさせよう。「それは, すべての者が, 『父』を尊ぶと同じように子を も尊ぶためです。子を尊ばない者は, それを遣わされた父を尊んでいません」。 (新世界訳)。 

 キリストの神性とキリストを崇拝する妥当性についてのさらに詳しい情報は, イザヤ 9:6, ダニエル 10:13, 21; 12:1, ヨハネ 1:1, ヨハネ 20:28, 索引にあるその他の聖句の項を見なさい。


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