閉ざされた心を開く

第6章 恐れからは苦しみだけが……

 エホバの証人が家の人に手渡す出版物には神の愛が説かれていません。ヒトラーと挨拶をしているカトリックの聖職者の写真、サタンの組織の描写、恐怖、裁き、世界の滅びなどを視覚に訴えるしかたで描いています。エホバの組織とエホバの民は悪魔と一緒にならないという考えが前提です。ほかの宗教は悪魔であって、ものみの塔は悪魔に毒されていないという信頼を得ようとしています。

次の論点を自分のことばで証人と話してみてください。

ヨハネ第一4:18には愛には恐れがないと書かれています。完全な愛は恐れを取り除きます。恐れはどこから生まれますか。
→人間の不従順です
人間は恐れていたから神から隠れたのでしょうか。
→そのため人間は神との関係を失いました。神は恐れと不従順からアダムを園から追放しました。恐れと愛は共存できません。

  聖書には神は愛であると書かれていますか。ヨハネ第一4:18では神が愛を用いると書かれています。また、神の愛は恐れを取り除きます。ものみの塔は神の霊感を受けていないのでは……。認めますか。(会話を止めて答えを待つ)。
  ものみの塔は神の霊感を受けていないのですから、理屈の上では愛の霊感を受けていないのですね。
愛がないところには何がありますか。→ 恐れがあります

考えてもらう事柄
・神は愛のない、神の霊感を受けていない組織を用いられますか。
・神の霊感を受けていない組織の目的は何ですか。
・神はあなたに何を望んでいますか。愛ですか。恐れですか。

 エホバの証人は組織を擁護するために屁理屈を援用します。それを忘れてはなりません。
 証人は自分で考える能力を失いました。答えはすべてものみの塔の出版物から前もって与えられています。考えてから自分の結論を出すことは禁じられています。
また、ものみの塔の組織はエホバが有している女性的な組織だと信じるよう教えられています。母親であると信じるよう教えられています。つまり母親を守っているのです(「ものみの塔」1995/11/1 P.25)。
 恐れはこらしめとか、処罰とか刑罰の形で苦痛をもたらします。カルトは信者に対してそれらの苦痛を与えます。それがカルトの特徴です。反面、愛は恐れを取り除きます。愛は人々をとがめることを目的にしていないからです。

神がみ子を世に遣わされたのは世をさばくためではなく、み子によってこの世が救われるためである(ヨハネ3:17)

 愛は決して見捨てることはありません。神は決して見捨てません。
「エホバの証人の心には届かない」と思う人がいます。それでは神の力と神の愛を過小評価しています。「信ずる者には、どんなことでもできる」からです(マルコ9:23)。ほかの手段が失敗しても愛は堅固なままです。愛には決して失敗はありません。
  本当のところ、カルトは決して約束を果たしません。信者は行いをしなければならないのだし、神の好みにかなうためには行いをします。カルトには満足はありません。「神の好みにかなう」ためにと、常に行いを命じます。ものみの塔では「信仰」は全体的な従順さの度合いで定義されます。
  カルトの指導者には決して満足はありません。なお一層の信仰を追い求めてプレッシャーを加え続けます。老いたり、病に伏せるなら、結局、信者を落こぼれにしれます。本当の信仰が不足しているとき、神はどう対応するでしょうか。恐れや落ちこぼれがあっても神は決して見捨てません。

 パウロは「愛を追い求めなさい」と書いています(コリント第一14:1)。パウロは、信徒に対しては、信仰を追い求めなさいとは呼びかけませんでした。愛は神の「言語」であり、神に一体化します。恐れはカルトに一体化します。
 ものみの塔のようなカルトは、その霊感を受けていない解釈から外れて神を追い求めるようにとは信者に勧めません。信者に恐れを持たせ、「真理」にふたをし、カルトの組織が成功をおさめる限り、神が望んでいる神と信徒との関係は決して築けません。

 神は失敗をする者を受け入れ、無条件に愛する唯一者である――これが良いたよりです。愛は決して見捨てないからです。


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