閉ざされた心を開く

第5章 愛によって鍛えられたたより

 愛を与えることが愛の目的ではありません。神の愛を得るためには何が必要なんてどこにも書かれてません。ヨハネ3:16には神が世を愛す理由としての必要条件は書かれてません。「神はそのひとり子を賜ったほどにこの世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで永遠の命を得るためである」。ここでは神が世を愛する必要条件は書かれていません。人間には罪があるから失格だとは書かれていません。
  創世記2:18において、神は「人がひとりでいることは良くない」と言われた。聖書に書かれている最初の人間の感情は、「連れ合いが欲しい」でした。愛があればこそ家庭が築かれます。神が創造したものすべては一つの目的があって造られました。夫婦は家庭の愛のために設計されました。
  経験上、愛には喜び、個人的な達成感、愛情行為のような感情などを伴うことが分かります。愛そのものには感情が付きもので、愛が無くなると痛みを感じます。「人がひとりでいることは良くない」のですから、親密にしていた誰かがいなくなると、その人に与えた愛はある意味で、空虚になります。愛には定住する場所が求められます。「人がひとりでいることは良くない」からです。
  生身の人間が神の存在を表現するとしたら、どうなるでしょうか。「愛」とは何者なのでしょうか。
  出エジプト記の中で神はモーセに説いています。「しかし、あなたはわたしの顔を見ることはできない。わたしを見て、なお生きている人はいないからである」(出エジプト記33:20)。思い出しなさい――神は愛なのです。神の栄光の中に神を見るなら、私たちの身体は消えなければならない。著しい悲しみ、あるいは異常な喜びを味わうとき、愛の情緒をとうてい抑えられるものではありません。そこに愛そのものが存在していることを想像しなさい。
  私たちの霊は神の存在を十分に経験するように設計されています。イエスは次のように説いています。「わたしの父の家にはすまいがたくさんある。もしなかったならばわたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しておくのだから。そして行って場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたをおらせるためである」(ヨハネ14:2、3)。神の愛(「主」、イエス)を身に付ける者には住まいが用意されています。
  愛は人間の衣をかぶってやってきます。心に限界があるとしても、神は何者であるかを理解します。イエスは次のように説いています。「わたしを見た者は神を見たのです」(ヨハネ14:9)。イエスが地上で伝道されている時、愛が何をしたかを見てみましょう。愛は病弱な人をいやしました。愛は盲人の目を開きました。足が不自由だった人が歩けるようにしました。死人が甦りました。愛は命を与えます。「父よ、彼らをお許しください。彼らはなにをしているか、分からずにいるのです」(ルカ23:34)。悪人が支配していても、愛は許します。愛はそういうものです。愛はそれに値しない者に対しても、永遠に許し、慈悲と恵みを施します。

 愛のたよりの威力がいかに強いかがお分かりですか。愛は神が含まれていないなら一致を崩壊させます。カルトは信者からそのたよりを遠ざけます。カルトがいかに統制しても神の愛はそれを無力にし、カルトの収益を減少させ、一致を低下させてしまいます。エホバの証人にあたえられるべきはこの愛のたよりです。神の愛はどれほど強いのでしょうか。思い出していただきたい。神はバベルの塔の中にあった、一致した社会を壊しました。神は人間の言語を異なる複数の言語にしました。「異なるものにする」のヘブライ語は混合の意味があります。ほかに溢水の意味があります。主は次のように言われました。「さあ、われわれは下って行ってもそこで彼らの言語を乱し、互いに言葉が通じないようにしよう」(創世記11:7)
  神はどこにも現われます。神が溢れることで逆の作用が生じます。バベルの塔にいた者は地上のあらゆる所に散りました。神の溢れる存在は人の言語を混合したしただけではなく、人間の一致を徐々に解消したのです。根気強く、親切心を示して神の愛を広める理由はほかにもあります。神の性格の第一の特質であり、それは神の愛で見い出せる特質です(コリント第一13章)。

証し活動の基礎

 ほかのカルトと同様に、エホバの証人は書籍の研究や雑誌の読み込みに多くの時間を費やしています。個人的にエホバの証人の報告を読んだところ、1,000頁のものみの塔の出版物を読むとしたら、聖書は一頁しか読んでません。なぜものみの塔を権威者としてこだわるかには訳があります。
  欧米ではエホバの証人の70%から80%は元はカトリックか元福音派のクリスチャンらしい。信じるものをすでに知っている時にチャンスが訪れます。エホバの証人は、説教する相手はものみの塔を脱会させようとしていると承知しています。ここで闘争が始まります。エホバの証人と聖書の論争をしないよう、お勧めします。
  大勢の人たちがどうしたら証人を打ち負かせるか私に尋ねてきましたが、 次に証人に証しする時に起こることをわたしの個人的な経験から例示します。

(1) エホバの証人は脅かされていると感じると異常なほど怒ります。
  27年のベテランのエホバの証人に証しをしました。私に電話番号を渡してくれたので「聖書研究」を続けられました。組織が見る必要がないと言っていた一冊の本の感想を紙に書きました。その本のタイトルの頁には「ものみの塔聖書冊子協会」と書かれていました。数日してその証人がわたしの自宅にきた時にその本を見せたら非常に怒ってました。
キーポイント:防御の一手段として怒りが使われます。次のどちらかの反応が見られます――闘うか、消えてしまうかです。怒りは恐怖心に基づいています。私は善意と忍耐を選びました。怒りを覚えた証人は、ものみの塔がその証人に嘘をついたなと、感じたのでしょう。証人は置換された怒りを表していました。このような場面では、このような反応はよくありません。ていねいに柔らかく答えるように(箴言15:1)。証人と別れたら祈るように。

(2) 証人は罠にはめられたと思うとテーマを変えます。1940年代からずっとものみの塔にいる証人と会ったことがあります。十四万四千人の一人だと公言していました。歴史上、ものみの塔に起きた出来事を尋ねましたところ、クリスマスの祝いをするのか、問いかけてきました。その話し合いは何の意味もありません。
  エホバの証人は不快に感じるとテーマを変えます。本題からそれないように。証人が用意をしていなかったか、つっこまれたくないテーマだと分かります。この戦術は本題から外れて証人にとって心地よいテーマに話題を移すために使われます。まず本題に戻してからこう言います。「どうしてこのテーマに興味がないのですか」。

(3) エホバの証人はある瞬間から態度を変える場合があります。わたしの家で長老と会いました。わたしも妻も証人も、友好的な雰囲気でした。前の週にわたしが出した質問を問いました。その長老は何の質問だろうと言いました。ものみの塔は神の霊感を受けているか二人の証人が知らなかったので長老はどう思うか尋ねたところ、長老は無視しました。再度、尋ねたところ、次のように叫んでいました。「その通り。霊感を受けていません。だからなんだって言うんですか」。
キーポイント:証人が友好的な時とそうでない時があります。この長老は私の質問を聞きたくなかったのです。長老がどうこうできる範囲に入ってません。こり問いは長老を不愉快にさせます。こうなってもがっかりしないように。その問いが後から証人の信仰をつまずかせるかどうかは分かりません。

(4) エホバの証人は、貴方が言っている問題は小さな問題だと主張する時があります。私の自宅を二人の長老が訪ねてきたことがあります。暖かいあいさつを交わした後、私は今までこの地元に住んでいたか二人の長老に尋ねました。うち一人はほかの地域から移ってきたばかりだと答えました。私のおいの家の近くに住んでいたらしいのです。共通の話ができて信頼感が増しました。
  話し合いの時、いくつか問題を切り出したところ、その長老は「貴方は考え違いをしています」と答えました。私はこう言いました。「すみません。私はその件ではものみの塔に問うてません。私はあなた御自身に尋ねています」。長老はうつむき、顔を手で覆いました。
キーポイント:問題なのは、重要な問題を取り上げても彼らが相手にしないことです。組織に関する過去や現在の問題は、決して解決されませんから彼らにとっては悩みの種なのです。指導者たちが協会に関する否定的なテーマを避けたり、隠したりすることこそ問題です。だから、ものみの塔は神の霊感を受けていないと言えます。
(5)多くの証人は本当のところ、彼らの宗教を知りません。私が近所の商店に行った時、「ものみの塔」誌を手にしたエホバの証人が何人か立っていました。このとき、そこに立って「証活動」をしている人の家族がいました。彼らにその出版物について尋ねましたところ、礼儀正しい態度で答えました。私はそこで言いました。「ところで、その出版物は聖書のように霊感を受けた物ですか」。彼らはそれを考えたこともなかったようでした。子どもは親に聞きました。親の答えは「霊感を受けているかどうか、知らない」でした。
キーポイント:エホバの証人は自分の宗教を知らなかったのですから、私の立場のほうが有利でした。私の目標は、以前なら考えたこともなかったことを考えてもらうことです。貴方のその質問にエホバの証人が何と答えるかは不確定です。私が尋ねた問いを王国会館で兄弟姉妹の前で提起したエホバの証人がいたらしい。すると、蜂の巣をつついたような騒動になったらしいのです。

  以上は私の長年かかって得た経験のいくつかです。貴方が将来のアイデアを考えるために差し上げます。それぞれ異なる経験をしていても、少なくとも答えの基礎はあります。

愛のたより

 今まで人類が科学的に解明してきたものよりも、神の知恵のほうが勝っています。脳の深奥の領域には二つの情動があります。この二つの情動がどのように現れ、人の心にどのように作用するかを見てみます。
  神は神の姿(愛)に似せてアダムを創造しました。愛は家庭を必要とすることを忘れないください、愛の家に連れ合いが必要であり、人間が創造されました。「人はひとりでいることは良くない」。それから神はアダムの体から女を創造しました。「ふさわしい助け手を作ろう」。そのときから長い年月を経て主はモーセに告げました。「わたしを見て、なお生きている人はいない」。それでもアダムは生身の人間でありながら神と意志疎通ができました。アダムは神のイメージ(愛)の中に創造されたからです。霊感を受けた聖書には次のように書かれています。「ふたりの者がもし約束しなかったなら、一緒に歩くだろうか」(アモス3:3)。ここが大事です。
  ヨハネ第一の手紙四章のさわりはこうです。「神には恐れがない。神は愛だからです」そして一人の男が神のイメージで作られました。そこである出来事が起きました。初めて聖書に記された神と人との会話は、アダムとその女が禁じられた果実を食べて神に背いた後でした。人の心に何かが入りました。それは恐れです。
  涼しい風の吹く頃、神の歩まれた音を聞きました。「あなたはどこにいるのか」。アダムは「園の中であなたの歩まれる音を聞いて……恐れて」。と言いました。
  使徒ヨハネはこう述べています。「愛には恐れはない」。アダムの応答には愛がないことに注目しましょう。互いに正反対の二つの性格を持つものが並立しています。神がいるところには恐れは生まれません。アダムは神のいるエデンの園から出なければなりませんでした。神に人類を回帰させるためにイエス(愛)は死なれました。愛には家庭が必要です。「人がひとりでいるのはよくない」。ものみの塔協会のような霊感を受けていない組織は聖書的ではありません。必要ありません。私たちには神が必要です。

まとめ

 愛が人間を作りました。 人間は神のイメージとして作られました。神は愛です。
  イエスは、「父」も「子」も共存するようにと祈りました、私たちは愛のイメージとして作られたのですから、神と交わりをするために神が人間を作られました。
  私たちを「父」と関係を持つための仲介者として霊感を受けていないものみの塔は人類には必要ありません。神と人間の仲介者はだれですか。イエスです。イエスは愛です。
  ものみの塔は愛の霊感を受けていません。従って、いつまでも恐れがあり、苦しみをもたらします。恐れがあるところには愛は存在しません。恐れは、結局、人々と神の関係を絶ちます。アダムから奪ったようにです。
  思い出すべきは、「アダム、あなたはどこにいるのか」、「……恐れて身を隠した」です。恐れは神(愛)から人々を奪います。恐れはカルトにとっては人々を厳しく行いに駆り立てる動機付けの要素になります。神ご自身ではなく神の代理人を介して神の好意を得るかもしれないという動機です。アダムのように神の義認を得るためにと、行いをそれらしく見せかけます。行いは律法に支配されています(ローマ3:20)。律法は重大な悲劇をもたらします。
  アダムとその妻に恐れをもたらした結果、恥が生まれました。自分自身を隠すためにイチジクの葉のエプロンを作りました。不誠実な行為をする前までは、二人は裸だったのに恥を知りませんでした。アダムは愛のイメージとして作られました。恥を知る理由はありません。愛は守り、互いに恥とはなりません。アダムとイブは少しは安心させてくれるイチジクの葉を身につけました。しかし罪があったのに神は二人に動物の皮を与えました。イチジクの葉は皮膚を露出させ、日焼けされるからです。
  新約聖書ではイエスはイチジクの木をのろいました。その類似点は、人間が「イチジクの木」を必要としない点です。自分を隠すための努力とか行いは必要ありません。イエスが「行いは必要ない。私が必要なんだ」と言っているかのようです。人間は自分自身で努力して悪くして隠すかのようです。イチジクの葉は皮膚をさらすのと同じです。これもイエスを必要とする理由です。
  エホバの証人は神を喜ばすために行いをすべきだと、ものみの塔は主張し続けます。しかし、神の霊感を受けた御言葉によれば、こうです。「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」(ローマ3:20)
  これはほかにも応用できますがこれがものみの塔に当てはまるかは「律法によっては罪の自覚が生じるだけです」によります。

 ものみの塔はいつまでもエホバの証人に対して次のように思い起こさせます。「行いをしなさい。しないなら恐ろしい未来が待ってます」。
  カルトがその信者に駆り立てる行いは、意識化の失敗を想起させます。「神の規格」に合致しないという罪です。
  カルトの信者は律法の中で生きています。栄光はありません。恐れが残ります。恐れがあるところには愛は存在しません。明らかに、虐待されています。神との個人的な関係はありません。


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