閉ざされた心を開く

第4章 分かれ道

しかし、人は律法の行いでは義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです(ガラテア2:16)。


  たいていのカルトは信者の睡眠時間を削ります。疲れさせるためです。一方、それをあまり使わないカルトもあります。しかし、確かに言えることは、カルトは個人の自由になる時間を奪って信者を非常に忙しい状態にさせているのです。睡眠不足も多忙も同じ効果を及ぼします。カルトの信者は個人的な時間も、暇になる時間も、もっと熱心に組織の活動をするように励まされます。カルトの信者が組織の行いをしないと見なされると、組織よりも自分の必要を優先させているといって、みんなの前で非難されたり、笑われたりする場合もあります。
  信者が感情に動かされ、自分で考えないようするために、カルトは信者を忙しくさせます。疲れの程度がひどいほど容易に操られます。ひどく操られている状態に置かれたカルトの信者は、常に、個人的な必要なもの以上に、組織を第一にする操られている世界に生きているのが事実です。
  カルトではカルトの活動への参加は義務です。例えば、エホバの証人の長老は、証人が組織の活動の程度でエホバ神の愛が証明できると決め付けます。ヨハネ3:16の愛が欠落しています。愛が無いところでは愛を否定することばが立ちはだかります――「憎しみ」です。
  ほかのカルトと同じようにものみの塔の味方をしない者はサタン(神の敵)であり、神の敵であり、「神が嫌う者」と信じられています。だから未信者は嫌われるのです。

 本当の意味で、はなはだしい反発を覚えるほどの反感を買うもの、下品なものと感じるのだから嫌悪しなければならない。確かに、神が嫌う者は美しい地上では生きるにふさわしくない("Watchtower" 1952/10/1 P.599)

「愛」の霊感を受けていない人間が造った、霊感を受けていない組織の発することばがこれです。使徒パウロが書いた「肉の行い」は敵意でした(ガラテア5:20)。敵意はまともな友人ではありません。敵意についての聖句は次の通りです。「こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません(ガラテア5:21)」

 逆にパウロは「霊の実」を書いています――その最たるものは「愛」です(ガラテア5:22)。イエスも次のように述べています。

 「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」と言われたのをあなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい(マタイ5:43,44)

 カルトでは信者がどのように肉の行い(服従)をしているかを見ています。反対に霊は「実」を結びます。カルトでは人が失敗すると批判します。しかし、「霊」による最たるものとは、失敗をも甘受する「愛」です。
 アダムとエバの子ども、カインは行いで神を喜ばせようとします。神はカインの供え物には目もくれません(創世記4:3,5)。神はたとえ、組織を通してであれ、神を喜ばせようと人が何かの行いをしてもそれには関心を持ちません。神は「霊」の実にしか興味がありません。霊の実が「愛」を表す者との交わりを求めます。神は「愛」だからです。ふたりの者は、仲がよくないのにいっしょに歩くだろうか(アモス3:3)

 木はどれでもその実によってわかるものです(ルカ6:44)。類推するに、ものみの塔が歴史的にどんな実を結んだかによってその歴史が見えてきます。人生を一変させるほどの決意を裏切る改変される教義、世の終わりの預言の失敗、成員の排斥がありました。家族をばらばらにし、破壊した。夫婦のスワッピング、児童虐待、一年に一万人を死に至らしめている輸血の禁止。地上における神の代弁者である、霊感を受けていないものみの塔を信じる者には膨大な損害を与えます。
 エホバの証人の前には二つの道があります。イエスは、誰も二人の主人に兼ね仕えることはできないと説きました(マタイ16:24)。霊感を受けていないものみの塔(愛が欠けている)に従うか、霊感を受けた聖書(ヨハネ3:16、17に書かれているような霊感を受けた愛のたよりを伝える)に従うかの選択をしなければなりません。しかし、たいていの証人は罪と恐れから逃れるためだけにものみの塔に従う選択をします。しかし、良いたよりでは罪と恐れにとっての共通の敵は「愛」であると伝えています。

 ものみの塔は、愛は行いと等価であると定義しています。ものみの塔の世界ではエホバを喜ばせるには信仰では不十分なのです。証人はエホバの組織を介してエホバに奉仕して行いをするように命じられています。神の組織はエホバのご親切を得られているらしいのです。ものみの塔が証人に対し、どのように神の愛を定義しているか、エホバ神に対する証人の愛を定義しているのでしょうか。不幸にも、ものみの塔の組織には無条件の愛は存在しません。得られるはずだと言います。エホバのご親切が得られる保証はないというのに……
  ものみの塔は次のように書いていました――「しかし,必要なのは信仰だけではありません。エホバに対して抱いている本当の気持ちを示す業もしなければなりません(「あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」1982年 P250)」。ここで証人はどのようにして自分の気持を表すか教えられます。行いです。個人的に行いが達成できない時は常に罪の意識が違反者に向けられます。
  また次のように書きました。「神への忠節を守る人は、永遠の命にふさわしい者と裁かれるでしょう。エホバはその人々の名を「命の書」にしるし、これに永遠の命の権利を与えられます。(「とこしえの命に導く真理」1968年P.113)」。エホバの証人はどのようにすれば「神への忠節」を守れますか。ものみの塔協会への全面的な服従によってです。それは霊感を受けた聖書の教えですか。違います!
  霊感を受けていないものみの塔の基本的な言い方は次の通りです。「本当にエホバに忠実であればエホバの組織に奉仕することによって、命の書に貴方の名前が書かれる資格があると判断されるでしょう」
  しかし、霊感を受けたみことばにはこう書いてあります。

だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。

  私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。

  それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。(ヨハネ第一4:15から18)

 神のご親切を得るための「行い」を教えている特定の集団や組織に対する忠誠心を示してはいません。ものみの塔では、ご親切はものみの塔の中にいる特定の少数の者(144,000人)にだけ分け与えられるらしい。ものみの塔協会には二つの階層があり、地上の楽園に残る級がいる一方、特定の者だけが天国を享受します。しかし神の愛は「御子を信じる者はだれでも」(ヨハネ3:16)包み込みます。信じる者には誰であれ、永遠の命が待ち受けています。信じる者が誰であるか、何を行ってきたかに関係ありません。
「人がひとりでいることは良いことではない」を忘れないように。文脈では連れ合いを指していますが、人は神を必要とすると教えているのでしょう。神は愛の源です。「父なる神」との新しい関係を築くために永遠の命を与えてくれたものといえば、それはイエスにある神の愛の賜物です(ローマ6:23)。
「行いを一生懸命すればこそ、地上の楽園で永遠に生きられる価値があるとエホバから判断されるのです」というエホバの証人を長年、見てきました。いずれにしろ、永遠の命は保証されません。どれほど長い間、「エホバの組織」に奉仕しても変わりません。ほかのカルトと同じく、ものみの塔は行いを度外視しての神の栄光あるたよりを教えることはありません。栄光はありません。しかし、目に見えないいじめがあります。残酷な独裁者のように、罪が無いか、恐れがないか、監視をされます。しかしながら、罪と恐れを滅ぼす方がいます。その「名」は「愛」です。


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