閉ざされた心を開く

第3章 ことばによる三つの障壁

エホバの証人:妻と一緒に奉仕をしてきましたよ。
長老:それでどうでした。
エホバの証人:私たちは本当のことをやってきました。貴方が仰っていた通りです。家の人は「真理」に反対しています。今になってみて私たちが「真理」を持っていると分かります。これが迫害というものなんですね。
長老:その通りです。

 個人的にあなたが真理だと信じるものに拘泥すればするほど、政治の面で、あるいは、宗教の面で誰かに反対をしていないでしょうか。多くの人が賛成すればするほど、その信条に深く関わっていると思うようになります。カルト信者とは彼らが真理だと信じているものについては一緒に話し合いをすべきでない理由になります。
 忠誠心があると、その信仰や理想を信じたり、それに献身しようとします。ある主題を証明しようとして客観的な事実を示したとしても相手はそれを肯定的に見ませんし、自分なりの立場を守ります。カルトとの関係が深まっているし、個人的な確信があるからです。誰しも「誰が正しいか。誰が間違ってかいるか」を論じるときに、何かしらこだわるものを持っています。
 たとえば、エホバの証人に証しすることは「君は間違っている。私が正しい」と言うことではありません。そのようなふりを見せるだけで衝突が生まれ、彼らの組織への関与の度合いは強まりますし、確信を持っているからかたくなになります。
  エホバの証人に証しするときに備え、私から忠告をしておきます。クリスマス、誕生日の祝い、三位一体論。死後の命、天国、地獄、イエスの本質のような紛争のネタを避けなければなりません。 これらのテーマから離れると、衝突が回避されますし、組織との関係が強化される一因にはなりませんし、迫害されているのではと脅えることはなくなるでしょう。あなたは安全だとエホバの証人に思わせるべきです。

  玄関先に現れるエホバの証人は論争を期待しています。しかし論争が回避されると、防御の姿勢を続ける理由は失われます。だから愛と忍耐が重要なのです。やがて組織が用意していないものを示せるでしょう。組織には忍耐のことばと思いやりのことばが欠けてます。
 だれでも自分の考えを受け入れてもらいたいから論じるのです。忘れてはなりません――確信を持っている者に変わってもらうのは難しいのです。(1)反対していると言うと彼らは回れ右をします。(2)数字と事実を伝えると、彼らはその情報を疑います。(3)道理に訴えると彼らは相手の論理を考えません。
 だからこれら三つのことばは三つの反応が壁となってはね返ってきます。

(1) エホバの証人に対して、賛成できないと伝える→貴方と話しても意味がない。
(2) 数字や事実を見せる→その根拠は偏見によって作られていて信用できない。
(3) 道理に訴える→貴方は道理にかなってない。

 クリスチャンはエホバの証人と話をしている時には本人が信じているものを論じていると思いこんでいます。一面ではそれは本当です。しかしエホバの証人はものみの塔の解釈を宣べ伝えています。だからエホバの証人に教え込んでいる情報が中心になります。

  エホバの証人は「奉仕の僕」や「伝道者」のような称号を与えられます。玄関先に立っている証人は家の人に教えるために立っています。ほかに用件はありません。エホバの証人は組織の真理を宣べ伝えているのであって自分の真理を伝えてはいません。答えを持っているのは組織です。あなたではありません。

  「エホバの証人を説得する」では神の霊感を受けていないものみの塔の公表された資料を書きました。二つの問題を提起しています。
(1) 証人は組織の伝令です
(2) ものみの塔がどのようにエホバの証人を教えているのでしょうか
 著者の意見では、「信仰体系の全体の基礎は自分の考えではなく、ものみの塔の教えです。聖書をどのように読んでいるのでしょうか。どのように考えているのでしょうか。それもものみの塔の教えの狭い範囲に限られています。

  ものみの塔の教えは組織の伝令のような証人の足によって戸別伝道の形で運ばれています。それは霊感を受けてないたよりです。神の霊感を受けてヨハネ第一4:16には「神は愛である」と宣言されています。この聖句を考えていただきたい。ものみの塔は、組織が神の霊感を受けていないとあっさり認めます。ですからものみの塔は愛の霊を受けていないのです。ものみの塔が証人に伝えていたたよりのほとんどには愛が書かれていません。ものみの塔は神の霊を受けていないからであり、組織には愛は存在しません。いじめがなくなるはずがありません。
 カルトの世界では「愛」ということばに新しい意味を付け加えてそれに値する資格を創造しました――献身、従順、犠牲、服従の点で合格した者です。カルトの組織のたよりによると、「もし神を愛するならば……」です。たとえば、エホバの証人が従うべき期待されている条件は、献身、従順、犠牲、服従です。
 元エホバの証人は、ものみの塔の中では、何が愛なのかを述べています。

 本当の愛、正当の愛は神の組織(ものみの塔)の中にしかないと信じるように教えられました。霊的楽園で生きるには理由が必要です。(1)「真理」を知っていること。(2)エホバの証人の間にしか本当の愛がないこと。そのような愛を受けられるためには組織の中で霊性を証明しなければなりません。

(1) 集会に出席する。「ものみの塔」誌などの出版物を読んで研究する。その答えを強調する。出版物そのものから意見を述べるために王国会館で手を挙げて話す。
(2) 王国宣教学校で演技をする
(3) 戸別伝道をする。雑誌やトラクトを配り、再訪問をしてもっと「聖書研究」をするとさらに霊的に強くなる。
(4) 「服装の規則」を厳守する。エホバの証人は世的に見られないよう、注意しなければならない。
 このような規則を守らないなら組織の中では昇進しません(特権は得られない。責任ある肩書きは得られない)。男性であれば王国会館の集会ではスーツとネクタイは不可欠です」

これらすべての要件などを満たせば、兄弟姉妹の誰からも愛の爆弾で迎えられます。行いのすべてが認められていると感じさせてくれます。その「愛」の基礎は個人ではありません。「何をするか」がすべてです。活動が停滞すると、即座に兄弟・姉妹の愛は冷えはじめ、霊的に弱いと見なされます。

  神の本質はコリント第一3:4から8に書かれています。神の愛は求めがありません。無条件です。カルトの信者に対する愛は、どれほど献身しているか、どれほど従順か、どれほど犠牲になって仕事をしているか、いかに服従しているかで決まります。しかし神は愛であり、愛は辛抱強く、情け深く、それも無条件の愛であると聖書に書かれています。

  次の会話で説明しましょう。

クリスチャン:ものみの塔は神の霊感を受けていないと思いますが本当ですか。
エホバの証人:その通りです。ものみの塔は神の霊感を受けてません。
クリスチャン:聖書では神は愛であると書かれていることを思い出しました。本当にその通りだと思いますか。
エホバの証人:その通りです。
クリスチャン:神は愛だとなぜ信じるのですか。聖書にそう書かれているからですか。
エホバの証人:聖書は神のみことばです。真理を伝えてます。
クリスチャン:私も同じ考えです。あなたの意見を尊重します。ものみの塔は神の霊感を受けていないと言いましたね。神は愛だという点では私も貴方も考えは同じですね。
エホバの証人:その通りです。
クリスチャン:ものみの塔は愛の霊感を受けていないことになりますね。
エホバの証人:……
クリスチャン:これまで何に同意したかを二人で考えてみましょう。ものみの塔は神の霊感を受けていませんね。愛は何ですか。そしてものみの塔は神の霊感を受けてません。良心に素直になりましょう。神ご自身が霊感を授けていない組織を神は本当に採用されるのでしょうか

  エホバの証人は、神が神のために語る、地上での神の代理人を必要としていると信じています。証人は神の代理人として組織を用いたという聖書的な例を引き合いに出すかもしれません。その例は霊感を受けていないものみの塔から教えられたものです。それを忘れてはなりません。
注意:例を聞かされるという罠に引っかかってはなりません。テーマから逸らすため、気をまぎらわすものとして例が使われる場合があります。

  何はともあれ、すべてのカルトは、我こそは永遠の喜びに至る、唯一の道だと主張します。神の「真理」を広める方法はほかにないと主張し、世界の終わりに遭遇している人々に警告していると主張します。カルトが神のために語る権威を維持している限り、人々は神との個人的な関係を奪われています。
 ものみの塔のようなカルトは組織への完全な服従を信者に要求します。それこそが、エホバ神に従順であると見なす秤になります。従順さ、即ち行いは救いのためには不可欠だと組織は主張します。もし本当に救いが行いに基づいているのなら、エホバの証人にとって、それで霊的に間違いないと誰が言い切れるでしょうか。霊感を受けていないものみの塔は一度も神からの親書を受け取ってません。
 
協会の本質は何でしょうか。

 「統治体」と呼ばれる、男だけの集団がものみの塔を運営しています。統治体は一度も神の声を聞いていないと示して、「ものみの塔」誌は神の霊感を受けてないと素直に認めています。これがなぜ大切なのでしょう。ものみの塔は神のために語るべき権威を持っていないのです。大事な点が二つあります。

 これらの者は神の霊感を受けていますか → 受けてません。
  これらの者は霊的に愛を受けてますか →  受けてません。
  それを裏付ける証拠はありますか →  あります

「奴隷」は神の霊感を受けてはいませんが,引き続き聖書を調べ,世界の出来事および神の民の状況を注意深く吟味し,現在成就しつつある聖書預言を理解しようとしています。人間には限界があるために,ある物事の理解が不完全あるいは不正確で,それを後日正さねばならないこともあります。「ものみの塔」誌1981/6/1 P.29

 修正を必要とする事例があります。ものみの塔は神の霊感を受けていません。「人間の限界」を認めています。神の「組織」のために用いられる言い逃れをして不正を隠している集団であり、霊感を受けていない集団だというのにエホバの証人は忠節を捧げます。元長老キャメロンはエホバの証人のための幻想を創作している統治体を次のように述べています――「観念の囚人」キャメロン

 キャメロンはさらに「統治体が「組織への忠節」を口にする時は、教えの源泉(権威の源泉)に忠節を尽くすように語っている――それを知るべきです。統治体成員が承知しているか否かにかかわらず、また見過ごしてもらいたいと思っているか否かにかかわらず、この究極的な状況でも、統治体は「組織」であり続けるのです。ものみの塔が白状したことばでも分かるように、協会は霊感を与えられていません。

 霊感を受けていない人間の限界がエホバの証人の信仰の土台です。体制に協力的な信者層が基礎になっています。霊感を受けていない「人間の限界」を基礎にしている体制なのに安全と言えるでしょうか。
 書類に書いた証拠があるというのに証人の多くはその信じているものに高い地位を与えています。彼らは忠誠を尽くしているのです。機械の動力に電気が用いられるように、機械には動かし続ける動力が要ります。それを絶つことが大事です。ものみの塔からエホバの証人を救出し、キリストとの関係を手助けをする大事な要素を次から述べましょう。


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