追補版 新約聖書の部


マタイ 5:5
「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。」
 「この節は天に行くのではなく, 地上に永遠に住むであろうクリスチャン級がいることをが 証明している」。あるエホバの証人は, こう主張するかもしれない。面識があるエホバの証人からの この議論に直面したとき, 私にどう答えたらいいか, イリノイに住む読者が手紙を書いて尋ねた。
 私の最初の本「JW answered verse by verse 」にマタイ 5:5が論じられていな かったからである。ものみの塔協会がそのように解釈していないから, その聖句はそこで配慮しなかった とその読者に伝えなければならなかった。その読者の友人は実際, 組織の解釈に矛盾を感じていた。
 その解釈は, 「イエスは地上の主要な相続人であり, 天に結ばれた「キリストと子孫を加え, 地上のイエスの相続に与るだろう。」(『ものみの塔』1978年2月1日号英文29頁 )。故に, エホバの証人の指導者でさえ, マタイ 5:5は, 主に天に行く人々に当てはまると認めている。
 しかし, このイリノイの証人がそうであったように, 間違ってこの聖句を用いる組織の成員もいる ことから, ここで今この点を含めている。
 一般的に, 人間の王は現地に住み続けることなく, 統治する為の国土を相続できる。例えば, 大英帝国の頂点に立つ新しく王冠を抱いた君主は, カナダやインドの統治者の位を継承し, アフリカの植民地の主権を相続し, イングランドの王座から彼らを支配した。
 同様に, 天の王権のもと, キリストと共に相続に加わるように, 柔和な者は, ‘地を相続する’。
 これを理解するエホバの証人は, それでもマタイ 5:5に静かに振り返って, こう言うかもしれない。
 「誰もいない惑星を統治しているキリストとその天の共同の相続人は, どこにいますか。地上で永遠に生きるで あろう人間の住民がいるはずです」。この論議に答えるには, この惑星に対する神の将来の計画の 詳しいことを, 細部まで知っているふりをする必要はない。クリスチャンは結局, キリスト と共におり, そこにはキリストがおられ, それは栄光を保つ為である, とある新約聖書の明確な 使信の通りである。復活し栄化されたキリストは, 湖畔で焼いた魚の食事を楽しむことさえして, 数回地上に現れられた。その像で天の生命に復活させられたクリスチャンは, 天の王国に属する地上の 国への同様の権利を持つ望みがあるだろう。従って, マタイ 5:5は, キリストに従う者が二つの異なる 希望(地上の希望と天の希望)を持つ級に分割するであろうと, エホバの証人が主張する聖書的 根拠にはならない。聖書は信者に対して, 「一つの希望」を述べる。(エペソ 4:4)。

マタイ 6:7

「また, 祈るとき, 異邦人のように同じことばを, ただくり返してはいけません。彼らはことば数 が多ければ聞かれると思っているのです。」
 祈りの中で同じ名前を反復することを避けるための命令だと受け取って, エホバの証人は9節から 13節に「主の祈り」の暗唱を避ける。教会の礼拝や家庭の礼拝でクリスチャンが「主の祈り」を すると, エホバの証人はマタイ 6:7にあるイエスの指示に違反するとしてクリスチャンを非難する。
 しかし, もしあなたがエホバの証人の王国会館の集会の常連となり, そこで発声される祈りに深く 注意を払うなら(祈りは通常, 礼拝自体の一部にはならないから, もっぱら集会の始まりと終わり に祈りがある), 祈りの言い回しになると, いつでもそこに同じ名前を繰り返す人たちもいること に気がつくだろう。出席者は, 「主の祈り」を避けるが, 彼ら自身のことばは, くどいくらい復唱 される。表立って王国会館で祈っている者の多くは, 表現を変える意識的な努力を実際行なっている が, 自分の時間に繰り返す人たちには寛容である。ところが, 「主の祈り」を繰り返した者は 叱られるだろう。「天にいます私たちの父よ。御名が崇められますように」などと言って祈ること が悪いのか。「だから, こう祈りなさい」(マタイ 6:9)と言ってイエスがこのことばを伝えたか らではない。何をどの様に祈らないかを, 私達に指示するためにそのことばを私達に与えたのでは なく, 寧ろどう私達が祈るべきかをイエスが示す為である。

 ロザリオを繰りながら, 単調に何度も何度も「われらの父よ」と反復することは, 「同じことばを, ただくりかえして」いる範疇に入るかもしれない。特に繰り返す回数を通して益を得ようと祈って いる人がもしいるとすれば, その通りである。(7節と比較しなさい)。
 詩篇に祈りが記されている。明らかに, 繰り返し繰り返し礼拝の中で用いられる為である。ゲッセマネ の園で私達は, 「主」が「またも彼らを置いていかれ, もう一度同じことを繰り返して三度目の祈り をされた」(マタイ 26:44)と教えられる。だから, 「主の祈り」の反復に対するエホバの証人の 批判には聖書上の根拠はない。

マタイ 11:11

「まことに, あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で, バプテスマのヨハネよりすぐれた人 は出ませんでした。しかも, 天の御国の一番小さい者でも, 彼より偉大です。」
 
 エホバの証人は, この聖句からヨハネが「イエスと共に天にいるのではなく」 , 「神の王国の地上の臣民となります」(『ものみの塔』1987年1月1日号17頁)と結論を出す。
 更に, 144千人だけが天に行く, その他の信者はすべてヨハネと地上の運命を共にすると論じる。 しかし, ものみの塔の解釈を入れないで試すと, ヨハネについてのイエスの言葉からは, そうした暗示は伝わって来ない。
 「主」は古い契約の下にあって最後の預言者であり最も偉大な預言者としてのヨハネと, 新しい 契約に入る者を対比しているだけである。「主」は地的な信者の級がいるだろうとは示されず, 新しい契約が古い契約に優先すると示された。(ヘブル 2:18-24と比較しなさい)。
 「バプテスマのヨハネ」は「女によって生まれた」が, 新しい契約にある者は「御霊によって生ま れた」(ヨハネ 3:16)であり, より偉大である。

マタイ 24:36

「ただし, その日, その時がいつであるかは, だれも知りません。天の御使いたちも子も知りま せん。ただ父だけが知っておられます。」
 エホバの証人は, 三位一体に反論し, 「御子」は神が創造した最初の天使であり, 「聖霊」は電気 のような人格を持たない力(神がご意志を遂行するために用いる)に過ぎないとする彼らの教えを 裏づける為に, この聖句を用いる。この聖句の誤用について答える前に, エホバの証人とクリスチ ャンの根本的な相違を, 観察するべきである。証人は, 神について全ての知られている事実を はっきりと述べられた信仰の簡単な枠組みに収まらせることができると思う。一方, 私達は, 私達の 制限される人間の理解と理解を超越することを, 神について多く認めている。

 私達は, 小さな子供がその両親を知り, 信頼するように, 「父」「子」「聖霊」を個人的に親しく知っている。
 しかし, 父と母の関係を十分把握する能力がない子供のようでもある。(どの様に両親の性的 な結びつきが両親を「一つの肉」にしているか, 頭としての夫と従う妻の原則, 結婚の結びつきの 法的な見方, 感情的な見方など)。同様に神性ある位格の一つ何を知っているか, 或いは, 何を 知らないかは, 私達の理解の域を超えている。理解の域を超えるなら, エホバの証人の理解力を 超えるものである(「生まれながらの人間は, 神の御霊に属することを受け入れません。それらは 彼には愚かなことだからです。また, それを悟ることができません。なぜなら, 御霊のことは御霊 によってわきまえるものだからです」。(コリント第一 2:14)。

 「御子」が人間の姿で語っていたのだから, 「御子」が「その日, その時」を知らなかったとの だと明確な説明をしようとすると, 証人は挑戦を始めるかもしれない。「しかし, 聖霊はなぜそれを 知らないのだろう」(エホバの証人の『聖書から論じる』182頁に触発された質問である)。 
 神の一員が何を知っていて, 知られていないのは何かを把握するには, 人間の脳の能力を超えている かもしれないと勝手に了解していても(そして私達は, 人間のことばで神が私達に明らかにする為 に選ぶ詳細だけを知ることができると了解しても), 私達は, この明確な説明を差し上げることも できる。‥‥文字通り「聖霊」は「御父」が知っていることは全て知っていることを, イエスは 当然のこととしていた。エホバの証人の新世界訳は, コリント第一 2:10-11で「霊がすべての事, 神の奥深い事柄までも極めるのです」, そして「人の事柄は, その人のうちにある人間の霊を別に すれば, 人々のうちいったいだれが知っているでしょうか」と書いている。

 ところで聖句が, 「神の霊を除いて誰も」と言っていることに注意しなさい。だから聖霊は何かでは なくて, 寧ろ誰かである。(もし, あなたが「○○○を別にすれば私の住所を知らない」のような文章の 空白を埋めるように人に頼むなら, その人は, 誰かの名前で空白を埋めるだろう。本やコンピュータ のような人格を持たない物ではない)。

 従って, 「霊を別にすればだれが知っているでしょうか」と言うことで, 新世界訳は「聖霊」が誰かだ と明らかにしている。しかしイエスがその日, その時を知らないと何故イエスは言ったか謎解きを しようとするよりも, エホバの証人に考えさせるべき重大な疑問は, 何故エホバの証人の指導者たち が1914年, 1918年, 1925年, 1975年などの年について偽って預言して, 何故キリストの到来の時を 知っていると偽って主張したのかである。マルコ 13:32, 黙示録 1:1の項を見なさい。

マルコ 13:32

「その日または時刻についてはだれも知りません。天にいるみ使いたちも子も[知らず], 父だけ が[知っておられます]」。(新世界訳) 。
 「父」だけがキリストの帰還の時を知っておられ, 「御子」は知らないとしたら, イエスは神である はずがないとエホバの証人は論じる。しかし, その論証は間違いである。まず最初に, 聖書は, 「御父」 のようにイエスも「すべてのこと」(ヨハネ 16:30; 21:17)を知っていると, 明白に述べている。
 それ故, 知識の面でイエスは「御父」に劣ってはいない。次に, 私達がエホバの証人に同意するか どうかに拘わらず, 証人自身, 「御父」は自発的に将来の特定の出来事を知らないことを望んで いると教えている。「選択的予知とは, 神が被造物の将来の行動をすべて無差別に予知しないことは しないでおこうと思えばそうすることもできるという意味です。」(『洞察』第二巻1108頁)。
 もし, エホバの証人の主張が事実であれば, イエスもイエスの到来の正確な時を知らないことも選択 できたと暗示する。(どんな面でも, 「御父」に劣っていることはない)。従って, エホバの証人 は, 「御父」についての自分たちの教えを否定することなく, キリストの神性を, 否定の論拠として マルコ 13:32を使うことはできない。マタイ 24:36, 黙示録 1:1の項も見なさい。
 (翻訳者補足:『現代訳聖書』は, 適切にも「‥‥またわたしの関心事ではありません」と訳出している。)

ヨハネ 1:18

「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が, 神を説き明かされたの である。」
誰も神を見なかったが, 人々はイエスを見たのだから, イエスは神ではないとエホバの証人は言う。
 しかし, そう言いながら, ヨハネ 1:18を見落とす。ここで「神」の語句が「御父」に関して限定された 意味で用いられる。ちょうどそれがイザヤ 9:6の「御子」に関して用いられるように。イザヤ 9:6の文脈 は, この節の神が生まれた‘御子’であり, 与えられる‘御子’だと明らかにしている。しかし, これは 「御父」が, 神ではないことを証明する為には用いることはできない。特定の他の聖句では, 「神」 という称号が特別に「御父」と用いられる事実は(ヨハネ 1:18のように)キリストの神性に反対する 論議としては, 用いることはできない。「いまだかつて誰も見なかった」者は「御父」である。
 ヨハネ 1:18のみことばは, ヨハネ 6:46, 「だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者, すなわち, この者だけが父を見たのです」のことばにおよそ, 類似している。ヨハネ 1:18を論じる 時, エホバの証人は誰も「御父」を見なかったのに, 人々がイエスを見たのだから, イエスは 「御父」ではないと言うのは少しは, ましかも知れない。しかし, 一方イエスを見ることは, 「御父」を見ることに等しいとイエスが説明する。「イエスは彼に言われた。『ピリポ。こんなに 長い間あなたがたといっしょにいるのに, あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た 者は, 父を見たのです。どうしてあなたは, 『私たちに父を見せてください。』と言うのですか」。 (ヨハネ 14:9)。出エジプト記 33:20の項も見なさい。

ヨハネ 2:19-21

「イエスは彼らに答えて言われた。『この神殿をこわしてみなさい。わたしは, 三日でそれを建て よう。』そこで, ユダヤ人たちは言った。『この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたは それを, 三日で建てるのですか。』しかし, イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたの である。」
 この聖句はキリストの肉的な復活(エホバの証人の否定する教義)を証明するのに, 特に有益 である。使徒 2:24, コリント第一 15:45, ペテロ第一 3:16の項も見なさい。

ヨハネ 4:34

「わたしを遣わした方のみこころを行ない, そのみわざを成し遂げることが, わたしの食物です。」 
 キリストの神性に反論して, エホバの証人はイエスが神によって遣わされたと指摘する。明らかに 偉大なる方に遣わされた者は, より小さな者である。そして, だからキリストは「父なる神」に 劣っているに違いないと続ける。しかし, 彼らの論議は見せかけだけである。同じ推論の方法が, イエスはヘロデ王とその兵士に劣っていることを「証明」するために用いられるかもしれない からだ。「ヘロデは, 自分の兵士たちといっしょにイエスを侮辱したり嘲弄したりしたあげく, はでな衣を着せて, ピラトに送り返した」。(ルカ 23:11)。彼らも, またイエスを送った。
 人間的属性としては, キリストは彼らとは等しかった。従って, イエスが「父」によって 送られたからと言って, 「御父」との等価性から除外されることは, どうあってもありえない。
 コリント第一 15:23-28, 『JW answered verse by verse』の コリント第一 11:3の項も見なさい。

ヨハネ 6:68-69

「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは, 永遠のいのちのことばを持っておら れます。私たちは, あなたが神の聖者であることを信じ, また知っています。」
 敢えて, エホバの証人が, ブルックリンに本部を持つ組織を離れないようにと聖書が言っているか のように解釈して, ものみの塔組織は, 勝手に自分達を, この箇所を当てはめる。「過去百年以上 にわたって『忠実で思慮深い奴隷』の組織が築き上げてきた記録を考えると, ペテロが言い表した 結論に到達せざるを得ません。ペテロは, 使徒たちもイエスのもとを去ることを望んでいるのか どうかイエスから尋ねられた時, 『わたしたちはだれのところにいけばよいのでしょう』と言い ました。すなわち, わたしたちすべては聖書を理解する上で助けを必要としており, 『忠実で 思慮深い奴隷』の組織を外にして, 必要としている聖書の導きを見いだすことはできないのです。」 『ものみの塔』1981年5月15日号19頁。
 「私たちは, どこに行ったらいいのでしょうか」, 「どこにもありません」。これがものみの塔の 答えである。
 絶え間ない悔い改めを通して種が蒔かれた。私達の組織が唯一の道であり, 唯一の真理であり, 唯一のいのちである。これは, エホバの証人が組織を離れることを非常に難しく させる考えである。離れる者にとっては, 当惑であり, 恐怖でさえある。ものみの塔が, 自分達の 当てはめている聖句は, 実際は, イエス・キリスト, 「神の子」に当てはまる。イエスは弟子たち がこう言った時に語りかけていた方である。「主よ, わたしたちはだれのところに行けばよいと いうのでしょう。あなたこそ永遠の命のことばを持っておられます。そしてわたしたちは, あなたが 神の聖なる方であることを信じ, また知るようになったのです」。(ヨハネ 6:68-69)。弟子たちは, ある組織を語ってはいなかった。‘真理’は, 組織でもない。聖書は, イエスご自身が「道であり, 真理であり, 命である」(ヨハネ 14:6)と指し示す。

 私達は, エホバの証人として, 人々は「救われるために, エホバの組織に来なければならない」 (「Watchtower」1981年11月15日号21頁英文 ) と教えていた。しかし, イエスは実際には「わたしを通してでなけば, だれひとり父のみもとに来る ことはありません」(ヨハネ 14:6)と言われた。協会は私達に「正確な知識」が鍵であると教えたが, イエスは, パリサイ人にこう伝えられた。「あなたがたは, 聖書の中に永遠のいのちがあると思うので, 聖書を調べています。その聖書が, わたしについて証言しているのです。それなのに, あなたがたは, いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」(ヨハネ 5:39-40)。(新改訳)。

 従って, 何が問題なのか。イエスが宣言された救いの道は, 聖書の正確な知識や組織への参加を通して ではなかった(これら両者はその中に入るが)。命を得る為に, 人々は個人的にイエスに来る必要が あった。新しい契約の下では, イエス以外には, 他に「御父」に至る道は全くない。
 古い契約の取り決めと今日のものみの塔協会を, 比較しなさい。ユダヤ人はイスラエルの国家の一員と して神との特別な関係にあった。同様に, エホバの証人は, ものみの塔協会との交わりによって神との 特別な関係を持っていると教えられる。ものみの塔はイエス・キリストを通して, 神に近づく新しい道を 無視して, 古い契約の条項を反映し続ける。

 神は, エレミヤ31章の「新しい契約」の預言を成就する為, 地上に「神の御子」を遣わされた。 この新しい契約の下, 「彼らはそのもっとも小なる者からその最も大なる者に至るまで, 皆わたしを 知るからである』と, エホバはお告げになる。『わたしは彼らのとがを許し, 彼らの罪をもはや思い出さないからである』。(34節, 新世界訳)。

 各々のクリスチャンは, イエス・キリストとの個人的な関係を通して神を「知る」特権を持つ。 どんな人間の組織も, 団体も信者と神の間の関係に割り込む権利はない。もし, エホバの証人が本物である イエス・キリストを愛し, 神に近づくまやかしの道を見限るなら, エホバの証人は, ものみの塔 協会を離れる事に恐れを抱く必要はない。イエスはそうした人々をすべて招かれた。「すべて疲れ た人, 重荷を負っている人は, わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」 (マタイ 11:28)。「わたしのところに来る者を, わたしは決して捨てません」。(ヨハネ 6:37)。

ヨハネ 8:42

「イエスは言われた。『神がもしあなたがたの父であるなら, あなたがたはわたしを愛するはずです。 なぜなら, わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく, 神がわたし を遣わしたのです。』」
 「もしイエスが自発的に働いていたのではなく, 他者から遣わされ者であるなら, どうして イエスが神なんでしょうか」とエホバの証人は反対するかもしれない。ヨハネ 4:34の項も見なさい。

ヨハネ 10:17-18

「だれも, わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。 わたしには, それを捨てる権威があり, それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令 をわたしの父から受けたのです。」
 この節は, 私達の罪の為に, キリストの犠牲の代価を返すと 言うことで, エホバの証人が, キリストの肉体的復活に反対する時(それは犠牲として捨てた 体である), 調べるには, この箇所は最もよいものの一つである。ものみの塔はこう教える。
 「キリストは, 世の命のためにご自身の肉の体を渡したのですから, それを再び得てもう一度 人間になることはできません。このような根本的理由があるので, イエスが, 一度かぎり犠牲 にされた人間の体で戻られることはあり得ないのです」(『楽園』143頁)。しかし, 上に挙げた 聖句の中で, 人類の罪を贖う為の聖なる犠牲として捨て去ったものは, イエスの命であると イエス自身が語っておられる。実際‘それを捨てる’権威があり‘再びそれを受ける権威’を持って いたと語っておられる。使徒 2:24, コリント第一 15:45, ペテロ第一 3:18の項も見なさい。

ヨハネ 20:17

「イエスは彼女に言われた。『わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに 上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って, 彼らに【わたしは, わたしの父また あなたがたの父, わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。】と告げなさい』。」
 イエスは「御父」を「私の神」と呼んだのに, どうしてイエスが神なのか。エホバの証人が関心を 持つかぎり, 「御父」に言及してイエスが「私の神」の表現を用いることは, イエスが神ではない ことを意味する。それに答える為には, まず初めに, 同格者間にあって, 指導者のような 構造的な関係かもしれないと説明しなさい。

 エホバの証人に出エジプト記 4:16(新世界訳)を読むように頼みなさい。そこでモーセは, 弟アロンに「神の役 をする」と言っている。モーセがアロンに神の役をすることが, 人間の性質においてモーセとアロン が等しかった事実を変えることはない。同様に「御父」と「御子」は神の性質としては等しいと することができる。「御父」については「御子」に対し「頭」(かしら)や「神」の役をする。
 次に「御父」が「御子」を「主」と読んでいるヘブル 1:10を見なさい。「御父」が「主」である 立場を捨てることなく, 「御父」が「御子」を「主」と呼べるのなら, 「御子」も自分が「神」 である立場を失うことなく, 「御父」を「神」と呼ぶかも知れない。最後に, ヨハネ 20:28で トマスがイエスを何と呼んだか, エホバの証人に示してもよいだろう。「それに答えてトマスは 彼に言った。『わたしの主, そしてわたしの神!』」。 (新世界訳)。イエスもまた, 「私の神!」と呼ばれる。たとえ私達が「御父」とキリストの関係 を完全に理解できなくとも, 私たちはトマスがそうであったように, キリストと同じ関係にあると 十分に知ることができる。だから, 私達もイエスを, ‘私達の神’と呼ぶことができる。

使徒 2:24

「しかし神は, この方を死の苦しみから解き放って, よみがえらせました。この方が死につながれて いることなど, ありえないからです。」
 エホバの証人は「もし, イエスが神ならどのようにしてイエスが死ぬと同時に生ける神で あり得たのですか」と質問をしてクリスチャンに挑戦する訓練をしてきた。
 素朴な論理は, イエスは神である筈がないと示し, エホバの証人は結論づける。
 しかし, 実際には, カルトは死の状態, 復活の無意味さ, キリストの神性に関する間違った教えをごちゃまぜにして誤った結論に達する。
 エホバの証人にとって, (1)イエスは天使ミカエルの人間の形をした受肉であった。(2)死にあって, イエスは無存在の状態として消滅した。肉体と魂と霊は, すべて残された意識も持たずに無存在と なった。(「神はイエスの遺体を処分し‥‥」『ものみの塔』1991年11月15日号31頁)。
 そして, エホバの証人の神学では, 死んだ後には生き続ける人間の目に見えない部分は存在しない。
 (3)キリストの復活は, 天使ミカエルの正確なコピーの記憶から生まれた「御父」の創造の一部となる。 人間の形よりも, 寧ろ, もう一度, 天使の形でである。明らかに, 神であるイエスの考えは筋書きとは 一致しないだろう。もはや存在しない者は, 無存在から脱出し, 姿を現わす働きをする為にやって 来ることはないだろう。
 一方, 聖書を信じているクリスチャンにとっては, (1)イエスは全能の神が, 人間に受肉された。 (「キリストのうちにこそ, 神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています」。(コロサイ 2:9)。 (2)彼の肉体は, 十字架上で死んだ。(「彼は肉において死に渡され, 霊において生かされたのです」 ペテロ第一 3:18, 新世界訳)。(3)彼の肉体的復活の証拠である空の墓を去り, 墓からご自身の体を 復活させているキリストを構成した。どちらの筋書きが, 聖書に一致するか。エホバの証人の成り ゆきの聖書か, クリスチャンの聖書か。ヨハネ 2:19-21では, 無存在のキリストではなしえない 何かをすると, イエスは約束された。

 イエスは自分の身体を復活させると約束された。「イエスは彼らに 答えて言われた。『この神殿をこわしてみなさい。わたしは, 三日でそれを建てよう。』そこで, ユダヤ人たちは言った。『この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを, 三日で 建てるのですか。』しかし, イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである」。 (ヨハネ 2:19-21)。イエスが, 私は復活するだろうと言われたことに注意しなさい。 エホバの証人が, 信じているようにイエスの死と復活の間, 存在を無くしたのではないだろう。
 こういうわけで, キリストの神性に対する想像上の障害としてエホバの証人に起こる上記の疑問は 的外れである。イエスは肉において死んだが, 霊として生かされた。
 また, 上に挙げた聖句は, ある箇所ではイエスが自分の体を復活させ, 他の箇所では神がイエスの 体を復活させたと, 私達に教えていることに注意しなさい。聖書は, それ自体矛盾しないから, これはイエスが誰であるかを私達にはっきりと教えている。ヨハネ 10:17-18, 使徒 2:24, コリント第一 15:45, ペテロ第一 3:18の項も見なさい。

使徒 8:30-31

「そこでピリポが走って行くと, 預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので,   『あなたは, 読んでいることが, わかりますか。』と言った。すると, その人は, 『導く人がなければ, どうしてわかりましょう。』と言った。そして, 馬車に乗って いっしょに座るように, ピリポに頼んだ。」
 この箇所は, 多数の書籍, 雑誌の出版帝国である組織の必要性を, 論じるためにエホバ の証人が好んで用いる箇所である。「だれかが説明しない限り, どうして私達は聖書を 理解できるでしょうか」。証人はそう言うだろう。この考えの行き着く先は, 依然, 聖書 理解の為にものみの塔に頼ってしまうことになる。しかし, それは聖書に手本があるだ ろうか。エチオピアの宦官は, ピリポに依然として頼っていただろうか。39節にはこう ある。「水から上がって来たとき, 主の霊がピリポを連れ去られたので, 宦官はそれから 後彼を見なかったが, 喜びながら帰って行った」。
  宦宦がバプテスマを受けた後, 宦官はもうピリポを見ることはなかった。聖書理解の為に, もはや他の誰かには頼ることはなかった。ピリポが入っていた神との関係に至っていた。 (エホバの証人が, 指導者に留まるように教えられる立場に似た従属の立場ではない)。 神はエチオピア人に, 福音のたよりをもたらすためにピリポを用いられたが, 神はピリポをその 時以来, そして永久に従属しなければならない永久の「伝達経路」としての立場に置くことは なかった。ものみの塔は, エホバの証人への組織の支配・管理を正当化する為に用い, この 聖書の箇所を誤用する。

使徒 15:2, 4

「そしてパウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論争が生じたので, パウロとバルナバと, その仲間のうちの幾人かが, この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために, エルサレム に上ることになった。‥‥エルサレムに着くと, 彼らは教会と使徒たちと長老たちに迎えられ, 神が彼らとともにいて行なわれたことを, みなに報告した。」
 「私達の宗教が本物である証拠の一つです。西暦一世紀にクリスチャンの組織を指導したちょうど そのもののような, ものみの塔統治体を持っています」とエホバの証人は論じるだろう。エホバの 証人の解釈によると, 使徒15章は世界中のクリスチャンがエルサレムにある本部に活動を 報告したことを示し, それを教育・指導の為の本部組織と見ていたことを示している。割礼の 問題がエルサレムで起こったから, 割礼問題を解決する為にパウロとバルナバがエルサレムに 送り込まれた(何故なら, 疑問はそこで起きたから)ことを, エホバの証人の解釈は無視する。

 「さて, ある人々がユダヤから下って来て, 兄弟たちに, 『モ−セの慣習に従って活霊を受けな ければ, あなたがたは救われない』と教えてきた」(使徒 15:1)。「私たちの中のある者たちが, 私たちからは何も指示を受けていないのに, いろいろなことを言ってあなたがたを動揺させ, あなたがたの心を乱したことを聞きました」(使徒 15:24)。今日のエホバの証人が ブルックリン本部事務所にするように, 世界中のクリスチャンが正式にエルサレムに報告したり, 解決するためにそこに質問を送ったとは聖書のどこにも示されていない。それでもエホバの 証人指導者は自分たちのことをこう言う。「今日における目に見える, 神の組織も神権的な導き と指示を受けます。ニューヨークのブルックリンにあるエホバの証人の本部には, 世界の各地から 来た年長のクリスチャン男子からなる統治体があって, ‥‥統治体の人々は, エルサレムにいた 使徒たちや年長者たちのように, 神の奉仕に長年の経験を持つ人々です。しかし物事を決定する 際には決して人間の知恵に頼りません。彼らは神権的に治められているので, エルサレムに あった初期の統治体の模範に従います。初期の統治体は神の言葉に基づき, 聖霊の導きの下に 決定を行ないました。−使徒 15:13-17, 28-29」。『楽園』195頁。

 この引用が暗示するように, エホバの証人の統治体の成員は, 実際に現代に於ける使徒の後継者 なのか。興味深いことに, エホバの証人の『聖書から論じる』に, カトリック教会と結びつけて 「使徒の後継者」の教義を攻撃する。「十二使徒には神からの任命によって権威を譲歩されてきた 後継者たちがいるという教理」は, ‘聖書の教えではありません’と強弁する。(同書, 197頁)。

使徒 24:25

「しかし, パウロが正義と節制とやがて来る審判とを論じたので, ペリクスは恐れを感じ, 『今は 帰ってよい。おりを見て, また呼び出そう。』と言った。」
 死んだ後には罪人への刑罰はなく, 死は単純な絶滅, 無存在であるとするものみの塔の教えに反論 する為には, この聖句は力強い証明となるかもしれない。パウロが伝道していたたよりがその通り であるなら, ペリクスが「恐れを感じ」てしまうことはないだろう。クラウディウス帝に任命された ユダヤのローマ帝国の代理人は, 確かに死についてよく知っており, いつか終わりの時が来る生命を 考えて気にかかってはいなかっただろう。ペリクスが恐れていたのは, 恐らく, 死によって審判が もたらされることから来る恐れであった。ペリクスのだらしない生活によって, 正義と節制に, 目を向けさせたことをペリクスは知った。ユダヤ人の妻と一緒だったので, モーセの律法の下で, 課せられる罰については彼もよく知っていた。ペリクスにとって耳新しかったのは, キリストについてのたよりと審判が来ることであった。

 「もし私たちが, 真理の知識を受けて後, ことさらに罪を犯し続けるならば, 罪のためのいけにえは, もはや残されていません。ただ, さばきと, 逆らう人たちを焼き尽す激しい火とを, 恐れながら待つ よりほかはないのです。だれでもモーセの律法を無視する者は, 二, 三の証人のことばに基づいて, あわれみを受けることなく死刑に処せられます。まして, 神の御子を踏みつけ, 自分を聖なるものと した契約の血を汚れたものとみなし, 恵みの御霊を侮る者は, どんなに重い処罰に値するか, 考えて みなさい。私たちは, 『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。』また, 『主がその 民をさばかれる。』と言われる方を知っています。生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいこと です」。(ヘブル 11:26-31)。そうしたたよりは, ペリクスが‘恐れ’を感じる原因となった だろう。キリストを拒否して死んだ後に直面する「苦しい刑罰」についてであり, 憐れみを受ける ことなく死んでいく考え方でもなく, すでに慣れ親しんいた生命の話でもない。

ローマ 10:2-3

「私は, 彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし, その熱心は知識に基づくもの ではありません。」
 エホバの証人はすでに信仰深い, 改宗の見込みのある者(主イエス・キリストを知っている クリスチャンにさえ)と「無料家庭聖書研究」を始めようとするときに, この聖句を使うかも しれない。エホバの証人はこういうかもしれない。「あなたの神に対する熱心さは, 立派です。 熱心さだけでは十分ではありません。神は正確な知識に基づく熱心さを求めておられます」。

 戸別訪問を受けた, 殆ど人の側が聖句に対し, 比較的無知だと, その求められる知識を有する 唯一の者は, ものみの塔だとする教えをカルトの成員の心に増殖させる。同様に家の人が訪問する ‘奉仕者’に見かけだけの聖書知識の印象を受けると, しばしば週ごとに定期的な研究が始まり, 聖書からではなく, 一般に入門書として用いられる組織の教本から新しい研究を教え始める。1968年, 私が証人となる為に研究を始めた時, 『とこしえの命に導く真理』と題するポケットサイズの 青い本が用いられた。1982年, この本は大型のカラーの挿し絵がある書籍, 『あなたは地上の楽園 で永遠に生きられます』に取って代わられた。つい最近, 1995年の夏に『永遠の命に導く知識』が 新しい初歩の研究書籍として発行された。

 普通, 新参者がすっかり羽根の生えそろった証人としてバプテスマの用意があると見なされる前に, 教え手はその上で二冊目の書籍の研究に導く(最近, ものみの塔は, 1996年1月15 日号で, 二冊目の 書籍を免除する新しい促成の研究計画を公表した。その計画が効果があるかどうか, 様子を見る ことになる)。その後でさえ, 研究と知識を取り入れる段階は, その人がカルトに活発に関与し 続ける間, 長期間続けられる。私と妻が組織を抜けたあと, 購読の割当てを計算したところ, 集会 と個人研究の間, 私達は先の12か月の間に, ものみの塔の出版物三千頁近くを当てるよう, 求めら れた(より詳しい情報は, 私の『エホバの証人の文献』を調べなさい)。

 聖書を読む者は, 西暦一世紀の教会を反映すると主張する集団にしてみれば, それを変則と認める だろう。ペンテコステの時代にバプテスマを受けた数千人には, 長い研究計画はなかった (使徒 2:5-41)。エチオピアの宦官はヒッチハイカーのピリポを拾い, 一緒に馬車に乗て, 彼から福音を聞いた。そしてバプテスマを受け, クリスチャンの仲間となった(使徒 8:26-39)。 異邦人の友人とイタリア隊の将校コルネリオの親族は早くから聖霊充満の信者となり, その回心は, 家の客, ペテロの不意を突いた。(使徒 10:1-48)。

 何故, エホバの証人は, 教会の入り口にしては長ったらしい研究計画を提供するのか。終わりの 無い印刷物の奔流に頼ることで, 巨大なものみの塔出版帝国にとって捕われの身の消費者としての 聴衆を造り出すこともあるし, 文脈上でローマ 10:2を考えない為でもある。もし, エホバの証人が 次の二つの節を読むなら, 西暦一世紀の教会ではなく, パウロが書いた救われないイスラエル人を 反映していることを認めるようになるかもしれない。‥‥「と言うのは, 彼らは神の義を知らず, 自分 自身の義を立てようとして, 神の義に従わなかったからです。キリストが律法を終わらせられた ので, 信じる人はみな義と認められるのです」。(ローマ 10:3,4)。なんと簡単なことか。 クリスチャンになるとは, キリストを信じるという単純なことである。

  どの様にして義なる人になるかという, 延々と続く研究によってではない。 これに関してエホバの証人は, テモテ第二 3:7に書かれた者のように自分自身を, 示している。 「いつも学んではいるが, いつになっても真理を知ることのできない者たちです」。[訳者補足]
[訳者補足:実際, ものみの塔の教理では, エホバの証人は千年王国が, 終わるまで誰が救われる のか分からない。いつまでも永遠の命の見込みのままである。]

ローマ 10:9

「なぜなら, もしあなたの口でイエスを主と告白し, あなたの心で神はイエスを死者の中から よみがえらせてくださったと信じるなら, あなたは救われるからです。」
 もし, エホバの証人がクリスチャンと議論するとき, この箇所を調べて「神は死からイエスを よみがえらせたと指摘することがあるかもしれない。そこからエホバの証人は, イエスが神ではないと結論 を下すだろう。結局どうやってイエスは死からよみがえることができたのか。しかし, その議論に 重きを置いて, それが正確にイエスがそうなるだろう(死から自分の体をよみがえらせる)と言った 事実であることをエホバの証人は無視する。エホバの証人の新世界訳でも, 自分自身の体について イエスはこう語っておられる。

 「わたしはそれを立てます」(ヨハネ 2:19-20)。エホバの証人の考え方からはそれは不可能に思える。 イエスの死と復活の間では, イエスに意識が無く, 無存在であったと組織が教えるからである。 存在の状態を取り戻す為に, イエスは「父」に頼った。一方, クリスチャンは, キリストの体が 死んだときキリストの霊はその存在を止めていなかったことを知っている。そして「わたしはそれ を立てます」とイエスが言われたときに約束したことが可能であった。ヨハネ 10:17-18, 使徒 2:24, コリント第一 15:45, ペテロ第一 3:18の項も見なさい。

ローマ 10:11-13

  「聖書はこう言っています。『彼に信頼する者は, 失望させられることがない。』ユダヤ人と ギリシャ人との区別はありません。同じ主がすべての人の主であり, 主を呼び求めるすべての人に 対して恵み深くあられるからです。『主の御名を呼び求める者は, だれでも救われる。』のです。」
 エホバの証人の新世界訳では, この箇所の最後の部分を, 紅顔にも「エホバの名を呼び求める者は みな救われるのです」と翻訳する。「ご覧なさい。あなたはエホバの名を用いる必要があります」。 エホバの証人はこう主張するだろう。ここの13節は, 実際は, ヤハウェかエホバと訳されるヘブライ 語の四文字YHWHを用いているヨエル 2:32からの引用である。しきりに, これを指摘したがるエホバの 証人はよく分かっていない。しかし, すべての関わり合いは, 文字通りローマ書の後続の聖句がイエスが 主であった(9節)を告白する必要にちょうど力点が置かれ, すべての者に 「同じ主」がいると指摘した。その者は呼び求める者をすべて祝福する。それはイエスをエホバと 同定しているから「エホバの名を求める」(エホバの証人にとっては嫌悪すべき考え)者である。

コリント第一 11:24

「感謝をささげて後, それを裂き, こう言われました。『これはあなたがたのための, わたしの からだです。わたしを覚えて, これを行いなさい。』」。
 エホバの証人の新世界訳では, 「これはわたしの体を表わしています」と言う。ローマカトリックの 化体説の教義を論破する為に, 時々その聖句を用いるだろう。「ご覧なさい。イエスは『これはわたし のからだです』とは言われなかったし, 寧ろ, 『これはわたしのからだを表わしています」と, 近所の カトリック信者に言うかも知れない。しかし問題は, キリストが実際に言ったことばが「表わす」より も寧ろ, 「です」と言ったかどうかである。(勿論, 彼は象徴的な感覚ではっきりとそれを言われた。 イエスの肉体は, まだ生きており, イエスが死ぬ前に自分の体を過ぎ越しのパンと同定した時も 生きていたからである)。

  ここに引用した聖句は, カトリックの解釈を論じるためではない。寧ろ, エホバの証人の聖書の中で 見られる偏見を示すためである。プロテスタントもカトリックも通常, 同じ様に聖句を文字通りに聖句を 翻訳し, それを解釈することで満足する。一方, ものみの塔指導者は目的に合わせて聖句自体を変更する。 新世界訳は「言いかえはなされず, できるだけ字義訳にした」と主張するにもかかわらず, 聖書から全く その特権を奪ってきた(新世界訳, 1951年版序文)。その幾つかは『JW Answered verse by verse』で 論じられたが, ロバート・カウンテスの『エホバの証人の新約聖書』により詳しく概説されている。

コリント第一 15:23-28

「それから終わりが来ます。そのとき, キリストはあらゆる支配とあらゆる権威, 権力を滅ぼし, 国を 父なる神にお渡しになります。‥‥ところで, 万物が従わせられたと言うとき, 万物を従わせたその方 がそれに含められていないことは明らかです。しかし, 万物が御子に従うとき, 御子自身も, ご自分に 万物を従わせた方に, 従われます。これは, 神が, すべてにおいてすべてとなられるためです。」
 エホバの証人は, この箇所がキリストの神性を否定していると解釈する。しかし, それは外部から押し つけられた解釈である。聖書が言っていることではない。証人の重要な論点は, 「御子」が「御父」に 従属してしまうことである。(あたかも「父」よりも劣っていたり, 低い地位にあると暗示するかのよう に)。しかし, そうではない。証人の新世界訳によると若者としてイエスのは, ヨセフとマリアに「服し て」いた(ルカ 2:51)。それは人間の両親よりも低いスタイルであったとは暗示しなかった。その三人 とも人間としては等しかった。それでもイエスは家族の中で家長のとりきめを尊重した。その取り決め は, 子供が親に従い, 夫が妻の頭であることだ。だから, もしイエスが親に従い, 三人が人間として等 しいなら, 同じように神性において等しい天の「御父」に従うかも知れない。ヨハネ 4:34の項と 『JW Answered verse by verse』のコリント第一 11:3に語られている頭の項を見なさい。

コリント第一 15:45

「聖書に, 『最初の人アダムは生きた者となった。』と書いてありますが, 最後のアダムは, 生かす 御霊となりました。」
 これはイエス・キリスト, つまり「最後のアダム」の体の復活を否定する為に, エホバの証人が好んで 使う聖句である。ここで聖書は, イエスが復活して「霊者」になったと言っていると語る。『ものみ の塔』誌1991年11月15 日号31頁 では, 「神はイエスの体を捨てた」とあり, 『Watchtower』 1953年9月1日号518頁英文には, 「体を構成要素や原子に分解した」とある。

  一方, 聖書はイエスの体が捨てられたり, 分解されたことの証明としてではなく, キリストの復活の 証拠として, 復活の日の朝の空の墓を差し出す(マタイ 28:6, マルコ 16:6)。「ここにはおられ ません。よみがえられたのです」。(ルカ 24:6)。誰かがキリストの体を捨てたり, 彼が復活すると 主張するなら, ‘まやかし’を想定した者は, キリスト教の敵である(マタイ 27:62-64)。

  墓の中で体が横たわっていた期間, 日夜, 体を離れた霊としてイエスは存在していたかもしれないが, イエスが「三日でそれを立てます」(ヨハネ 2:19, 21, 新世界訳)と言われた時に約束したことがら を三日後に体を持って示した。イエスが弟子たちに現れ, 死の原因となった体の傷を体で感じるよう トマスを促したとき, イエスは, もはや遊離した霊ではなかった。(ヨハネ 20:27)。他の場合には, 弟子たちが復活したイエスを霊と思い違いをしたとき, 他の者たちに, また将来質問をする者にも 取って置くべき答えを返していた。「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。 わたしにさわって, よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています」。 (ルカ 24:39)。ヨハネ 10:17-18, 使徒 2:24, ペテロ第一 3:18の項も見なさい。

エペソ 1:3

「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて, 天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」
 「御父」が「私たちの主イエス・キリストの神」であるなら, どうしてイエスが神なのだろう。神が 神を持つのか。エホバの証人がこの聖句を使って進めようとする議論である。これに答えるには, ヨハネ 20:17の項を見なさい。巻末の「エホバの証人と神性を論じる」の部分も見なさい。

ピリピ 2:9-10

「それゆえ, 神は, キリストを高く上げて, すべての名にまさる名をお与えになりました。 それは, イエスの御名によって, 天にあるもの, 地にあるもの, 地の下にあるもののすべてが, ひざをかがめ」。
 エホバの証人は, こう言うかもしれない。「もし, イエスが神なら, イエスはすでに最高の地位を 占めて, すでにすべての名にまさる名を有していただろう。だから, 『御父』からこれらのものを 与えられた者であるから, 神ではない」。しかし, 問題は文脈を無視したことである。新世界訳で さえ, はじめ「彼は神の形で存在していました」(6節)。確かにイエスはそれよりも以上高く高め られていなかっただろう。しかし, 7節によれば, 「自分を無にして奴隷の形を取り」。そこでは 8節に, 従って, より「自分を低くし」たと述べる。だから, 「御父」が彼を高めることのできる 地位より低い地位からであった。

コロサイ 1:16

「なぜなら, 万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの, 地にあるもの, 見えるもの, また見えないもの, 王座も主権も支配も権威も, すべて御子によって造られたのです。万物は, 御子によって造られ, 御子のために造られたのです。」
 エホバの証人の新世界訳は, これとは, 違って括弧でくくった表現「[他の]」を, 頻繁に挿入し, 訳出する。「なぜなら, [他の]すべてのものは‥‥彼によって創造されたからです。[他の]すべての ものは, 彼を通して, また彼のために創造されているのです」。 

 「すべてのものを作られた方は, 神です」(ヘブル 3:4)から, 明らかにエホバの証人は, イエスが, すべてのものを造ったと認めることを避けたがる。カルトはそれに代わって, 「神によって直接に 創造されたのはイエスだけであった」のであり, 「他のすべてのものをエホバとともに創造しました」 (『楽園』58頁)と教える。

 この考え方によれば, キリストは神, 創造者ではなく, 創造された最初の天使に過ぎない。‥‥ 「主要なみ使いはみ使いの頭であるイエス・キリストで, ミカエルとも呼ばれます。」 (『ものみの塔』誌1995年11月1日号8頁 )。

  しかし, 神は本当に自分で唯一の天使を造ったのか。そしてすべて「他の」事物を創造する為に 天使を用いたのか。いいや, 違う。神は‘自分’で‘一人で’天と地を創造したと自ら証ししておられる。 聖書は, はっきりさせている。「主はこう仰せられる。『わたしは万物を造った主だ。わたしはひとりで 天を張り伸ばし, ただ, わたしだけで, 地を押し広げた‥‥」。(イザヤ 44:24)。

 従って, 聖書はすべての事物が「御子」によって創造され, 聖霊が創造時に存在していたこと (創世記 1:2), 主(エホバ)が「独り」であったことを明らかにしている。 もし, 父・子・聖霊が唯一, まことの神から成り立っているならば, これは理解できる。 箴言 8:22-31, イザヤ 44:24の項を見なさい。

テモテ第一 2:5

「神は唯一です。また, 神と人との間の仲介者も唯一であって, それは人としての, キリスト・イエスです。」
 証人はこう論じるかもしれない。「二つの当事者間の仲介者は, 二者の中間に立ち, 当事者のひとり ではないでしょう。だからもし, キリストが神と人の間の仲介者なら, キリストは神ではないでしょう」。 しかし, エホバの証人の理論が, 本当なら, キリストは人でもないかもしれない。しかし, 聖書は キリストを人であるキリスト・イエスと呼ぶ。殆どの場合, 二人の当事者間の仲介者は当事者の ひとりではないと賛成できるが, この場合は違う。証人自身の新世界訳でも, キリストは「神の形」 で存在していたが「奴隷の形」を取った(ピリピ 2:6, 7)と明示している。仲介者はどちらの当事者 でもないから, 当事者間の中間に立つことができる。キリストは神と人, 両方の長所によって, 両方の側に立つのだから, キリストは, 中間に立つことができるのである。

ヘブル 12:2

「信仰の創始者であり, 完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは, ご自分の前に 置かれた喜びのゆえに, はずかしめをものともせずに十字架を忍び, 神の御座の右に着座されました。」
 キリストが横木のないまっすぐな杭の上(伝統的な十字架ではなく)で死んだとするエホバの証人の 主張は, 『JW answered verse by verse』と『Answering JW Subject by Subject 』のヨハネ 20:25の項に書かれている。しかし, エホバの証人は, キリストや キリスト教を象徴しているシンボルとして建物や絵画にクリスチャンが十字架を用いることに反論 する為, ヘブル 12:2に表れた考えを用いる。彼らの論証では, イエスを殺す為に用いられた道具 は恥ずべきものだった。(本の表紙や教会の建物の装飾とて使うことは憎悪すべきものである)。
 「もしあなたの最愛の友のひとりが偽りの告発を受けて処刑されたとしたら, どう感じますか。その 処刑に用いられた道具, たとえば絞首刑用の輪なわ, あるいは電気いすの複製を作って, それに口づけ したり, その前でろうそくをともしたり, それを飾りとして首に下げたりするでしょうか。‥‥ユダヤ人 やローマ人にとって, イエスの死のさまは, 不面目で恥ずべきものでした。イエスは, そのかたわらで 刑柱につけられた悪人のように, 最も卑しむべき犯罪者同様に処刑されました。‥‥したがって, その死は, 考えうる最悪の仕方でイエスを悪人に仕立てるものとなりました。ですから, クリスチャンに とって, その刑具そのものは非常な嫌悪の情を催させるものだったでしょう。したがって, 神の是認を 望むなら, 『偶像を拝することを避けよ』という神の命令に従って, 十字架を退けるべきではあり ませんか。‥‥」。(『目ざめよ!』誌1972年12月22日号27頁。
 金の十字架の前に屈む人々は, 確かに偶像にすり替えて来た。しかし, 単にキリスト教の象徴として 十字架を使う大多数のクリスチャンはどうか。それは邪悪なのか。十字架を避けるべき, 嫌悪すべきもの と考えるだろうか。使徒パウロは, その様には考えなかった。パウロは, 「十字架を誇り」 (ガラテヤ 6:14)と言った。国々に彼が運んだ福音は「十字架の伝道」, 或いは, 「十字架の福音」 であった。彼は, 福音全体を「十字架につけられたキリストを宣べ伝える」 (コリント第一 1:18, 21-23)と要約した。私達は, パウロもキリスト教の象徴として紙に書かれたり 塗られたりした十字架を用いたかどうかの証拠を持たないが, パウロはその書物の中で生々しい叙述 として, 確かにそこで十字架を用いていた。十字架を取り上げ, イエスに従う者として, キリスト 自身が信徒を象徴的に語っている(マタイ 10:38, 16:24, マルコ 8:34, ルカ 9:23; 4:27)。 結局はパウロが, 「キリストの十字架の敵」(ピリピ 3:18)として象徴的に語った者のひとりに なってはいけないから, キリストが, 死なれた刑具を嫌悪すべきものとして避けるものみの塔の 指導者は, 自分自身とその教えを再検討しなければならない。

ペテロ第一 3:18

「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。 それは, 肉においては死に渡され, 霊においては生かされて, 私たちを神のみもとに導くためでした。」
 エホバの証人の新世界訳は, キリストが「肉において死に渡され, 霊において生かされたのです」 である。(そう訳している翻訳は, 他にも少数ながらある)。ものみの塔は, 意味としては霊において と解釈する。「死からの復活の際, [イエスは十字架で死んだ体ではなく, ] 霊の体を持つ者として 生み出されました。」(『聖書から論ずる』381頁)。そうしてカルトはキリストの肉体の復活を 否定する。  ものみの塔によると, 十字架の上で死んだ体は「エホバ神によって捨てられ, 構成する要素や原子に 分解された」(『Watchtower』1953年9月1日518頁, 英文)。「神は, イエスの遺体を処分し, それが 腐れを見ることがないように, また信仰のつまづきのものとならないようにされました。」 (『ものみの塔』1991年11月15日号31頁)。

  「キリストは, 世の命のためにご自身の肉の体を渡したのですから, それを再び得てもう一度人間に なることはできません」。(『楽園』143頁)。イエスが, 犠牲になって捨てたものを返すことを 意味します, とエホバの証人は説明する。それはキリストご自身が自分から教えたことだろうか。 そうではない。イエスは言われた。「わたしは羊のためにわたしの命を捨てます。‥‥わたしが自分 からいのちを捨てるのです。わたしにはそれを捨てる権威があり, それをもう一度得る権威があります (ヨハネ 10:15-18)。イエスの体は捨てられたのだろうか。そんなことはない。特に, 「自分の体」に ついてイエスは言われた。「わたしは立てよう」(ヨハネ 2:19-21)。エホバの証人の新世界訳の ヨハネ 2:19でさえ, イエスは「わたしはそれを立てます」と言っておられる。

  あるとき, 弟子たちは復活したキリストが「霊者」であると誤って考えたが, イエスはこう応えておられる。 「わたしの手と足を見なさい。これはわたしです。わたしに触り, また見なさい。霊には, あなた方が わたしに見るような肉や骨はないのです」。(ルカ 24:39, 新世界訳)。ヨハネ 10:17-18, 使徒 2:24, コリント第一 15:45の項も見なさい。

黙示録 1:1

「イエス・キリストの黙示。‥‥神がキリストにお与えになったものである。」(新国際訳)。
 イエスが「父」から啓示を「受けた」のに, どうしてイエスが神なのか。ここでの問題は, 再び知識に関係する。「父」が イエスに啓示を与えるまで, 啓示の中の情報を知らないとイエスが決めていることが, 「子」が神では ないということか。エホバの証人がそう示すなら, 新世界訳を開いて, 創世記 18:20-21を読むよう, 頼みなさい。「そこでエホバは言われた。‥‥わたしは, それについてわたしに達した叫びのとおりに 彼らが行動しているのかどうかを見るために下って行こうと決めている。もしそうでないのなら, それも知ることができよう」。もし「御父」が神であり, 他者から特定の情報を受けることを決める なら, 「御子」もそうできる。ヨハネ 16:15でも, イエスがこう言っておられる。「父が持っておられる ものは, 皆わたしのものです」。「皆」は, 明らかに「御父」が持っているすべての知識を含んで いる。実際, 新約聖書は「御父」のようにイエスも, 「いっさいのこと」を知っていると, はっきり させておられる。マタイ 25:36, マルコ 13:32の項も見なさい。

黙示録 1:6

「また, 私たちを王国とし, ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である, キリストに 栄光と力とが, とこしえにあるように。アーメン。」
 「イエスの神」が「御父」なのだから, イエスは神ではないかもしれないと論じる為にエホバの証人は この聖句を用いる。しかし, この表現は, イエスが「わたしの神」の表現を用いることに従っている だけである。ヨハネ 20:17やこの本の巻末にある「エホバの証人と神性を論じる」の節も見なさい。

黙示録 3:12

「勝利を得る者を, わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。 わたしは彼の上にわたしの神の御名と, わたしの神の都, すなわち, わたしの神のもとを出て天から 下って来る新しいエルサレムの名と, わたしの新しい名とを書きしるす」。
 上に書いてあるヨハネ 20:17, 次の「エホバの証人と神性を論じる」の項目を見なさい。

「エホバの証人と神性を論じる」はこちらをご覧ください


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