エホバの証人とこころの病の問題
第9章 証人としての生活
ほとんどの証人が抱えている問題は、生きている間、常につきまとっている要求や気持、自制心である。最低、週に5回の集会に出席するほか(もし自発的にやるなら、ほかに何時間か追加される)、数ある中でも、個人的な研究、偶然起きる証し及び戸別伝道や再訪問への参加が求められ、聖書研究が求められる。足りなければたいていほかの証人から組織的な圧力が加わる。極端に不足すると長老の訪問が待っている。週に3回から4回の王国会館への出席するために移動する時間は相当考えないといけない。もし場所が遠ければ田舎に住んでいる者には、週に4時間以上の時間が必要となる。
そもそもの発端からの信者への極端な参加の求めは、この組織の特徴となった。たとえば、証人を辞める前に20年以上、活動家であった人が書いた次の文章に注目してみよう。
私がとても活発な証人として生きていたとき以来、確信を持って生きることを学んだ。いつもいつも、とても忙しかった。いつも自分は何のためにこうしているんだとうと目的を自問していた。証人はとても目標を持って働いており、意識して自分の時間をすべて利用する。少なくとも私はそうだった。すべての集会に規則的に出席するなら週に10時間から12時間必要となる(週に5時間。往復の時間と終わってから義務となっている交わりの時間を含む)。ほかに週に5時間の準備の時間があった。また別に奉仕が週に6時間、合計12時間、要った。わたしの会衆は労働や勉強にベストを尽くすように力説した。それは家事などの仕事を勤勉にこなすことを意味していた。
これを全部やると自分に残された時間は少ない。スポーツやレクレーションの時間は強く抑えられた(少なくとも規則的な参加はだめだ)。私はレジャーにも、たまに見る映画、読書にも時間を割かないようにした。テレビさえ見なかった。そして証人を辞めるととてつもない真空の時間ができた。前にあったような強力な指示や目的はもはやそこになかった。今では別の活動に参加しなければならなかった。そして同じようにした。気を正しく持ち続けるなら、今でも一日のほとんどを、忙しくしていないといけないことが分かった。さもないと無目標と無力感などを感じ始める。私が証人になったとき持っていた強い決意をほかに見つけるのは困難であった。
上に挙げたように、組織を離れた証人が抱える深刻な問題は、新しい一定の目標に向かって行くのが困難だと大半の者が認識していることだ。その多くはものみの塔にいたときに非証人的な目標をわずかにしか発展させなかった結果として、低い程度の動機付けしか持たない。現役の証人はその生活全部が組織への改宗と組織の目標達成の試行錯誤に向けられている。いったん組織を辞めると、それらの目標はすべて消えてしまう。その結果、元証人はたいてい、人生における目標が無いことにとまどいを覚える。たいていは何ヶ月あるいは何年も何にも手が付かなくなる。生き延びるために何をするか、価値のある活動に自ら参加したいのに難しさを覚える。若いときには人生の目標の情報が生まれやすいから、証人として育てられる者は、成長の重大な期間に非常に程度の高い情報を得て発育する可能性はない。後になって新しい目標の情報を得るのは非常に難しい。
一方、現役の頃は、ものみの塔の中での証人の熱狂的な活動は基本的に決して新しいものではなかった。いつもしなければならない研究があり、読まないといけない雑誌があり、出席すべき集会があり、しなければならない「再訪問」がある。目標を完成させる予定表を停止したり跳ね返せる期間はあるが、こうするようにと、継続的なプレッシャーが上から来る。いつまでも目標に達しないから、活動は浮き沈みがいつもある。しかし、その通りにやるときわめてよく誉められる。たとえば作家は継続的に働き、いつもある仕事にいそしんでいる。いつかは仕事を完成し、最終製品を手にする。ほかの本の仕事に取り組んでいるとしても、その作家はとりあえず、くつろいで労働の報酬を味わえる。それが短い記事だろうと、本であろうと、雑誌の中の簡単な注釈であろうと、労働の果実は実体のある製品に結実している。ものを書くにはいくつかの違った段階がある。調査、データの収集、背景となる資料の読み込み、聞き取り調査、執筆、ゲラ刷りの校正、ネーミング……これらの段階を踏んでものを完成させた意味があり、進歩と変化の感覚が生まれる。
しかしたいていの証人にはこうした感覚が全くない。証人が浸っている活動は実際はかなりうんざりさせられるものであり、たいてい、直接の報酬が与えらない、非常に繰り返しの多いものであることに、潜在的な害がある。どこに行っても、場所が変わっても、年月が過ぎても、同じ概念や同じ考えが聞こえてくる。証人は次から次へと集会に出て、根本的に同じような、オウム返しの考えに耳を傾ける。毎年、毎年、一年に48回、「ものみの塔」と「目ざめよ!」の同じような情報を読む。同じ引用が繰り返し、繰り返し使われる。ふつう証人が一年に12回も耳にする引用が分かりにくく記述してある。「国連は地上の神の王国の政治的表現である」と言われる小さな、現存しない宗教組織であると言う。この記述は1914年(歴史の分水嶺)における紛争に賛意を示す「ものみの塔」と「目ざめよ!」にも、集会のスピーチにも引用される。証人(聖書研究生と呼ばれる)は神の側に立ち、すべての教会はサタンの側に立つと言う。有名な元証人は次のようにして、熱狂的な証人活動の問題を集約する。
精神衛生に対する協会の態度や精神病医師や心理学者へに対する嫌悪感を考えると、伝道や集会にすべて出席する証人の間に精神衰弱の事故があることをどう説明するつもりなのか。私は精神衰弱をきたしている全時間開拓者や巡回して奉仕している大勢の人を知っている。これらの人たちの抱える問題の主要な要因として、狂信的な証人活動への圧力が考えられるというのが私の意見である。兄弟はこうした活動で健康を維持できるとする協会の考えとは反対に、信者を狂気に追い込んでいる(元証人で元長老であるクリス・クリステンソンの手紙1976/9/6)
非常に活発に野外奉仕をしたり、すべての集会に出席した大勢の証人が、精神的な病気になることは外部の者にも証人内部にも知られている。「ついに彼は重い病気になってしまった。精神衰弱を経験し通院する羽目に陥った。同じ例を何度も目にしてきた。こんなに多くの伝道活動が精神衰弱の原因と結びついている」と結論を出すかもしれない。しかし上に上げたように、ものみの塔活動へ証人が忙しく働くことだけで重い精神的な問題を引き起こすのではない。「精神衰弱」に結びつくおそれのある要因は多い。内面的な不幸な状態を包み隠すことに過度に注意を払ったかもしれないし、ものみの塔に熱中してしまい(証人の信仰の問題を発見して)以前の強いのめり込みを後悔するのかもしれない。関わりが深くなると、活発な証人は組織に都合が悪いことがらを知る機会が必然的に避けられなくなる。失うにしてもかなりの投資をしてきたから、深い関係を持った証人は内面的な争いがあるかもしれない。証人は間違いを認めるにしてもそれに対する恐怖がある。関係が浅ければ浅いほど、たいていは傷が浅くて済む。
確実な事実から不確かな結論にたどり着くまでの一歩は、とてもささいな動作である。ときにはとても分かりにくい。二つのことがらが関係すると言って一方が他方の原因となるとは限らないからだ。 精神的な不適応がかなりの部分、証人の活動の原動力となるときもあるし、証人の活動が位が高いといってもほとんどは衝動的な不適応を起こさないかもしれない。「原因」として見なした要素が、実際の原因となる要素とはきわめてかけ離れているのが本当かもしれない。精神衰弱になった非常に活動的だった証人を偶然知ることと全く確率が一致するかもしれない。関係があるかもしれないが、我々の個人的な経験によって十分に証明することはできない。AもBもたいていは別の要素Cの結果である。この一例には、重要な人物(この場合、ほかの証人)を喜ばせようと、劣等感を克服するためにきわめて一生懸命に尽くす危険な人物の例がある。狂気の沙汰で対応しても克服できない者は「精神衰弱」を患っているかもしれない。この反応はエゴの欲求に見合う能力がないのが原因である。活動の活性が高いからではない。そしてエゴの欲求が活性の高い活動の原因となる。それがないと感情的に落ち込む。この研究者の結論によると、この後者の関係は、証人の間ではごく当たり前であり、ものみの塔の報酬の仕組みがこれを妨げているから、証人が活発に活動しているのにも関わらず正常な自我の欲求がしばしばそれに見合っていない。
前に注記したように、たとえ相当に名声を上げた者であっても、それを達成した個人ではなく、「名誉をすべて神に帰す」ように、協会は証人に促す。 名誉を持つ証人がけなされるのはよくある話だ。成功をした者が評判を落とされるのは当たり前である。成功は個人の能力の故ではなく、神のおかげだと、常に言われる。逆説的に、証人はほかの証人に感情的な不適応をきたす道具となるであろう謙遜さのつまずきを突き出す(「ジョン兄弟!雑誌を9冊配ったからと言ってでかい顔するんじゃないよ」)。私生活において成功しないよう邪魔をするのはその枝分かれである。何はともあれ、公式なものみの塔活動にすべての証人が参加するよう、常に協会は忠告する。証人の活動で成功するかしないかは、神の前において人間として成功するかしないかに密接に関連している。人はものみの塔活動にすべての心を奪われるべきである、証人の活動は証人の唯一の正業であると協会は主張する。たとえ全時間奉仕をしても、世俗の仕事はすべて副業であり、二の次である。
ものみの塔への奉仕を怠ると、感情的な苦痛を伴う個人的な過失となる。自然の流れとして証人の仕事は、衰退する傾向にある。数千回の戸別訪問の前には聖書研究を始めなければならない。一人の活発な証人となる前には、長い時間をかけて研究を始めていなければならない。1991年、たった300千人(そのほとんどが子どもや友人や親族)がバブテスマを受けるのに約10億時間、証し活動をしたと報告されている。その全員が改宗すると、一人が改宗するのに途方もない3163時間が費やされる(1992年年鑑)。人が活発な証人になるとその大部分がドロップアウトする。活発な証人になり、ドロップアウトしない者の大半は、遅かれ早かれ、幻滅を感じる。大部分は付き合い上の理由や家族の問題や個人的な問題でとどまるけれども、その期間はどうあれ、一握りの者だけが、深く関わり、整えられ、献身した証人となる。証人は過失に縛られ、その結果、失望する。証人の集会での共通の話題は「失望」の克服である。証人は常に「励まし」と事を築き上げることを話し合うように勧められる。証人の口先だけの共通の誉め言葉はいくつかあるが、「励まされます」あるいは「見上げた兄弟ですね」だ。
この不可避の失敗にはいろんな形の仕打ちが加えられる。失望を減らすのに不可欠な方法は、証人が失敗を予想するよう、条件付けをすることである。大勢の住民が証人の目前で扉をぴしゃりと閉め、耳を貸さないことを証人は予想している。失敗を予想して、多少は失敗へ調整をする。少しでも耳を貸しそうな人と話すために数百回も扉を叩くよう期待されていると学習する者もいる。たいていの人は行儀良く人の話を聞いているけれど、ごく一握りの人だけ興味を示すという事実に調整を学習する者もいる。人は証人との関係を深めないように決心するのだという事実を学ぶだけに新人(いわゆる聖書研究生)と6ヶ月間研究するのだと予想する。多くの聖書研究生がバプテスマを受け、正規に野外奉仕をし、ドロップアウトすると予想するよう学習する。証人たちがそれを全部予想して当然だとしても、多くの証人にとって失敗はとても辛いものだと考えさせられる。失敗が予想されても、それでも失敗があり、失望がある。
報酬や自己満足を得られるいろいろな活動や関心事をしないで証人たちは全人生を一つの目的(ものみの塔への奉仕活動)に投資する。それを神への奉仕と考えている。その活動分野における失敗や失望は悲惨である。証人は唯一の活動(証人活動)に参加するよう強く勧められる。そのほか、趣味(写真や絵画)のようなものは、強く思いとどまらせる。もしも証人がこうした「世の仕事」に浸ると、常に「あなたの趣味に時間を取られないよう気を付けなさい」と戒められたり、「趣味に自己本位の努力を傾けるなんて、本当は時間を犠牲にしていると思いませんか」とか「私なら、自己満足に浸らないで、人々に差し迫った滅びを警戒させ、エホバのために私のすべての時間を捧げるように選びますか」といった質問を受ける。
一致のために罪を使うのです
一致させるために用いられる技巧は簡単だ。証人はものみの塔の命令を守らないと罪を感じさせるように作られている。仕事や家族や証が求められる時に時間のやりくりができなくなるのがどこでも当然だが、ものみの塔がいつも優先するのだ。次の会話に注意してみなさい。
トム:この夕方、集会に来てくれますね。
ビル:それがまずいんです。すぐにかたずけないといけない仕事のためのに報告を作っているところなんです。
トム:集会に行かないと言っているんですか。
ビル:ちょっとでも集会を欠かしたことはなかったけれど、今度はこの報告書を仕上げるように迫られているんですよ。
トム:エホバが人々を愛して作った霊的な宴会を拒んでいるのかね。
ビル:ところで、私は家族を養っていかないといけない。
トム:エホバは私たちの前に、驚くべき慈愛によって、私たちが感謝をして食事に与るべく、霊的な宴会を整えられた。あなたは天の父からの愛を大胆にも拒み、人々の前にエホバが愛を持って配置された慈悲深い恵みに代えて、わがままな物質的な仕事を追い求める道を決意をしたと言っているように、私には聞こえる。エホバのもっとも愛する者は、なんてすばらしいことか! ビルよ、私はあなたにはうまく言えない。しかし人々に、また私に対して整えられたエホバの霊的な食物を味わう。エホバが私たちに現した慈悲に背を向けられない。もし私があなたの立場なら、選ぶ道を注意深く考えよう。優先的に肉的な仕事、世俗的な仕事を追い求めると必ず、エホバの不評を買うだろう。
ビル:もし4時から5時に起きられるなら、仕事をする前にこの報告書を書き終わらせると思います。
こうした常に変わらない手順を踏んだ会話が、証人個人に感情的な衝突を引き起こす。仕事や家族としての義務にまともに関心を払うことと、さらに自分の良心あるいはものみの塔への「義務」である集会出席をするようにとの他の証人からの圧力……。こうして証人に重大な衝突を引き起こす。その両方に十分な時間を割く余裕はほとんどない。
そうした衝突は虚偽の動機付けとなる。協会に差し出された「全力を尽くした」献身は証人活動に参加するといった建設的な要望からいつも生じているとは限らない。ある程度までは、罪と恐怖から生じるのだ。圧力から生じる罪の要素は、次のようにハリソンによって描写されている。
(ものみの塔本部で生活し、働いていたときには)(いつも)夜になると祈りをしようとしたけれども、(いつも)それができなかった。毎朝5時30分まで祈っていて瞑想に耽る姉妹の注文を所々で目にしていた。真夜中過ぎの暗い時間に行われる騒ぎを控えなさいと書いてあった。眠れないときにはそのことを考えていた。たいていその時間だった(教えられてから、私の心の中で尼僧はみだらでバチカンの邪悪の代表であると長いこと耳に届いていた。しかし私が取ったやり方では、私が考え始めていた方法を反映しなかった)……。自分の体の上に自分の体が浮かんでいるようにベッドで横になっている。わたしの皮膚は薄いようでいて、外側が堅く、どこか危なげで、火山の火口を横切ってデリケートに伸ばしているようである。私の体は巨大な割れ目に引き裂かれるかと思われ、皮膚は鎧にするには不十分であり、全く頼りにならないかのように思われた。
(誰かが私のためにできる最善のことといったら、私が狂気になっていると私に伝えることだっただろう。私は狂人を妬んだ。なぜなら、狂人は気狂いのように行動し、彼らにも病名があったからだ。私は自覚していた痛みに名前を付けられなかった。笑みを絶やさなかった。私の高校の英語の教師、アーノルドとの集まりの時、私は先生に私の悩みを打ち明けなかった(誰にも打ち明けていなかった)。先生は、悲鳴を上げたり、そこら中を叩き回ったり、やたらと物を壊していた暴れん坊集団のことを話した。私は泣けてきた。先生は私がその子どもたちのために泣いていると考えた。しかし、私は自分のために泣いていたのだ。その子どもたちは幸運だと考えた。私の悲鳴は決して悲鳴として受け取られない。私の怒りは上手に抑えられていた。
私は寝ているときには夢を見た。いつも同じ夢だった――私は塀で囲まれた庭園にいる小さな少女だった。古めかしい形をした花でいっぱいだった。フリージア、スウィート・ウィリアム、つるばら、やぐるま菊、(季節はずれの)白いライラックや紫色のライラックなどがあった。庭園の台の端には、性別不明の動物がいた。まばゆいばかりに金の衣を着て、母親のようでいて、上品な身振りで私に手を伸ばしている。威厳があり、しつけるようであった。意志には関係なく、私はその動物に引き寄せられる。嘆願するようであり、命令するようでもある口調で私を呼んでいる。その動物の胸の内に抱かれると、その声は触って分かるようになる(その声は懐かしくもあり、恐ろしくもある)。それは私の内からの声であり、体の外にもある。血管からあふれる溶けた銀のようになる。麻痺させられ、抵抗もできず、その動物に押し出された。その動物はいろいろな外見を持っていて、敵意を持っているようでいて、穏やかである。氷のように冷たい胸にきつく縛られて押し出され、塀の外に出される。何もない空に投げ出される。そこにはバラバラになったハンプティ・ダンプティの人形がある。それを空に向かって投げつける。私の前にはもう、何も残っていない。
謙遜さの躓きと目に見えないタルムード
「ものみの塔」のページからは、絶え間のない忠告が見られる。一般人向けの主義主張、奉仕に励む証人の紹介、もっと「霊的」に、もっと謙遜して、肉的な物を避けるように、わがままにしないように……などなど。ドアの前あるいは近所の人や友人からの素っ気ない拒絶と組み合わされているから、ふつうの証人に共通して見られる劣等感の原因となる。証人は信仰面でほかの宗教に批判的になりがちであるから、ゴシップが非常に共通した問題となる。多くの場合に非合理的な規格に忠実に従って生活している証人はごくわずかしかいないから、たいていの会衆にはゴシップが氾濫している。もちろん、ゴシップはたいていはゴシップを言う人が自分の立場をよくしようとして行う策略である。その者は証人の内情をよく知っていて、気が付いていて、証人の味方であるふりをする。
長老はふつう、そうした噂や中傷、陰口、酷評やその他の代償行動があるのは、ほとんどの会衆でごく当たり前であることがよく分かっている。不幸にも会衆は別なルール、文字通り「陰口の禁止」を打ち出してこの問題に対応している。けれども、これは問題を糊塗するだけにすぎない。陰口がなぜ起きるか、感情的な理由を分からせるために、洞察をさせたり、それを教育させる長老もいる。その長老の忠告は、長い目で見て問題を難しくさせ、現存している敵意を混在化させる傾向しかない。おそらく最大の犯罪者は長老であろう。日頃からふつうの伝道者の話をほかの人よりもよく聞いているからであり、噂される問題をもっともよく知る立場にあるからだ。長老の秘密会で耳にした情報が会衆の陰口の火種になるのは、火を見るより明らかだ。ホワイトはこう、注意している。
現在のところ、統治体は自分たちが判断を下すことを許しておきながら、現実にはエホバの証人にモーセの律法と同じ型の(何をしていいか、何をしては悪いか)神の律法を公表してきた。戒めの上に戒めを重ねた結果、予想したとおり、イスラエルのモーセの律法と同じ結果となった。会衆の審理委員会でもその審査の対象にもなっていない、神権主義の法に立ったおびただしい量の隠された禁止事項があった。強制力を持たないがしかし、大切な事柄、即ち、隣人への愛、正義、慈愛、信仰が無視される一方、些末なことがらが、事細かにいくつも細分化されている。誰だって法を完全に守れないから、破門と保護観察の数が常に増えてくる。
上に上げた引用でも触れられているけれども、高い精神病罹患率の主な理由は、「目に見えないタルムード」(クリスチャンセン1976年)の異常な重圧である。ものみの塔によって禁止されたり、忌避された事項には、際限がない。その中でも重要なものには次の事項が含まれる。
| 忠告を受ける行為・禁止される行為 | 理由 |
| 1.国旗に対する敬礼、女王や国の表象物に対する敬意 | 唯一の権威だから偶像崇拝 |
| 2.宗教的な表象、その他の表象物の着用および所有 | 偽りの崇拝 |
| 3.国旗をなびかせる、あるいは国家的な行事 | 霊的姦淫 |
| 4.いかなる形であれ、ほかの宗教への参加。 教会の販売行為、ビンゴ、規則的な奉仕や葬式を含む ほかの宗教と結びついた組織への参加 |
霊的姦淫 |
| 5.誕生日 | 偶像崇拝の形式あるいは自己賛美 |
| 6.夜のたき火 | 祝日を祝う宗教的な背景 |
| 7.結婚式やパーティなどでの乾杯 | 偽りの崇拝、偶像崇拝 |
| 8.投票 | 世との交わり |
| 9.防衛庁、工業地帯、工場での仕事 | 世の戦争へ協力 |
| 10.宗教からポルノグラフィーまで異議のある事項に関連した製品の製造販売 | 偽りの崇拝、偶像崇拝 |
| 11.クリスマス、イースター、セントバレンタインデーその他の祝日の祝い | 異教の実践 |
| 12.輸血あるいは献血 | 血の食用、故に邪悪 |
| 13.ほかの宗教からの文書を読む行為 | 精神的毒物 |
| 14.自慰行為 | 自己偶像化、過剰なる性への関心 |
| 15.不妊(最近、変更された) | 妊娠を妨害 |
| 16.臓器移植(これも最近変更された) | 聖書的罪 |
| 17.若者のクラブ活動 | 時間の浪費 |
| 18.肥満(これはしばしば無視される | 神殿である体の虐待 |
| 19.ギャンブル(一杯のコーヒーにコインを賭けても) | 仕事をしないで収入を得ている。サタン的 |
| 20.警察署への就職、野犬狩りから市長職まで公職に着く | 世において避けるべき場所 |
| 21.狩猟や魚釣り(止めるように忠告を受けるだけ) | 命の尊重の観念が足りない |
| 22.メロドラマ(止めるように忠告を受けるだけ) | 証人活動から価値のある時間を奪う、あるいは罪悪な影響 |
| 23.「悪い冗談」を笑う | 不道徳 |
| 24.学校の同窓会役員など、クラスの役員指名を受諾 | 世において避けるべき場所 |
| 25.ボーイスカウト、ガールスカウト、カブスカウトへの参加 | 世間から中立であるべき。 愛国心を持たないように。教会との関係を避けなさい |
| 26.モーニング服の着用 | 異教の実践 |
| 27.自分を裁こうとする | 謙遜さが不足してい |
| 28.組合の役員になる。あるいは商業的組合に参加する ピケや投票も含む |
世間から中立でなければならない |
| 29.ポップ歌手や映画スター、テレビタレントを真似る | 偶像崇拝 |
| 30.有名人あるいは「人間くさい知恵」に従う | 不道徳で非聖書的な価値観を持つ人間に従う |
| 31.付添人なしに生徒がデートで外出する | 性的な誘惑 |
| 32.結婚の式で飯米を投げる | 異教的な習慣 |
| 33.公衆の面前で愛を表現する(つかの間の挨拶や別れなら良い) | 性的誘惑 |
| 34.赤十字その他の慈善団体に金銭を寄付する(クリスチャン団体であるかどうかは問わない) | いかなる宗教団体であれ、その支援は邪悪 |
| 35.公的な政党 | 世への行きすぎた参加 |
| 36.良い立場にあるバブテスマを受けた男性の証人が指導していない祈りへの参加 | 証人だけが本当のクリスチャン |
| 37.性交が認められている時に結婚相手と自由に「拘束されない情交」をする | 性的な不道徳 |
| 38.冒涜をしている言葉または非証人的な用語の使用 | 不道徳。聖書はみだらな会話を非難する |
| 39.長老が「思わせぶり」と解釈するポピュラーダンスを踊る、あるいは配偶者以外とのダンス | 性的な誘惑 |
| 40.補習授業への自発的な参加 | 証人活動の時間を奪う |
| 41.喫煙 | 自己虐待、体の神聖さを汚す |
| 42.治療以外で薬物を使用する | 体の自己虐待 |
| 43.ポッピーデー(軍人救済デー) | 参戦を志願する者は応援できない |
| 44.非証人的な出版物や古びたものみの塔の出版物を読むこと | 罪を犯した者や世の人との付き合いをしない |
| 45.陪審員になる | 世の争いでは中立であるべき |
| 46.軍隊あるいは軍事力を持つ団体、防衛軍の一員になる | 世の戦争に参加するのは邪悪 |
| 47.自己防衛のために好戦的な絵画を研究する | 軍事的な起源 |
| 48.クリスマス、新年、セントバレンタインデーの製品を販売する | 異教の実践 |
| 49.集会を欠席する。あるいは奉仕を怠る | 神に不忠実 |
| 50.運、幸運、掲示板、「おや」、「あれまあ」といった言葉の使用、「幸運を祈る」と述べる | 偽りの神、即ち運の神、サタンを指している |
| 51.精神病医師や心理学者に会う(現在は否定されるだけ) | ものみの塔を離れるように証人に影響を与える恐れがある |
52.大学進学(強く否定される) 世との交わり |
その時間は神に奉仕すべき 禁止される科目もある |
| 53.社会運動や否定される自助行為 | 時間の浪費 証の活動に使うべき |
| 54.協会を疑う | 神への反逆 |
| 55.チェス、カード、チェッカーなどのゲーム (否定されるだけ) | 軍国主義的 |
| 56.残業 | 証人活動の時間を奪う |
| 57.ロックコンサート鑑賞 | 罪深い感化 よけいな時間の浪費 |
| 58.結婚するつもりがないのにデートする | デートの目的は結婚 |
| 59.隣の家人と友人になる | 世との交わりは邪悪 |
| 60.集会で婦人用のパンツを着用する | 不適切な服装、ひどく男らしく見える |
| 61.非常識な髪型、洋服 | 自分に人の注意を引く |
| 62.(過去の、あるいは現在の)政治的あるいは宗教的な指導者を誉める | 邪悪な政治への関 |
| 63.スポーツ活動 | 証人活動の時間を奪う 邪悪な競争 |
これらの禁止事情をすべて慎むのは非常に難しい。これらの事項のうち、いくつかは回避すべきだろうが、上に上げた行為にはどこにも悪いところはないじゃないかとたいていの人は思っている。また、ものみの塔は昔から、その立場を逆転したり(時には急進的なやり方で)、公式な政策を変更したりしている。ときおり、ものみの塔の規則のいくつかに違反するよう強いられたり、あるいはその誘惑がある。こうした立場に置かれると、たいてい「接近―回避」の感情的な衝突に終わる。それは証人の共通した状態である。
リメルトは少数派の宗教団体は、特定の信仰や考えの外に実践の面で過剰に一致を求めたがると注意を向けていた。社会的に認知されていない状態を避けたり、あるいは伝統的ではない行為を楽しんだり、証人がやっているように現状の社会のルールを攻撃する宗教団体が、ある場面で注意を引こうとするためであると、リメルトは指摘している。こうした集団のイデオロギー的立場を攻撃するのは時には難しいけれども、言われている性的不道徳や地域共同体の規範からの逸脱を攻撃するのは簡単だから、カルトは信者の行為に目配りするに当たっては異常なほど敏感である。従ってカルトはよそよりも警戒を怠らない。(エホバの証人の教義に反しない事柄にさえ)協会の律法と規則への一致に関しては並々ならぬ関心を表している。ものみの塔は証人に対して、でき得る限り、ちょっとでも協会の規範に反しないで程度の高い道徳や模範的行為などを表に出すよう、常に励ましている。そのため証人は控えめな洋服にこだわり、できるだけ「尊敬すべき」ビジネスマンを真似ようとする。
もしも、会衆の中に一人でも上に上げた罪の一つに違反しても懲戒を受けていない者がいるなら、その会衆は「神の霊を失う」だろうと言う信仰は、個々の証人にとって滅びとなる。証人がなんらかのあいまいな罪の意識に悩んでいるなら特にそれが強い。ほとんどの会衆で問題が多く抱えているから、なんらかの罪を感じている者は会衆内では神の愛を失わせてしまうと信じこんでしまうかもしれない。おびただしい量の罪の意識のために、ものみの塔が信者に求めてきた多くの規則の間には小さな食い違い違いを生むのかもしれない。組織の外にいる者にとって、証人が守らなければならない規則や律法の量と範囲は信じられない。上に上げたリストは徹底したものであるだけではなく、その一例に過ぎない。「細分化された」規則を次に示す。
私が会衆の宣教学校監督であったとき、新しく改版されたスピーチの指示書が配布された。その版にはスピーチの要点には以前とは異なる番号を付けていた。それは古い版と同じ順番でリストに上げられていた。会衆のほとんどの者は古いスピーチ用のメモを持っていたから、私は従来の古い番号を相変わらず使った。まもなく、私は「エホバが忠告する組織に従っていない」として、厳しく批判された。スピーチの助言をする古いメモはほとんど古い番号であると説明すると、「こと細かにエホバの組織から出されるエホバの律法に従っていない」と非難された。その忠告を指示する意味で、長老たちは聖書の箇所を引用した。ごく小さな事に忠実な人は多くのことにも忠実であり、ごく小さな事に不義な人は多くのことにも不義です(ルカ16:10)
証人にとって、従うように求められるおびただしい量の命令を守り、それに従うことがどれほど難しいかは十分に強調されていない。予想されることではあるが、すべての禁令を守れないと内面的な罪となり、外部への攻撃となる。それが表に出ると、証人と未信者人といざこざとなる。上に上げたように内側に向けられると意気消沈し、神経質になる。罪の結果、組織から追放されるなら自殺する。
技術的な裏付けを持っており、個人的な証人の良心にとどまると確信しても、小さな食い違いにも一致への強い締め付けが適用される。たとえば芸術的、あるいは音楽的な才能のある者はたとえ自分の楽しみでやるにしても、おおっぴらにそれを演じるのは難しい。会衆のほとんどからの批判を招く。芸術才能、それ自体が、時には、罪となる。しかしたいていは主に自分の才能を表わそうとする欲望があるからこそ、罪が生じる。それを抑えると、証人が組織に対して全体として潜在的な敵意を発展させる結果を生むかもしれない。しかし、たいていは芸術的な創造や創作課程を楽しむ欲望に対する罪となり、自分の才能をを楽しんだり、才能を伸ばしてはいけないと反対する組織の教義に対する敵意ともなる。そして才能を持っていると分かっていてそれを伸ばしたいと思っている証人は、その決心に関わらず、一般的に感情的な混乱を引き起こす。一致、強い忠誠心、特別な厳正さや妥協しないといった協会の押しつけている独自のものはその多くが、感情的な衝突を促す際だった性質を持っており、精神病を重くさせたり、特に自殺行為に発展するほどの影響を及ぼす。刑務所にいる証人の多くがかかえている宗教的な禁令の故に、利害が対立した手紙を証人が当局に書いている事例がある。
エホバの証人を自称するハリウッドカウンティーの受刑者に対し、テネシー最高裁判所は、宗教的な信条よりも公共の利益と安全が大切だと宣言してAIDSテストを受けるように命じた。受刑者は9月のアーカンソー州での逮捕の後でテネシー州の検疫官事務所に対し、AIDSに罹っていると告げた。しかし宗教信条に反して血液サンプル採取の検査を断った。最高裁は次のように宣告した。「刑務所自体の運用、保安官とその職員の安全、そして収監されたそのほかの人たちの安全と幸福も視野に入れて、控訴人の訴えた宗教信条や宗教的な確信は、公共の安全と福祉に劣後する。証拠から明白に確かめられた」。
同じような事件はほかにもある。
グレイターフォード刑務所の囚人からの請願(エホバの証人から発行された聖書と文書を研究する許可を当局に強制する請願)は、米国地方裁で却下された。陳情はチャールズ・ジェニングから提出されていた。そこには刑務所当局は自由に崇拝する本質的な権利を奪ったと述べられている。ジェニングは満了まで5年から10年服役している。連邦判事ハリー・カロドナーは昨日、以前、ペンシルバニア最高裁に却下された請願は、地方裁の権限にはなく、米国最高裁に訴えるべきだと裁定した。
非常に厳しい信条と品行が求められるから、別な面では不利に働く。多くの証人が文字通り、無邪気で、責任感が無いのはそのせいである。たいていの決定はすでに組織から証人へ決められているから、証人はふつう、多くの道徳や倫理、その他の選択をする必要はほとんどない。何が正しいか発見してそれを受け入れ、それに従うだけだ。人生の目的は何かを細かく考える必要はない。あらかじめ与えられている。聖書を深く考える必要はない。すでに協会には分かっている。必要なのは、聖句の意味をものみの塔に尋ねるだけだ。道徳的にいろいろな選択を評価する必要はない。ほとんどがすでに協会で作られている。仕事のことで心配する必要はない。協会に奉仕するほかにやることはない。祝祭日にはどこに行けばいいか、何を買えばいいか、心配する必要はない。祝わないことになっている。情報は無視するのだから、情報の氾濫を心配する必要もない。カルフォルニア州イングルウッドの大会でシュロッダーは証人が非証人の出版物をことごとく避けなければならないと強調した。非証人の出版物を読むとものみの塔の出版物を読んだり証人活動に参加する時間より時間がかかる。もし「世的」な本の中に立派な本があるとすれば、協会は「それを抜き出して、要約し、数分間の内にそれを読めるような形で兄弟に読ませる」とシュロッダーは述べた。1992年、ものみの塔の反対して書かれた文書を読む行為は公式に禁止された。事件の経過は次の通り。
しかしものみの塔の指導者が賛成しなかった文書を個々のエホバの証人が書いたり発行したり配布したりすると、どうなるだろう。組織は新聞の自由の事柄については自分たちの自由を考慮するよりも異なった見方を採る。「友人からのよい便り」の編集者として私はその性格を証言できる。わたしは1981年1月と2月に「友人からのよい便り」の第1号と第2号を出版したため、ものみの塔の「審理委員会」にかけられ、1982年初頭に排斥された。
その当時、まだ私は立派な立場にあった一人の証人であった。私の文書は、教義の面ではものみの塔の教義とはそれほどかけ離れたなかった。むしろ組織が自らをローマカソリックの権威の地位に昇進させていることに疑問を呈していた。
ある晩、私は妻と聖書研究から帰る途中だった。すると二人の長老が駐車していた車から足を踏み出し、私の自宅の前で私の側に寄って話しかけてきた。私が次の号を発行するつもりがあるのか、教えるよう、命令した。前号、前々号のどういった箇所に異議があるのか質問したが、内容はとやかく言えないと主張した。彼らは、もしかして私が発行を続けるつもりがあるのではないか、その真偽のほどを探るために送られてきただけだったからだ。それを肯定すると彼らはきびすを返して離れて行った。
数日後、「審理委員会」は私たちを欠席裁判にかけ、排斥にした。その行為は少数の田舎の長老にしては高圧的だと思う人もいるだろうが、長老は私の立場についてブルックリン本部と連絡を取っていたと指摘できる。さらにそれ以来、協会は信者が認めれれていない文書の流通や所有を妨げるため、厳しいガイドラインを定めた。「ものみの塔」1984年5月1日号(英文)は、31頁で「読者からの質問」の見出しの下に次の誘導尋問をしている。「人々が出会う宗教的な文書のための聖書的な手引きを交換することをエホバの証人が断るのはなぜですか」に対する公式な答えの一部を抜き出すとこうなる。「貴重な時間の浪費であるのはもちろん、エホバの証人にとって人を騙すように企てられた偽りの宗教の文書を受け取り、それを露わにするのは、無謀なことです。間違いや背教的な考えを広める宗教的な文書のために聖書に基づいた真理が書かれている価値のある聖書研究の手引きをエホバの証人が交換しないのは、知恵であり、神の忠告を尊重するためです」
宗教的な全体主義を思わせるような強い警告している印刷物を入れるつもりはないのに、協会は証人が常に組織の外部からの文書を読まないようにとの忠告を地域監督や巡回監督に任せている。しかし、「ものみの塔」1986年3月15日号は、郵便集配人がある婦人の家屋を離れる前に、ゴミ箱に郵便物を捨てている婦人の写真を掲載していた。その説明文には、「あなたは背教に関係するものを賢明に破棄するだろうか」とある。さらにその文章は、「背教的な出版物を読むことはポルノ文書を読むことに似ている,となぜ言えますか」(14頁)と続け、「自分自身の反対意見を押し出そうとする人には用心しなければなりません」(17頁)とエホバの証人に警告している。「ものみの塔」1987年11月1日号は「ある人々はラジオやテレビの宗教番組にダイヤルを合わせ,霊的な汚染をもたらすものに自分をさらしてしまいました」証人がいる事実を嘆いていた(19頁)。この文章は続けてこう言っている。「偽りの宗教の宣伝は,どんな源から出たものであれ,毒物のように避けなければなりません。実際,わたしたちの主は,「永遠の命のことば」をわたしたちに伝えるため「忠実で思慮深い奴隷」を用いてこられたのですから,どこかほかのところを見たいなどとどうして願うべきでしょうか」(20頁)。
統治体が作っているおびただしい決定事項は典型的な証人を絶えず子どもの時代の状態に保っている。いろいろな方法を用いて組織は群にいる者が成長することを決して許さない。何とかして、自分で深く読んだり、深く研究したり、聖書的な調査をしようとする者が持っているいくつもの不満は、「ものみの塔はいつになったら、私たちに「牛乳」だけを与えることを止め、「肉」を与え始めるのだろう。「真理」の中では誰だって赤ん坊じゃない。深遠な事柄に飢えている者もいる。それは組織が決して供給しそうもない食物だ」。
もし、ものみの塔協会が言っているようにそれが神の組織であるなら、全員がしなければならないのは、注意深く組織の言うことに耳を傾け、しっかりとそれに従うことだ。人間は人間の理屈によって神の意志を見つけられない。自分で宗教的な結論には至らない。私たちはそれらに堅く従い、頼り、強く依存すると、幼児のような状態では創造性といった高等な人間の性質(そして特に人間たらしめる個人の成長ともがき苦しみ)を妨げたり、激しく衰弱させる。証人の間でしばしば見られる独立的な思考の欠如をとって見ても依存性の強さは明らかだ。創造性はどんな人生の局面においても、すべて否定されるから、たいていは成長が停滞してしまう。
なぜ証人はものみの塔を離れるのか
証人を止めた人々のたくさんの体験談を見直すと、その共通した理由が精神衛生に関係していることがだいたい分かってくる。例えばドハエンは、こう述べている。
会衆内の一人の姉妹が乱暴された上で殺されたために、誰もが実際に魔女狩りの標的となり、全員にいろんな種類の言いがかりが浴びせられた。私もほかの人と同じく、猜疑をかけられ、お互いに全員がスパイとなっていた。会衆内にはただ単に表沙汰にすることだけを喜んで、悪口や陰口をたたく最悪の女性がいた。犯人が捕まり、裁判にかけられたとき、誰の顔にも安堵の兆しが見られた。誰もが「これで一件落着だ」と思った。それでは済まなかった。全員が過去のすべての過失をあぶり出され、……私は排斥された。事件が落着したとき、まず、私が排除された。しかし実際、私はねらわれたのだ。
世界のどこにも友人はいなかった。一年間とても辛い思いをした後、復権のために長老に近づいた。涙を流して泣いても、はっきりと拒絶された。私は1トンの煉瓦で打たれたようだ。投げ出され、冷たくされた。……とても辛い状態に逆戻りし、家でも、職場でも誰にでもとなり散らした。……排斥の前にも、その後でも、ひどい精神的な落ち込みを経験し、精神はぼろぼろだった。一日に4錠の精神安定剤を服用した。 証人の時は、たいていは眠れない夜を過ごした。証人を止めた今では、エホバの証人からの排斥の持つ意味のため、組織を離れてからは妻と子どもとの付き合いは全くない。(証人を止めたとき、精神病は治ったからもう錠剤の世話になっていない)
自分の問題を処理した後では、多くの証人はもはや同じ見方で証人を見ることはない。証人との治療が成功すると、ものみの塔への忠誠心はほとんどの患者に見られない。一人の治療者が経験を次のように要約している。
証人を治療した私の経験では、もし治療が効果を現し、元気になると、一般的に証人はこの宗教にはもはや必要を見いだせなくなり、たいていは脱会する。たとえ患者の大多数が証人を脱会したとても、意識して脱会するように影響を及ぼそうとはしないし、代案を示そうともしない。実際、私はたいてい、患者を助けるために証人の役に立つ考え方を利用しようとする。それにもかかわらず、元気になる過程は明らかに証人を脱会するに大きく影響する。興味深いのは、私が手伝いできなかった状態で私が扱った患者は、証人の信仰体系に頑固にしがみついていた者であったことだ。
次の事例はこれに関して別な考え方を発表している。
物心付いたころから証人だったと述べている43歳の男性は軽い精神分裂病にかかっていた。彼の両親は彼が幼児の時に入信していた。彼は結婚して3人の子どもをもうけ、自動車整備の仕事をしていた。協会は彼の若い時には結婚を渋っていたから、結婚は遅かった。終わりの時が差し迫っているから、ものみの塔の命令よりも自分の要求を優先するのは、自分本位な我が儘になると教えた。結果的に数年間「開拓される」対象になった。戸別訪問の時にどう猛な犬に襲われたために開拓を止めた。このトラウマ経験の前に犬にはっきり恐怖を抱いていた。しかしこの事故で、開拓を妨害していた明白なフォビアを抱く程度にまで、恐怖心が強化された。今になって、止めようとしていたまともな仕事をしようと思った。それから家を購入して機械の会社の仕事を始めた。 彼が働いていた商店の中では彼は作業机の側でイスに座ってときどきあちらこちらをじろじろ見ていて、「彼をその気にさせる」のが難しくなるときがあったと雇用者が不平を言っていた。妻もそうした彼の行為に不平を語っていた。自分の世界に引きこもろうとしてどんどん世間と没交渉になっていった。ついに、外の世界から完全に孤立した。
治療の過程で彼の先入見は主に証人の「新しい事物の体制」だと言うことが分かった。現在の世界の世俗的な事件を避けて自分の夢の世界を考え出した。その中心に「新しい体制」の考えがある精巧な空想の生活を作り上げた。彼のその想像図の一部は、「新しい体制」を表現するために用いられるものみの塔の出版物に書いてある図に基づいていた。彼はこの「罪深く、古く、腐敗した事物の体制」下で暮らすのはひどく不幸であり、「古い世界」での生活を楽しめないと語った。唯一、生きる価値があると信じたものを心配しながら待ち望んでいた。そう信じたために現在の体制の元で適切に責任を全うできなくなっていた。
治療が進んで彼は「新しい体制について考える必要がだんだんと少なくなり、ものみの塔の集会に出ようとする気がしなくなった」と言っていた。ものみの塔への敵意がゆっくりと表に出てきた。治療の結果、「もはや奴らは必要ない」と言ってすっかり証人から離脱した。
この事例には重大な関心事をいくつか示している。たいていの場合、証人は空想的な世界に隠遁して住もうとする傾向がある。上の事例の患者は、自分の持つ空想への道を整え、そこに熱中するために、証人の「新しい体制」への信仰を用いたようだ。証人は協会が常に強調しているためもあって、「新しい体性」に夢中になっている。正常な活動を抑圧し、精神的な逃亡を促進するといった類似性が見られる。一例を挙げると、「神の栄光ある事物の新しい体制に永遠の命を満足するような、価値のある喜びの時がありますか」、あるいは、「実にエホバの証人はとても幸せな人たちです。なぜなら、痛みも、犯罪もない、神の栄えある楽園に永遠に生きることを待ち望めるのですし、そこでは子どもたちはすべての野生動物や野獣と一緒に遊べるし、そこでは病気になって苦しんだり、老いたり、死んだりしないし、永遠に毎日、エホバを誉め称えられるのです」。こうした似たような性質は、ものみの塔の出版物とものみの塔協会が提起するスピーチに共通して見える。
聖書には人間の永遠の状態が詳しくは記述されていないのだから、証人はそれを邪推するためにかなり大量の時間を費やさないといけない。それの一例は、「氷に触ると痛みが残りますか」(ものみの塔協会は、身を守るために痛みは残ると教えている)。あるいは、「コートを持たないで寒い日に外出したら『冷たく』なるでしょうか」(完全な体は体温を調整するだろうから、地上のどこかの適切な温度のままでいるでしょうと協会は教えている)。証人は「新しい体制」での生活について邪推をひどく張り巡らせるから、協会は証人が思いつかないことを好んでいると、時には証人も思ってしまう。だから、ものみの塔の教義に従ったとしても、この夢想のほとんどがか弱い根拠に基づいていると、ものみの塔も承知している。そのため、「私たちは新しい世界は完全な楽園だろうと知るだけです。エホバは細かいところまで私たちに教えませんでした。限度を超えないようにしましょう」と強調して、思いつきを大切にしないようにと、しばしばものみの塔は証人に警告している。
神学に集中させない
証人を助けようとしても、証人がものみの塔についてはっきりと疑いを持ち、その結果、新しい情報を聞こうとしない限り、神学的な、あるいは哲学的な信念の正当性を話し合おうとしてもふつうは実を結ばない。治療者あるいは証人を助けようとする者は神学の論争を避けるのがもっともいいのだけれども、無意識のうちの欲望をどのように満足させているかを知るために個人的な信仰を調べることが必要なときもある。けれども証人が道理をわきまえており、合理的な考えをし、治療者がものみの塔の神学と伝統的なキリスト教神学の両方をよく把握しているなら、神学論争も適切な手段だ。証人と論争したり、働きかけたりするのを難しくさせているのは、教義の問題の論争が決まって強い守りの姿勢を誘い出すからだ。もし証人が自分は間違っているのではないかと気が付くなら、それに狼狽してしまうのと精神的な守りの姿勢はことに類似している。問題を抱えた人を助けるためにしてはならない応答は、論争したり、極度に分別をなくしたり、理性をなくしたりしてしまうこと、あるいはこれ以上話し合いたくないと拒否することだ。
もし証人がその無意識の欲望が特定の信仰で満たされていかどうかを知る一助となるなら、証人が信条を用いるやり方を変更するよう促せるかもしれない。証人自身の信仰を変更する必要はない。例えば、上記の事例では証人は一種の「新しい体制」(たいていの宗教に見られる信仰を変形した信仰)をまだ信じていたが、「新しい体制」の現実性(未来の明確な現実性)を考えさせて現在の体制と協力するような促すのがいいかもしれない。どうにかして証人の信仰を変更する望みがあるなら(前に上げた事例では、いつか文字通りハルマゲドンが起きるかもと言った人の信仰のように)簡単な質問で患者が洞察できるよう証人に働きかけられるかもしれない。例えば、ハルマゲドンの前に特定の出来事(出版物によると、4つの出来事)が起きるはずだと現在でも組織が教えていることを患者が深く考える一助となるかもしれない。その出来事が起きるには、何年もかかるだとうというのははっきりしており、ハルマゲドンの始まりから終結まで何ヶ月あるいはそれ以上もかかるだろう。
時には年上の証人と話をさせたり、次のようにして、動機付けをさせるのは効果がある。「ハルマゲドンが迫っていると証人がいつも思っているのは、不思議でならない。あなたなら年上の兄弟に聞いてみれば、兄弟が言わなければならないことが分かるでしょう」。これで過去100年前から(実はその発足時から)組織はハルマゲドンが差し迫っているとか、数年以内にハルマゲドンが起きると教えてきたことが証人に分かるように促せる。50年以上も証人をしていた人と話し合うと、証人が様々な出来事、中でも1914年、1925年、第二次世界大戦、そしてもちろん1975年に入るまでに、非常に待ち望まれた期待が存在したことが分かってしまう。その出版物(1992年)によると最初の予言から180年経っており、最後に間違った予言をしたときからほぼ20年が過ぎた。「新世界」はまだ来ていないし、キリストも再臨していない。
証人の歴史の中での一時期、期待はそれほど強かった。1940年代には結婚も学業も遅らされた(例えばラザフォード著『子ども』を見よ)。特に際だっていたのは1914年、1925年、1975年で、多くの証人が確信を持って終末を待ち望んだ。大勢の人が仕事を辞め、「終末の日の前の最後の日」と見積もっていた日を生きるためだけのわずかな金銭を手にして家屋を売り払った。現実的な根拠に乏しく、大多数の人から支持されないなら、その考えはふつうは妄想にしか思われない。証人の教義を受け付けない人なら、ごく近いうちに「新しい体制」が期待できると信じるのは妄想だと結論を下すだろう。しかしそれが大多数の人から支持されているのなら、ほとんど集団的な妄想となるだろう。
宗教信条の研究、中でも宗教信条についての心理学的な試問は、多くの証人から脅威的に受け取られている。反対の研究をすると信仰の価値と効力を否定すると考えるからだ。けれども患者を救っている治療者にとって、信仰が有効かどうかは関係ない話だ。治療者の主な関心は、信仰を保っている人の心理に信仰が及ぼしている効果にある。証人が言うように新しい体制が人類に用意されているかどうかは別問題だ(「新しい体制」は神の仲介によって起こると思う者もいるし、人間の力あるいはいろんな政治的あるいは経済的な勢力が引き起こすと考える者もいるけれども、いろんな雑多なグループがそれを信じている)。信仰が正当かどうかに関わりなく、信仰する者に影響を及ぼす。その考えが正当かどうかではなく、その効果が試されるべきである。血に関する教義のように証人が信じている信仰の多くは、疑う余地のないほど間違いだと多くの人が信じている。しかし国の侵略戦争をどう扱うかといった場合に見られるように、現実を正確に知覚したり、とても機能本位に考える人もいる。この章で論じた問題のいくつかはハリソンがうまく書いている。
1944年にバプテスマを受けてから数年間、私はとてもつまらない疑い(それと絶え間ない罪の確信)を持っていた。罪に対し恐ろしさを感じていた。すべてのものが疑わしいとか、自由を手に入れているから論理的に疑わしい結末になるとか、神秘主義者でさえ崇拝する神から見捨てられる時があるとか、かつて私に教えた者は誰もいない。誰かが私にそういうふうに教えたなら、数々の神秘なことがらで私は救われた。しかし証人たちは、私にそう教えられなかった。それが本当だとは、彼ら自身、了解しなかったのだ。証人にとって、信仰は全体的で疑う余地がなく、批判できない、揺らぎのない、厳しいものだ。自分の短気な理解は、人を食い物にする動物のように思えた。もし、しっかり手綱を締めないなら、それが私に飛びかかって攻撃し、殺してしまう。
すべてを疑うのは、心が狭いからであり、できるだけの唯一の解決策は、疑問を完全に消去すること(自分を沈める)であった。生きたまま、エホバに食いつかれ、むさぼられ食べられてしまおうとした。エホバへの奉仕にもっと時間を割こうとした。私の曲がった心、くじかれた心、疲弊した心がもはや疑いに不平を言う暇がないと言えるほどに。女性は寂しさを都合の良いものに転換するのが得意である(あるいは女性にとって都合がよいと考えるものに)。私がベテルに行ってやる仕事は、新しい生活に死を与えることで不安状態を鎮め、霊的な絶望を霊的な元手にすることだった。
なぜ人々が脱会するか、その理由の一つには自分の経験を話し出そうとする感情がある。大勢の人が怒りを覚え、ものみの塔に反対して事件を社会に訴えたり、法廷にさえ訴えようとする。
証人の王国には、平和はほとんどない。しばらくの安定状態と時折見られる急激な成長の後、エホバの証人は恨みがましい内紛、元信者の訴訟、そして前例のない大量の脱会と断絶に苦しんできた。覚醒した信者によると証人の艱難は1975年に始まった。そのとき証人の出版物が約束したような世界の終末は迎えなかった。さらに幻滅を覚えた米国とカナダに住む大勢の信者が訴訟に訴えた。カルトには圧制的な策略と独裁的な姿勢があったと主張して、ものみの塔を脅迫した。
そうした挑戦をした人たちは闘いに慣れていなかったけれども、その運動のすべては目立つ場所に信仰を押し出した。元信者の小集団がプロビデンスとシアトルで昨年、地域大会を催し、さらに一週間前には大会を開催した。そこではカルトの幹部を非難したり、その教義に挑戦する意志を示して示威行進をした。……その信仰に再帰するかのような異色の表現がある。大会の主題は「王国の忠節」であり、度重なる説教では、「闘いの時に共に群がる」とか、「真理の反抗者に対する立場は何か」と行ったタイトルを伝えている。
元証人リチャード・ロウ(48)は電話によるインタビューで次のように語った。1976年から毎年10万人以上の信者が脱会した。その大きな理由は、ものみの塔幹部が予告したように1975年10月に地上にキリストが再臨しなかったからだ。
予告どおりに世界が終わりを迎えなかったとき、指導者は以前の予告を軟化させた。20年以上も証人の会衆を監督していた大会議長コンジリスは正確な日付は予想できないと説明していた。「私たちは日付を特定できない。聖書がこの世代に終わりの時が来ると考えている時点を生きている。この体制がいつ終わるかを探し求めている」と語った。しかし1975年を考えた者は「自分の家を売り、生涯の蓄えを手放し、医者にかかることを延期し、とても返しきれないとしか思えない金銭を借りた」とロウは語った……。ロウは妻フランスと一緒に4度断絶してきた。1980年3月に証人の出版物に「間違いを犯したと言っている」一つの文章が載ったとも語った。「現実に何かが始まったようだ。彼らは毎年大量の断絶を出している。人々はそれが起きないだろうと一層疑い深くなった。欲求不満がゆっくりとほとばしりだした。
彼はこう語った。指導者が後にうまく言い抜けをしなければならなかったハルマゲドンの預言の最初の日付は1975年ではなかった。1870年、ペンシルバニアで発足したときから、カルトはキリストがすぐに再臨するなどと教えた。生き残りの証人は地上の楽園を建てるだろう。証人ではない人々は滅ぼされるとカルトは教える。戸別に行う改宗運動と聖書冊子を渡す活動として、おそらく証人は米国で一番知られているグループだろう。証人は神の最終的な王国のために生きると信じている。人間の作った制度や政府のためではない。国旗に敬礼したり、投票したり、戦争に参加したり、輸血を受ける行為を拒絶する。生命の危険がある救急医療の現場でも拒否する。
ふつうの証人でも生活のいろいろな面で感情的な問題の原因となる状態の中で生きている。その重要な理由にはたいてい次のことがふくまれる。
(1)形式的で、うんざりするほど冗長な活動、また報いられない活動に加わるために生じる極端な忙しさ
(2)余暇を楽しむ時間、仕事や副業に精神的な充実を覚える時間が不足している。
(3)たびたび「目に見えないタルムード」に違反するから、平均的な証人がたくさんの規則や律法を完全に守るのは難しい。「律法の重要事項」をあまり強調しない。
(4)低い自尊心。いくら努力しても、あるいは客観的に見てどれほど努力が実っても、いずれ失敗する運命にあると繰り返し生じる感情。
このほか、繰り返される教義上の変更、首尾一貫しない教義から生まれる論理的な矛盾、よそと比べて論理的でなかったり、矛盾している信条が含まれる。こうした心配に気が付くと、たいていの場合、証人に問題が生まれる。特に分析家で、情報が豊富で、知識の多い信者に顕著だ。