第13章
ものみの塔は心理の問題を抱える人を引きつけるか

 エホバの証人になる人たちの中には、不幸な境遇にいて、証人になって問題を何とか解決する策を求めているといった事実はしばしば見られる。証人に解決を求めたり、生涯の困難な時期に証人にたよって軽くしてもらおうと、証人の教義体系の中に求めようとする者は多い。科学的な論文の中には、問題をうまく切り抜けるための十分な情報源を持たないで、証人のようなカルトに引きつけがちな者が相変わらず見受けられる。一例としてモクソンのことばを引く。

 また同書の中ではエホバの証人の宗教も精神的な問題を抱える人たちを引きつけることが証明されている。例えばオークレイは証人にとっては失望や不幸、病気などといったテーマが興味をそそる身近なできごととなっていることが多いと論じている。念のために付け加えると、証人の宗教が精神的な問題を起こす高度な道具になっている場合が多いと言っても、ある面ではものみの塔の感化は些細な要素としてしか働かない場合もある。ほかの団体に入っていたり、あるいはほかの宗教集団に加わっていても、同じ状況に立つ人が同じような葛藤をずっと経験していて、同じような精神的な不適応に発展することはありうる。グローブは次のように述べている。「罪の感覚は非常に基礎的であり、不健全な教え込みを通して人工的に作られ宗教的な教えにすぎないという考えが容易に喚起される。精神衛生の学問では、罪は会衆の努力によって生活の中に持ち込まれるものだと考える点では、共通している」。ここで用いられる罪は一般的な不安の内面的感覚(特に憂鬱と、正常ではない一般的な感覚)を指している。しかし証人はしばしば罪を異常なほどレベルを高くして、激しくさせている。次にその例を挙げる。


 ほかにも1971年にニーリーが、証人と関係を持ったために生じる精神衛生に関する理論を述べている。

 上に述べた事例に見られるように、ものみの塔は精神的に不安定な人たちを引きつけるけれど、だいたいは精神病患者は魅了されない。たいていは活発な聖書研究や定例の会衆の儀式からは閉め出されていて、それらをほとんどの証人は精神病患者をサタンの財産だと思っている。上の事例から分かるように、証人と交わってノイローゼから精神病の状態に悪化させられるときもあるようだ(もちろんそれは精神医学の対象になる)。ものみの塔に魅力を感じる人たちもいる。その人たちは警戒心を持ちながらも、将来、証人になりましょうとたいていは、口にする。ほどほどの関心しか示さない人にでも、証人は優しさを示そうとその人たちに合わせようとする。喜んで時間を割こうとするから、孤独でノイローゼ気味の人たちが証人の中から友人を見つける例は多い(それもその人が将来証人になってくれると信じられるときだけだと注記しておこう)。教会の伝道師たちが無視したとしても、証人はしばしば、そうした人たちに対しても積極的な関心を寄せる。たくさんのそうした人たちが証人から感化されるが、入信する人は少ない。
 前にも書いたように、組織内の人たちはとても幸福で満足していると見せかけたり、王国会館は友情やクリスチャンの愛、将来への確かな希望が満ちていると見せかけようとする。証人は天国でのどちらかといえば曖昧模糊とした将来像を約束してはくれない。群の中にいる人たちは足元のこの地上で死ぬこともなく永遠に生きられる、その恵みはすぐに期待できると約束する(それも何十年先ではなく、ごく近いうちに)。こうした呼びかけがあるから、証人は虐げられた人たちを魅了するのがふつうだ(全部がそうだとは言えないが)。虐げられた人々は現在の体制をうまく泳げないし、また一般に不幸であり、逃避しようとしている。証人が描く「新しい体制」の描写の多くは、世の問題からの逃避である。世をことごとく批判しようとする傾向があると、人生をうまく処理できない人たちを引き付ける傾向がある。社会への不満を表現する方法さえ与えてくれる。証人になる前からも、証人になってからも、彼らは現在の社会とその体制を敵視している。
 「こころの病」は、そのほとんどすべてが「調節の問題」であるか、あるいは日常の問題や日常の状況に対処する能力の欠如を指している。社会に適合できない者は社会を敵視し、証人に魅力を感じる傾向がある。私たちはすべて問題に対処する能力を行使する潜在能力を所有して生まれている。人生における偶発的な事件に対して調節することが困難な人格を持っている人もいるし、あるいはそうした人格を形成してしまう人もいる。けれども、調節する能力を決定すのも、対処する術を学習するかを決定するのも、多かれ少なかれ、その人の環境に依存する。日常的に起きる偶発的な出来事を処理する術を学習しない者、あるいは対処する能力を越えるものに直面する者(たいていは貧困層あるいは少数派のグループに属する)は、証人のような宗教に魅力を感じる傾向がある。
 葛藤を経験している人の基本的な性格として、精神的な不調和がある。こういった精神的な不安定さや精神的な混乱が証人の教えによっていっそう悪化するおそれがある。おびただしいほどの禁令は必然的にいろんな面で未信者との摩擦を生じさせる。個々の証人には精神的に重い負担がかかり、重度の精神的な葛藤が生じるのがふつうだ。だいたいその数多くの禁令はたいした価値を持たないから、その根拠となる神学的な重要性より以上に重大な不一致が生じてしまう。個々の証人は例外なくそうした議論を経験するのだから、人間の存在、怒り、攻撃、不満、憂鬱、罪の感覚などの問題で矛盾が必然的に生じる。こうした証人と常人の違いといえば、その矛盾の程度が違うのである。平均的な証人とそうでない人との間で重大な不一致があるために、それが強化され、それも重症である。
 ある宗教的な組織がその外部の世界から距離を置いていて、精神的な病気の罹患率は低いままかもしれないが、通常、その組織の信者と外の世界の間に生じる必然的な衝突を減少させる方策が必要となる。ふつうは次のように行われる――宗教集団に属する個々のメンバーの間に些細な相違点が見られてもそれを十分に受け入れるように示唆する。さらに教会組織内で個々のメンバーの必要を満たすための計画を進める。宗教の教義が、社会の規範と矛盾している場合が多い。それでもそれは精神的な病気の罹患率を非常に低い状態に維持できる。それを達成できる主な理由は、いろんな種類の機能性、有用性を有し、楽しい活動をする家族を組織全体に含んでいるためである。そしてそうした教会は人間の心理的な需要の仕組みを認識しており、教会の価値体系の中でそれに対処しようとしている。一方、これまで論じてきたように、証人は人間の欲求に適切に対処したり、それを適度に認めるといった態度を取ろうとはしないし、それを理解しようとはしない。だからどう対処したらいいか分かっていない。
 次の事例には、証人の世界における精神的な病気の原因にはいろんな要素が含まれていることも、そしてそれらの要素を切り分けるのが難しいことも示されている。この事例は精神的な病気にかかっている証人に共通する典型的な例をも示している。


 結婚は全時間奉仕に取って代わる唯一の妥協案であると思われる場合が多いから(高校生の全時間奉仕と学業の両立は嫌がられる)証人は若いうちから結婚しようとする。証人の少女が14歳くらいでも結婚するし、大多数の少女が20歳か21歳になる前に結婚するのは普通だ。次に述べるカップルはその典型例である。

 創作の抑圧という点もそうだが、上述の状況はほかと全く似通っている。私は精神的な問題となるような、本来の才能をくじけされた証人をおおぜい見てきた。前にも書いたように証人は共通してサタンが精神的な異常、感情的な異常を引き起こすと考えている。今でこそ、時には、それらは遺伝体質、病気、あるいはほかの脅迫の感覚が原因であるかもしれないと考えられるようになった。証人の信仰は人を病気にさせないと証人が考えるのは当然であるから、身体上の理由から病気になっても証人の信仰体系はほとんど揺るがない。見かけ上、不健全だと感じうる宗教に関係している証人は有罪だとして排除しようとする。
 ものみの塔が最初に入ったカルトでもないし、最近のカルトでもなく、カルトを渡り歩く人になっている証人もいる。次にその事例を示そう。

 証人との関係がトラブルを引き起こす危機的な原因になっているのではないかと思える事例はほかにもある。



まとめ  

調査の結果、精神に問題を抱えている人でも、持たない人でも、ものみの塔に魅力を感じる傾向が分かった。その理由はそれぞれ異なる。どちらの群の人たちにとっても、ものみの塔協会は信者の精神病をますます悪くさせる傾向がある。どの要素が比較的重要なのか、口で説明しようとしても、いろんな協会の影響から切り話すことは難しい。にもかかわらず、たいてい次の二つが関係しているらしい。精神的な問題をかかえている多くの証人が組織の中で励まされていることから、組織が信者に対し、有害な効果を及ぼしていることがはっきりしている。そして精神的な問題を抱えている人たちが組織に魅力を感じる傾向からして、それが重要な要素であることが分かった。


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