法廷における嘘と宗教:
エホバの証人の神権的戦いの教義の分析


ジュリー・バーグマン博士
ノースウェスト州立大学
アークボルド、オハイオ州

梗概

 この論文では、宗教的に正当化された法廷での虚言の問題とエホバの証人とその神権的戦いの教義を中心に扱っている。その教義の発達の歴史と協会の中での嘘偽りの問題を再検討する。法廷でこの教義が用いられる例を論じる。この教義が平均的な証人にどの程度自覚されているか判断するために、活発な元証人に対する調査も設定した。結論としては、証人として過ごした年数が長ければ長いほど、ものみの塔での地位が高ければ高いほど、その人はこの教義を理解し、用いる傾向がある。

はじめに

 正直さは西洋社会での価値感の中心を占める。「学校の大事な目標は正直さを教えることであり、真理を伝えることの大事さである」(ジョンソンとインマーウィル1994年)のことばには95%以上のアメリカ人が賛意を示すほど、肝要である。法廷が正しく機能するかどうかは正直さが左右する。真実かどうかを決めるためにふつう、もっとも障害になることのひとつは、証言人が嘘をつくことである。スウェルブ判事の言葉によれば、「もしも証人が上手に嘘をつくなら、曇らされた判事の目を正しい目的に向かえなくさせる」。スウェルブ判事は30年間、法律家として過ごした中で「数百件に上る偽証や欺瞞の例」に遭遇したと述べていた(1989年)」。虚言は特に家庭内の事件に多く、もしその欺きが暴かれなければ、でっち上げられた嘘で利益が得られる。

 嘘つきの動機が別にある場合、事態はもっと複雑だ。堅い宗教上の確信を持っているために「ありのままの真実、真実のみを」伝えるとの宣誓に違反しているような嘘がそれに相当する。暴かれる嘘はいろいろな面からの評価をしなければならない。いわゆる罪のない嘘か、真実を拡大解釈していないか、誇張して偽証になっていないかだ。嘘つきにはふつう、自分の利益のために他人を「操る」ようにして「意志疎通をあやふやにする」ためのことばもふくまれる。法廷での「ありのままの真実、真実のみ」の要求は、証言人の問題を避けるために長い時間をかけて定められてきた。たとえば「昨日」雇い主から物を「盗まなかった」と考えていて、雇い主の物を「盗まなかった」とまじめに言うのは、その昨日にはそう言ってなかったのだから聞いている人には、決して盗んでいないことを暗示している。「ありのままの真実」であれば過去に雇い主から物を盗んだことになる。

 

 

エホバの証人の事件

 

 最近までは、エホバの証人は世界でもっとも速く成長を遂げた宗教の一つである。その統治体、「ものみの塔協会」は、現在その教会内に1500万人が加入していると主張し、ダンとブラッドストレートの報告によると、1992年だけでもアメリカにおける収入は1.2億ドル以上であった。1879年、C・T・ラッセルによって創設されて以来、国旗への敬礼などの政府の要求に対し、法廷闘争をしていることで知られている。

 ものみの塔の教義の中でユニークなのは、輸血の禁止と法廷などでの「嘘」を正当化する「神権的戦い」と呼ばれる教義である。 

 公式にこの教義を定めている教団には3つある。教団の利益を増すための嘘を適正だと教えている絶対主義集団の「アーヤン兄弟」。「天の欺き」と呼ぶ同じような教義の実践を主張していると批判されている統一協会である。ボイチャーはこう評価している。

 統一協会の信仰の中心的な教義は「天の欺き」の教義である。善人は悪魔を騙さなければならない。未信者の世界は邪悪である。善人は騙されなければならない、そうして文鮮明(教祖)の指導する事業の手伝いができる。教祖が管理統制するには都合がいい。聖書ではヤコブがイサクに嘘をついた。神はそれに報いてヤコブをイスラエルの国の先祖とした(ボイチャー、1980年)。

 三番目がものみの塔の神権的戦いの教義であり、ものみの塔の利益を増進するなら、「その資格のない人たち」から真理を隠すことはふさわしいと教えている。ものみの塔の言葉では「狼のような性質」を持つ人たちに対して証人は「神権的戦略」を用いるように求められている。「狼のような性質」の人たちとは、神の組織、神の民の頭(かしら)としてのものみの塔を受け入れない者と定義されている。ものみの塔以外の宗教はすべて悪魔であり、サタンだと定義されている(『良心の危機』フランズ著)。

 リードは神権的戦略を「必要と思えるときに外部の者に嘘をついてその資格のない者から真理を隠すこと」と定義している(『証人の辞書」リード著)。さらにものみの塔は嘘について、「……組織の利益を増すために外部の者を欺くこと」と定義していて、「神の軍隊(エホバの証人)とサタンの軍隊(エホバの証人以外)は交戦状態にあるから、神の敵に示す嘘は嘘とは見なされない」と付け加えている。コットウォールの記述(1997年)によると「宗教の利益のために嘘をついたり欺すといったものみの塔の教義は、聖書的に認められる。彼らはそれを神権的戦略と称している」。ウィルソンはこう言っている。

 エホバの証人の基本的な信仰では、嘘をつくと復活の望みのない永遠の死を受ける。しかし、もしその嘘の目的が組織の利益にあるなら、嘘や偽証は例外となる。私が経験したこの種の欺きの例は、私が友人のエホバの証人の家に数人の証人と一緒に招かれたときだった。そのときエホバの証人の伝道団がその家を訪ねていた。その伝道団はスライドを使ってイスラエルで奉仕した働きを話そうとしいた。その権益とそこに住む証人を守るために、身を浄める偶像を持っている奇妙な億万長者を偽装したり、昔から所有している自分の家だと調査員に答えるように協会がこの宣教団に指示を出していた。この作り話はその建物の本当の目的を隠すためのでっち上げだった。工場の労働者がその家で住むよう流し台の付いた寝室があるものみの塔の工場であった。これは神権的戦略のもう一つの例である(『エホバの証人を目ざめさせる』ウィルソン著)。

 

 エホバの証人がいつもあからさまな嘘をつくわけではない。しかし「真実そのものを真実だけを」という法廷の定義に従えば、しばしば嘘をついている。裁判所は「一面だけの真実」や欺きではなく、真実の筋書きを求めている。協会は嘘を非難すると主張している。文字通り、「真理を知る権利のある人に偽りごとを語り、しかもその人やほかの人たちを欺いたり傷つけたりする意図をもってそうすることが関係しています」と定義するような嘘だけに限定して非難している(『洞察』フランズ著)。宣誓の目的は、狭い意味でまっとうな人が真実を言い逃れをすることを避けるためだ。世間の人に嘘つきの定義をする意図を持つ通常の議論において、サバントはこう説明する……証言人が法廷で「真実」を伝えるように頼まれるときには、それは嘘をつかないことであり、「真実そのもの」を伝えるように求められていると考える。……たとえば知事が「私の州では、17,000人が福祉の現場から労働の現場に移った」と言って、同時に25,000人の人々が労働現場から福祉の世話になっていた事実を省略するなら、知事は真実を述べたが「真実そのもの」を伝えてはいなかった。差し引きをすると、8千人以上の人が福祉の世話になっていた。1万7千人以下ではない。……三番目に、証人は「真実のみ」を伝えるように依頼される。これも別な概念がある。たとえば、もし、人が質問に答えて真実を伝え嘘を付け加えるなら,、その人は「真実」を伝えたけれども「真実のみ」を伝えていなかった。誰であろうと、本当に不正直な人々を止められないが、少なくとも、偽証の罪があればそれは抑止される。

 レーヌのことばによると、実践的な神権的な戦いは、真理に反するもので「敵」を欺き、誤った指示をして、「神の民」や神の「組織」の利益を守り、育てる意味である。マグガニはさらに、こう付け加えている。

 

 ものみの塔は部外者に対し特別な政策を持っている。ものみの塔の教義に疑いを持つ者は、「反対者」と思われるか、特別な方法であしらわれる。ものみの塔は特定の事実を隠したり、「嘘」をつくように実際、証人に教えている。この戦略は神権的な戦略と呼ばれる。

 

 けれど、次のように付け加えてものみの塔はその姿勢を鮮明にする。

 

 

 敵意のある嘘は聖書でははっきり否定されている。かといって、その資格を持たない人たちに真実の情報を漏らす義務はない。……イエスは特定の質問に直接答えたり、包み隠さず事情を話すと必要のない被害をもたらすおそれがあるときには、それを差し控えた(マタイ15:1-6,21:23-27,ヨハネ7:3-10)。エホバを崇拝しない者には誤って教えたり、事実を差し控えたりするアブラハムやイサク、ラハブ、エリシャのやり方にも明らかに同じように見てとれる。――創世記12:11,20章,2:11-10,ヨシュア2:1-6,ヤコブ2:25,2列王6:11-23(『聖書理解の手助け』(英文)1971年245頁)


この教義が実際に適用される例をリードが説明している。

 

 

 証人がドアをノックして、短いセールストークを語り、1ドルで小さな本を売り込むとすると、地方によっては条例で税を徴収するかも場合がある(信頼すべき情報によるとものみの塔は1991年、12億5千万ドルの売り上げがあった。1990年と比べるとちょうど10億円多い)。その税を逃れるため、組織は証人に本を販売しているとは言わないように指示を出す。本を配布しているのだ。支払いのためにドルを受け取るのではなく、判で押したように本とは無関係な寄付金として金銭を受け取っている。隠された表現で隠している違法行為はほかに児童福祉法違反や医療処置に関する法廷の命令の無視に結びついている。病気になった子どもあるいは負傷した子どもへの輸血を拒むために思い切った手を打とうとして、証人はまず第一に完全性の確保と神を用いることを考える。……曖昧な言葉による隠された表現、それはカルトとは無関係な部外者から情報を隠すためである。税法に違反したり、徴兵を逃れたり、児童福祉法を逃れるよう、組織から指示が出されると証人はそうした策略にたよる。そうした事件での偽証は嘘とは見なされない。神権的戦略なのだ。


 ベテランであり、一時は高い地位に就いた証人がこの教義を別な方向から評価すると、こうなる。

 

 ものみの塔は「敵から真理を隠す」のは構わないと毅然として教える。神権的戦いにいるのであり、嘘をつく許可が得られる。敵が誰かって、自分たち以外すべてだ……。彼らの文献では嘘が許されると書かれてきた。特に「敵」に対しては、そうだ(エリートたる統治体を除く全員があてはまる)。あなたが嘘をつく相手にもよりけりだ。アブラハムがいい例だ。脅威を受けた状況下で、自分の妻の身分を曲げて言い表し、妻ではなく妹と呼んでいた。「ほかの羊」に嘘をついたり、エホバの証人が「クリスチャン」であると言ったり、聖霊が守ったり、伝道できるのは、私たちにとってどうでもいいことですと屁理屈を言うのだろうか。実際どんな違いが出来上がるのだろう。


 「神の敵」に嘘をつくのは、本当は嘘をついているのではなく、神権的「戦略」なんだと、ものみの塔は教えている。

 

 

神のみことばは、「おのおの隣人に対して真実を語りなさい」(エフェソ4:25)と命じています。しかし私たちに対して知りたがっていることすべてをその人に伝えるべきだという意味ではありません。知る資格のある人に真理を伝えなければならないのです。しかしその資格のない人には、言い逃れをしても良い(「ものみの塔」(英文)1960/6/1 351頁)

 ものみの塔はさらに「嘘を教えていいはずはない」と付け加えて、ここで再び嘘の定義に言及する。「ものみの塔」誌のこの号は、もしもものみの塔の信者が法廷で証言人の立場を立って「真実を伝える」と誓約するなら、「そして少しでも語るなら、彼は真実を語らなければならない」と述べている。けれどもこの「真実」は裁判所が定義している真実ではない。それは神の敵から「真理を隠蔽」することに注目をさせて覆いをかけられている。エホバの証人への真実を語るようにとの忠告が厳しく守られていない。それは、ほかの文章や証人の実践行動から明らかだ。たとえば「ものみの塔」(英文)1957/5/1号にはこう加えている。

 嘘つきはわがままな理由から伝えられる虚偽であり、他人を傷つける。サタンはエバとその人類の子孫に大きな損害をもたらす嘘をエバに教えた。アナニスとサッピラは自分勝手な理由から嘘を教えた。しかし知る資格が持たなかったから、真理を敵から隠しても損害はなかった。特に無実の者を傷つけるために、そうした情報を使うときはそうだ。だから霊的な戦いでは、真理を隠して敵を誤って導くのは正しい。わがままではない。だれをも傷つけない。反対に大変優れている(284頁)

 

 かつてウィリアム・ブレークは、「間違った意図を持って伝えられる真理は、あなたがでっち上げる嘘をことごとく破る」と言った。その教義はベルトルト・ブレットの劇『選ばれた秤』によくまとめられている。

 

共産主義のために闘う者は誰でも、闘うべきか否か、真実を伝えるべきか否か、役割を果たすべきか否か、表に出るべきか隠れるべきか、準備していなければならない。共産主義のために闘う者は共産主義に対して闘うという唯一の美点を持っている。

 

 ウィルソンはその教義が現在、どういうふうに使われるか、書いている。

 

 

長老は私たちの娘を呼ぶよう、この若者に頼んだ。そしてその娘を家に迎え入れる理由をでっち上げた。「神権的戦略」が指導する限り、組織にとって嘘が必要なら、嘘は許される。結局、その家で娘を彼に会わせるといった合意を得る理由がまともかどうかは、意味がない。娘には、彼の助けになるように指定された時刻にそこで会うように頼みこんでいたから、娘がその家で面倒を見るという頼みを何の疑問を持たせないででっち上げられた。娘は長老が騙すはずはないだろうと信じ込んでいたから、娘はそれに合意した。

 

 言葉(ふつうは英語)の上で嘘をつくといったものみの塔から信者へ特別な教えはアブラハムがサライは自分の妻だという事実を隠すときの議論(「ものみの塔」(英文)1956/2/1 78頁)で描かれている。アブラハムが後にパレスチナの国のゲラルの地に行ったとき、アブラハムはここでもサライのことを厚かましくも、「私の妹だ」と言ってまた嘘をついたことに注意を向けている。ものみの塔協会の結論では、称賛に値する理由があるからこそ、アブラハムがサライを自分の妹だと言い表したのだから、それは嘘ではないとしている。文字通り、

 

妻に加えられる詮索を防ぐためである。サライはどんな結果になろうとも喜んでその責任を取り、アブラハムを「主」として認め、その取り決めに従った。……エホバの預  言者の生命を保つために自分の役割を喜んで果たしていた。……アブラハムはまるで嘘つきで、ごまかしていて、弱々しい臆病者だと見ている批判も……(1956/2/1 79頁)

 

 皮肉にも、ものみの塔が嘘を正当化するために用いるこの聖書の箇所は、嘘だからこそ、天に唾することになった。サライがアブラハムの未婚の妹と思いこんで、ファラオは、「ファラナとその家」に災厄を及ぼすのに、サライを娶った。ファラオがアブラハムの嘘を見抜き、アブラハムの妻にの元に戻ったとき、もしアブラハムが真実を語っていたなら、過失は防げたのにと言ってアブラハムに抗議した(創世記12:10-20)。これは嘘を正当化する模範としてではなく、実際には、嘘から深刻なしっぺかえしが生じるおそれもあると示して、この聖句の例から、嘘を批判している。アブラハムは妻についてアビメレクにも嘘をつき、結果として彼に災いを及ぼしてしまった(創世記20章)。2000/2/8の「目ざめよ!」誌に見られる最近の論考では「蛇としての注意」の題で注意を向けている。

もちろん、常に真実を語るということは、だれかに尋ねられたら、知っている事柄をすべて話さなければならない、という意味ではありません。イエスはマタイ7章6節でこう警告しておられます。「神聖なものを犬に与えてはなりません。彼らが……向き直ってあなた方をかき裂くことのないためです」。例えば、悪意を抱いている人には、ある種の事柄について知る権利はないでしょう。クリスチャンは敵意に満ちた世で生活していることを知っています。イエスが弟子たちに「はとのように純真」でありながらも「蛇のように用心深く」あるようにと助言したのはこのためです(マタイ10:16、ヨハネ15:19)。イエスは、いつも必ずすべての真実を明かしたというわけではありません。事実をすべて明らかにすれば自分や弟子たちに不必要な害の及ぼ恐れのある、という場合は特にそうでした。しかし、そのような時でも、うそをつきませんでした。むしろ黙っているか、話題を変えるようにされました(マタイ15:1-6,21:23-27,ヨハネ7:3-10)(「目ざめよ!」21頁)。

 ものみの塔協会はあからさまな嘘を非難し、真実の隠蔽だけを擁護すると主張している。しかしながら、アブラハムの例を使って、ものみの塔を守る状況で負けまいと努力する例として、事実上、あからさまな嘘を擁護することを示している。リードがこの教義に意見を述べている。

 

信じるようにと教えている実際の事柄とは全く逆なことを法廷で証言するように子どもたちに命令しておきながら、たいていの人たちに嘘だと思える二枚舌を使うようにと、ものみの塔協会は子どもたちに求めている。若者が自分を意識的に嘘つきだと思わない限り、二重思考にはまるほかない。ジョージ・オーウェルの小説の中で描かれた精神的な訓練である。……そこでは人々は全体主義社会が念入りに組み立てた嘘を伝えるとき、それが完全な信憑性を持っていると意識させられている。



 公然たる嘘を意味する教義の適用例は、これだけではない。

 この調査をしているときに、ある女性が二の腕にできた傷跡を見せた。酸による火傷でできたと言っていた。子どもの腕にさも天然痘のワクチンでできた傷らしい傷を作るためには、医者を買収する、子どもを学校に行かせるためにワクチンの証明書(接種の証明)に署名させるのだ説明した――それは組織がワクチンを禁止していたころには証人の間ではごく当たり前に行われていた。ワクチンを避けるための、神権的戦いの実践のためにどれほど多くのエホバの証人とその子どもが天然痘のために死んだか、それは想像の域を出ない(ウィルソン2002年)。


 この教義の詳しい議論やそれがどう適用されられたかは、ゴウビスタ事件が裁かれた法廷での証言に書かれている。そこでは宣誓した専門家の証言人が「エホバの証人の間での神権的な戦略とは何か」の質問に答えている。

神権的戦略は、エホバの証人の間ではごく当たり前に行われている。それぞれレベルが違う。……人はまず、嘘とは何か、その定義を理解しなければならない。とても大事だから、これを読んでみたい――エホバの証人の百科事典である『聖書理解の手助け』には、こう書いてある。「一般的に、真理を知る資格のない人に嘘を言うことも嘘の中に含まれる」。……現在、私が「資格がある」という言葉を強調する理由は、……エホバの証人が世を二つの型の人種、羊と山羊、エホバの証人と残りの未信者、神の民とサタンの民に分けているからである。……常に真理を知る資格がある唯一の民はエホバの証人である。エホバの証人によると、「神のみことば」に反対している民は、キリスト教の人たちである。……従って、対照的に真理を知る資格がない。……私たちは仕事で人々に会うし、いろんな事件を耳にした。記憶に残っている一つは、ものみの塔がカルトであると暴いているパンフレットを書いた一人の紳士である。その紳士は一人の証人と出会ってそのパンフレットについて話をする機会があった。……そのエホバの証人はそのパンフレットをこき下ろして、それが全体的に嘘あると言うだけではなく、その冊子の著者を知っていて、その著者は、不道徳でエホバの証人を追い出した、背教者であるなどといいがかりをつけ、その冊子に書かれていることは信用できないとこき下ろした。すると、その紳士は、そのパンフレットを書いたのは本当は私ですとそのエホバの証人に伝えた……。これがいわゆる神権的戦略の例である。ことばを変えていうなら、……エホバの証人は何が大事かと言えば、組織をよく見せるためには、情報をおとしめてもいいと思っている。基本的に、神権的な戦略とは、いろんな違ったやり方で使用される手段である。あからさまに嘘をつくだけではなく、時には真実を差し控えたり、時には一面だけの真理を伝えたりもする。……組織はその戦略を世の人に使うだけはなく、エホバの証人にも使っている。