jw.orgの「聖書は実際に何を教えていますか」解説
第9章 私たちは最後の時に生きていますか

 エホバの証人は1914年に見えない様でイエスが再臨したと主張します。かつてラッセルは1874年にイエスの統治が始まったと宣言しましたが、それはすでに変更されています。1914年に第一次世界大戦が始まりました。それは、地上に見えない様で再臨した年だと、エホバの証人は主張します。

聖書預言の成就は、キリストが1914年に王となり、その年に神の天の王国が支配を始めたことを示しています。(「聖書は実際に何を教えていますか」P.85)

 しかし、主イエスが地上に再臨する時は見えない様ではない。聖書には世界のどの場所からも見えると、明記されています。

見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン(黙示録1:7)

 同時にすべての者がイエスを見ると捉えるか、再臨の時に徐々にイエスを見ると捉えかは脇において、ともかくすべての者から見えない様で再臨する意味ではありません。それは聖書から明らかでsy。主イエスが見えない様で再臨すると暗に示している箇所は聖書には一つもありません。
 本当の教会はキリストを信じる人たちから構成されます。王国会館ではありません。


この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません(使徒行伝17:24)


 上の聖句は、人が造った神殿などに神が住んでいるわけではないことを示しています。従って神が見出せる建物が教会であるというのは正しくありません。何が本当の教会かは聖書から分かります。


神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった(使徒行伝2:47)


 主はどのようにして教会に救われる者を増し加えるのだろうか。上に述べられているように教会は特別な建物ではありません。教会は人々です。


またその家の教会によろしく伝えてください。私の愛するエパネトによろしく。この人はアジヤでキリストを信じた最初の人です(ローマ書16:5)


 パウロは信者の家にある「教会」に挨拶しました。家が教会だとは語っていません。教会は建物ではなく、実際は人々であることは明らかであり、家の中の人々は教会であると述べています。
 教会の頭(かしら)は誰なのかを理解すべきです。それはもちろんキリストです。人間でもないし、組織でもありません。


また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。(エフェソ1:22.23)


 教会の中にいる者はキリストに属し、キリストの内にある者は教会の内にいます。どのようにしてこの教会に入るのか、または教会の一員になるのでしょうか。


そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。(使徒行伝5:14)


 キリストを信じる者は教会に加えられたことが分かります。エホバの証人はキリストを信じると言いますが、聖書が述べている本当のイエスを信じていません。偽りのイエスの崇拝についてパウロは次のように警告しています。


というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった霊を受けたり、受け入れたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。(コリント第二11:4)


 パウロがこれを書いていた当時、異なるイエスと異なる福音を伝道していた者がいました。パウロは唯一の主がいて、唯一の福音があると書いています。ものみの塔のイエスは聖書に書かれている本当のイエスとは矛盾しています。エホバの証人は救いを与えられない者を教えています。永遠の命のためにイエスを信じたのですから、救いのために本当のイエスだけを信じる者は「信徒」と呼ばれました。いったんイエスを信じれば直ちに永遠の命を持ちます。従ってキリストの信者です。直ちに罪は許され、神の子となります。聖書を通して読めば、人は救いのために行いをすることはできないし、神の子となるために教会の建物に入ろうとしてもできないことが分かります。ペテロは主イエスに関心を持ったコルネリオを語っています。


私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムとで行なわれたすべてのことの証人です。人々はこの方を木にかけて殺しました。 40 しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現われさせてくださいました。 41 しかし、それはすべての人々にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たちにです。私たちは、イエスが死者の中からよみがえられて後、ごいっしょに食事をしました。 42 イエスは私たちに命じて、このイエスこそ生きている者と死んだ者とのさばき主として、神によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかしをするように、言われたのです。 43 イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。(使徒行伝10:39-43)


 パウロは神の栄光の福音を伝道しています。キリストは死んで埋葬され、三日後に甦りました。イエスを信じる者はすべて罪が許されるのです。ペテロのことばを聞いたコルネリオがどうなったかが分かります。


ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。(使徒行伝10:44)

 コルネリオのために死んだ後、埋められ、甦った「主」を信じたコルネリオは罪が許されました。すべての罪全体が許された意味です。ほかの信徒と同様に、コルネリオは主に加えられ、キリストの体である本当の教会に属しました。エホバの証人はパウロやペテロが伝道した福音を伝えていません。確実に救われるには組織に入り、行いをすべきだと主張しています。しかし、それは異なるキリストのための異なる福音です。
 本当の教会とは、救いのためにキリストのみを確信した者で構成されるキリストの体です。人の手で作られた建物ではありません。特定の人々であり、彼らは罪が許されるために十字架上で犠牲になった死を受け入れる者です。
 本当の教会は誰なのかに注目すれば教会の「推挙」に気づかされあます。それは艱難の日の前に起きる最初の超自然的な出来事です。

私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
(テサロニケ第一4:14-17)

  ここでは来るべき教会の「携挙」が書かれています。文字通り、「引き上げ」を意味する「携挙」の概念がここに明らかです。キリストを信じる者はキリストを信じて亡くなったすべての者と共に引き上げられ、以来、永遠に主と共にいるとパウロは説いています。
 上の聖句のうち、キリストにある信徒はすべてなぐさめがあると書かれている結びの箇所に注目しなさい。キリストを確信している者すべてにはきたるべき希望があります。救いのためにキリストだけを確信している全世界の数億の人々は引き上げられ、キリストと共に永遠の世界に行きます。キリストを信じなかった者は艱難が続く地上にとどまります。艱難に残った者にとっては七千年も続く悲惨な時です。アンチキリストは力を得て、残された者に刻印を押し付けようとします。それを拒むと千年間、何もできません。神を信仰している者で千年間を耐える者は迫害され、結局は主イエスのために打ち首となります。

それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。(黙示録20:14)

  今、キリストを信じることがなぜ大事なのか。その理由が書かれています。世界が直面している悲惨な時代に遭遇するはずはありません。今、目の前にある神の恵み深い賜物を受け取るほうが良いのです。


神は言われます。
「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」
確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(コリント第二6:2)

 パウロはコリントの信徒に教会の「携挙」を認めさせ、その出来事の間、何が起きるかを説いています。


聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。 (コリント第一15:51)

  私たちの体が一瞬のうちに、「またたく間に」変えられると説いています。何が変えられたのでしょうか。ピリピの手紙の中でどのように変えられるかを説明しています。


けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。(ピリピ3:20,21)

  主イエス・キリストの栄光ある体について詳しく書かれています。エホバの証人は、キリストは霊者として甦ったと信じているからです。ここでパウロは、取るに足りない、罪のある、堕落した私たちの体が変えられ、キリストの栄光ある体(罪の無い体、痛みが無く、朽ちない体)と同じ体になると、特に注意を促しています。
 エホバの証人はハルマゲドンを生き延びると信じています。エホバの証人は救いのためにキリストを信じていないのだから、戦いの中でサタンの側に立ち、艱難を生き延びるなら、それは間違っていません。正しい。エホバの証人が自分自身を信じることや組織信仰を止め、キリストを信じるなら、きたるべき神の怒りから逃げられます。パウロはきたるべき怒りがあると説くと同時にキリストの信徒は怒りを経験しないし、慰めがあると説きます。


また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。(テサロニケ第一1:10)

  パウロは再びきたるべき怒りがあると語っていますが、怒りを回避できるテサロニケ教会の信徒を慰めています。

神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。(テサロニケ第一5:9)

  主イエス・キリストを通してのみ救われるのであり、人間や組織を介しては救われないことが強調されています。
 良い行いをしたり、宗教団体に入ったり、バブテスマを受けたり、法律を守ったり、自分で正しいと思う何かをして救われるのではありません。全人類のために死に、埋葬され、三日後に甦った主イエス・キリストを介して救いがあります。キリストを信じる者は永遠の命を受けます。しかし、それを拒み、自分の道を歩む者には永遠の罰が続き、罪の許しを受けずに死ぬのです。
 黙示録の中では、主の忍耐の御言葉を守る者は全世界にきたるべき試み(艱難)から守られると、主イエスは保証しています。


あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。(黙示録3:10)

  終わりの時にキリストを自称する者が現れます。しかし、主イエスは、彼について行ってはならないと警告しています。

イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私がそれだ。』とか『時は近づいた。』とか言います。そんな人々のあとについて行ってはなりません。(ルカ21:8)


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