jw.orgの「聖書は実際に何を教えていますか」解説
第8章 神の王国とは何ですか

 エホバの証人は、まもなく神が地上に王国を設立するのであり、その王国に入るために終末期を我慢して耐えなければならないと宣べ伝えています。それは彼らなりの王国の教えです。今、生きている人々にとって、本当の福音とは、キリストが救いに至る唯一の道であるという福音(神の真の栄光の福音)です。エホバの証人はそれを宣べ伝えていません。
  忘れてならないことに、ユダヤ人にだけ王国の福音が伝えられたのであり、異邦人には伝えられていません。ユダヤ人はメシアを拒否しました。一方、異邦人には、主、イエスに対する信仰を通して救いが開かれています。
  エホバの証人は、生まれ変わりを主張しません。「神の王国」に入るためには新しく生まれなければならないのに、それを信じていません。
  「神の王国」は霊的王国であり、地的な「王国」ではありません。神の子となることでしか、霊的に「神の王国」に入れません。どうすれば神の子となれるのでしょうか。ヨハネの福音書に書かれたように新生によってしか、神の子にはなれません。

イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。(ヨハネ3:3-7)

 上の聖句は、「神の王国」に入りたいのなら、新しく生まれなければならないと示しています。ニコデモは多くの行いをし、律法を守れば神に義認されると考える、独善的な男でした。主、イエスは自分の肉を通しては「神の王国」を継げないと教えました。主、イエスはニコデモに「神の王国」に入るためには霊的に生まれなければならないと確認させました。どのようにして霊的に新しく生まれるのでしょうか。主、イエスはさらにニコデモに説いています。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである(ヨハネ3:16)

  主、イエスを信じる者は永遠の命を持ちます。御子を信じて「神の王国」の入口を確保できます。
  ルカの福音書の中で、主、イエスは「神の王国」を説いています。

さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:20-21)

 ここでは主、イエスは「神の王国」は目に見えるものではなく、誰かが文字で示せるものでもないと説いています。主、イエスはさらに、「神の王国」は内にあるものであると続けます。だから聖書から、「神の王国」は地的な王国ではなく、霊的な王国であると分かります。コリントへの第一の手紙の中でパウロは次にように確認しています。

心の秘密があらわにされます。そうして、神が確かにあなたがたの中におられると言って、ひれ伏して神を拝むでしょう。(コリント第一14:25)

 神が私たちの内にあると、パウロは書いています。神が内にあるのなら、神の格は私たちの内にあるのでしょうか。

すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。(エフェソ4:6)

 ここでパウロは、「父」は私たちの内にあると確かめていますが、他の箇所では他にも内にある神の格について書いています。

神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。(コロサイ1:27)

 パウロは、キリストは私たちの内にあると説いています。神とキリストは私たちの内にあります。もちろん最後の神の格、聖霊が存在します。
  次にローマ書のパウロのことばを引用します。

なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。(ローマ14:17)

 この聖句はマタイ書に書かれている主、イエスのことばを確かめています。「神の王国」は見えるものではないし、飲み食いするような社交場でもありません。聖霊に満たされ、義と平安と喜びがあります。聖霊に満たされ、聖霊と交わり、救いの喜びがあります。私たちの内にある神格についてさらに見てみます。ヨハネ第一4章には聖霊について書かれています。

イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。(ヨハネの手紙第一4:3)

 ヨハネは教会員に対し、神の霊とアンチキリストの霊について説いています。ここでヨハネは、イエス・キリストが肉の形で来られると告白しなければその人の内には神はいないと、説いています。エホバの証人は、イエス(神の御子)は肉の形で来られるとは告白しません(イエスは神であるとは信じてません)。明らかに、エホバの証人の内には神はいません。
  4章4節から6節ではイエス・キリストが肉の形で来られると信じない者は、神に属していないし、神は彼らに耳を貸さないと書かれています。ヨハネは、真理の霊と思い違いの霊の違いを知るよう、信徒に教えています。過去にエホバの証人が百年以上も偽予言をした事実を許してはなりません。その事実は、エホバの証人が間違いの霊を持っているという明らかな証拠です。
  同じヨハネの手紙第一の4章の中にはキリストの信徒の中にある、最後の神格が見られます。

神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。(ヨハネの手紙第一4:13)

 「神の王国」の何たるか、どこに存在するかを説いているだけではなく、クリスチャンの内にある神格を確かめています。
  次に「天の王国」を説明します。霊的な王国とは似ても似つかない、肉的な王国です。

イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけません。 イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。 行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい。(マタイ10:5-7)

 ここでは、主、イエスの指示に注意します。主、イエスは弟子たちには異邦人への道を行ってはならないとともに、「天の王国」の福音を宣べ伝えてはならないと伝えています。「天の王国」の福音はユダヤ人のための福音だからです。初めにイエスは自分の故郷でありながら、受け入れられなかったところに来られました。イスラエル人は主、イエスを拒否したのですから、福音は異邦人に開かれました。
  他の福音書に比べると、マタイ書には「天の王国」が頻繁に出現します。なぜならマタイ書は、人の「子」を強調し、来るべき文字通りの地的王国を待ち望んでいたユダヤ人の書だからです。以下にユダヤ人だけに宣べ伝えられた福音であり、艱難の時代に宣べ伝えられる「天の王国」のたよりを示します。

しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。 この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。) そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。 屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。(マタイ24:13-17)

 この箇所ではダニエルの預言に書かれた終わりの時と国の荒廃が書かれています。ここでも艱難の期間に生きる民を語っています。
  エホバの証人は今でも「王国」の福音を宣べ伝えています。なぜその福音を宣べ伝え続けるのでしょうか。聖書に書かれた真理のみ言葉を正しく見分けていないからです。

あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。(テモテ第二2:15)

 エホバの証人は聖書を無視し、現在と未来にわたる聖書の意味を正しく見いだせませんから、「王国」の福音をいまだに宣べ伝えています。マタイ書は主にイスラエルとユダヤ人に書かれています(そのユダヤ人は律法に縛られていました)。教会がこの世から取り去られる艱難の時の出来事に関する洞察が書かれています。
  イエスはマタイ書の中でユダヤ人がイエスを拒否したから、ユダヤ人から「王国」を取り去ると喩えています。

だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。(マタイ21:43)

 主、イエスが語られた国は、イスラエル以外の国(異邦人の国)です。そこでは今でも神の栄光の福音が宣べ伝えられています。異邦人と同様に、ユダヤ人には主イエス・キリストを信じて救われる見込みがありますが、神は今となっては直接イスラエルとは関係を持ちません。神を崇拝し、律法を遵守しようとする点ではユダヤ人とエホバの証人は平行していることが分かります。エホバの証人も今でも神だけを崇拝しようとし、今でもキリストが神であり、救い主であることを認めません。エホバの証人は救われるためにキリストを信じようとはしませんし、自分たちなりの理解とやり方で天国へ入ろうとしています。
  パウロはローマの信徒に向かい、異邦人の祝福が成就される時、神は再びイスラエルに目を向け直し、教会は携挙されると説いています。

兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、(ローマ11:25)

  現代に向けた福音はコリント第一に書かれています。

兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。 また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、(コリント第一15:1から4)

 この福音を信じる者は救われると、パウロは説いています。キリストを信じる者は永遠に救われ、すべての罪は赦されます。


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